2015.
11.
30
神の島 KUDAKA
安座間港
あざまさんさんビーチでバスを降り、少し歩くと港があった。
目的地の斎場御嶽まではあと二つほどバス停があるはずだ。
まったく土地勘のない場所。こんなとこで降りていいのかどうかわからなかったけど、なんとなく降りて歩きたくなった。
あまり人影は見えず、防波堤の方からかすかに三線の音が、風に乗って運ばれてくる。
何人かの人たちが堤の上三線を練習しているようだ。

朝の四時おきでまだ真っ暗な中自宅を出て、中央線に乗った。
東京八重洲口からの成田行きバスに乗るためだ。さすがにすいてるかと思いきやもう電車の中は、座席はすべて埋まり、立ってる人も多い。この時間からこれだけの人が通勤してるのに驚く。みな黙々と本を読んだり、スマホをいじったり、寝ている。
外はまだ暗い。一瞬夕方なのか朝なのかわからなくなりそうだ。この時間中央線は各駅停車が走ってるらしい。代々木や千駄ヶ谷にも止まっていく。
八重洲口から高速バスに乗りしばらくすると、高速道路のかなたからようやく太陽が昇り始めた。
成田へ到着後、LCCで那覇へ、モノレールでバスターミナルへ、そしてバスに乗り換えて沖縄南部の南城市までやってきた。
すでに家を出てから9時間ほどが経過している。
移動につぐ移動で張り詰めていた心が潮の匂いと静けさの中でほどけていくのを感じた。
昨日まで雨もよいで肌寒い東京にいたのが嘘みたいだ。
少し歩くと本島最大の霊場と言われる斎場御嶽(セーファーウタキ)があるはずだ。
世界遺産にも登録されているということで、もっと観光地的な喧騒が支配しているのかと思ったけど、11月というオフシーズンの為だろうか一帯はとても静かだった。
一本タバコを吸ったあとで、海岸沿いの道から急な坂を登ると青い海が視界いっぱいに広がった。
水平線の近くに細長く伸びる島影が見える。
あれが今回の旅の目的地、久高島だ。

久高島の名前を初めて聞いたのはもう7年くらいは前になる。
沖縄にはユタやノロと呼ばれる巫女やシャーマンのような存在が昔からいるが、そのノロの一人と親交のある方の講演を聞きに行ったことがきっかけだった。
現在、巨大な天変地異が差し迫っており、そのノロのHさんは巨大災害を未然に防ぐために、車に乗って日本中を行脚しているということだった。
まだ東日本震災が起こる前だった。
そのHさんの出身が久高島だった。
Hさんは幼い頃から霊感に目覚めていて、神様からたくさんのビジョンをみせられてきたという。
久高島にはHさんだけではなく、たくさんの霊的感覚に恵まれた人々を輩出している島だ。
久高島南北4キロほどの小さな島だが、特殊な島である。
沖縄最大の霊場と言われる斎場御嶽そのものが、久高島に向かうように作られているかに見える。
事実セーファーウタキには久高島の遥拝所がある。
どうして久高島という小さな島が、斎場御嶽から礼拝されるのだろうか。
その理由は琉球発祥の伝説にあるようだ。
日本神話のイザナギとイザナギの国生みや、天孫降臨の神話に似たものが琉球にも存在する。
神々の世界<ニライカナイ>あるいは<ニラーハラー>から降り立ったアマミキヨが沖縄をつくったとされるが、そのアマミキヨが降り立った地が久高島のカベール岬だとされている。
内地で言うと高千穂や淡路に該当するのが、沖縄の南部一帯であり、その中心が久高島なのだ。
そんな久高島では古来より、巫女によって行われる祭祀を中心とした生活が営まれていた。
男はウミンチュ(漁師)になり、女はカミンチュ(巫女)になる。
それが久高の伝統的な人間の生き方であったという。
12年ごとに女性が神となる儀式、イザイホーが行われていたが、これは1978年を最後に行われていない。
イザイホーはしかるべき年齢に達した女性が、祖母霊と一体となりそのパワーを受け継ぐ儀式だった。
そのように久高島は母系性の世界であり、女性が神となり男を、そして家族を守るという価値観の世界であったようだ。
久高島の特殊性はそれだけではない。
南北4キロほどの小さな島だが、集落は島の南側3分の1ほどところに集中しており、北側には無人地帯が広がっている。
舗装された道路はあるものの、人が住んでいないために電柱や電線もない。
島の北部はアマミキヨが降り立ったカベール岬、中心的なウタキであるフボーウタキを含む聖域とされており、人が住む地ではないという。
久高島では土地を私有するということが許されていない。島全域は神々のものだとみなされている。
観光客にも島の石や貝などを持ち帰ることがないようにという注意がいろいろなところに書かれている。
それを破ったために、トラブルが起こり、また本土から島にそれを戻しに来ざるを得なくなったという話もあるらしい。
聖地と呼ばれる場所は日本全国に数多い。
しかし、多くの場合そこには店があふれ、金銭がやりとりされ、電信柱が立ち並んでもいる。
それに比べると、久高島は本当に現在でも聖地を聖地としてあつかい、いまだある種の神々への畏れとともに成り立っている世界のように思える。そんな土地は今では希少な存在ではないだろうか。
また久高島にいった人は、とても不思議な経験をすることもあるようだ。
たとえば、長い間会ってなかった人にたまたまそこで再開するようなことがよく起こるという。
沖縄に関する不思議な話しを集めた、「本当は怖い沖縄」という本にこう書いてある。
たとえば、10年間も音信普通だった元同僚と久高島でばったり会ったりとか、消息不明だった肉親と久高島に渡る船で再会したりといったドラマチックな再会劇にまつわる話しはたびたび耳にするし、スナップ写真にオーラのようなものが写っていたなどの心霊的な話しも枚挙に暇がない。あるいは、突然どこからか蝶々がひらひら飛んできて、まるで神の使いのようにクボー御嶽の入り口まで案内してくれたという話しもよく聞いたりする話だ。
あるシャーマンから「久高島は自然界のエネルギーの波動と人間のこころの波動が共振する場所」というような話を聞いたことがあるが、久高島は島全体が聖域で、島にあるすべてのものがある種のエネルギーを放っているのだそうだ。
そんなさまざまな不思議話で聞いていた久高島が、今海の向こう側に見えている。
霊能者、巫女の島
今なお禁制の地がある島
沖縄発祥の聖地
なんだかわからないけど不思議なことが起こる島。
明日はあそこに渡るんだと思うと、なにか少し緊張してきた。
島の交流会館に宿泊し、その土地のエネルギーを感じ、風景をカメラに収めたいと思う。
でもその前に行っておかなければならない場所がある。
それが今日の目的地。
アマミキヨがつくったとされる琉球七大ウタキの筆頭
久高島をのぞむ、斎場御嶽に向かって僕は歩き出した。
斎場御嶽・セーファーウタキ
沖縄は二回目だ。
いや、中一くらいに家族旅行で連れられてきたのを入れれば三回目になるっけ。
あの時は祖母と二人の弟も含む6人の大家族旅行。
玉泉洞や、沖縄植物園などを回った。
12月だったから青い海では泳がなかったけど、グラスボートできれいな海を覗き込んだことを覚えている。
あとから父親に聞いた話では、一度の旅行で数十万円使ったという。
LCCもない時代、年末料金のANAやJALに乗って食事つきホテルに6人泊まればそれくらいかかるのだろうか。今の僕とそれほど年の変わらない父母がずいぶんがんばってくれたんだなと思う。
二度目は三年前の9月。
もと同居人と一緒に住み始めたころ、僕はダイビングのライセンスを取るため一足先にゆき、あとから彼女も追いかけてきた。
ダイビングポイントが多い、北谷の砂辺海岸。
嘉手納基地が近く、周辺にはたくさんの米軍用住宅があった。
1945年の沖縄戦では米軍が上陸した辺りからも遠くない。
ハンバーガーと沖縄そば、そして砂辺のサンゴ礁。
あいにく後半は台風の直撃を受けて、彼女にはシュノーケリングを体験してもらえなかった。
でも国際通りの公設市場を散策して、万座毛にも足を伸ばした。
それはそれで楽しい旅だった。
そして、今回ははじめての一人旅。
季節は11月。
さすがにダイビングをする気分でもない。
そこで琉球発祥の地とされる、久高島やセーファーウタキ、そして南城市一帯をめぐり、沖縄のエッセンスに触れる旅にしたいと思った。
前回の滞在は米軍が上陸した海岸、今回は神々が上陸した地である。
見えてくる風景もずいぶん違うものになるかもしれない。
那覇空港に着陸して、飛行機の外に出たとたんに、むわっとした湿度に包まれた。
亜熱帯特有の空気感。
長袖のシャツを脱いで、半そでのパーカーに着替えたけど、それでも暑い
Tシャツ一枚だって十分な気候だ。
11月の東京は雨が続き肌寒かったけど、那覇はまだ秋という感じではない。
空港からモノレールに乗って、車内を見渡しても ほとんどの人はTシャツや薄手のシャツ一枚という格好をしていた。
前回は9月の終わりだった。あの時は完全に真夏同然で、日差しも強烈だった。
今回はあのときよりも過ごしやすい温度だけど、11月の「秋の気配」というものはこの湿度の中では感じられない。
世界遺産であるセーファーウタキは、パワースポットとしても有名だ。
最近のパワスポブームも合間って、そっち系に興味がある人もたくさん訪れるようになったという。
しかし、パワースポットとはなんだろうか。
何か他とは違うエネルギーを持った場所。
そしてそこに訪れることで、癒されたり、運気があがったりする場所?
人によって考えは違うだろう。
僕は、パワースポットとは、宇宙や大地に向かって開いた場所なのではないかと思っている。
そこで人々は神なるもの、自分のルーツに向かって祈りをささげて、心を清め、生まれ変わった気持ちでまた日常に戻っていく。 パワースポットとは本来そんな祈りの場である聖地。そこを巡るのが巡礼だ。
癒されたり、幸運が舞い込むのを願うのはもちろん悪いことじゃない。
でもご利益信仰がパワースポットの本質でもないような気がする。
斎場御嶽の歴史はどのようなものだろうか。
まず伝説上では、久高島に降臨したアマミキヨ神がその後本土につくりあげた七大御嶽の筆頭とされている。
史実上では、琉球王朝三代目の王、尚真王の時代、王朝最高位の神女である聞得大君(きこえおおぎみ)が新たに即位するときその式典の会場となっていたのが斎場御嶽だったという。
その儀式は「お新おり(おあらおり)」と呼ばれた。
聞得大君は、その深夜から夜を徹して行われる儀式により神力を得て、翌朝久高島から昇る太陽を拝したとされている。このような祭事の折には久高島からの白砂が御嶽全体に敷き詰められた。
聞得大君の巫女的な地位は、国王の権威を圧するほど強力なものであったという。
斎場御嶽ではこのほかにも琉球王朝の存続と繁栄を祈るような祭事がいくつも行われたと想像できる。
これが歴史的な史実。
しかし、パワースポットには歴史的な事実だけではなく、何か地球エネルギー力学的な仕組みが介在しているはずだ。
レイラインや、竜脈、竜穴とよばれるような見えないエネルギー、磁場の流れの中にある特異点、、人体で言うところのチャクラや経絡経穴のようなもの。
逆に言うと、そのような地球のツボのような場所であるからこそ、さまざまな歴史的事実がそこに積み上げられる。
そして、人々のその地への祈りの念が、さらに土地の気場と相乗効果を起こす。
パワースポットとはおおむねそのような仕組みでできているのではないだろうか。
「本当は怖い沖縄」という面白いタイトルの本にこんなことが書いてある。
セーファーウタキでは不思議な現象がよく起こるらしく、南城市の市長さんが書籍の中でこう語っている。
「腰が痛くて痛くて、行きはかつがれて斎場ウタキに入った人が、祈ったと同時に体が軽くなり、自分で歩いて帰ったという話し、入ろうとしたら青い光が見えてどうしても中に入ることができなかった人の話し、サングーイの中でぐるぐると竜巻のようなエネルギーを感じたという人の話し・・・」
セーファーウタキでは逆に体調が悪くなる人もたくさんいるという。
おそらくそこに存在するエネルギーとのバランスで、エネルギーが強烈な場所に行くということは、必ずしも表面的には気持ちよくなるとは限らない場合がある。
それが、見えないエネルギーの難しいところかもしれない。
具合が悪くなっても、そこがよろしくないと簡単には言えない。
またカメラの調子が急に悪くなり、写真が撮れなくなったり、不思議なものが写り込むことも茶飯事らしい。
沖縄出身の霊能力が強い人が、その本の中で語っている。
「セーファーウタキは沖縄で最高峰というべき神聖な空間です。それだけにパワーが強い。私でさえ恐れ多くて入ったことがないのに、修行もしていない素人がむやみに近づくものではありません!」
世界遺産にもなっちゃってる今、ガイドブック片手にはるばるやって来る外人さんにとってはそんなこと言われても「What(イミワカランワ~)?」だろうし、
霊能力もない僕としても、近づくものではないと言われたところで、それがどんな場所かわからない以上、まず行ってみるしかない。
何を感じるだろうか。
そして僕はこの場所でどんな祈りを捧げたいと思っているんだろうか。
ぶっちゃけて言うと、いろいろなことが行き詰っているようだった。
先月、2012年から一緒に住んでいた相棒との同居生活が終わった。
彼女は引っ越してゆき、僕はひとりでは広すぎる賃貸のアパートに一人残った。
どちらが悪いというわけでもないし、このまま一緒に住んでいても二人ともどこにも行けないようだ。
だから仕方のない流れだとも思ったが、3年間の共同生活が終わるその脱力感は大きかった。
加えて、一人で広すぎるだけではなく家賃の負担も高すぎるため僕も引越しを余儀なくされた。
彼女と暮らし始めたときに最初に旅行したのが沖縄だった。
今度は一人。
一応「沖縄にでも行ってくる」と事前に彼女には言ってたので、出発の朝にメールしたけど、返事はまだこない。
込み合っている行きの飛行機、僕の隣の席はなぜか空いている。
誰か、一緒に来たのかな?ふとそんな変な思いが浮かんだ。
空っぽの席。
そこに座っている見えない「誰か」は誰なんだろうか。
いやもしかすると
それは誰かがいるというよりも、僕のそばには誰もいないことの暗示に過ぎないんだろうか。
関係性の面ではそんな感じだった。
仕事の面では7年間ほど続けてきた在宅介護ヘルパーの仕事も、このまま同じようにこれを続けていても、自分はどうにもならないという焦りや疲弊感を感じることが多くなっていた。
最初はハンディキャップを持った人をヘルプするということに感じていた遣り甲斐や、意味感、充実感を、疲労感や絶望感が上回ることが増えていた。
一月が終わると、また翌月のシフトがメールで届く。
気がつけばもう年末だ。
このまま淡々と時間が流れていくことに不安を覚えるようになった。
でも、新たなことを始めるエネルギーが自分の中にみつからない。
そんなこんなで、終了した同居生活を引きずる気持ちや、この希望のない不気味な繰り返しに埋め込まれているという感覚から離脱したいという思いでこの土地にやってきた。
正直、旅でもしなきゃやってられないという気分でもあった。
だから祈りを捧げるとすれば、気分を一新してやり直したいということ、そのためのエネルギーをもらいたいということ。そして沖縄をもう少し深く知り、この地との絆を強くしたいということだろうか。
朝から移動スケジュールに押されてバナナ二本くらいしか食べてない。
ちょっとふらっとするが、エネルギーを感じやすくなってていいかも。
そんなことを考えつつ、ウタキ入り口への坂を登っていく。
一帯はとても静かで穏やかな雰囲気だった。
11月の平日というかなりのオフシーズンだったということもあると思うけど、その空気感ですでに気持ちがよくなってきた。
それでもやっぱりメジャーになった世界遺産。団体やカップルの観光客が何組かいる。
チケットを見せて入場(※注※チケットは御嶽ではなく、斎場御嶽バス停前の物産会館で購入する)すると、小部屋に入って御嶽の歴史的いわれなどをビデオで見るという手順のようだが、 僕はなるべく一人でその場のエネルギーを感じたかったので、団体様と少しタイミングをずらすため、小部屋をスルーし一足先にウタキの中へ入っていった。
なんだろう、これは・・・・

斎場御嶽はその昔、王国繁栄にかかせない聖地だったはずだけど、立派な建物や神仏の像があるわけではない。
数箇所あるは拝所は、巨岩の下に簡素石つくりの祭壇を組んだだけであったり、鍾乳石のように垂れ下がった大きな二本の岩だったりする。その他は鬱蒼と生い茂った森だ。その森の中の石畳の小道を歩いて、拝所をめぐる。それだけなのだが、ものすごく圧迫感があるのだ。
一言で言うと、ここにいると癒しの空間であるというよりも、やはり鬼気迫るという雰囲気、畏れ多いという感覚が沸き起こってくる。森や岩も濃密な強いエネルギーを発しているように思えてならない。
要所要所の拝所などでシャッターを押しながら僕はさっきから
なんだろうなこれは、、なんだろうこれは・・・
と繰り返しつぶやいてる自分に気づいた。
ボキャブラリーが非常に貧弱になるような何かに圧倒されていた。
それが何かはわからない。この鬱蒼とした森と、むき出しの巨岩に圧倒されたのかもしれない。
来る前に聞きかじってきたセーファーウタキに関するうわさの為プラシーボ効果に陥っていたのかもしれない。
あるいは朝からバナナを2本ほどしか食べてなかったせいかもしれない。
何かはわからないが、相当僕はポカンとした状態で、カメラのシャッターを押し続けていた。
今まであまり経験のない感覚であることは確かだった。

巨岩がふたつ組み合わされ、直角三角形のゲートを形作っている。
これはサングーイと呼ばれる、よく御嶽の写真で紹介される拝所だ。
とても自然に出来たとは思えない、見事な造詣のサングーイをくぐり、久高島遥拝所に出る。
木々の小窓に縁取られるように、久高島が浮かんでいた。
僕はそこでしばらくたたずみ、ここに訪れられたことへの感謝を捧げた。

帰り道、再びサングーイをくぐり森の中を歩いていると、さっきまで曇っていた雲間から日が出てきて、突如森が輝き始めた。
うわっ すごい!
さっきとはまったく違う世界が目の前にある。
活気付き命を与えられたように、木漏れ日に目の前のくさむらが光っている。

いや、ただ日が出て明るくなっただけなんだけど、なんだこれは?
ただただ言葉を失うような美しさに僕は呆然とした。
ここは聖地だ。
なにか疑い得ない感覚が僕をとらえていた。

安座間港
あざまさんさんビーチでバスを降り、少し歩くと港があった。
目的地の斎場御嶽まではあと二つほどバス停があるはずだ。
まったく土地勘のない場所。こんなとこで降りていいのかどうかわからなかったけど、なんとなく降りて歩きたくなった。
あまり人影は見えず、防波堤の方からかすかに三線の音が、風に乗って運ばれてくる。
何人かの人たちが堤の上三線を練習しているようだ。

朝の四時おきでまだ真っ暗な中自宅を出て、中央線に乗った。
東京八重洲口からの成田行きバスに乗るためだ。さすがにすいてるかと思いきやもう電車の中は、座席はすべて埋まり、立ってる人も多い。この時間からこれだけの人が通勤してるのに驚く。みな黙々と本を読んだり、スマホをいじったり、寝ている。
外はまだ暗い。一瞬夕方なのか朝なのかわからなくなりそうだ。この時間中央線は各駅停車が走ってるらしい。代々木や千駄ヶ谷にも止まっていく。
八重洲口から高速バスに乗りしばらくすると、高速道路のかなたからようやく太陽が昇り始めた。
成田へ到着後、LCCで那覇へ、モノレールでバスターミナルへ、そしてバスに乗り換えて沖縄南部の南城市までやってきた。
すでに家を出てから9時間ほどが経過している。
移動につぐ移動で張り詰めていた心が潮の匂いと静けさの中でほどけていくのを感じた。
昨日まで雨もよいで肌寒い東京にいたのが嘘みたいだ。
少し歩くと本島最大の霊場と言われる斎場御嶽(セーファーウタキ)があるはずだ。
世界遺産にも登録されているということで、もっと観光地的な喧騒が支配しているのかと思ったけど、11月というオフシーズンの為だろうか一帯はとても静かだった。
一本タバコを吸ったあとで、海岸沿いの道から急な坂を登ると青い海が視界いっぱいに広がった。
水平線の近くに細長く伸びる島影が見える。
あれが今回の旅の目的地、久高島だ。

久高島の名前を初めて聞いたのはもう7年くらいは前になる。
沖縄にはユタやノロと呼ばれる巫女やシャーマンのような存在が昔からいるが、そのノロの一人と親交のある方の講演を聞きに行ったことがきっかけだった。
現在、巨大な天変地異が差し迫っており、そのノロのHさんは巨大災害を未然に防ぐために、車に乗って日本中を行脚しているということだった。
まだ東日本震災が起こる前だった。
そのHさんの出身が久高島だった。
Hさんは幼い頃から霊感に目覚めていて、神様からたくさんのビジョンをみせられてきたという。
久高島にはHさんだけではなく、たくさんの霊的感覚に恵まれた人々を輩出している島だ。
久高島南北4キロほどの小さな島だが、特殊な島である。
沖縄最大の霊場と言われる斎場御嶽そのものが、久高島に向かうように作られているかに見える。
事実セーファーウタキには久高島の遥拝所がある。
どうして久高島という小さな島が、斎場御嶽から礼拝されるのだろうか。
その理由は琉球発祥の伝説にあるようだ。
日本神話のイザナギとイザナギの国生みや、天孫降臨の神話に似たものが琉球にも存在する。
神々の世界<ニライカナイ>あるいは<ニラーハラー>から降り立ったアマミキヨが沖縄をつくったとされるが、そのアマミキヨが降り立った地が久高島のカベール岬だとされている。
内地で言うと高千穂や淡路に該当するのが、沖縄の南部一帯であり、その中心が久高島なのだ。
そんな久高島では古来より、巫女によって行われる祭祀を中心とした生活が営まれていた。
男はウミンチュ(漁師)になり、女はカミンチュ(巫女)になる。
それが久高の伝統的な人間の生き方であったという。
12年ごとに女性が神となる儀式、イザイホーが行われていたが、これは1978年を最後に行われていない。
イザイホーはしかるべき年齢に達した女性が、祖母霊と一体となりそのパワーを受け継ぐ儀式だった。
そのように久高島は母系性の世界であり、女性が神となり男を、そして家族を守るという価値観の世界であったようだ。
久高島の特殊性はそれだけではない。
南北4キロほどの小さな島だが、集落は島の南側3分の1ほどところに集中しており、北側には無人地帯が広がっている。
舗装された道路はあるものの、人が住んでいないために電柱や電線もない。
島の北部はアマミキヨが降り立ったカベール岬、中心的なウタキであるフボーウタキを含む聖域とされており、人が住む地ではないという。
久高島では土地を私有するということが許されていない。島全域は神々のものだとみなされている。
観光客にも島の石や貝などを持ち帰ることがないようにという注意がいろいろなところに書かれている。
それを破ったために、トラブルが起こり、また本土から島にそれを戻しに来ざるを得なくなったという話もあるらしい。
聖地と呼ばれる場所は日本全国に数多い。
しかし、多くの場合そこには店があふれ、金銭がやりとりされ、電信柱が立ち並んでもいる。
それに比べると、久高島は本当に現在でも聖地を聖地としてあつかい、いまだある種の神々への畏れとともに成り立っている世界のように思える。そんな土地は今では希少な存在ではないだろうか。
また久高島にいった人は、とても不思議な経験をすることもあるようだ。
たとえば、長い間会ってなかった人にたまたまそこで再開するようなことがよく起こるという。
沖縄に関する不思議な話しを集めた、「本当は怖い沖縄」という本にこう書いてある。
たとえば、10年間も音信普通だった元同僚と久高島でばったり会ったりとか、消息不明だった肉親と久高島に渡る船で再会したりといったドラマチックな再会劇にまつわる話しはたびたび耳にするし、スナップ写真にオーラのようなものが写っていたなどの心霊的な話しも枚挙に暇がない。あるいは、突然どこからか蝶々がひらひら飛んできて、まるで神の使いのようにクボー御嶽の入り口まで案内してくれたという話しもよく聞いたりする話だ。
あるシャーマンから「久高島は自然界のエネルギーの波動と人間のこころの波動が共振する場所」というような話を聞いたことがあるが、久高島は島全体が聖域で、島にあるすべてのものがある種のエネルギーを放っているのだそうだ。
そんなさまざまな不思議話で聞いていた久高島が、今海の向こう側に見えている。
霊能者、巫女の島
今なお禁制の地がある島
沖縄発祥の聖地
なんだかわからないけど不思議なことが起こる島。
明日はあそこに渡るんだと思うと、なにか少し緊張してきた。
島の交流会館に宿泊し、その土地のエネルギーを感じ、風景をカメラに収めたいと思う。
でもその前に行っておかなければならない場所がある。
それが今日の目的地。
アマミキヨがつくったとされる琉球七大ウタキの筆頭
久高島をのぞむ、斎場御嶽に向かって僕は歩き出した。
斎場御嶽・セーファーウタキ
沖縄は二回目だ。
いや、中一くらいに家族旅行で連れられてきたのを入れれば三回目になるっけ。
あの時は祖母と二人の弟も含む6人の大家族旅行。
玉泉洞や、沖縄植物園などを回った。
12月だったから青い海では泳がなかったけど、グラスボートできれいな海を覗き込んだことを覚えている。
あとから父親に聞いた話では、一度の旅行で数十万円使ったという。
LCCもない時代、年末料金のANAやJALに乗って食事つきホテルに6人泊まればそれくらいかかるのだろうか。今の僕とそれほど年の変わらない父母がずいぶんがんばってくれたんだなと思う。
二度目は三年前の9月。
もと同居人と一緒に住み始めたころ、僕はダイビングのライセンスを取るため一足先にゆき、あとから彼女も追いかけてきた。
ダイビングポイントが多い、北谷の砂辺海岸。
嘉手納基地が近く、周辺にはたくさんの米軍用住宅があった。
1945年の沖縄戦では米軍が上陸した辺りからも遠くない。
ハンバーガーと沖縄そば、そして砂辺のサンゴ礁。
あいにく後半は台風の直撃を受けて、彼女にはシュノーケリングを体験してもらえなかった。
でも国際通りの公設市場を散策して、万座毛にも足を伸ばした。
それはそれで楽しい旅だった。
そして、今回ははじめての一人旅。
季節は11月。
さすがにダイビングをする気分でもない。
そこで琉球発祥の地とされる、久高島やセーファーウタキ、そして南城市一帯をめぐり、沖縄のエッセンスに触れる旅にしたいと思った。
前回の滞在は米軍が上陸した海岸、今回は神々が上陸した地である。
見えてくる風景もずいぶん違うものになるかもしれない。
那覇空港に着陸して、飛行機の外に出たとたんに、むわっとした湿度に包まれた。
亜熱帯特有の空気感。
長袖のシャツを脱いで、半そでのパーカーに着替えたけど、それでも暑い
Tシャツ一枚だって十分な気候だ。
11月の東京は雨が続き肌寒かったけど、那覇はまだ秋という感じではない。
空港からモノレールに乗って、車内を見渡しても ほとんどの人はTシャツや薄手のシャツ一枚という格好をしていた。
前回は9月の終わりだった。あの時は完全に真夏同然で、日差しも強烈だった。
今回はあのときよりも過ごしやすい温度だけど、11月の「秋の気配」というものはこの湿度の中では感じられない。
世界遺産であるセーファーウタキは、パワースポットとしても有名だ。
最近のパワスポブームも合間って、そっち系に興味がある人もたくさん訪れるようになったという。
しかし、パワースポットとはなんだろうか。
何か他とは違うエネルギーを持った場所。
そしてそこに訪れることで、癒されたり、運気があがったりする場所?
人によって考えは違うだろう。
僕は、パワースポットとは、宇宙や大地に向かって開いた場所なのではないかと思っている。
そこで人々は神なるもの、自分のルーツに向かって祈りをささげて、心を清め、生まれ変わった気持ちでまた日常に戻っていく。 パワースポットとは本来そんな祈りの場である聖地。そこを巡るのが巡礼だ。
癒されたり、幸運が舞い込むのを願うのはもちろん悪いことじゃない。
でもご利益信仰がパワースポットの本質でもないような気がする。
斎場御嶽の歴史はどのようなものだろうか。
まず伝説上では、久高島に降臨したアマミキヨ神がその後本土につくりあげた七大御嶽の筆頭とされている。
史実上では、琉球王朝三代目の王、尚真王の時代、王朝最高位の神女である聞得大君(きこえおおぎみ)が新たに即位するときその式典の会場となっていたのが斎場御嶽だったという。
その儀式は「お新おり(おあらおり)」と呼ばれた。
聞得大君は、その深夜から夜を徹して行われる儀式により神力を得て、翌朝久高島から昇る太陽を拝したとされている。このような祭事の折には久高島からの白砂が御嶽全体に敷き詰められた。
聞得大君の巫女的な地位は、国王の権威を圧するほど強力なものであったという。
斎場御嶽ではこのほかにも琉球王朝の存続と繁栄を祈るような祭事がいくつも行われたと想像できる。
これが歴史的な史実。
しかし、パワースポットには歴史的な事実だけではなく、何か地球エネルギー力学的な仕組みが介在しているはずだ。
レイラインや、竜脈、竜穴とよばれるような見えないエネルギー、磁場の流れの中にある特異点、、人体で言うところのチャクラや経絡経穴のようなもの。
逆に言うと、そのような地球のツボのような場所であるからこそ、さまざまな歴史的事実がそこに積み上げられる。
そして、人々のその地への祈りの念が、さらに土地の気場と相乗効果を起こす。
パワースポットとはおおむねそのような仕組みでできているのではないだろうか。
「本当は怖い沖縄」という面白いタイトルの本にこんなことが書いてある。
セーファーウタキでは不思議な現象がよく起こるらしく、南城市の市長さんが書籍の中でこう語っている。
「腰が痛くて痛くて、行きはかつがれて斎場ウタキに入った人が、祈ったと同時に体が軽くなり、自分で歩いて帰ったという話し、入ろうとしたら青い光が見えてどうしても中に入ることができなかった人の話し、サングーイの中でぐるぐると竜巻のようなエネルギーを感じたという人の話し・・・」
セーファーウタキでは逆に体調が悪くなる人もたくさんいるという。
おそらくそこに存在するエネルギーとのバランスで、エネルギーが強烈な場所に行くということは、必ずしも表面的には気持ちよくなるとは限らない場合がある。
それが、見えないエネルギーの難しいところかもしれない。
具合が悪くなっても、そこがよろしくないと簡単には言えない。
またカメラの調子が急に悪くなり、写真が撮れなくなったり、不思議なものが写り込むことも茶飯事らしい。
沖縄出身の霊能力が強い人が、その本の中で語っている。
「セーファーウタキは沖縄で最高峰というべき神聖な空間です。それだけにパワーが強い。私でさえ恐れ多くて入ったことがないのに、修行もしていない素人がむやみに近づくものではありません!」
世界遺産にもなっちゃってる今、ガイドブック片手にはるばるやって来る外人さんにとってはそんなこと言われても「What(イミワカランワ~)?」だろうし、
霊能力もない僕としても、近づくものではないと言われたところで、それがどんな場所かわからない以上、まず行ってみるしかない。
何を感じるだろうか。
そして僕はこの場所でどんな祈りを捧げたいと思っているんだろうか。
ぶっちゃけて言うと、いろいろなことが行き詰っているようだった。
先月、2012年から一緒に住んでいた相棒との同居生活が終わった。
彼女は引っ越してゆき、僕はひとりでは広すぎる賃貸のアパートに一人残った。
どちらが悪いというわけでもないし、このまま一緒に住んでいても二人ともどこにも行けないようだ。
だから仕方のない流れだとも思ったが、3年間の共同生活が終わるその脱力感は大きかった。
加えて、一人で広すぎるだけではなく家賃の負担も高すぎるため僕も引越しを余儀なくされた。
彼女と暮らし始めたときに最初に旅行したのが沖縄だった。
今度は一人。
一応「沖縄にでも行ってくる」と事前に彼女には言ってたので、出発の朝にメールしたけど、返事はまだこない。
込み合っている行きの飛行機、僕の隣の席はなぜか空いている。
誰か、一緒に来たのかな?ふとそんな変な思いが浮かんだ。
空っぽの席。
そこに座っている見えない「誰か」は誰なんだろうか。
いやもしかすると
それは誰かがいるというよりも、僕のそばには誰もいないことの暗示に過ぎないんだろうか。
関係性の面ではそんな感じだった。
仕事の面では7年間ほど続けてきた在宅介護ヘルパーの仕事も、このまま同じようにこれを続けていても、自分はどうにもならないという焦りや疲弊感を感じることが多くなっていた。
最初はハンディキャップを持った人をヘルプするということに感じていた遣り甲斐や、意味感、充実感を、疲労感や絶望感が上回ることが増えていた。
一月が終わると、また翌月のシフトがメールで届く。
気がつけばもう年末だ。
このまま淡々と時間が流れていくことに不安を覚えるようになった。
でも、新たなことを始めるエネルギーが自分の中にみつからない。
そんなこんなで、終了した同居生活を引きずる気持ちや、この希望のない不気味な繰り返しに埋め込まれているという感覚から離脱したいという思いでこの土地にやってきた。
正直、旅でもしなきゃやってられないという気分でもあった。
だから祈りを捧げるとすれば、気分を一新してやり直したいということ、そのためのエネルギーをもらいたいということ。そして沖縄をもう少し深く知り、この地との絆を強くしたいということだろうか。
朝から移動スケジュールに押されてバナナ二本くらいしか食べてない。
ちょっとふらっとするが、エネルギーを感じやすくなってていいかも。
そんなことを考えつつ、ウタキ入り口への坂を登っていく。
一帯はとても静かで穏やかな雰囲気だった。
11月の平日というかなりのオフシーズンだったということもあると思うけど、その空気感ですでに気持ちがよくなってきた。
それでもやっぱりメジャーになった世界遺産。団体やカップルの観光客が何組かいる。
チケットを見せて入場(※注※チケットは御嶽ではなく、斎場御嶽バス停前の物産会館で購入する)すると、小部屋に入って御嶽の歴史的いわれなどをビデオで見るという手順のようだが、 僕はなるべく一人でその場のエネルギーを感じたかったので、団体様と少しタイミングをずらすため、小部屋をスルーし一足先にウタキの中へ入っていった。
なんだろう、これは・・・・

斎場御嶽はその昔、王国繁栄にかかせない聖地だったはずだけど、立派な建物や神仏の像があるわけではない。
数箇所あるは拝所は、巨岩の下に簡素石つくりの祭壇を組んだだけであったり、鍾乳石のように垂れ下がった大きな二本の岩だったりする。その他は鬱蒼と生い茂った森だ。その森の中の石畳の小道を歩いて、拝所をめぐる。それだけなのだが、ものすごく圧迫感があるのだ。
一言で言うと、ここにいると癒しの空間であるというよりも、やはり鬼気迫るという雰囲気、畏れ多いという感覚が沸き起こってくる。森や岩も濃密な強いエネルギーを発しているように思えてならない。
要所要所の拝所などでシャッターを押しながら僕はさっきから
なんだろうなこれは、、なんだろうこれは・・・
と繰り返しつぶやいてる自分に気づいた。
ボキャブラリーが非常に貧弱になるような何かに圧倒されていた。
それが何かはわからない。この鬱蒼とした森と、むき出しの巨岩に圧倒されたのかもしれない。
来る前に聞きかじってきたセーファーウタキに関するうわさの為プラシーボ効果に陥っていたのかもしれない。
あるいは朝からバナナを2本ほどしか食べてなかったせいかもしれない。
何かはわからないが、相当僕はポカンとした状態で、カメラのシャッターを押し続けていた。
今まであまり経験のない感覚であることは確かだった。

巨岩がふたつ組み合わされ、直角三角形のゲートを形作っている。
これはサングーイと呼ばれる、よく御嶽の写真で紹介される拝所だ。
とても自然に出来たとは思えない、見事な造詣のサングーイをくぐり、久高島遥拝所に出る。
木々の小窓に縁取られるように、久高島が浮かんでいた。
僕はそこでしばらくたたずみ、ここに訪れられたことへの感謝を捧げた。

帰り道、再びサングーイをくぐり森の中を歩いていると、さっきまで曇っていた雲間から日が出てきて、突如森が輝き始めた。
うわっ すごい!
さっきとはまったく違う世界が目の前にある。
活気付き命を与えられたように、木漏れ日に目の前のくさむらが光っている。

いや、ただ日が出て明るくなっただけなんだけど、なんだこれは?
ただただ言葉を失うような美しさに僕は呆然とした。
ここは聖地だ。
なにか疑い得ない感覚が僕をとらえていた。

2015.
11.
29

この季節窓の正面から日が昇り、部屋を暖めます。
外には初めて霜がおりた。

太陽を浴びて「さあ、今日も旅に出よう」とスナフキン


サンキャッチャーがとらえてくれる、青紫の光に最近ハマッテいます。

朝方しばらく、日がさしこむ間、虹が踊ります。
近況。
ここのところ、諸事情ありまた一人暮らしに戻りました。
そんなこんなで二月、環境の変化にもそろそろ慣れてきた感じでしょうか。
11月の始めには、心機一転と冬季ウツ予防の効果も期待し、久高島を巡礼してきました。

島の始祖家大里家(ウプラトゥ)前にいた蝶

神々が訪れる浜辺 イシキ浜

カベール岬への道
なかなか言葉では言い表せない世界でした。あんな感覚は初めてです。
でも随分元気をもらったような気がします。
原稿用紙70枚くらいレポートを書いたので、またアップする予定です!
2015.
11.
25
haitakadori
沖縄本島は斎場御嶽と、南城市一帯。久高島含め、琉球発祥の伝説息づく地をめぐる旅行となりました。斎場御嶽、サングーイ。南城市、沖縄ワールド行ってないけどよかったな。 https://t.co/rlkPK06feO
11-24 15:56これから行かれる方はバタバタと観光ではなく、是非徒歩の散策と宿泊をおススメしたいです。久高島在住の画家山崎紀和さんのしみる絵。「フェリーとはなんと優雅な乗り物なのでしょう」 https://t.co/lAmCWmnw8k
11-24 15:4510日ほど前、久高島に行ってきた。詳細はブログとかに書こうと思うけど、すばらしいところでした。電線も家もない聖域はまさに神々と、精霊のすみかという印象。
11-24 15:42
2015.
11.
08
2015.
11.
06
出だしの言葉、なんて言ってるのかわからないけどなんか癖になる。
同じ平沢進さんの曲アニメのOPテーマだった「夢の島思念公園」。画像のアブなさとも合間ってはまったけど、これもすぐ好きになった。
「白虎野」は映画「パプリカ」のOP。原作は読んだけど、アニメは見てない・・・
続いて関連動画で出てきた、これは「ベルセルク」のテーマなんですねー。
これもす・すごいなー
「ベルセルク」はかなり原作好きだったけど、、まだ連載してるのかな・・・
2015.
11.
05
2015.
11.
02
早くも11月になり、肌寒い日が多くなってきましたね。
今日は朝から空は一面ミルク色で、冷たい雨が降っています。
この季節になると、いつもテンションが下降気味になっていきます。
前から自覚していましたが、僕はSAD(seasonal affective disorder)日本語で言う冬季うつの気があるようです。SADは秋から冬にかけて、気力の低下や、感情の不安定、睡眠過多、食欲の変動、ひきこもりなどの症状をしめすことです。
たぶん20代から症状が強くなり、SADの概念がないころはひたすらその不調にかなり振り回されていました。
ここのところは「秋はヤバイ」ということを学習していますので、自分なりにセルフコントロールしたり、半分修行みたいなこともしたり(水かぶったり)することで、やや付き合い方はわかってきましたが、それでも明らかに春や夏とテンションが違うことは否めません。
今年はいろいろ環境の変化も合間って10月はなかなか大変でしたが、何かのヒントになるかと講談社から出ている「季節性うつ病」<ノーマン・E・ローゼンタール著>という本を読んでみました。
それで思ったことなんかをいくつか書いてみようと思うのですが・・・
まずSADの原因は、秋冬の日照時間と日照量の減少が原因と考えられています。
簡単に言うと、光の減少が人間の脳に作用して、春夏とはまったく違う生化学的変化を起こしている状態、と言えるのでしょうか。
それは一言で言うとセロトニンの減少ということになるようです。
セロトニンは安心感や、集中力、感情の安定などを司る神経伝達物質で最近は一般にも有名になってますね。
それが減ってしまうとSAD特有のさまざまな症状が出てくるようなのです。
セロトニンはドーパミンやノルアドレナリンなどの伝達物質を調整する作用もあるようで、セロトニンの減少によりドーパミン、ノルアドレナリンが暴走し快楽的な依存行動に走らせたり、キレやすくさせたりもするみたいです。
僕の場合は、やる気が低下するとともに、感情がコントロールできなくなる、忍耐力がなくなるという傾向がでてくることに気づいていました。普段なら何気なくスルーできるようなイライラにひっかかり、「なんだこのヤロー!」となってしまい、その後うつ状態になるとかそんなことが何度かあったような気がします。
11月ごろになんかのヒーリングを受けに行って「あなた死神みたいな顔してるわよ」(どんな顔?)とか言われたこともあります。
まー「それセラピストが言う言葉か~」とも思ったのですが。
僕の感覚としては非常にひからびてたので、そう見えてもおかしくなかったかもしれません。
10月下旬、11月から12月冬至前くらいが結構きつい時期でしょうか。
ハロウィンの飾り付けやイベントを見ると、闇の季節が近づいたようでまじめに戦々恐々としそうになります。
SADの人は11月~2月、3月くらいまで症状が強い人も多いらしいです。
でも僕の場合、1月になり毎日日が伸びて行ってるのがわかるとそれだけでかなり明るい気持ちになるし、梅も咲いたりしますから2月は寒いけどそれほどつらくはないかなーと思いますね。
来月は3月だ~と思うだけで、結構うれしくなったりするもんです。そして春分~夏至くらいまでがもっともテンション的には高いと感じます。
you tubeに動画出してみようとかいう発想は春だからこそ思いついたのかもって感じです。
今はあまりしゃべる気がしません(笑)
ということで久しぶりに長々と書いています。
なんだかSADに関しては、東京に来てからのほうが過酷な感じもします。
SADは日照時間と関係してるので一般に高緯度地域のほうがより、発症しやすいと言われます。そうすると東南アジア、オセアニアより、ヨーロッパのほうが患者さんが多くなるわけですね。
日本でも東北地方は自殺率の高さで有名です。
ただ、日照量も関係するので、低緯度でも冬場に曇天が多い地域ではやはりSADは発生するようです。
しかし、単純に日照時間だけで考えた時に、本日2015年11月2日JAPAN TOKYO北緯35度の日の出は6:03分
日の入りは16:46分です。昼の長さは10時間43分です。
これが僕の出身のKYOTO(同じく北緯35度)の場合、
日の出:06:18
日の入り17:03
昼間→10時間45分
このへんあまり変化はないようですが、突然九州に飛ぶと、
たとえば
KAGOSHIMA北緯31度 の場合
日の出:6:34
日の入り:17:28
昼間→10時間54分
OKINAWA 北緯26度は
日の出:6:38
日の入り:17:47
昼間→11時間9分です。
沖縄は東京より日の出は30分ほど遅いですが、日の入りが一時間ほど遅く、この時期でも17時47分、18時前でも明るいですね。東京は最近17時過ぎると真っ暗です。悲しい><まさにS・A・D(^^;
逆に北海道根室 北緯43度は
日の出5:53
日の入り:16:09
10時間16分という短さ・・・
うーん美しい自然と地平線、「北の国から」にあこがれる部分はありますが、僕は北国には住めそうにありません。
関西圏に生まれて東京に行くとわずかながら高緯度に行くわけであり、生まれた時に刻まれた体内リズムと微妙に違うサイクルへの適応を迫られるのか?とも思ったりしました。さらに6年ほどさらに南の高知にも住んでたし・・
たとえば東京と鹿児島は緯度にすればわずか4度の差ですが、これだけ違うとSADの発症率は4パーセントほど増えてくるようです。
「季節性うつ病」の資料によると、全人口に対するSAD、準SADあわせた発症率は、北緯35-40度のネバダ、ユタ、コロラドなどで19.7パーセントに対し30-35度のアリゾナ、ニューメキシコ、テキサスでは14.2パーセントとなっています。
これだけ読むと、なるべく早くハワイ(ホノルル 北緯21度 11月の昼間→11時間20分)に移住したい気持ちでいっぱいになりますが、実際SADには転地療法や冬季のバカンスが効果が大きいようです。
といっても実際に移住したり、旅行には行くには時間・お金の制約がある場合が多いです。
さらに旅行の効果は一時的になりやすい。
そこでこの「季節性うつ病」ではSADの治療は光治療を中心として紹介されていました。
光治療は冬季に不足する日照量を照明装置の光を浴びることによって補うものです。
現在ではこのような装置も市販されています↓↓↓
これは多分かなり効果はありそうですが、やや高価なことと、なるべくヨーギ的に、自然や自分の活力だけで好転させるほうが好きな方には、以下のような方法も効果があるようです。
■断眠、早起き
■とにかく野外で太陽光を浴びる、照明を多くする
■運動、筋トレ
■呼吸法
■瞑想
■セロトニンの原料となる炭水化物などを少し多めにとる
今回、僕はまた日の出を連続して3日ほど見にゆき、そのエネルギーをもらいました。
それ以後6時半には起きる生活を続けており、最初の谷間ははどうにか乗り切った感があります。
ここ2年くらい、冬場はよくやってるんですが、朝の太陽はいつ見ても気持ちがよいです。
体の不調や、だるさはつらいものですが、冬になると太陽のありがたさがわかるのはいいですよね。
闇が多ければ、その間のわずかな光を人はとらえようと努力をするものだと思います。
我々はSADの患者の光に対する感受性が健常者よりも弱く、そのために冬季にはより強い光を必要とするのではないかと考えた。最近のダン・レオン博士による国立精神保健研究所の研究では、その逆かもしれない。
SADの患者は、暗い部屋の中で弱い光を健常者よりもすばやく見つけることができるのである。この環界の光により敏感であるという点は、私の臨床的な観察とも一致する。私の経験ではSADの患者は環界の光の質の非常に敏感なのである。しかしながら、健常者よりも環界の光に敏感な患者たちが、それにもかかわらずより強い光を必要とするというこのパラドックスは、科学的にはまだ解決されていない。
季節性うつ病(223ページより)
SADの人たちの光感受性は実は高く、暗闇の中で光ってるものを発見しやすいそうです。
光感受性が高い人が、光不足になるというパラドックスがあるそうですが、中にはその季節の変化によって起こるこころの波をアーティストとして生かしているという人もいます。
ここに至って過敏性は一種の力や、創造性にもかわるわけですが、本の最後にそんな芸術家の例が紹介されていてとても勇気付けられました。
ロバートは物語を語るとき、目に入る光の量を調節する。自分の気分を調節して、それを聞くものの心にも伝えようとするかのように。物語の中で暗闇について語るときには、彼は目を閉じて手探りするようだ。光について語るときには、彼は目を開き光を見つめる。この物語の、そして他の冬の物語のもっともドラマティックな瞬間は、暗い風景の中に突然予期されずに現れる強い光とともにやってくる。光と光の引き起こす化学反応に飢え切っていた眼球の中の受容体が、暗闇から突然現れた光りに反応して化学物質をあふれ出させ、感覚の洪水を起こすのではないだろうか。
ロバートはこうして彼の生活の実例をほんの少し見せてくれた。彼が数時間のうちに語ってくれた四十年間の生涯について思い返すと、私は彼の最初の思い出にこころ打たれる。
弟の誕生日のケーキの上のろうそくの炎を見つめている三歳のころの思い出である。わずか三歳にして暗い日の光の魅力にとりつかれていたのだ。
ロバートの話を聞きながら、私はこの本の中のすべての人のことを考えていた。暗いニューイングランドの田舎道を疲れ、悲しみ、クッキー(クッキーは彼女のうつを和らげる)を求めて車でいくペギー、寒い冬の日に学校を休むアラン、もとは疲れ切って約束を守れないほどだったが、今は自信に満ちて光治療機を売って歩くニール、夏の昼下がりに野の花を摘むジェシカ、そして、今、冬の旅の物語を、暗闇からあふれ出す光を語っているロバート。
これらの人々は光と闇への並外れた感受性によって、我々の世界についてまた我々のそれに対する反応について、我々が気づかずに通り過ぎてしまったかもしれない何事かを語っているのである。
日の出を求めて真冬の早朝に太陽を見に行ったからこそ見れた、霜が朝日に輝く美しさや、太陽がからだを温める感覚を思い出します。
