haitakadori
RT @mimi_syokupan: http://t.co/MSrR0trUDGロシアで起きた「アースフロー」大地の津波の様な地滑りのような現象。言葉では伝わりにくいので動画で見て下さい。まるで生きているかのようです((((;´・ω・`)))
04-29 22:53
変容期の地球で
ネパールで大きな地震があり、被害が大きくなっているようです。
現在地球は、人間で言うと風邪を引いてるような状態にあると思う。
体温をあげ、せき、くしゃみ、ふるえなどの症状を出すことによって自浄作用を発動させている。
脈拍も、体温も、血圧も、バイタルは乱高下する。いや、こうなってくるともはや風邪とはいえない。
極端な暑さや、突発的、集中的な豪雨、雷、夏場の巨大な降雹、竜巻、巨大ハリケーンや台風、大雪、火山の噴火や、地震、磁場の減少、シンクホールなどにみられる異常な地殻変動をみると地球が今まで保っていたホメオスタシスが崩壊しているように見える。これは特に20世紀末から今世紀に入って顕著になった。
僕が体で感じるのは、地球は僕が子どもの頃の地球ではもはやないということだ。
地球は病気・・・というか何か、そのシステムを一度リセットさせようとしているか、あるいは人間で言う思春期のころのように急激にそのシステムを変容しようとしているように感じる。
地球は、宇宙という子宮の中でBPM2に入った。
生みの苦しみはすでに始まっている。
そのプロセスが急激で破壊的なものとなるか、あるいは長期に及ぶ比較的穏やかな変化となるかはわからない。
ただ、多くの人が現在の地球は変容期にあると考えているみたいだ。
こういう時期にあって、必要なことは、ガイアにへばりついていることではないかと僕は思う。
エネルギー的にも、物理的にも、この惑星に深く根を下ろしていなければ、この変化は僕らを耐え難い状態へと誘いかねない。
そのためにガイアはGravityを使っているのかもしれない。
すべてのシステムが腐敗にまみれ、政治がかげり、一人、また一人と平均台の上から脱落していく
大地に引っ張られ、落ちて落ちて、最後にたどり着くのは、母なる星の土の上だ。
どうしようもなくなり大地に転がり、土に頬をつけると、大地の中から声が聞こえてくる。
「さあ、しっかり私にしがみついていなさい、シートベルトをしめた?ジェットコースターが動き出すわよ!!」とガイアは息子達娘達に呼びかけている。
多くの先住民のシャーマンたちが、ガイアの悲鳴とそして子ども達へのよびかけを聞いている。
2011年3月11日、東日本大震災が起こったあと、僕は「3・11以降」という記事を書いた。
それは3・11以前と以後では僕らは違う世界に入ってしまったのだという認識があったからだった。
3・11以前という世界。
いろいろな不穏な動きはあったものの、なんちゃってな平和が継続していた世界は、もうあちら側にいってしまった。
その「あちら側」の世界で僕は来るべき地球規模のシフトを夢想したりしていたが、それはもう「こちら側」となってしまった。
そんな風に思っていた。
ACのCMばかりになったテレビや、止まったままのエレベーター、エスカレーター、震度5規模の地震が日常的に起こるような状態が、確かにそうだと感じさせた。
あれから4年がたち一見してみると、少しづつ時は流れ、穏やかな空気感が戻ってきているようにも見える。
しかし多くの人が現在の世の中の動きに不安なものを感じているに違いない。
何かがおかしい、と。
いつからおかしいのか?
それはやはり4年前のあの日からだ。
やはり僕らは3・11というマトリクスにログインしたままなのだ。
僕はそんな風に思えてならない。
平和になったのではなく、僕らは「こちら側」のMATRIX311という仮想現実に慣れつつあるのだと。

僕が2011年の3月8日「向こう側」で撮った最後の写真は、自分の裸足の足の写真だった。
僕は震災前の一週間ほど普通以上に寝つきが悪く、精神状態もテンパリ気味だったので、エネルギーを安定させようと公園ではだし歩きをしたのだった。
4月になってからブログににこんな風に書いた。
3月8日、「向こう側」で撮った最後の写真。
裸足で土や木の根の感覚を感じて歩いた。
あらゆる矛盾があらわになるにつれて、
僕ら自身も裸にならねばならなくなるだろう。
目をそむけていたものと直面したり
自分自身の嘘や、ごまかしとも向かい合わねばならなくなるかもしれない。
でも裸の自分自身にほこりを持って、どんなに格好悪く思えても、とりつくろうより美しいことを肝に銘じて生きたいと思う。
人からどう見られても自分の本性を隠さずにいれば、新鮮な空気とともにいられる
もし裸足で歩けば、少々とげがささろうと、大地がじかに包みこみ支えてくれるように
裸足で生きる勇気を僕らに・・・・!
そしてMONGOL800の「矛盾の上に咲く花」という歌を貼った。
矛盾の上に咲く花はまだそこかしこで咲き誇っている。
いつになれば僕らは大地の上に咲く花に囲まれて生きることが出来るだろう。
わからないけど
きっとその始まりは、僕自身が大地の上に立つことから始まるんじゃないかと願っている。
アーシング
アーシングを知ったのは、これまたエハン塾さんからの情報だった。
アーシングとは裸足で土の上(もしくは石やコンクリートの上、アスファルトはNG)に30分ほど立つことだ。
人の体内には過剰な電流が滞っているので、これを大地に流すことで健康状態を大きく改善することができるという。
アーシングの提唱者クリント・オーバー氏は、室内でアーシングが出来るマットや枕、寝具なども製作、販売しているらしい。
エハンさんの知人が時差ぼけ防止に、アメリカへ飛行機で行ったとき空港を出るとする向こうの大地にアーシングするとまったく時差ボケの症状に悩まされなかったという話も紹介されていた。
天然素材でできた草履だとか、革靴からゴム底の靴という絶縁作用のある靴をはき始めたことが人の健康状態を悪化させている大きな原因だという。
まあ、アーシングという言葉はなくてもきっと人間は裸足で大地と接するということは何かあると本能的に知っており、だからはだし歩き健康法とかが昔からあったんだと思う。
僕は過剰電流を流す、という発想はもっていなかったが、アスファルトに対しては昔からすごく違和感ありで、こんな地面ぬりかためちゃダメでしょと常々思っていた。
なんか大地が呼吸を出来なくなっている、という感じがすごくしていたのだった。多少水はけ悪くて、石ころだらけでも土が露出している道は何かホッとさせるものがある。
そういうのも地面から<気>のようなものが出ているか、封印されているかによるのかもしれない。
だからアーシングの考え方によると、大地と僕らの間にはブロックがふたつある。
ひとつはアスファルトなどの絶縁素材で、もうひとつは僕らが絶縁素材で出来た靴や靴下を常にはいているということだ。
そして、裸足で大地に触れるということがほぼない生活をしている。
この動画を見て、僕もさっそくやってみた。
アパートの庭に裸足で立ってみます。(←たったコレダケ)
開始後数分でとても気持ちよく、エネルギーが安定してくるのを感じます。
また気を受けたときに出るような、微妙な体の振動が僕の場合は自然と起こるようでした。
それほど派手なものではないですが、かなり気持ちはいいです。落ち着きます。
体内の電気がアースされているかはわからないけど、もしそれが事実なら長時間PCに向ったり、すげーつよい電磁場の近くで仕事する必要のある人はやってみると調子がよくなるかも。
そういえばサンゲイジングの提唱者は、サンゲイジング時には裸足で土の上に立つことといっていましたが、これをすると確かに太陽からのプラーナと大地からのプラーナをどちらも受け取ることが出来て最高の方法かもしれません。
ここ一年か二年ほどエネルギーを強化・安定させる方法論を自分なりに模索してきましたが、アーシングはその中でもベスト5に入れておきたい方法です。
特にこれからの季節はあたたかいので実践しやすい方法です。
ちなみに残りは
●ウォーキング(なるべく空気のいい場所)、トレッキング
●節食(あるいは断食)
●サンゲイジング、朝日を浴びる
●瞑想
●呼吸法
●クリーンタイム(情報機器などOFFにして静かに過ごす時間) などです。
生命力とつながる自分なりの方法を持っていることが、これからの時代、結構大事ではないでしょうか。
アーシングとグラウディング
アーシングと、スピリチュアルな世界で言われるグラウディングは若干ニュアンスは違う。
グラウディングとは、エネルギー的に地球とつながること、この物質的次元にしっかり碇を下ろすことなどを意味してると思う。
僕はグラウデングなんてしなくていいんだもん、と若干馬鹿にしてた時期もあるけど、どうも昨今の流れを見るとグラウディングしろと言われてる感じがする(笑)。
あるいは個人を越えたユニバーサルな流れなのかもしれないけど。
それこそガイアのグラビティが僕らを呼んでいるのか。
それでもグラウディングワークを遊び感覚でやってみたことは今までにも何回かある。
グラウディングワークはだいたいイメージを使うか、それプラス体の動きが伴う場合もある。
典型的なものは自分の尾てい骨のあたりからエネルギーの管が伸びて、それが地球のコアとつながっていることをイメージしたりするようなものだ。
呼吸とともに不要なエネルギーはその管から流れ出し、かわって力強い大地のエネルギーが流れ入ってくる。
これはこれでいいのだと思うけど、僕としては実際に足を地面につける、ということをしたほうが生々しく、実感を持って大地とつながっているということが感じられる。
いろんな花や草の匂い、蟻や蜂たちの世界が間近に見えるので、イメージだけのワークよりも僕は体験的なアーシングのほうが好きかもしれない。
ただイメージだけのワークでもエネルギーとしてつながらないということはないと思うんだけど、僕の今の方向性として体験的なものにより魅力を感じるので、アーシングのやり方に惹かれるのだと思う。
しかし、人はなぜ、グラウディングなんかをする必要があるのだろうか?
別に地面から10センチくらい上をふわふわ浮いた人でもいいんじゃないだろうか。
よくいわれるのはグラウディングはこの世界への影響力や、コミットの強さ、そして生命力に関係するということだ。
より具体的にいうと、仕事や、お金、物の流れなどをひきつけるにはこの物理的次元にグラウディングしている必要があるというのだ。
もう少し本質的に言うと、グラウディングとはある意味<肉体への受肉の完了>であり、完全に受肉することなしには、僕らはこの3次元世界を完全には生きられない。
スピリチュアルな比ゆを使うと、この世界に僕らはツアーに来ているのだが、完全にこちら側に着地することを恐れて、ずっとバスの中やホテルの中で過ごしているとも言える。
グラウディングしていないと、ヘッドトリップが激しくなる。
この世界よりも頭の中の世界のほうがリアルになるのだ。
僕らの着地を阻むのは、まずは「恐れ」であるといえる。
トラウマ反応のひとつとして解離反応があるけど、これは常に体の中にエネルギーが半分くらいしかはいっていない状態だ。
度重なるトラウマ体験が、肉体の中に存在することを危険だと思わせ、いつも半分くらいからだから抜けた状態が習慣化される。
曇りガラスの向こうから世界や他者を見ているようで、いつもぼんやりして、時空の感覚も混乱しがちになる。
恐れがヘッドトリップを加速させ、ヘッドトリップが恐れを生む。
世界への、人への、身の回りへの恐れ。
まあ、そんな状態だからこちら側の豊かさとつながりにくいのはある意味当然かもしれない。
<世界は恐ろしい>のだ。決して、完全にこちら側に着陸してはいけない。
完全に受肉すると、もっと恐ろしい目に会う可能性がある!
そのような無意識的な認識がグラウディング、受肉を阻む。
だから、こうも言える。
恐れない意識だけが、完全にこの世界に下りてくることができる、と。
だからきっと、植物たちは、そして4本の足を大地につけて歩く動物たち、常に腹をつけている爬虫類たちはグラウディングしているに違いない。
彼らには人間ほど恐れにおかされていないため、この世界に完全にいることに躊躇はない。
生まれたばかりの赤ん坊も、あるいはそうかもしれない。
肉体が自分ではないことを知ってる存在は、肉体に完全に降りることをいとわない。
この世界の恐れを知った人間の大人たちだけが、再び大地へと、からだへと戻ってくる必要があるのだ。
長いことウォーキングを続けて、ひとつ気付いたことがある。
僕は旅行が好きだから、次はまたインドに行きたいとか、沖縄の離島に行きたいとか夢想することがあったけど、
なんだ、身の回りでも実際に足を使って歩き回ればたくさんの豊かさや可能性があるじゃないかということだった。
自宅から数キロ圏内であっても、知らなかったいい場所や、美しい風景がたくさんある。
一時間ちょっと歩くと小さな飛行場がある。
滑走路から飛び立つ小型機は、伊豆大島へ向う。
お昼の太陽を背に立つ僕から見て右手のほうへ、東へ飛んでいくのがわかる。
海のある方向へ
いや下手すれば家の軒先にだって。
庭先にある、植物や、いろんな虫たちの営みがある。
大地に足をつけて毎日見つめていると、どんどん草の丈が高くなり、蜂が増えていくのがわかる。
なんだ、旅って、これのことだったんじゃないか。
見知らぬ風景を見ること。
自分の足で歩くこと。
体験することにより、心が喜ぶこと。
決して遠くへ行くことじゃない。
山も好きだけど、街は山の裾野だ。そして地球の一部だ。
つまりこういうことなんだ。

すべての場所はつながっている。
今僕のいる場所で旅が出来なければ、どこに行っても旅なんか出来ないんじゃないだろうか。
僕にとっては旅への憧れは、歩かない言い訳でもあったみたいだ。
そう、本当の旅とはもしかすると、今いる街への旅、日本への旅、地球への旅、大地への旅、そして僕のいるこの場所への、僕自身の命への旅かもしれない。
地球とからだ、そのふたつにリコネクトすることが、その旅へのパスポートとなるのかもしれない。
再び変容期の地球で
もし、この惑星が本格的に変容のための自浄作用を発揮し始めているとするならば、アーシングやグラウディングはその変容期の地球においてどんな役に立つのだろうか。
世界各地にプレッパーと呼ばれ、来るべき時のために物資を備蓄したりシェルターを作ったり、あるいは自給自足的な共同体を用意している人たちがいます。
水、食料、土地、ガスマスク、武器、弾薬にいたるまで用意している人がいるでしょう。
そのようなある種やり過ぎ感さえ漂う物質的な備えと比較するならば、エネルギー的に大地とつながるだけではいかにも心もとないように思われる。
水はどうする?土地はどうする?マスクは?という話しになる。
ハリウッドが製作する大スペクタクルカタストロフィー映画でも、いつも助かったり活躍する人々はそういうものの恩恵を受けている。
あるいは非常時においては、グラディングよりも、電池やラジオの方がよほど役に立つかもしれない。
でも僕はもっとも本質的には大地や天とのエネルギー的つながり感がもっとも重要な要素だと思うのです。
なぜかということはうまく説明できません。
あえて説明しようとすると、このシフトは物理的なシフトであると同時に、やはり精神的なレベルでのシフトであるはずだからです。ハリウッドカタストロフ映画では常に欠落している要素ではありますが、、、日月神示に書かれているような「お土をおろがむ」ようなこころが必要ではないでしょうか。
そして、肉体が健康で、プラーナが充実しているという状態はやはりどんな状況でも耐えやすくしてそれを乗り越えやすくしてくれるはずです。
そして、プラーナは基本的には自然なるものからしかきません。太陽、大地、大気、食物、生命体などからしか来ないのです。
そのような意味では、天地とつながることが地球変容期における、重要事項であることの説明となるかもしれません。
まあ、僕としては未来に何かとてつもないことが起こるとか、あるいは今は大変な時代だとことさらに警鐘をならすような記事はあまり書きたくなく、最近はあたかもそういうことはなかったかのようなネタを書くことが結構多いです。
個人的にも、えぐいことが起こってもあえて、ニュース的なものはシカトするような感じで、生活する傾向にしています。
地震等の予言が流れても、「あー気のせい気のせい、なんも起こりまへん。富士山も噴火しまへん。漫画でも読みましょ」という感じで。あえて距離をとって、日常的なことにフォーカスしたりします。
というのは、こういうことは恐れと興奮で脳を刺激させていとも簡単にヘッドトリップに陥り、自分自身のリアリティと絶縁するような類の情報だからです。
でも僕の中ではやはり正直に書くとMATRIX311にいるという認識はなくなっていません。
だから、こころがざわざわするネタを書くことなく、しかし本格的な地球変容期が訪れたとしても、その用意となるような、楽しく命や生命力を育むような情報をなるべく発信したいと思っていました。
今後も基本的にはそんな感じで、地球変容期を頭の片隅におきながらも、そんなことは与太話だろのていで、この大地の上にいることを愛して生きたいと思います。
ここんところ、ロングウォーキングにはまっています。
それちょっと長いやろ、電車使えよという距離をウォーキングしてしまうことをなんとなくそう呼んでいます。
自宅近くに多摩湖自転車道という遊歩道があります。
これは結構素敵なところで 春は桜の花や新緑のトンネルの下を歩けてとても気持ちがよい道です。

起点は武蔵野市で、終点は一応西部遊園地駅、だいたい23キロくらいでしょうか。
途中で花小金井駅、小平、萩山など西武線の駅を通り、多摩湖に出ます。
途中の丸亀製麺でさくさくの天ぷらを食べたりも出来ます(笑)
その道をよく歩いていたりしたのですが、自分は一日にどれくらい歩けるものかということが気になり始め、その限界ラインのようなものを見定めたく20キロから30キロくらいのウォーキングをたまにしてます。
20キロだったら普通に歩いてだいたい4時間弱くらい?ですね。
最初は自宅(西東京市)から、日野駅まで歩いて、そこから東中神までぐるっと周り電車で帰りました。
続いて多摩湖自転車道を多摩湖まで歩き、そこから瑞穂町に出て、JR八高線箱根ヶ崎駅から電車で帰ると言うコース。
などを歩きましたが、今回は自宅から青梅駅までにチャレンジ!
少し寄り道しつつ40キロほど歩くことを目標としました。
なんで40キロかというとフルマラソンの距離を意識してるのでしょう。
でもただ直線的に最短距離を歩くのはつまらないので、ウォーキングツアー玉川上水の源流を見にいこう!を開催決行することにしました(参加人数一人w)
玉川上水の横はいつも日常的に通りますが、あまり歴史は知りませんでした。
歴史的なエピソードとしては太宰治が入水したくらいした知りません。
そこで調べたところ、1653年に多摩川から江戸市中に飲料水を引くためにのちに庄右衛門・清右衛門ののちに玉川兄弟と呼ばれるようになる2人が工事を請け負ったとのこと。羽村から四谷までの距離で、当時の技術。
これは数年かかったのかと思いきや、4月着工、11月15日完成ということで七ヶ月ほどでやり遂げたということなので驚きました。
そこでこの上水の起点となる羽村堰と呼ばれる場所までとりあえず、歩いて、ついでに青梅まで行って見よーというプランです。
起床六時で、7時に家を出ました。
多摩湖自転車道もよいのですが、玉川上水沿いの道というのも場所によっては、遊歩道のような感じになっていて木々に囲まれ森林浴気分を味わえる場所もあります。電車の駅で言うと鷹の台とか拝島とかのあたりでしょうか。

こういう個人宅を公開してるオープンガーデンもあります。
なかでうどんとか食べれるみたい。
この日は生憎まだ開店前。
次は行ってみたいな~
拝島近くの上水。下流とかなり趣が異なります。

午前11時半頃、JR拝島駅に到着。(20キロくらい)
拝島駅周辺にも自然が豊かな公園があります。
そこでランチ、コンビニのり弁当を・・・。


13時半頃羽村堰着です。家から出て6時間半ですが、休憩などを省くと歩行時間6時間弱くらいかな。

そんな歩いた気がしない。
玉川兄弟銅像。

羽村多摩川の近辺で、チューリップのイベントをやっていました。

畑一面にチューリップが咲き乱れ圧巻です。入場料など不要。これすごかった~
青梅到着15:45 証拠のニャロメ。

時間から考えると、歩行距離35キロ~40キロくらいでしょうか。
40キロの壁を越えたかったんだけど、いまいち不明。
まーいいか。
面白かったし^^
うちに帰ってから疲れがどっと出てこたつに座ってるのもダルクなり、8時ごろに布団を敷いてごろごろしたニャロメ。
でも翌日筋肉痛などは一切ありませんでした。
最近10キロ走った翌朝は筋肉痛なったけど、歩くのと走るのでは使う筋肉が違う模様。
あるいはロングウォーキング慣れしてきたのかも。
ウォーキングは2011年くらいからよく行ってきました。
その頃自分の力を取り戻す必要を感じており、気功の本にとりあえず足の筋肉を鍛えることが全身のプラーナの強化につながると書いてあったからです。
精神的なストレスや感情の滞りも健康状態にもちろん影響すると思いますが、肉体に近いエネルギーの層が分厚く安定していれば、ストレス性の収縮力が体内に侵入してくるのをガードすることができるそうです。基本的に筋肉を動かし、エネルギーを発電することでこのエネルギーの層は分厚くなるのですが、足の筋肉は全身でもっとも大きいためにここを稼動させることがエネルギーの層を分厚くするためにもっとも効率的であるようです。
悩み事やストレスはメンタルに解決する方法と、別のエネルギーレベルに働きかけることにより解決する方法があります。意味性によって支配されるメンタルな次元から、もっと生命力の根源的なレベルに働きかけることで、とりあえず動物としての生命力を活性化させると意味的な次元はそれがメインではなくなるために、悩みは力を失います。
大地や動物的な生命力 体で言えば 足 丹田以下 につながる方向性。
動くこと 息をすること 飲むこと 食べることなどの根本的活動の気持ちよさがしっかり感じられる状態です。
そしてそのあと、考えても仕方ないものに関してはスルーし、行動が必要なことに関しては行動するということになります。どちらにしてもある程度肉体が活性化してなければ、ストレスにやられやすいという側面はあると思います。
あと、ウォーキングを長時間するとタバコを吸いたくなくなるという効果があり、喫煙を減らしたいという場合にもよさそうです。おそらく酸素の摂取量が増え、新鮮な空気をたえまなく取り入れているからでしょう。
1時間から90分くらいはよく歩いていたのですが、今年に入ってから塩沼亮潤阿闍梨の体験が語られた、「大峯千日回峰行」という本を読み、僕の中の何かに火がついたようでした。
ご存知の方も多いと思いますが、大峯の千日回峰は48キロの山道を毎日15時間かけて歩きます。
その毎日のスケジュールはすさまじいもので23時半に起床して、午前零時半に出発、歩き続けながら夜明けを迎え午後3時に帰ってくるというものです。それから身の回りの仕事(掃除洗濯)などをして、翌日の準備をし19時に就寝、23時半には起床。数時間寝るとまた出発・・・という繰り返し。これが5月から9月までの期間毎日続きます。
それが9年間続き1000日の満行となるわけです。
食事はほとんどおにぎりと水(胃が弱って梅干、お茶類など受け付けないため)だけ。爪がわれ、血尿が出て、行の途中には幻覚を見るといいます。
全長数メートルのいのししが現れたり、天女が金剛石をくれたりしたそうですが、行も終わりに近づくとそんな体験も消えうせてしまうとか。
これだけの修行が行われるのは、千日回峰満行後の四無行に耐えられる精神と肉体をつくるためだということです。
四無行とは、9日間堂にこもり行われる、(寝ない・飲まない・食べない・横にならない)の行。
普通に命が危ない行で、生存確率は半々とも言われているようです。
行者の心身は生と死のボーダーラインに限りなく近づき、その体からは文字通り死臭が漂うといいます。
ちなみに塩沼アジャリのお話しでは、一番つらいのは食べないことでも、寝ないことでもなく、「飲まない」ということらしい。
こんな激しい行と、のり弁当を食べて、キャンディーをなめながら歩く、僕ちんのウォーキング旅行を比較する気は毛頭ないのですが、この千日回峰の話しが僕の中のプチ修行癖のようなものを刺激したのは確かなようでした。
なぜかあの本が僕の中では、「よし、僕も歩こう」というモチベーションになったのです。
一日中ずっと歩いてみたいなーと思うようになりました。
次は12時間~15時間くらいの行程にチャレンジしてみたいです。
まあトレーニングであると同時に、結構面白いんですよね。ロングウォーク。
まずお金がかかりません!(←ココ重要) 帰りの電車賃とか食事代くらい。
そして歩いていると、今まで目に入らなかったものとか、知らなかったことが結構飛び込んでくるんですよね。
チューリップ畑のイベントとか。オープンガーデンとか。
数十キロという距離を肉体感覚で理解することもできます。
歩くというのは人にとって根源的な行為なので、自分がそれだけ歩けることを実感することは自分のエネルギーを知り、力の感覚を感じることでもあると思うのです。
歩き続けるということは体験の連続になります。8時間なら8時間、見知らぬ体験が続きます。まあ、日本の街なのでコンビニがありスーパーがあり似たり寄ったりでもあるのですが、それでもはじめての街はやはり始めての街です。見たことのない風景を見続けるという刺激を脳は受け続けることになります。その刺激が心をリフレッシュさせてくれるという作用があるように思います。
芭蕉のような旅する俳人や詩人がいるのもそういうことが原因なのかな?とちょっと思いますね。
先日参加したI師匠の夜の集いで、「M君何かオモロイことない?」と尋ねられ、最近山登ることとか歩くことにはまってますと答えました。
I師匠: 「山登ってんだ?どんな山?」
灰:「奥多摩のほうの山とか・・・」
I師匠:「御岳とか、雲取とか・・・」
灰:「はい、雲取はまだ行ってないけど東京とでは唯一2000メートル越えの山らしいですね」
歩いたりしてると一番気持ちよくて、今日も赤羽から歩いてきたんですけど・・・
体を動かして精神的な面を安定させようというのはありますね。」
I先生:「悪くないよ。あのね、歩くのはね、四国の話ししたのは昨日だっけ?
八十八箇所のお遍路あるじゃん?あれってお寺に手を合わせて八十八箇所をまわるのがメインじゃないんだよね。歩くのがメインなの。今みたいに車でお寺からお寺に移動するんだったら、あんまり意味がないんだよ。
お寺からお寺の間に、やっぱりもくもくと歩くじゃん。その黙々と歩いてるときに思考が自分の内面に向いてくる・・・これはマラソンだったり、チャリンコで山走ったりするのでも一緒なんだけど・・・何時間も黙々と自分の内側に向っていくという作業が必要になる。それがスポーツの場合をお遍路の場合では意味が違うじゃない。
次のお寺からお寺の間で黙々と歩いてるというのはやっぱり、自分の命とか人生とかそういうことを考えるんだよね。その黙々と自分の内側に向かって考えて歩いてることに意味があるんだよ。
お寺行ってお参りしてるときは意識が外向いてるじゃん?あの仏さん、えらい古そうやなーってこう見てたりだとか、そういう時は全然メディテイティブじゃないんだよね。ところがやっぱ次のお寺に向かって歩き始めたときから10分、20分たつと完全に自分の内側に入っていって、歩いてる記憶がないみたいな(笑)それが大事なんだ。
灰:「歩きながら考えると違う思考になりますね」
I師匠「そうそう、マーヤ解きでもなんでもそうなんだけど、内側に向かっていかないとダメだから。だからM君が精神的に不安定だとかいうけど、不安定なのは内側に向いてるからなんだよ。外側にもっと自分を興奮させるようなものがあればね、そっちに気をとられてると、不安定にはならない。
なんで自分の内側を向くと不安定になるかっていうと、自分の内が確立されてないからね(笑)
自分の内側が確立されてなくて、内側を向いちゃうと、不安定になるっていうのがあるんだよ。
だからそれが覚醒するだとか、「わかっちゃう」だったりとかして内面が安定すると、内側に向くことが幸せになってくるっていうことなんだよね。
だから内側を向きつつ安定させるっていう意味で、歩くっていうことはどっちにも属さないの。外に向いてるとも内に向いてるともいえないわけ。外にもある程度気を使いながら、かつ内側も向いてくるから、だから歩くとか巡礼をするとか、歩行瞑想をするとか、っていうことは有効な手段になってくる」
灰:「あのー大峯山の千日回峰行を読んで奮起させられまして・・・」
I師匠:「塩ちゃんね。多分あの人の師匠がK寺のGさんだったと思うけど・・・俺はK寺のGさんって言う人と一時とても仲良くしてて、吉野に行ったりとかして電話してさ、院主さん今吉野に来ましたーっていうと、夜になると一升瓶かかえてやってきてさ、飲みましょ、飲みましょつって結局夜明かしで飲んだりとかさ。すごい仲良くしてたの、なんか。」
でたっ><
I師匠に自分がいま興味あることとかマイブームを話すと、なんかそのトピックの裏側にすでに控えていましたなんてことがたまにあるけど。ちょっとびっくり。
それにしても偉いお坊さんとたくさん知り合う縁に恵まれるというのは、多分基本的かつ本質的にI先生がお坊さんだからなんだろうなとちょっと思った。
I師匠「俺はなんかねー修験宗の偉い人とすっごく仲良くなっちゃう傾向があって、京都のS院てあるじゃん。平安神宮のちょっと上の方。どこだっけあそこ、白川通りと丸田町通りが交わるところだよね。そのS院のMさんと俺と、チベットを旅行したときずっと同室だったの。」
僕はあまり詳しくないのだが、修験宗はだいたい3つの派があって天台宗系は塩沼さんの金峰山修験宗と、京都S院の修験宗だという。そして真言宗は京都山科の醍醐寺が拠点だという。3つのうちふたつの拠点が京都にあるとは知らなかった。I先生はかつて京都に住んでたことがある。時期的には僕が10代の頃だろうか。
僕が生まれ育った京都市の岩倉実相院のあたりも仕事で来てたようで、詳しかった。
しかし
京都出身やけど、いまだに白川通りとか、丸田町って言われても全然ぴんとこおへんわー
京都いた頃は、小説とゲームくらいしか興味あらへんかったしなー(せめて京都なまりで)
また京都に帰ったときにいろいろ歩き回ってみたいと思います。
師匠の話でもあったけど、歩くことは内側と外側の橋渡しというか、世界とつながる根源的な行為なんだろうなと思いました。
シンプルですが、セラピー的効果、プラーナ強化効果、メディテーション効果いろいろ複合的に作用します。
エネルギーのほしい方は是非お試しを♪
またスピリチュアルな世界でよく言われる、グラウディングやあるいは最近メジャーになってきたアーシングともつながると思いますが、長くなるのでまた日をあらためて書いてみたいと思います。
haitakadori
RT @Michael_Ende_jp: ベッポは非常に面倒なやり方で転生の理念を持ちました。人はこの理念なしには、あらゆる個々の瞬間を生きることに耐えることができません。個々の瞬間を生きるために、レッシングが表現したように、「永遠全体が私のものである」ことを知る必要があります…
04-23 21:43
haitakadori
変な天気過ぎて頭が痛い。
04-17 18:40
haitakadori
石垣島 名蔵湾の夕焼けの風景写真 http://t.co/93k2bQUJDO
04-16 21:37
素晴らしいっ!
自由な日々が失われた時に 残されたものは 旅立ちの歌
さあ、今 銀河の向こうへ飛んでゆけ
haitakadori
RT @LSDove: サポテコ族に限らず、ネイティブの社会では昔から3つ以上の性別が認識されていることがよくある。フチタンではムーシェの人たちが完全に受け入れられているので、彼女らを嫌悪し差別するトランスフォビア&ホモフォビアは存在しないし、手術で身体を変えることを望む人もほ…
04-14 14:00RT @LSDove: サポテコ族の町フチタンに寄ったのは、ムーシェ(muxe)と呼ばれるトランスジェンダー女性が第3の性別として尊敬されていることで有名だから。別に普通の町だったのだが、市場には女性の姿が目立ち、身体的にも男性よりもがっしりしている人が多く、女性がパワフルな印…
04-14 14:00
haitakadori
久しぶりに線量計ったら0.08マイクロシーベルトやった。西東京市。やや高だけど誤差範囲内なのかな。0.05の検出限界以下が多かったけど。まー・・・いいや。
04-10 18:55子どもたちの甲状腺問題はタブーなのか?~映画『A2-B-C』急遽上映中止に http://t.co/ezqhnkoiei @lnjnowさんから
04-10 18:50
少し前に思ったことですが、月のめぐりというのは季節の巡り、つまり太陽の巡りのミニチュアバージョンではないでしょうか。
一年の季節には言わずもがな4つの重要な節目があります。
ひとつは冬至、夜がもっとも長いこの時を境に次第に昼の長さが伸びていきます。
太陽はもっとも低い道を辿り、南よりの東よりのぼり、南よりの西に沈みます。
ふたつめは春分。この日を境に昼の長さが夜よりも長くなり始めます。
太陽は真東より昇り、真西に沈みます。この日の日没時に出来る影はまっすぐに翌日太陽が昇る方向を指し示します。
三つ目は夏至。一年でもっとも昼が長い日。光が極まるときです。ちなみに今年は6月22日。日の出は4:26、日の入りは19:00ちょうどです(東京)。
最後は秋分。この日より夜が昼間よりも長くなり始め、そして冬至において闇が極まります。
これらの節目は古代では多くの地域で祭りとして祝われたのではないでしょうか。
冬至は闇が極まる日ですが、裏を返せば光がまた強くなる最初の日でもあり、毎年この日の近くがクリスマス、キリストの誕生日だというのは何か意味がありそうです。イエス自体が人類の周期において、もしかするとカリユガ(無知がもっともきわまる時期)の極みに生まれたとも言えます。
イギリス、ニューグレンジの遺跡は、冬至の前後の期間だけ、太陽光がその内部にまで差しこむように設計されています。

春分の次の満月の近辺ではイースターが祝われます。これは復活祭であり、貼り付けにされたイエスが三日目によみがえったことを祝うものですが、その原型は春の女神の祭典としてアングロサクソンの間で祝われていたといいます。
日の短いヨーロッパでは夏至祭が盛大に行われるようです。
またドルイドの伝統で行われるストーンヘンジの儀式もあります。
以上、大急ぎで検索しました^^
秋分の日に関しては世界にどのような祭礼があるのか、よくわからないのですが、日本ではお彼岸の時期、先祖供養の時期にあたります。あの世と通じやすくなる。西方浄土は日の沈む方角です。また、古代秋分直後に太陽の力の強化を願い人身御供の儀式がおこなわれることがあったとか・・
秋分の日以降闇がつよくなり、10月の終わりにはハローウィンでお化けがいっぱいでてくるわけですね(笑)

↑昔のハロウィンの仮装 ガチで怖いわこれ・・こんなん訪ねてきたら。
とび蹴りしてまうわー
SF作家レイ・ブラッドベリの短編集で「10月はたそがれの国」なんて素敵なタイトルの本もありました。

ブラッドベリの小説はどれも生き生きとした叙情的イメージに富んでいます。春夏秋冬のみずみずしいイメージが溢れていますが、古代の人たちはそのような季節の移り変わり、太陽のめぐりがとても重要だということを察していたのではないでしょうか。
さて現在は春分から二週間以上過ぎ、かなり光が強くなってきました。
このところ曇りや雨が多いですが、そんなこととは関係なく日は毎日長くなっています。
僕の感覚では、実は気温はあまり関係ありません。
1月の終わりとか、二月は一年でもっとも寒い時期ですが、梅が咲いたりしてかなり春の気がもう動いています。
それは気温ではなく、太陽の力に植物が反応しているからだと思うのです。
天気予報はわかりやすいように天気しか言いませんが、気候はもっといろいろな要素がからみあっています。
日の出、日没、そして月の周期、太陽活動などが実はかなり重要な要素なのだと思います。
だから同じ気温でも、冬至前の5度と、今頃の5度はまったく体感が違います。
多くの植物の葉が落ちた5度と、サクラが咲いてる日の5度。これは気のせいではなくあきらかに違います。
「冬に逆戻り」という表現がありますが、そんなことは実は起こったためしがないですね~!
地球は空調管理された個室ではないので、温度だけでは現在の状態をあらわすのにかなり片手落ちな表現となります。
さて春分がすぎ夏至に向う過程で、どんどん日が長くなり、温かくなってくるとどんなことが起こるでしょうか?
花が咲き、緑が芽吹き、昆虫や小動物が増え、人は活発に動き回り始めます。新しいことを始める人も多くいます。
春になっておかしくなる、という人もいます。
温かくなると体内のエネルギーも膨張して、トラウマなどの行動化が起こりやすくなるということもあるでしょう。
すべての季節にはある意味、一長一短があります。
それでも基本的には温かくなって、にぎやかになるこの季節を多くの人が愛します。
僕も今頃から夏にかけてが一番好きな季節です。
すべての物体は基本的にあたたかくなると膨張し、寒くなると収縮します。
そしてどちらかというと、やや膨張してるほうが、肉体は元気で活動的になると思います。
このことを考えていて、あーそういえば、「月」も同じだなと思ったのでした。
満月時にはエネルギーは膨張し、新月では収縮します。
満月の時は、下手するとギンギンになり眠りにくくなることもありますが、新月はテンションが割りと低めになります。
月のサイクルを農業に利用するという考え方は昔からあるようで、ものに本によると、満月時は害虫の産卵が多く、病気の発生は少なく、定植は不良だそうです。一方、新月時は害虫産卵は少なく、病気は多く、定植は良好だといいます。
そういえば新月に種をまくというのはどこかで聞いたような覚えがありますね。
光がどんどん強くなる5月。このときの満月がウエサクと呼ばれもっともパワーがあるとされるのは、この太陽と月の相乗効果によるものではないかとふと思いました。

京都鞍馬寺 ウエサク祭
2015年は5月3日に行われるようです。
春や夏、昼間(光)、そして満月を 陽 そして、秋や冬 夜(闇)、そして新月を陰としてシンクロさせると、
五月頃の満月は陽の陽となります。仮に新月が冬至ならば、それは陰の陰となるのではないでしょうか。
夏の中にも陰があり、冬の中にも陽があるわけです。
この考え方がどれくらい妥当かわかりませんが、個人的には「あっ、なるほろー」と思ったのでした。
すべてにアップダウンがある。直線的に上昇するようなグラフは生命活動では在り得ない。バイオリズムはすべて波型、ミクロレベルでそしてマクロレベルで、陰陽のダンスをしている。
それぞれの陰陽にはふさわしい活動があります。
夜には夜の 冬には冬の 昼には昼の 夏には夏の行動があります。
満月はエネルギーがもっとも高まり、新月に向かって吐く息のようにそれが放出される。
そう考えると、断食など浄化的なことをするのは新月周辺がよいのではないかと思いました。
部屋もきれいに掃除して、心機一転新しいサイクルに望むっていうのはどうでしょうか?
人間はマシンではないので、絶対に一律なリズムを刻み続けることはできません。
すべての感情や思考、肉体のエネルギーは これら陰陽の様々なレベルと結びついていると思います。
太陽と月の呼吸に和して、サーフィンのようにそれらを乗りこなしていくことが、結構大事なことではないでしょうか。
それらのエネルギーとどう和していくかということは人それぞれであっていいとおもいます。
重要なのは冬と夏では違う宇宙にいるという気付きです。
そしてそれが古代人が知っていて、先進諸国に住む現代人が忘れてしまった、宇宙とつながるひとつの術なのではないかと思います。
さて~夏至に向かって高まるエネルギーは僕らをどこへ連れて行くでしょうか?

フィンランドの夏至祭

ストーンヘンジ 夏至の日の出
実際、自分も本当に嫌いなためシンパシー(笑)
「生き恥さらしたら いさぎよく 腹を切れ それってカッコいいか?
実は最高にカッコ悪くないか?」
深夜番組ニケツのDVDで知りました。
面白かった~
ダビンチの洞窟
「すべてはすべてとつながっている」
松果体とDMT、バチカンについて
ダビンチの描く宇宙船?
最後の晩餐 イエス=バフォメット説
受胎告知のアングル
見る視点を変える重要性について
など
マインドマップの考案者トニー・ブザン氏の本にダビンチの全脳思考のことがよく出てくる。
そこからつながりで気になり、見てみたら面白かった。
「ダビンチコード」で最後の晩餐にマグダラのマリアが描かれ、愛人がいたということはイエスに子孫が・・・なんとかかんとかというのは知っていたけど、これ見るとダビンチは現代人が見失ってしまった思考法、叡智とつながっていた古代人がしてたかもしれない思考をしていたのかもしれないと思わせられます。

洗礼者ヨハネ
川苔山に登りました。
川苔山(標高1368m) 東京都西奥多摩郡奥多摩町
アクセス 地元駅→西武線→拝島→JR→青梅→奥多摩 820円 (新宿からだと1300円ほど)
6時半くらいには自宅を出発し、午前7時の電車でいざ奥多摩へ。

まだ眠いにゃー
ガイドブックにはJR奥多摩駅からバスで登山口の川乗橋までとなってるけど、平日は一時間に一本以下なので奥多摩駅から歩くことに。地図上では3,4キロ。3~40分ほどで到着した。
アスファルトの道だけど、渓谷がきれいで結構飽きずに歩ける。
上り口には丁寧にお世話されてそうなかわいいお地蔵さんが、一目で気に入る


川乗橋から歩くこと一時間と少し、百尋の滝に到着。

まだ3月、そして平日だからからかもしれないけど人が少ない。
滝まですれ違った人、追い抜いた人ゼロ人。
しーんとしてるこの感じがないとやっぱり山に来た気がしない。
滝にも人影はなく、大きな滝に一人で向かい合っていると少し畏れ多いような怖さを感じる。
秘境感あります。
頭上からかなりの山の冷気が下りてきて、水しぶきがあがり、足元に波紋が押し寄せる。
うーん滝つぼのあたりが、暗くて深そうで、なんかーこわいもんですねーやっぱ。
しばし両手を水に浸して、滝の神様に祈ります。
イタ気持ちいいじゃなくて、コワ気持ちいい、一人きりの滝です。

奥多摩の山にはたまーに熊が出るようだ。
川乗山でも山頂付近で熊に襲われた人がいるという看板。
現物のくまさんは見てないけど、結構大き目の糞があったので、もしかしたら熊さんのかな。
奥多摩一帯はたまに目撃されるみたいっす。
ラジオや鈴など音の出るものの携帯推奨ということですが、僕はたまに手を叩いたり、えへんと咳払いをしたり(気休め)してました
この日東京は気温24度くらい。
それでも千メートルを越える山だと山頂は寒いのかと思い、リュックにダウンも入れてきたけど、まったく必要なし。
逆に着ていたトレーナーが暑くてしまいこみ、荷物が増えた。
ほんの少しだけ残った残雪。

山頂で、運動のあとのおいしいお昼ご飯を堪能したあと、鳩ノ巣駅方面へ下山開始。
丹沢山に登ったとき、炎天下の水不足に苦しんだ教訓から、今回は500のボトル二本にお茶を用意。
山頂に着いた時点で一本と三分の一くらい飲んでいた。
っていうのもガイドブックの地図に山頂近く「水場」ありと書かれており、そこで補給できることを前提ペースでごくごく飲んでいた。そして、水場、という立て札の方に降りていったんだけど、落ち葉がたまった谷のような場所になってるだけで、なんにもない。
おっかしいなー
お、こういうときこそ五感を研ぎ澄ませるのだ!!と目を閉じて耳を澄ませると、ちょろちょろと水の流れる音がする。
そちらに歩いていくと、岩の間から水が染み出して流れていた。
しかし、これはさすがに・・飲むには・・・水場ってこれのこと?
よーく見ると足元に、パイプが土の中から突き出ていた。あ、多分これだ。でも一滴も水は出ていない。
??仕方なく引き返す。
そっかーガイドブックに「水場」て書かれててもこういうこともあるんだなー。
登るときもがけ崩れかなんかで道が封鎖されてて、迂回路を歩いたし、事前の情報があてにならないこともあるっていうのが山に登るときの注意点でもあるんだなぁ。まあ、その時々で、判断を試されるということも面白い部分なんだろうけど、下手すればこういう情報の行き違いが命に関わったりすることもあるんだろう。
森林の匂いや、下では見慣れない青い羽根の蝶が舞っていたり
ホントにのどかで、気持ちいい山歩き。登山に慣れた人なら、なんてことない山かもしれない。
でも携帯圏外でコンビ二もない空間ってやっぱりある程度の緊張感が必要なようだ。
特に、一人で登る場合。
基本楽しいんだけど、注意力が必要って言うこの感覚、ちょっと癖になるものがありますね。
くだりは、トレイルランてどんなものかという感覚を感じてみるため、時々走って降りた。
これも気持ちがいい。

山を降りてすぐの熊野神社。
いい感じ。
ありがとうございました♪
降り口にいたおばあさまが「お疲れ様でした」と声をかけてくれました。
一月位すると新緑がきれですよという情報をもらい、「また来ます。」というと
「はいはい、お待ちしております」と。
うーん・・・山の神様だったのだろうか。
鳩ノ巣駅ホームの裏手はつばきときれいな白い花が咲き乱れ、とてもいい匂いがしていた。


川乗山、百尋滝、これからの季節いいだろうなー。
都心からも日帰りで行けるヒーリングトレイルとしてオススメでーす。
奥多摩駅到着 8:37 鳩ノ巣駅到着 15:20頃 総歩行時間 7時間くらい 15~6キロ (バス利用すると6時間と少し)
参考 東京近郊トレッキングガイド 昭文社
