2017. 01. 09  
  (続き) そのことでちょっと思うのは、ミドルからトップ部分の欲求を充足させるマニュアル、あるいは処方箋というのはたくさん出回っているということです。

 心身の健康で言えば、ヨガやピラティス、気功、その他の運動、各種食事法、各種セラピー、ヒーリング、薬剤、

 愛情欲求であれば、どうすればモテモテになるかというようなものから、対人関係の築き方、運命の人と出会う方法、

 自己実現‐自己超越であるならば 各種成功哲学、各種組織宗教、人生論、など様々です    

 個人的には、霊性、心身の健康、愛情・人間関係、豊かさ、ライフワーク、楽しみ・趣味 などの部分にトータルに意識的であることがバランスよく生きるために必要ではないかと思うのです。
 よく言われることですがどこかの部分が他よりも整っていないと、そのより低い部分のレベルに応じてしか人は生きることはできないという・・・これは事実ではないでしょうか。
 
 非常に有能な人でも、インナーチャイルドが常に泣いていると、私生活で人間関係を築くのが難しくなります。からだのエネルギーが低すぎると、天才的アイデアがあっても思うように動けません。
 霊性があまりに閉じていると、肉体と物だけがすべてで、互いにバラバラに意味なく存在しているということになり、限界ある物質的次元でしか物事を考えることができません。
 そのようなことですが。

 ですので、仮に人生学校のようなものをつくるとすれば、ホリスティック(全体論的な)なアプローチが必ず必要になってくるはずです。現代の学校教育で教えられるものは、かなり局所的な人生の断片なので、いろいろな弊害が生まれてるところがあります。

 でも、こんな風に情報自体はたくさん出回っているので、自分にあったもの(足りないもの)を取捨選択する能力があれば、バランスをとりもどして全人的なありかたを目標に生きていくこともできるはずです。

 ただ、これらはすべて現在の経済システムのボックス内でうまくまわることができる「商材」でもあり、そのため流通に乗りやすい性質があるものかと思います。それ以外のものは盲点に入って見えにくくなるのですが、それがピラミッドのボトム部分、呼吸であるとか、食、そして安全などです。

 まだまだこの国では、どうすれば食べ物を得られるかということよりも、どうすればお金持ちになれるか、どうすれば人気者になれるかという類の情報の方が魅力的に映ります。

 というのは、とりあえずはスーパーにでもいけばなんらかの食べ物は低価格で売ってるからですね。
 同じようにシリアとか、最近テロがあいつぐトルコ、ヨーロッパなどに比べると安全感もまだまだあります。

 だからどうすれば、食べ物を得られるか、どうすれば平和でいられるかということにはまだそこまで欲求がたかまりません。

 でも、ここんところ庭で野菜つくったりしてる人は増えてるみたいですね~ 
 僕も前の家ではじゃがいも植えたりしてましたけど、
 自分の部屋の真ん前の地面で食べ物が成長してるっていう感覚は、結構わくわく感がありました。
 庭がなくてもベランダでプチトマト作ったりとか、っていう方も多いみたいで、楽しそうです。

 師匠みたいに、コミュニティファームを作るというビジョンを持ってる人も多いでしょうし、水面下では単に売ってるものを消費して食べる生活から、自分たちで栽培したものを食べる生活に移行したいという<必要性>が動き出しているのかもしれません。

 僕は食べ物のように、「平和(安全)」も自給できる時代に入っていくことが必要だと思います。 
 どうすれば「安全・平和でいられるか」を説いた処方箋はほとんどないと思います。
 というのは、一般的認識として、平和というのはたまたま与えられているという感じだからなのでしょう。
 そして実際問題として、多くの人にとっては、戦後60年以上にわたる平和は「たまたま」なのだと思います。
 そうでなければ、安全保障とかそういうことではなしに、「外敵から身を守ることによる自国の平和」という、そういうレベルだけではなく、本当の「平和」とは何かという積み上げられてきた思索が一般に浸透しているのではないでしょうか。

 二発の原爆を体験した国として、僕らは本当はそれくらいの哲学は持っていてもよいかと思います。

 そして3・11を境に「安全感」が徐々に劣化しているような気がします。
 それは本当に少しづつ進行しているので、気づかずにいることもできるかもしれないのですが、「安全」が「とりあえず安全」とか、「ただちに危険はない」とか「ひとまず平和」に変わってきてます。

 だとすれば、日本人全体の欲求ピラミッドの土台部分がかなり不安定になっていることを意味します。

 どうも僕にはたびたび起こる嫌な事件や、社会になんとなくただよう「おかしさ」の原因のひとつはそれではないかと思えます。やっぱり立ってる土台が揺れてると、行動も考えも若干変になると思うんですよね。
 「安全感」を前よりも感じられなくなってきている、そこからいろいろなことが発生してはいないだろうかと。
  ヨーロッパ、そして日本でもみられる右傾化傾向は、失われた安全感への代償欲求なのかもしれません。
  この代償欲求が、お金や、他への攻撃や、支配や、従属やら、性やらにむかうと全体的に意識レベルが低下します。

  不安だからみんなでより集まり、意志を同じくして、一丸となり、外敵と戦うぜ! ということは一時的な解決にはなりますが、結局どの国もそうなると最終的にバラバラ、そして戦争になることは避けられません。  

 こういう時代に合って、首都直下地震の可能性もある関東に生きつつ、いつのまにか失われつつある2011年以前の日常感、安全感を充足させるにはどうすればいいのか。
 
 うーん、これは人によって答えも違い、簡単にこれという解答は思いつかない難問です。
 どう考えようと3・11以前の日々は失われたというのが、僕のからだが感じている感覚です。
 日々瞑想してこころの平和を!とかそういうことだけでは答えにならない部分がやっぱりある問題ですね。
 まーした方がいいとは思いますけど。
 人によっては瞑想中に西日本のほうへ移住しようと思うかもしれないし・・・・・いろんな選択肢があります。
 
 ただ戦争なき安全ということで言えば、結局答えは「霊性」にしかないような気はします。
 逆に言えば、僕らが霊性に目覚めない限りは、戦争はあるでしょうし、その他大小さまざまな争いは地球上で継続され、それによって不幸になる人がいるという現実はかわらないでしょう。

 欲求のピラミッドのボトム部分にある、安全感を担保するために、上層部にあるであろう「霊性」が必要というのはちょっとパラドキシカルです。
 衣食足りて礼節を知る、しかし、衣食足りるには礼節が必要なり、みたいな・・・そういうとこもありますが。

 霊性は安全必要→安全は霊性必要
 本当にそうだとすると、大昔から人類は動物状態のままであったと思います。
 成長の土台となるある程度の平和さを保つために、 きっと大昔から、現在に至るまで大いなる存在が平和を維持してくれていた部分もあると思います。僕らより進化した存在が土台部分を支えてくれていたと考えれば説明つきます。

 でも、「食」と同じように「安全」も自給できるような責任性が、今後は必要なのかなと思いました。

 
2017. 01. 07  
  (続き)

  さてこれなんですが

  201510021855401-re.png

  米国の心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって成長する生き物である」という仮定のもとにつくりあげた、モデルの図として大変よく知られています。   

 見ただけでだいたい意味がわかるので、詳細な解説などははぶかせていただきます。というか、僕もマズローの原典を読んだわけではないのでパーフェクトに理解してません。 

 まー下から上に向かってだんだん欲求が進化していく感じ?(雑すぎる解説ね)

 これ見ると、安全欲求が満たされていないと、社会的欲求は出てこないのか?とも思いますが、マズローによると、というかウィキペディアによると、ある程度の充足があれば次の段階の欲求へと進んでいくらしいです。

 僕はこの階層モデルが正しいのか、ちょっと疑問点も多々あるのですが、人が求めるものを図示したものとしてとてもわかりやすいと思います。

 昨年に読んだヨガナンダの成功哲学の本に、こんなことが書かれていました。






 「成功を求めるなら、人は単に欲しいものではなく、真に必要とするものに集中しなければなりません

 (中略)

 あたなたのなければ困るという真に必要とするものは何か。

 身体、心、魂のための食物、家、繁栄、健康、集中力、記憶力、思いやりの心、友人、智恵、至福などは、人にとってなくてはならぬものです・・

 他者を霊的に幸せにするために、質素な生活、高邁な理想、内側の本当の喜びを育むこともまた真に必要なものです。 

 
・」

 このヨガナンダの言葉は、欲求のピラミッドのかなり広範囲、ボトム部分からトップ部分にまで及んでいます。

 人にとって欲は異なります。

 たとえば僕は車やバイクににほとんど興味がないので、金あったらフェラーリにのりてーなちくしょーとかは思わないんですが、お金があれば小型飛行機の免許とかはとってみたいと思うかもしれないです。

 山に登るのが好きな人もいれば、海の深みに潜ってみたい人もいます。建築設計に情熱を傾けられる人もいれば、どうすればオリジナルラーメンの味を高められるかで徹夜できる人もいるでしょう。こんな風に、違いを見れば人間ってバラバラなんですが、根源的欲求や必要性という点から見るとまったく違いはないとこの頃気づきました。

 すべての人が求めるもの それは自分や家族友人の

 ■心身の健康 

 ■ある程度の豊かさ

 ■愛し愛されること 

 ■自分の能力により世界に貢献できること

 この辺に凝縮されると言ってもよいのではないでしょうか。
 心あるラーメン屋さんは、お客さんにラーメンを食べて元気になってほしいでしょうし、心ある設計士さんは自分が設計した家に住む人がハッピーであってほしいはずです。

 自分は「病弱で、貧乏で、一人ぼっちで、役立たずなのが好きなんです」と心からいう人は皆無だと思います。 

 もしあるとすれば、うーん何か特殊な主義信条に従っているのか、超絶的M気質であるか?

 望まずそのような状況に陥って、「あー私はこの状況を受け入れ愛します!」と想うことはあると思います。でも誰も最初からそれを目指す人はいない、ですね。すくなくとも意識的には。

 無意識の信念、カルマ、成長のプログラムなどの部分で考えればまた違うのでしょうが。

 健康、愛、豊かさ、貢献、などこれらは欲求のピラミッドでは、ボトムの上~ミドル部分に対応すると思います。

 もしかしたらチャクラなどとも対応可能かもしれませんね。
 
 えーとそれで僕個人もボトム~ミドル部分をもう少し改善したいと思っております。

 さて、先日師匠が夜の集いで、「人間にとって一番大事なのは食うことっ!」と力説していたのを聴いたのですが、「食べる」はピラミッドの最ボトム部分。

 睡眠、性、などと並ぶ人間の3大生理的欲求のひとつです。他にも呼吸、排せつなど
 ここがないとそもそも生きていけないので、土台として一番大事といういい方は確かにできるかと思います。

 師匠の話しを昔から聞いていて、「食べ物は自分たちでつくるもの、この社会の立て直し方はそこからやるべきだと思う」という考えを知ってるのでそんなに違和感はありませんでした。

 それが結局、師匠のコミュニティファームづくりビジョンなどとも関係しているのだと思います。

 そのことでちょっと思うのは、(ここからこの記事の本題ですが)・・・

 ここでいったん終わりっ!w



2017. 01. 06  


  今年最初はまじめな文体で行こうと思います^^

本日は、自分にとってスピリチュアリティとは何かということを改めて考えていました。

  それで心の糧となった本を何冊か積み上げて、その共通点とか色合いというのを観察しました。

  悟りと言えば、インド‐ヒマラヤ系の書籍というのが多いかと思います。

  サイババ、ニーム・カロリ・ババ、ラマナ・マハリシ、ラーマクリシュナ、ヨガナンダ、ババジ、ヒマラヤ聖者、などなど

  そのあたりは自分も何冊かかじっていますが、この分野以外では

  臨死体験系 と ネイティブアメリカン系の数冊が近くの本棚に置いておきたいリストの中に入ってます。

  臨死系 『プルーフオブヘブン』 エベン・アレグザンダー『喜びから人生を生きる!』アニータ・ムアジャー二



  ネイティブ系 『グランドファーザー』 トム・ブラウン・ジュニア『ローリングサンダー』ダグ・ボイド 『太陽とともに生きる』ラモン&アリシア などです。



 さて、スピリチュアリティというのは何かということで、「オーラが見える」「霊感がある」「夢をコントロールできる」「欲しいものを引き寄せられる」「スプーンをぐにゃんぐにゃんにできる」ということを、スピリチュアリティではない!という気は別にないのですが、個
人的に考えるそのエッセンスとは次のようなものかと思います。    

 ■私の本質は意識体である(肉体ではない)という理解  

 ■すべての現象は根源の実在より、仮にあらわれているという理解

 ■「私(自我)」と「世界」を含むこの物理的世界は 宇宙的な錯覚、マーヤ(幻影)、バーチャルリアリティであるという理解

  ■私の本質はその、根源とひとつであるという理解 我即宇宙 or 宇宙を越えたもの

 ■恐れの超越、結果として恐れより行動しないこと 恐怖から愛へのシフト

 ■その<根源>を直接体験する以前には それを信じること 信仰

 ■智慧 愛 よろこび パワー 感謝 平和 笑い(超越的ユーモア)

 ■自他への優しさと理解、助け合い

 ■生命を敬う ガイア(自然界)との調和、共生

 ■「我神なり」の理解の付随物としての 超感覚的知覚 物質化 治癒 肉体の超次元化(イエスのアセンション)などの奇蹟 
 
 ■瞑想 祈り 静かな生活 マスターに会うなど、そこに至る方法論 

 大雑把にいって、このようなことが僕が重要だと思うスピリチュアリティのエッセンスです。

 臨死体験というのは、厳密にいうと、その体験にむらがあり全員が<我それなり>になるわけではないです。
 タイムトラベルしちゃったりとか、手術台に横たわる自分を天井くらいから見下ろしてたり、三途の川で死んだ親族にあうだけのこともあるでしょう。

 そうなんですけど、僕が昔から臨死体験ものを継続的に読んでいるのは、少なくとも「私は肉体ではない」「意識体、魂である」「そして死はただのブラックアウトではない」という体験があるからです。それが管つながれた自分を天井から見てるだけであっても、、、

 多くの人が語るそのストーリーが僕の中にある、死への恐怖や虚無感を治療的に癒す効用があるようで、20才くらいから、興味を持って読んでいます。少なくとも、付き合いだけで言えばヒマラヤ‐インド系聖者ものよりずいぶん長いです。

 まあ、「神」が気にならなくても「死」が気にならない人はいないので、信仰うすく知的な現代人にとっては入りやすいスピリチュアリティの入り口なのでしょう。

 こんな風にその個人とか時代感のニーズによって、どういう系に惹かれるかというのはかわってくるんですね。 

 袈裟みたいなのを着てアシュラムに鎮座するグルの話しはいかにもうさんくさく思えても、昨日まで普通の仕事をしていたお医者さんとか主婦とかが突然命の危機に瀕し、おどろくべき体験をした!という方がやはり現代では多くの人に訴えかけると思います。

 臨死系が死を恐れる心と共鳴し、癒すとすれば、それと同じようにネイティブアメリカン系というのは、自然を愛する心であるとか、都市型資本主義文明に適応出来ないとか、そういう部分と共鳴しつつ、とても深い命と大地の物語を垣間見せてくれます。 

 だから特に、スピリチュアリティに興味があっても特にネイティブアメリカンライフには興味がないというタイプはたくさんいると思います。そしてスピリチュアリティのエッセンスは<我神なり>であるので、頭に羽根を付けて火の回りで踊ったりしても、しなくても、袈裟みたいな服を着ても着なくてもどうでもいいのです。

 ただ、万物にスピリットを見ていたネイティブ系の思想・体験は、<神なし・分離した肉体のみ>の恐れによって狂乱している都市型資本主義文明のアンチテーゼとしての立ち位置、役割があるということではないでしょうか。そして僕らが生命ある生活へと回帰する道筋も暗示しているように思います。

 僕にはそのようなもの、死を越えたもの、自然に宿る神秘への欲求が内在しているようです。
 そのニーズが引き付けられるスピリチュアリティの色合いを決めています。

 ・・・・という風に自分が惹かれるスピリチュアリティに関して考えていた時に、昨年末のI師匠夜の集いで、I師匠が『人間にとって一番重要なことは、食うことだっっ!」と力説していたことなどを思い出しました。

 そして、よくいろいろなところでみかける心理学者マズローの欲求の階層構造が浮かんだのですが・・・・


 201510021855401-re.png



 ちょっと長くなりそうなので二回にわけたいと思います。

To be continued・・・・・




2017. 01. 02  
プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


      ↓ご意見・お問い合わせなど なにかありましたら こちらのメルアドにご連絡お願いします。↓

      haitakarainbow@ のあとに gmail.com をつけてお送りください。

      よろしくお願いいたしま~す☆

     時々メールチェックをよく忘れて、ご迷惑おかけしてしまいます。2,3日中に返信がない場合は、メールしましたよ~~とコメント欄に一言書き込みいただけると助かります(*'ω'*)ゴメンサイ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索