2021. 06. 28  


  前回の記事では、もしも火星の強制労働コロニーで働かされる人類として生まれていたら、どんなリアリティを持つだろうかということを想像してみた。このイマジネーションは、コーリーグッドの証言をもとにしているけど、僕はコーリーグッドの話しが真実かどうかは保証できない。

 ただ、彼のストーリーは面白いことは確かなので、その火星の労働に関する証言の一部を紹介したい。

 以下はマイケル・E・サラ氏の著作「Insiders Reveal Secret Space Programs & Extraterrestrial Alliances」 
 日本語翻訳版より (邦タイトルは超怪しいんだが いたってまじめに書かれてる書籍です)

 


 この施設の住民は何代にもわたってここに住んでおり、地球は大洪水のためにもはや住むことが不可能になっていると数十年間信じ続けている、とも言いました。

 私たちがそれが事実ではないと言ったり、そもそも自分たちは地球の表面からやってきたと明かしたりすれば社会に混乱が起きる。そういう事態は起こさないでほしいと彼は言いました。

 中に入ると基地のトップは私たちに次のような説明をしました。人々は地球が今も繫栄しているとは知らないし、そのこととSSP
同盟が宣伝している奴隷論の間には関係がなく、これは複雑な「社会的実験」なのだ、と言いました。

 基地のトップが強調したのは、人類に貢献する社会的実験にマイナスの影響を与えないよう注意してもらいたい、ということでした。



 ここで興味深いのは、「社会的実験」という言葉だ。

 おそらくそれは、人為的に偽りの情報のもとに人々を統制して社会を構築すれば いったいどのようになるのか という意味合いでの実験なのだろうと思われる。

 面白いのは、グッドがこの証言をした2015年6月 と同月に、イギリス惑星間協会(実在する組織)が「火星の独裁制を打破するにはどうすればよいのか?」というテーマで2日間もミーティングを持っていることだ。

 これは一種の思考実験のミーティングだったようだ。
 このことは英国BBCで報道され、以下BBCの過去記事にまだ残っている。

 How to overthrow a Martian dictatorship

 2015年の6月22日に、このことがBBCで放送され、同じ22日にグッドの火星強制労働に関する証言が出たらしい。

 これはちょっと偶然とは思えない符合だ。何を意味してるんだろうか?
 
 コーリーグッドによると、こういうような「社会的実験」が行われているという火星のコロニー。

 そこは偽りに基づいた世界と言えるけど、では、このグローバル地球文明は火星に比べてそれほど自由で解放された世界かと言えば、そうだとも言えない。

 グローバル地球文明のシステムを支配している、いくつかの利権構造(エネルギーや金融界)に不都合な現実は封印されて、ある意味で20世紀とそうは変わらないリアリティの中に押しとどめられているという部分は 間違いなくあると思う。

 そして今、COVID-MATRIXと言えるような世界観の中、大規模な社会的・生物学的実験が行われているようにも見える。

 僕はパンデミック以降 感染症対策(ニューノーマル)という名のもとに単一化していく世界観の息苦しさから、様々なパラレルな現実に興味が向かっていった。

 波動世界、周波数の世界、アートの世界、

 無限の星空をイメージすると、そこには限りない世界があるのは確かなように思える。

 また、地球の中にさえ、いくつかの現実の層があることが予想される。

 ひとつは貨幣や法などの制約のもとに生きている、一般的な地球人がいる。

 またハイクラスエリートの集団がいる。

 彼らは、地上の富や封印されたテクノロジーを独占しており、通常の法的拘束、経済的拘束は受けない。
 封印されたテクノロジーを独占しているため 彼らが遊び半分で、UFOで世界中旅をしてても 別に不思議ではない。
 彼等にとって、国境線はない。
 彼らはエリート意識を持つが、必ずしも「悪」と言えるかどうかわからない。彼らの論理で、地球環境保護のため、人口削減を計画している可能性もある。そして、彼らの世界に生まれてくる子供たちには何の罪もない。 

 また ヒマラヤなどに古来からあると伝えられる、スピリチュアルマスターのコミュニティという集団もある。
 
 彼らは、アナログな生命体としての人間の可能性を極限まで開発した集団で、常識を超えた能力や寿命を持つ。そのため、彼等にはテクノロジーは必要ない。からだを覆う布切れ一枚あれば、食事をせずとも、ずっと生き続けられるような人々だ。人類の霊性を高めるために働いていると言われる。 彼等もまた、ハイクラスエリートとは違う意味で、貨幣や、法、納税、などの社会構造から離脱している。

 そして、今でも地上には 完全に狩猟と採集でその日の糧を得て、ほとんど文明の恩恵を受けずとも生きて行ける、ネイティブ自然人とでも呼べる人々が存在する。 彼等もまた、国家組織により強制的に文明化されなければ、貨幣や法 などの社会構造から離脱している。

 3つほどあげてみたが、彼らはみなグローバル地球文明に生きる大半の人々とは異なった現実に住んでいる。

 「権利」や、「義務」という言葉は 彼等にはないだろう。
 それらは、近代的国家システムの体をなす国に生きる人々にとってのみ使用されるような言語だ。
 
 それらが明文化される以前に生命の法則のようなものがある。

 マスター集団 ネイティブ自然人は、その生命の法則のようなものに基づいて生き・行動するためそのような概念を必要とはしない。ハイクラスエリートたちは、一般的な「権利」や「義務」というフェンスを無視して、その斜め上を飛び回り 彼ら独自の論理によって行動する。


 このように考えると 僕らの生きるグローバル地球文明というものは 存在しうる現実の ごく限られた部分でしかないという可能性が出てくる。ちょうど、火星の独裁政権下に生きる 労働者が、自分たちの生きる現実が全てだと教育されることとそれは似ている。

 火星のコロニーの住民、ハイクラスエリートの集団、スピリチュアルマスター集団、ネイティブ自然人、一般的な地球人。

 これらは同じ人類種なんだけど、互いに断絶した現実のなかにいる。

 もっともっと昔に枝分かれした種族たちもどこかにいるかもしれない。

 そして、その断絶の度合いが大きいと 一方から見て他方は まるでエイリアンのごときに見えるのではないだろうか。

 ちょうど、「進化した科学は魔術と見分けがつかない」というA・C・クラークの言葉とそれは似ているかもしれない。

 枝分かれし 進化あるいは退化した人類は 僕らにとって完全に 異邦人(エイリアン) であるだろう。

 彼らはまったく別の倫理を持っているし、歴史を持っているだろう。

 このように考えると、『人類』の持つ現実は、無数にある。

 COVIDと戦うというようなストーリーを強要されている このリアリティは一つの樹の、ある枝でだけ起こっている。

 僕らが知っている『現実』が比較的こぶりの枝だとすると、その全体はおそろしく巨大な樹のようなものではないだろうか。

 人類全体の意識の総体、それをアダムカドモンと呼んだりするが、アダムカドモンはこぶりの枝ではなくて 樹全体だ。
 この樹は想像を絶するほど大きい。

 人間のあり方、潜在能力、その神性、経験の幅は 通常想像されるよりも、ずっとずっと大きい。

 アダムカドモンの目は 全てを見つめてきた瞳だ。
 
 ハイクラスエリートの現実、ネイティブ自然人の現実、マスターたちの現実、枝分かれして歴史から消えた過去の文明の人々

 そしてもしかすると存在するかもしれない、火星から地球を見つめる瞳

 このようなすべての人類の現実がひとつになり、それぞれの間の壁が取り払われて、知識を共有することが出来たら、いったいその時 僕らはどんな現実を生むことが出来るだろうか。

 そして、この流れがひとつになる時は意外と近いのかもしれない。

 去年に読んだ本、『ベロボディアの輪」に それを示唆する一文があるので、最後に紹介したい。

 2020年9月の記事 蝶になる時 90年代ロシア精神科医の著作『ベロボディアの輪』 より引用


 以下は主人公の精神科医オルガが ロシアのアカデミーで開発されたある特殊な装置の中に入って、別世界の住人とコンタクトしたシーンからの抜粋です。謎の男性が彼女に、いくつもの世界が同時存在していることを語ります。


 





 「その通り。君がここにいることは君自身のためだけではなく、他の人たちにとっても重要なのだ。君が自分自身の住んでいる世界の多くの異なった側面についてほとんど知らないというのもあたっている。

 君と時代を共にする人間たちは人類の一部が経験せざるをえなかったひとつの特定の進化が歩んだ道の結果なのだ。

 君と同類の人間たちは大半が知的思考に結びついた特殊な人間性の性質を育んだ。

 この進化の軌跡は、客観的現実とその法則が非常にきっちり固まっているという厳密な神話を生み出すことを要求した。

 こうした認識の拘束は君たちが与えられた仕事をやり終えることを可能にしたが、他の点では君たちを限界づけたのだ


 「あなたが、私と同類の人々を人間という時、それはあなたが人間ではないことを意味するんですか?

 「いや。

 私は人間だが、異なった進化の枝に属しているのだ。

 君と同類の人間たちだけが人類の唯一の代表ではない。人類の内部には多様な流れが存在している。

 その一つ一つが特定の任務を持っているのだ。

 それぞれの流れは人間の潜在的可能性の異なった次元の探求を目指している。

 みんな知覚が別々であるために、それぞれの流れは他の流れについて何も知らないんだ。

 もちろん、相互的なつながりはあった。時々、文明全体が進化の方向性を変え、その結果、他の文明を発見し、結合した。

 そのことが、君と同類の人間の歴史に、振り返ってもわからない不可解なギャップを残したのだ。


  「君がここにいるのは、君の文明が信奉する現実と他の文明との間に相互作用がうまれている兆候だよ。

 われわれの時間は互いに接近しつつあり、すべての異なった流れの最終的な融合がまもなく起ころうとしている。


 人類全体がさなぎの段階を終えようとしているのだ。



 毛虫が内部に形成されている蝶の身体に気づかず、将来の羽根についての知識をもっていないのと同じように、そこのことはまだ気づかれていない。羽根自体でさえ、飛行を始めるまではその意味を理解していない。君が信じるリアリティの流れに属する人々は確固とした新しい有機体を着実に形作ってきた。今、それが全容をあらわし、他の人類の流れと融合する成熟の時期を迎えつつあるのだ。

 君と同類の人々は大きな個人的変容を経るだろう。

 それは世界の終末のように思えるかもしれない。多くの点でそう見えるに違いない。なぜなら、古い世界の大半が実際に新しい存在によって置き換えられるからだ。

 これまでの古い現実像や世界観が通用しなくなるため、それぞれの人間の心理学的な構造も変容するだろう。

 君たちはこれまで知らなかった存在の側面を体験し、理解することを学ぶことになる。

 あるものたちにとって、それはたやすく、ほぼ瞬間的に起こるだろう。他のものはストレスと苦痛を通して努力する必要があるだろう。古い世界観の枠組みにあまりにもどっぷりつかっているために、何も全然気づかぬものもいるに違いない
。」



 「われわれめいめいは個的な人格として独自な方向へと成長する側面を持っている。

 けれどもわれわれの慈愛の自己について想いだしてもらいたい。

 人生のひとつひとつの意味を意味の全体性へと統合する自己だよ。


 同じことが人類全体にも等しくあてはまる。

 人類をひとつの存在とみなせば、一つでありながらもそれは多くの顔を持っている。

 しかし、あらゆる方向性を認識し、統合する純粋な慈愛の自己ももっている。

 われわれが座っているこの場所がそこなのだ。




 興奮の波が私の全身を貫いた。「この場所がベロボディアと呼ばれるの?」


 「それはさまざまな次元にまたがって存在し、いろいろな名称で呼ばれている






2021. 06. 27  
 




  昨日、プライムビデオでジョディフォスターの映画「コンタクト」を見てると、ええっ((((;゚Д゚))))))) とのけぞりそうになるシーンがあった。

  それはフォスター演じる アロウェイ博士が ベガからの知的生命体からと思われるシグナルを受信するシーン。

  最初は、素数(2.3.5.7.11.13・・・)が送られてくるのを発見するんだが、次に映像も含まれていることを見つける。

  その映像というのは 最初 卍 を検出し さらに解析すると なんとアドルフヒトラーが ベルリンオリンピックに際して演説している画像となる。

  


  なぜ、ベガからヒトラーの映像が送られてくるのかと 一同ざわつくが、おそらく当時のテレビ放送の電波が26年たち他の星系まで到達し 何者かがそれを受信した証として ただ単に 送り返してるだけではないかという結論に達する。 

 異星人にはヒトラーは何者かわからないから、それ以外の意味は含まれていない。

 ということなのだが、、、

 いや、これ、わざと? (゚д゚)

 この映画の製作者あるいは、原作者のカールセーガン 言外の意味を持たせてない??と勘繰らずにはいられなかった。

 というのは、だいぶ前から ナチスが反重力飛行タイプの「乗り物」の製造をしていたという話しがある。、戦後その技術は米国にわたりいわば地球性のUFOが製造されたという。

 第二次大戦中、フーファイター(国籍不明の飛行物体)がたびたび目撃されていたらしいが、それはあるいはナチスが開発していたものだったのかもしれない。 この開発には、マリア・オルシックという霊的な能力のある女性と、彼女の神秘主義的な秘密結社ブリル協会が関係していたと噂される。オルシックはおうし座のアルデバランからの情報をチャネリングしていた。(それをもとに「乗り物」がつくられた・・・らしい 真偽不明)

 オルシクの秘密結社ブリル協会のブリルとは 宇宙に遍在する目に見えないエネルギーのようだ。

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 ↑マリアオルシックとされる肖像↑

 なので、UFOとナチス、あるいは宇宙人とナチス というこの二者間の意味的連関を知ってる人にとっては、冒頭のシーンをみて何かを感じざるを得ない。

 しかもヒトラーの映像にかぶさるように、ベガへの次元転移装置の設計図がかさねられている。

ベガからのメッセージを解読して次元転移装置をつくるというアロウェイ博士の役どころは、マリアオルシックの役どころと重なる。

 どちらも、女性がメッセージを受信し、そしてそれをもとに超地球的なテクノロジーが製造された。

 うーん

 映画製作者は もしくはカールセーガンは ナチスとUFOというテーマを知ってて、(それを真に受けていたかは別として)入れたのかなあ。

 僕はこのテーマについて うすぼんやりと耳にしたことはあったけど、最近詳しい書籍を読み これはフェイクとばかりは言えないな と感じた。

 いわゆる UFOと呼ばれる謎の飛行物体は 素朴に宇宙人の乗り物と考える人たちもいるが、地球製の未知のテクノロジーによるものもあると考えるのはごく自然なことだと思う。

 で、問題は それはどこ製なのか? アメリカか、ロシアか、中国なのか・・・ということになるけど

 いやいや そもそもの起源は もう80年近く前の 卍の帝国 にあったのですよ、というのがこの ストーリーになる。

 正義の連合国により、悪の枢軸(日独伊)が破れ、民主主義が勝利したというのが第二次大戦のストーリーなのだが、話しはどうもそう単純ではない。単純な善悪二元論のあるところには 必ず裏がある。

 宇宙船、V2ロケットなどを含むナチスのテクノロジーや、研究者は 戦後米国にわたり、そのテクノロジーの発展に磨きがかけられた。つまり 米国の技術はナチスドイツの遺産でもあるのだ。

 そして、ナチスドイツの一部は 戦後も ある種の制空権を握り、米国の大都市に威嚇するように「乗り物」を飛ばしていたという。

 にわかに信じがたい話しではあるが、UFOの出現と第二次大戦というのは、何かリンクしているように思われる。

 戦後あちこちで UFOが目撃されるようになったのは、大戦前後に開発されたナチスドイツの UFO あるいは 戦後そのテクノロジーをリバースエンジニアリングして 作られた複数の国のUFOが 地球上を飛び交い始めたからだと考えると 非常につじつまは合う。   

 このように

 20世紀に入り、一般に公開されている技術と、真の意味で最先端の技術の間に横たわる溝が出来て それは徐々に深く、大きくなっていった。 

 誰でも 一度は不審に思うのは、アポロの月着陸から、およそ50年がたち、火星への有人飛行はおろか、月面の基地さえ建造されていないというのは いくらなんでも進歩が遅すぎるのではないかということだ。 

 50年経っても宇宙ステーションで地球の周りをぐるぐる回ってるだけというのは あまりに不自然だ。

 もしかすると 予算の問題であるとか いろいろあるのかもしれないが、 

 しかし そうではなく、 一般に公開できないテクノロジーを宇宙計画において使用しているため、表向きと 裏向きとの二重路線にならざるを得ないとすれば 納得できる。 

 裏向きの宇宙計画に膨大な予算を投下しているならば、表向きの宇宙計画で月面に基地をつくる余裕もその必然性もなく、勢い表向きの宇宙開発のレベルは限りなくショボくなる。それが、アポロから50年たってこの程度?という違和感の正体なのだろうか。

 一説によると、アポロが着陸した時 すでにそこには「先客」がいたと言われている。


 このような、裏側で進められている 宇宙計画をディスクロージャーした人物として有名な コーリーグッドがいる。

 僕はコーリーグッドの話しというのは、あまりにもスペースオペラ然としていて ちょっとまともには受け入れられないなと思っていた。

 しかし、彼の主張の中で 真実かどうかはわからないが とても興味深い話しがある。

 それは、火星で強制労働が行われている というストーリーだ。

 火星には すでに地球人による植民地があるのだが、そこで生きる人々は、生まれた時から火星に住んでいる。

 そして、地球は大災害により滅亡して、人が住めない状態になっていると教えられているという。

 つまり、彼等にとっては 地球文明というものは過去のものだ。

 もう、ここには人類はもう誰もいないのだ。

 彼らは、僕らと同じ人類の種なのだが、この現在のグローバル地球文明とは まったく断絶したリアリティの中に閉じ込められている。

 そんなことが果たして可能だろうか?

 地球と火星ほど物理的距離があれば、そして完全な情報統制があれば それは不可能ではないだろう。

 僕がこのストーリーにとても魅力を感じるのは、同じ人類という種でありながら、まったく異なった世界に生きる人々が、もしかすると無数にいるのではないかと 想像させてくれるからである。

 それぞれの人類集団は、意図的に もしくは進化の法則のようなものによりリアリティの断絶がある。


 エイリアンとは、枝分かれし 断絶した人類自体(その様々なグループ)の事かもしれない。


 基本的に、別の星系、多次元にルーツを持つ知的存在はいると思う。

 しかし、 実は宇宙人とかいなくて 全部人間でしたという種明かしでもそれはそれですごく面白い。


 自分がもし、火星の労働者として生まれたら どうだろうか。

 我々は人類の生き残りであり、崇高な使命を持っていると言い聞かせられ 育てられる。 

 おそらくその中でも小さな優越感や、快楽を得られるように 設計されているだろう。

 大半の人はその世界の中で、特に疑問を持つこともなく、世界とはこういうものだと想いながら生きていく。

 しかし、その中の一人が 全て噓だったということに気が付く。

 地球は滅亡しておらず、80億もの人類が生きていて、火星にはないような海や多様な生物種がいる。そして、自分たちが教えられた歴史とはまったく違った認識を持ち、それぞれ日々の欲望を追求して生きている・・・・と知れば

 その衝撃は計り知れない。

 もしも、火星に生まれていたら。

 まったくでたらめな教育と世界観を教えられて、育てられたら。

 いったいどんな人生を生きることになっただろうか。

 青く小さく光る惑星を見ながら、どんな想像をめぐらせるだろうか。 




 



2021. 06. 25  

 いつも読ませていただいている ブログ In Deep さんより 重要な情報かもしれないのでシェアしたいと思います。

 遺伝子コロナワクチンのさまざまな害についての「完全に科学的な側面から見たメカニズム」を、アメリカの三人の医学者と科学者が語ったその内容。貴重ですよ


  ワクチン接種キャンペーンの結果、増加する可能性のある病気は、無数にあるが、一般的な予測として、セネフ博士は次のように考えている。ガン、パーキンソン病のような病気、ハンチントン病、あらゆる種類の自己免疫疾患や神経変性疾患が増加するとセネフ博士は考える。


 今のところ、早期の副反応で亡くなる方は循環器系が多いように見えますが、このワクチンは打ってすぐの急性の反応よりも長期にわたって人体にどんな影響を与えるかが気になるところです。

 引用する提案も 現時点での推測に基づくもので、今後思ったより健康被害は出ないとか、あるいは他の対処方法も出てくるかもしれません。

 しかし 絶対に避けなければならないことは、、、死亡者が増えたとか変異株にワクチンがきかなくなった とかいう理由で第二、第三のワクチンキャンペーンが始まった時、それを受け入れないことなのではないかと思います。 

 現在ですら ワクチン以外に感染や重症化を抑える手段はたくさんあると思うんですが、ゲームチェンジャーとしてワクチンしかないという単一路線は非常に危険なことのように思えてなりません。

 ミコビッツ博士という方が、ワクチンを接種した もしくは 健康被害が起こった場合に関して 以下のような提案をされています。

 特殊な薬剤を使うので専門家に相談が必要なものと、自分でできて自然治癒力を活性化するものとがあります。

 以下、In Deepさんの記事より ミコビッツ博士の提案。




解決策はあるのか


これらの問題は非常に深刻だが、解決策はある。ミコビッツ博士は以下の様に指摘している。

ワクチン接種後に発症する可能性のある病気に対する処方箋には、以下のようなものがあるとミコビッツ博士は言う。


・ヒドロキシクロロキンとイベルメクチンによる治療

・免疫系を再教育するための低用量の抗レトロウイルス療法

・インターフェロンの研究者であるジョー・カミンズ博士が開発した低用量インターフェロンによる免疫系の刺激

・ペプチドT(HIVエンベロープタンパク質gp120に由来するHIV侵入阻害剤。CCR5受容体を利用して細胞に感染するウイルスの結合と感染を阻害する)

・ジメチルグリシンまたはベタイン(トリメチルグリシン)は、メチル化を促進することで潜伏ウイルスを抑制する

・シリマリンやミルクアザミで肝臓をきれいにする




私の見解としては、生来の免疫力を高めることが一番の近道だと考える。

そのためには、新陳代謝を活発にし、食生活を最適化する必要がある

また、ビタミンDのレベルを60ng/mLから80ng/mLの間で最適化する必要があるだろう。日光には、ビタミンDの生成以外にもさまざまな利点がある。

時間制限のある食事をして、1日のすべての食事を6時間から8時間以内に済ませるのがよい。


すべての植物油と加工食品を避ける。グリホサートの影響を最小限にするために、有機栽培の食品を中心とする。

ミトコンドリアとリソソームの健康を保つために、硫黄を多く含む食品を摂る。このミトコンドリアとリソソームは、スパイクタンパク質を含む細胞内のゴミを取り除くのに重要だ。

スパイクタンパク質の毒性に対抗するために、セネフ博士はオートファジー(自食作用)の促進を提案している。オートファジーを促進することで、スパイクタンパク質の消化と除去が可能となる。

時間制限のある食事はオートファジーを活性化させ、熱ショックタンパク質を活性化させるサウナ療法は誤って折り畳まれたタンパク質の再結合を助ける。また、ダメージを受けたタンパク質にタグを付け、除去することができる。

なお、ミコビッツ博士は、(どれであろうとコロナワクチンを接種した人は)他の予防接種を受けないことを推奨している。

ミコビッツ博士:

それ(予防接種の害)は組み合わせです。それはすべての細胞に座っている時限爆弾です。ですので、(コロナワクチンを接種した方は)もう二度といかなるワクチンをも打たないでほしいのです。

 また、免疫力を低下させる薬には十分注意してください。過免疫活性化しないでください。遺伝子組み換え作物を食べてはいけません。注射もしない。肌に毒素をつけてはいけない。髪の毛にも毒素を使わってはいけません。

エッセンシャルオイルを使ったり…あるいは、オゾン入りのバームやクリームは脂質の粒子を分解します。カンナビスのバームやクリームは、肌を正常化します。

覚えておいてほしいのは、免疫機能障害は、免疫活性化イベントを加えるたびに加速するということです。なので、世界中の人々が二度と注射をしなければ、最も影響を受けやすい人々でさえ元気でいられるはずです。

注射は誰にとっても最大の毒素であり、免疫の調整機能を失わせるものです。





 インターフェロンとか 抗レトロウィルスなんとかというのは 僕はド素人なので まったくわかりません。

 ただ、博士があげている 自然治癒力 を活性化させる方法については 自分も日ごろから軽く意識してることがたくさんありました。

 僕の気に入ってる天然塩にマグマソルトっていうのがありますが、成分表を見ると 硫黄がすごい多いんですよね。

 

 他にマグネシウムとか 鉄とか リンとかいった天然のミネラルが豊富に含まれている塩。

 まあ その辺はわかるんだけど、硫黄ってからだにいいんだっけ?? と時々思ってました。

 ↑のミコビッツ博士の言葉にミトコンドリアとリソソームの健康を保つために 硫黄が有効って書いてあって

 え~そうなんか・・・と

 細胞内のゴミを取り除くために、ミトコンドリアとリソソームっていうのが元気である必要があるようですね。

 あと、オートファージっていうのは、確か 小食とかファスティングで起こるような作用かと記憶しています。

 で、最近たくさん本で読んでた サウナ療法も 出てきて おおっと思いました。


 多分 ミコビッツ博士の提案は後遺症に関しても有効なんじゃないだろか。


2021. 06. 23  




 これ、面白かった^^;


 感染状況が落ち着くまでの2週間だけ→

 命を救うためにもう少しの努力を→

 ワクチンが到着するまで→

 全員ワクチンを打つまで→

 ブースターショットが用意できるまで→

 グリーンパスポートが有効になるまで→❔





 どっかで見た映像だと思ったら、ビル・マーレイ主演の「恋はデジャブ」という映画のシーンを加工したもので、同じ時間を繰り返す男の話し。

 同じ日が繰り返されてると、ついにブチ切れて私は神なんだ!! に至るw 


 ビルマーレイ結構好きなんだな~~。雰囲気。

すべてをアイロニックにコメディ化する存在力みたいなものがすごい。

 ビルマーレイにうつろな目でラジオ叩き潰してもらうと なんか にっこりできるわ。

 BGMが「ネバーエンディングストーリー」なのも、なんとも。

 

 そう言えば最近のビルマーレイさんはいかに??と思ってみてみると、70才になってもゾンビを撃ったりしてお元気そうだった。

 ワクチンを打たずに ゾンビを撃とう!メッセージだなきっと。 

 




2021. 06. 21  

   ◆ 発熱騒動


 一週間ほどあまり体調がよくなく、前回からだいぶ時間が空いてしまった。

 この3週間くらいで 介護に入ってる現場で立て続けて発熱した人が2人いた。

 こういう状況なので、その方は自宅待機になり空いてしまった枠に 僕が入ったりして一時的にバタバタしていた。

 介助者が発熱すると、介助を受けてる利用者のKさんという方も濃厚接触者になるので、いつも通っているデイケアもお休みして自宅待機。

 もしヘルパーさんが陽性だと、KさんもPCRを受ける流れになり、Kさんも陽性だと 自宅で防護服をつけて介護することになる(。´・(ェ)・)

 ついに自分もアウトブレイクの世界に突入か・・・と思ったが

 幸い、ヘルパーさんの検査結果が陰性だったため、その流れにはならず、Kさんも翌日からデイケアに復帰できた。

 何事もなかったからよかったけど、空いた枠を埋めるため調整したり、自分が入ったりしていたケアマネの方はぽつんと「メンタルやみますよ・・・これ」とメールに書いていた。

 僕も4,5日体が変にだるかったから不気味だったが 今は回復してきた。
 単に気候の影響やバタついたストレスだったのかもしれない。

 この状態、医療や介護で 社会の基部を支えてる人たちに異常に負荷がかかってることを肌身で経験することとなった。

 特にこういう在宅介護の仕事、まあ事業所にもよるけど それほど時給も高くないし、仮に防護服介護になってもそれほど危険手当的なものがつくわけでもないみたいだし。

 それで熱出たら、家で 一人で療養するんか・・・? (∩・∀・)∩ キャー

 僕らも一応社会に不可欠なエッセンシャルワーカー(状況に関わらず基本的に休業できない)にあたるはずなのだが、守られてない感がハンパないなと感じた。

 ワクチンはどんどん接種の範囲が広がっている。

 基本的に、これ、打っていいことなんてほとんどない。
 リスクしかないという考えは変わらない。 

 問題は そのリスクがどの程度かということになる。

 ただ地上波のテレビを見ると ワクチン推進報道ばかりなので、ネット上で言われているリスク情報 (スパイクタンパクの害、m
RNAは消えない ポリエチレングリコールの各臓器への浸透 ADE(抗体依存性感染増強) ウィルス変異の促進 免疫崩壊など)
との乖離が著しく、そのギャップについていけなくなった。

 なぜやけくそのような速さで こんなわけのわからない注射を推進しているのか。

 地上波を見てると、一瞬 あれ 全部自分が変な情報にハマってるだけなのかな.゚+.(・∀・)゚+.なーんだ

 という感覚に陥りそうになる。

 しかし 逆にもし実際 著しく 高リスクな代物だとすれば これほど接種をあおりまくるのが 本当に気持ち悪く 耐えられない。

 真実はどこにあるのか、それは時間が経たねばわからない部分がある。

 でもやはり 自分にも 大切な人にも打って欲しくない という部分は揺るがないので、そういうものを連日推進している世界がどうしても僕には 正常に見えない。

 自分が間違っていればいいと思う。

 一般的に陰謀論とかいうカテゴリーに入るもの

 9・11の真相や ロスなんとかとかロックなんとかによる世界支配だとか、エイリアン情報の隠蔽だとか

 そういう情報に今までも触れてきたし、そんな時 これが事実に違いない 自分は真実を知ってるみたいな優越感めいたものや  

 これは間違いであってほしくないと感じてきた。

 しかし 今回はちょっと違う。

 自分が 間違っていた方がいい。

 ワクチン接種が広まり なんとなーくコロナがすーっと消えていった 

 そうなるなら その方がいい。

 そうはまったく思えないが。

 そんなこんなで

 いろいろ異常な世界としか思えないけど、
 
 近所を散歩してて 初夏の花がたくさん咲いてきているのを見ると 癒される。

 花びらのやわらかで 高周波なエネルギーは 3次元世界の中で目視できるものの中では あちら側にきわめて近い気がする。

 世界がどれくらい今後変わっても 自然は人を救い続けてくれると思いたい。


◆ 永遠の樹


 『夜と霧』のなかに出てくるもっとも印象深いエピソードのひとつは 若い女性とカスタニエンの樹にまつわるものだ。

 実はこの女性がフランクルに語る 忘れられない言葉を初めて読んだのは、『夜と霧』の中ではなかった。

 そうではなく、谷川俊太郎さんの初期の詩のどれかに、この言葉が引用されていたのだった。

 その時 この言葉の出どころはまったく知らなかったけど、ものすごく心に入ってきた。

 そしてしばらく後に、『夜と霧』の本文中でそれと再会し、驚くとともに、納得した。

 僕にとっては、そこだけが浮き上がって見えるほど 力のある言葉であり エピソードだった。

 名もわからぬ女性が死の前に口にしたこの言葉は、時を越えて残る 真実の言葉だと思う。


 以下、その箇所からの引用になる。




 そしてそれは強制収容所においてばかりではない。

  人間はいたるところで運命に対決せしめられるのであり、単なる苦悩の状態から内的な業績をつくりだすかどうかという決断の前に置かれるのである。

 たとえば病める人間の、特に治癒の見込みのない人間の運命を考えて欲しい。

 私自身、かつてある比較的若い患者の手紙を読まして貰ったことがある。

 そのうちで彼はその友に宛てて、自分はもう生きられないこと、手術も彼を救えないことを知ったと書いてあった。

 しかし彼はさらに書き続けて、自分は、勇気と品位を保ちながら死に向かっていった一人の男が描かれているある映画を想い出したが、 当時自分はこの映画を見て、かくもしっかりと死に向かえることは「天の賜物」だと考えたが、今や運命は自分にもこのチャンスを与えてくれた、と書いているのであった。

 また当時トルストイの原作による「復活」という別の映画を見た人が、ここにこそ偉大な運命があり、偉大な運命が描かれているといい、ただわれわれにはそんな運命は恵まれず、かつかかる人間的偉大さに成長する機会を持っていないと考え・・・

 その上映が終わってから 近くのカフェーでサンドウイッチとコーヒーを飲みながら、一瞬間だけ意識をよぎったさっきの形而上的な想いを忘れてしまうといったことは幾らでも見られた。

 しかしその人間自身が今度は自ら大きな運命の上に立たされ、自己の内的な偉大さで向かわねばならない決断の前に置かれると

・・・すると彼はもはや以前考えたことをすっかり忘れて諦めてしまうのである・・・

 しかし彼がいつかふたたび映画館に座り、おなじような映画が上映されるのを見るようなことがあったとすれば、彼の心の目の前には同時に想いでのフィルムが廻り、感傷的な映画作品よりも遥かに偉大なことをその生涯において実現化した収容所のある人々を想い出すであろう。

 そして人間の内的な偉大さを示す幾つかのエピソードのあれこれの細かい内容を思い起こすであろう。

 私自身もたとえばこの目で見た強制収容所におけるある一人の若い女性の死を想い出すのである。

 その話は単純であり、多く語るを要しないのであるが、それにも拘わらずまるで創作されたように詩的な響きを持っているように思われるのである。

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。

 それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。


 「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。


 と言葉どおりに彼女は私に言った。


 「なぜかと言いますと、以前のブルジョワ的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」


 その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。


 「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」


 と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。
 

 病人の寝台の所に屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度ふたつの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。


 「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。


 私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているのだろうか?
 不思議に思って私は彼女に訊いた。


 「樹はあなたに何か返事をしましたか?・・・・しましたって!・・・では何て樹は言ったのですか?」

 
 彼女は答えた。


 「あの樹はこう申しましたの。

  私はここにいる・・・私は・・・ここに・・・いる。

  私はいるのだ。

  永遠のいのちだ・・・。



 
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 引用部分は V・フランクル 「夜と霧」 みすず書房 第7章 「苦悩の冠」 より


2021. 06. 11  

◆ 「人間がそれについて悟性を失う事物というものは存する


 悟性というのは、あまり日常的に使わない言葉だが、おおざっぱに言うと「知性」や「理解力」に相当するものらしい。

 外界からの印象を統合して概念を形作る能力のようだ。

 まあ哲学的なややこい言葉なので、「知性」「認識力」などとおおざっぱに解釈してもらってよいと思う。(僕もあまりよくわかっていない)

 冒頭の言葉は「夜と霧」の中で、フランクルがヘッベルという人物の言葉を引用したものだ。

 言い直すと、

 「人間が それと対した時、正常な知性を失ってしまうようなものごとは存在するのだ」

 と言っている。

 そしてこう続く、「・・・そうでなかったならば、人は失うべき悟性を有しないのだ」

 つまり 

 「もしそれと対面しても 正気を保っていられるならば そもそも 正気(知性)を有していないのだ」

 ゆでガエルのたとえで考えてみよう。

 釜の中にカエルを入れ、少しづつ温度を上げていく。

 この時 悟性のあるカエルは 自分たちがゆでられていることに気づく。

 このままでは死んでしまうことを悟り、跳ねまわったり、なんとかそこから抜け出ようともがく。
 冷静にいられても 少なくともいい気持ではいられない。

 しかし、悟性のないカエルは なにが行われているかまったくわからないために のんびりとゆでられる。

 悟性のあるカエルの行動は、ないカエルから見ると 一種の異常行動に映るだろう。
 しかし、それは実はその状況では正常な反応なのだ。

 フランクルはこう書いている。

 異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。精神医学者としてもわれわれは一人の人間が正常であればあるほど、それだけ一層彼は、彼がある異常な状況に陥った(たとえば精神病院への収容)という事実に対して異常に反応するものであるということを、いわば期待できるのである。

 強制収容所に収容されるということに対する囚人の反応も異常な心理状態を示していたが、しかしそれ自身において考えれば正常な反応であり、そしてその形は、それが与えられた状況との連関においてみられる限り、典型的な感情の激動する反応であった。


 フランクルは輸送列車でアウシュビッツに到着したあと、まず選別を受ける。

 ナチス親衛隊の将校がならぶ収容者に対して一人ひとり 右手の人差し指を小さく 左、右と動かして 左右のグループに切り分ける。(この小さく指を動かす、というのが非常に気味が悪い)

 90パーセントは労働に適さないと見なされ右側に振り分けられた。そちらのグループはすぐにガス室で命を奪われることになったのだ。

 幸いフランクルは左側のグループに入れられたが、学術書の原稿を含め 所持品をすべて没収され、からだ中の毛を剃り落され、シャワー室に送りこまれる。


 このようにわれわれがまだ持つことのできた幻想は次から次へと消え失せて行った。

 しかし、今やわれわれの大部分を襲ったのはまったく予期されないものであった。

 すなわち捨て鉢なユーモアであった!

  われわれはこの笑うべき全裸の生命のほかに、失うべき何ものももはや持っていないことを知ったのであった。
 
 シャワーの水が噴き出している間に、われわれは多少ともあれ冗談か、少なくとも冗談のつもりである冗談を言いかわし、自分に対し、また他人に対し陽気になろうと無理に努めたのであった。

 なぜならば、もう一度いうが、シャワーの漏斗から実際に水が出てきたからである。

 捨て鉢なユーモアのほかに、別なひとつの感情がわれわれを支配し始めた。すなわち好奇心だった。
 私は個人的にこの好奇心という態度を、特別な生活状態に対する反応として別な領域から知っていた。
 以前すでに私が生命の危険にさらされたときには、たとえば登山の時ずるずると岩から滑り落ちた時など、私は常にその数秒間に(あるいはおそらくもっと短い間に)急に起こった外界の出来事に対する一種の態度、好奇心を知っていた。

 すなわち生命に関わるかどうか、頭蓋骨折かあるいは他の骨折か等々の好奇心であった。アウシュビッツにおいても、このいわば世界を客観化し、人間を距離をおいて見る殆ど冷たい好奇心が支配した。それはこの瞬間において心を引きしめ、自らを救おうとする注視と期待の気分であった。



 フランクルはかなり、強靭な精神と客観性をそもそも備えていた人物のように思われる。

 僕自身がこのような状態になった場合、ギャグを言う気分になるかどうかわからない。

 でも、その一方で 震災やパンデミック直後のような状況下で あえて冗談を言おうとするような精神性は 確かに自分の中にも 周りの人にもあったことを想い出す。(原発が爆発した時にそれは消えたけど)

 大きいストレスを抱えると、それを別なものに転化して解放しようとする方向性は 誰の中にも働くのかもしれない。

 ドラえもんのタイムテレビでも使って、その収容所の光景をこの時代から見ると、シャワーを浴びながら笑っているのは異常な光景に見えるが、その場ではそれがおそらく「正常」な反応なのだ。

 フランクルはこの後、ある出来事によって微笑し、元気になることが出来た。

 それは彼より一週間早く到着していた知人が、フランクルらのバラックに忍びこんできた時の事だった。

 その知人はかれら全員に収容所の先輩としてのアドバイスをする。

 とにかく、ひげを出来たら毎日剃れ、というのだ。そうすれば若く、血色よく見えて、ガス室に送り込まれずに済む。

 そして最後にこう言った。

 「だから、もう一度言うがな、ひげを剃れ、そしていつもまっすぐ立って歩け。そうすればガスの心配をする必要はない。まだここに来て24時間しかたっていないにせよ、丁度俺の前にいる君たちのようにしているのだ。いつでもな。そうすればガスの心配はない。ただきっと君たちの中の一人・・・君だ

 と彼は私の方を指さした。

 「君は気を悪くしないだろうな、だがはっきり言おう。たかだか君が」と彼は再び頭で私をさして

 「皆の中で今度のガス選抜で顧慮されるくらいだろう。だから安心しろ。」

 私はその時、微笑していたことを誓って言える。

 そして私は、誰でも私の立場でそのような時にいたならば、それ以外の他の事はできなかったろうと確信している。

 「人間がそれについて悟性を失う事物というものは存する。・・・そうでなかったならば、人は失うべき悟性を有しないのだ」とかつて述べたのはヘッベルであったと思う。

 異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。精神医学者としてもわれわれは一人の人間が正常であればあるほど、それだけ一層彼は、彼がある異常な状況に陥った(たとえば精神病院への収容)という事実に対して異常に反応するものであるということを、いわば期待できるのである。



 青字の部分は以下の書籍 V・E・フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」 みすず書房 第二章アウシュビッツ到着 よりの引用です

 


 
 ◆ ワクチン狂騒曲の中で


 どうもこのパンデミック下の状況の中で、事態の進展を正常ととらえるか、異常ととらえるか大きくわけてふたつのグループにわけられる。

 多くの人は、おそらく過半数以上、、、は このプロセスを正常なこととしてとらえているようだ。

 つまりcovid19は自然に発生したものであり、それに対して人類の英知がワクチンという対抗策を開発した。それを多くの人が摂取すれば やがてこのパンデミックも終息に向かう。だからなるべく多くの人が打つべきだし、自分も早く打ちたいと思う。そして日常生活では、マスクと3密に気をつけて 一人一人が頻繁に消毒や手洗いを行い 感染予防に徹するのが 必要なことなのだとと考えるようだ。

 そして 1割弱くらいの人々は、

 ウィルスの起源について疑問を持ったり、そもそもウィルス自体が本当にあるのかと考えたり、ワクチンの作用を疑ったり、マスクや消毒の有効性について疑問を持ち、絶対にワクチンなんか打ちたくない

 と思っているように見受けられる。

 すなわち通常語られるストーリーを越えた異常事態が起こっているのだが、マスメディアなどはそれをまったく伝えないと感じている。

 もちろん、これらの間には無数の態度のグラデーションがあり、意見の推移が見られる。

 何かのニュースで、ワクチンのコールセンターが 早く打ちたいという人のクレームで大変なことになっているというのを見た。

 僕は mRNAワクチンで体内で生産されるスパイクタンパクは非常に有害か、あるいはからだに負荷のかかるもので、長期的な影響が出る可能性があると思っている。接種時に副反応がでなければOKっていうものではない。

 そのような毒物の可能性のあるものを、一刻も早く「打ちたい」という人がたくさんいるという事実に異常を感じざるを得ないが、

 だが一方で、ワクチンのみが安心・安全に暮らせる手段だと考えるのならば、先を争って「早く打ってくれ!!」と願うのはまったく合理的なことだ。「ワクチン格差」を問題にするのもしごく合理的なことだ。

 この状況下で、どのように反応している人が 「悟性ある」人と言えるのだろうか。

 と考えてしまう。

 あなたに ワクチン優待券が送られました!! おめでとうございます!!

 という知らせが届いたとき、

 苦々しく破り捨てるだろうか。

 あるいはさっそくそのコールセンターに電話するだろうか。

 それともフランクルのように 微笑するしかないだろうか。

 
 どの行為が「悟性」の証明となるのだろう。


2021. 06. 09  

  ◆ 「私はもはや人生から期待できる何ものも持っていないのだ


 絶望している人々から聞く典型的なセリフが、これだとフランクルは『夜と霧』の中で書いてる。

 これはたくさんの別の言葉で言いなおせるかもしれない。

 「辛いことばかりで 何も楽しくない」「生きてる意味がない」「どうせ いいことなんてこの先ない」「死にたい」

 誰でも一度くらいは 心の中でそう呟く声を聴いたことがあるのではないだろうか。

 比較的平和な時代を生きてきた僕らでも 人間関係や仕事、病気など 様々な出来事によって時にはそんな気持ちになり得る。

 まして、裸同然の姿で、狂気の収容所に入れられて、いつ出られるかわからないような状況では、こういう言葉が出てきてもむしろ当然と言える。

 そういう言葉にとりつかれた自分や他者に対して どう接すればよいのだろうか。

 優しくいたわる、希望を語る、長所をほめて励ますなど どれも有効だろうし、フランクルも仲間の囚人たちに対してそのようなテクニックを用いている。

 しかし、状況が厳しく 表層的な希望を抱ける余地がないような時、今後期待できる可能性について語ることは限界がある。

 そうすると うわべだけの似非ポジティブな感じが際立ち 絶望している心は受け入れられないのだ。

 ここで必要なのは 観点の 「コペルニクス的転回」だとフランクルは書いている。

 「人生から何を期待するか」ではなく「今 人生から期待されているものは何か」という視点にシフトする必要があるという。

 これはちょっとわかりづらい表現かもしれないが、要はこういうことだと思う。


 僕らは通常自分の知覚とか 信念 好みという狭い窓から世界をのぞき その中で生きている。

 そして 自分好みのもの 価値あるものを得ようとする。

 これはある意味狭められた世界で、うまくいかないと絶望や無気力が生じる。

 この視点を転換させ、より大きな視点、生命や神 命のワンネスといった 窓の外の世界から 自己へのリクエストをとらえる気持ちを持つ。

 それが、彼の言う「人生がわれわれに期待するもの」ではないかと思う。

 この言葉は自分の気持ちを脇に置いておく、というニュアンスがあるため 外的なものに従うという印象があるかもしれない。

 しかし

 これは必ずしも「自分を捨てて頑張る」とか「人のため、社会のために生きる」「社会常識に従う」とかそういうことではなく、フランクルも書いてるように 何が期待されているか その答えは 人により その瞬間ごとに違う。

 お国により期待されてるから 帰りの燃料のない飛行機に乗って 空母に突撃せねばならないということではない。

 それよりも待っている親元に逃げ帰る方が勇気ある行いかもしれない。

 働きすぎて健康を害してるのであれば ゆっくり休むことかもしれないし、ステイホームして読書することかもしれないし、こんな状況であえて海外に留学したりすることかもしれない。

 ある行動というよりも、内的な態度の変化かもしれない。

 それが何かはわからないけど、窓の内側の狭められたこちら側で 人生への興味を喪失しても 人生は依然として僕らに対して興味津々であるということを想い出すというのが大事なことなのではないだろうか。

 生命は 神は 僕らに対してどんな時でも興味津々であり、そのリクエストを受け入れてくれないかな と期待している。

 狭い窓の内側からという 浅い自我の視点を捨てた時に その声が聴こえる。

 人生の声を聴こうとしたときに それがわかる

 声を聴く意思を持つ・・・ということなのではないだろうか。

 以下の図で言うと 丸の外側からの視点を持つこと。


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 重たいテーマなので明るめに作ったw

 フランクルは私の言う「人生」とは漠然としたものではなく、「ある具体的なもの」と言っているので、ちょっとスピ的に偏った解釈になったかもしれない。

 もっと具体的な言葉で言うと、人生の中で「自分を待っているもの」を 再発見するという試みでもある。


 以下はフランクルがそのことについて書いている箇所だ。





 あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口の利き方は、普通次のようであった。

 「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」

 これに対して人は如何に答えるべきであろうか。

 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれが期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

 そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。

 哲学的に誇張していえば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると言えよう。

 すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。

 人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

 この日々の要求と存在の意味とは人ごとに変わるし、また瞬間毎に変化するのである。

 したがって人生の生活の意味は決して一般的に述べられないし、この意味についての問いは一般的には答えられないのである。

 ここで意味される人生は決して漠然としたものではなく、常にある具体的なものである。各人にとって唯一つで一回的である人間の運命は、この具体性を伴っているのである。

 如何なる人間、如何なる運命も他のそれと比較され得ないのである。

 如何なる状況も繰り返されないのである。そしてその状況ごとに人間は異なった行動へと呼びかけられているのである。

 彼の具体的な状況はある場合には積極的に運命を形成する創造的活動を求め、ある時には体験しつつ(享受しつつ)ある価値可能性を実現化することを求め、また時には運命を・・・既述のように「彼の十字架」として・・・率直に自らに担うことを要求するのである。

 しかしどの状況もその一回性と唯一性とによって特徴づけられているのであり、それは具体的な状況の中に含まれているのである。

  (中略)

 私はふたつの例を想い出すが、それは前述の世界観的思想が実際に応用された例であるばかりでなく、注目すべき相似性を示しているのである。すなわちその話は自殺企図をもらした二人の男の問題なのであるが、二人とも「もはや人生から何ものも期待できない」という既述の典型的な言い方でその企図を述べたのであった。

 しかしながら二人に対して、人生は彼等からまだあるものを期待しているということ、すなわち人生におけるあるものが未来において彼らを待っている、ということを示すのに私は成功したのだった。

 事実一人の人間には、彼が並外れた愛情を持っている一人の子供が外国で彼を「待っていた」のであり、他の一人には人間ではないが他のものが、すなわち彼の仕事が「待っていた」のである。

 彼は科学者としてあるテーマについての本のシリーズを書いていたのであるが、それはまだ出来上がらず、その完結を待っていたのである。

 個々の人間を特徴づけ個々の存在に意味を与える唯一性や独自性は創造的な仕事に対してあてはまるばかりでなく、また他の人間とその愛に対してもあてはまるのである。

 この各個人が持っている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえのないということは、・・・意識されれば・・・人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。

 待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決して出来ないのである。

 彼はまさに彼の存在の「何故」を知っているのであり、従ってまた「殆どいかなる如何に」にも耐えうるのである。※


  みすず書房 「夜と霧」V・E・フランクル 霜山徳爾訳   第8章 絶望との闘い より


  


 ※最後の一文は この文章の前に出てくるニーチェの言葉「なぜ生きるかを知っている者は、殆どあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ」より来ています。(はいたか)


 



2021. 06. 07  


  自宅に本がたくさんあり、放っておくと部屋が本で埋まってしまうので、引っ越しの時とか定期的に大量に処分する。

  あまり感傷もなくぽいっと捨てられる本もあれば、迷いに迷って結局やっぱおいとこ・・・てなるものも多い。

  V・Eフランクルの『夜と霧』もそんな淘汰の歴史をくぐりぬけてきた一冊だ。


   


  これは、精神科医でユダヤ人でもあったフランクルがナチスの強制収容所内での自身の経験をつづったものだ。

  極限状況下において人間はどうなるのか、どのようなことに救いを見出せるのか、ということが真摯に書き綴られている。  

  初めて読んだのはまだほとんど子供の学生の頃だったけど、第二次大戦終戦直前の収容所の光景に吸い込まれるように読み進めた。 

  今日、なんとなく手に取って何年かぶりにページをめくってみると、なんかの紙切れがぱらっと落ちてきた。

  拾い上げてみてみると、それは新聞の切り抜きで、V・E・フランクルの死去を報じたものだった。

  フランクル氏ウィーンの病院で 心不全のため92才で亡くなると 報じられていた。

  なんで新聞記事を切り抜くとかしぶいことやってたんだろ と思ったが

  おそらく、『夜と霧』を読んでまもなく、この記事をたまたま目にして、なにか感じるところがあったんだと思う。

  当時その読書体験から受けた衝撃がかなりのものであったことを示してもいる。


  ナチスドイツによるユダヤ人絶滅オペレーションの犠牲者は600万人とも言われている。

  これは、記録に残る人類史の中で最大のジェノサイドではないだろうか。

  このホロコーストと、covid19によるパンデミックは 僕の中で何かがかぶる。

  ひとつは、過去の独裁政権が行った狂気の作戦で、もうひとつは武漢から自然に発生した(ということになっている)ウィルスによる世界規模での流行。

 一見全然違う現象であり、どこかどう似てるのか、自分でもうまく説明できない。

 ただ、なぜかこのパンデミックはナチスによるジェノサイドを連想させるとしか言いようがない。

 店舗にはすべてビニールカーテンが垂れ下がり、消毒液が常備され、場合によっては体温まではかられるという世界。
 出歩く人はほとんど口と鼻を覆い隠している。

 ニューノーマルという名のもとに
 いつのまにか、世界全体が巨大な出られない病院になってしまったような このシチュエーションがそれを連想させるのかもしれない。

 mRNAワクチンという、長期的な治験もされていないものが 緊急的に承認され、人体にとって非常に異質な物質が世界中で21億回も打たれている メディアは一方的にワクチンの有効性ばかりを報じるというこの状態が 閉鎖された空間での洗脳と人体実験を連想させるからかもしれない。

 もしも、なんらかのレベルで本当にこのふたつに関係性があるのなら、万が一 僕らがすでに収容所にいるということが比ゆ的に事実であるとすれば、リアル収容所での生活をつづった 『夜と霧』は今後のサバイバルにとってとても重要な本かもしれない。

 肉体のサバイバルというか、どちらかというと、精神のサバイバルだ。

 個人の尊厳や、 未来の可能性、生存の保証、所持品、毎日の十分な食事さえ奪い取られた 状況下で人はどのようになるのか、どのような人々が生き延びるのか ということを知っておくのは大事な気がする。

 もちろん、コロナ禍での生活の変化は ほとんどの場合 アウシュビッツ強制収容所の中ほど 厳しくはない。

 そういう意味では 「コロナ疲れ」とか言ってても これに比べたら 今の自分はどれだけ恵まれているかわからない・・・とも思う。


 でも一方で、人間が壊れて行ってしまうパターンというのは 何も強制収容所ではなくても、どこででもここに書かれているよなパターンをたどるものだ。

 初めの衝撃や興奮が やがて無感動にとってかわり、自分の生存が第一のこととなり、未来のビジョンが失われ、いつ終わるとも知れない責め苦に やがて 自分の存在を放棄して なにもしなくなる。

 このパターンは コロナ禍のような社会状況でも起こり得る。

 だからこそ、希望を失わず 強制収容所での体験を生き抜いたフランクルの知恵を、今の時代でも生かすことができる。

 フランクルや 彼の仲間の囚人が生きるために 正気を保つために無意識に使用していたもの。

 ユーモア、過去の回想、世界の美を感じること、未来から現在を観ること、「あなたが人生に期待するものがなくなっても、人生があなたに期待しているものがある」ということ 苦悩と死を人生の一部として受け入れること そして愛。

 それらを描いた部分は本当に感動的だ。

 このような絶望的な世界であっても、人は人としての尊厳を保って生きることが出来る。
 

 だったら今だってそうだ、、、と思える。


 ただ、75年前と異なるのは 今起こってるかもしれない戦争は 情報戦であり 見えない戦争であり 敵がはっきりしないということだ。

 コロナが敵でワクチンが味方なのか、そもそもコロナもワクチンも敵方なのか、真の敵は何者なのかということがよくわからず、人によっても考え方が大きく異なるのが今の時代だ。

 でも、人が何により救われるのかという部分は フランクルの時代と変わらないはずなのだ。

 1行1行に生きる意味と知恵と力が込められてるような本だ。再読を始めると止まらなくなってしまったので最後まで読もうと思う。

 最後に、人間にとってささやかな日常、美や自然がいかに大切な栄養であるかということを語っている1節を本文から紹介したい。



 
 




 その心がけのある者が、強制収容所における生活で体験する内面化の可能性は、また現在の存在の荒涼と精神的貧困から過去へ逃れるという道をたどることでもあった。

 彼の想像はいつも繰り返し過去の体験に想いを馳せて、それにふけっているのであった。

 しかしそれは過去の重大な体験ではなくて、以前の生活のごく日常的な出来事やささやかな事象の周りを、彼の考えはめぐっているのであった。それらは囚人にとって、澄み切った思い出というよりは悩ましい思い出であった。

 周囲の生活に背を向け過去に振り替える時、内面の生活は独特の特徴を帯びるのであった。今の世界と生活は消え、精神は憧れながら過去へ戻っていくのであった。

 ・・・市電に乗って家に向かう、入り口の扉を開ける、電話が鳴る、受話器を持ちあげる、室の電灯のスイッチを入れる・・・・

 囚人がその想い出の中でいわば撫でまわして慈しむものは、こんな一見笑うべきささやなかなことであった。そのしてその悩ましい思い出に感動して、彼らは涙を流すこともあったのである。

 若干の囚人において現れる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、われわれの環境とそのまったくすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。

 アウシュビッツからバイエルンの支所に鉄道輸送をされるとき、囚人運搬車の鉄格子ののぞき窓から、丁度頂が夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれのうっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片付けられてしまっている人間の顔とは、決して信じえないだろう。

 彼らは長い間、自然の美しさを観ることから引き離されていたのである。そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍らで苦役に服している仲間に、丁度彼の目に映った素晴らしい光景に注意させることもあった。

 たとえば、バイエルンの森の中で(そこは軍需目的のための秘密の巨大な地下工場がつくられることになっていた)、高い樹々の幹の間を、まるでデューラーの有名な水彩画のように、丁度沈みゆく太陽の光が差し込んでくる場合の如きである。

 あるいは、一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の仲間が飛びこんできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。

 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘っ立て小屋と泥だらけの点呼場があり、その水たまりはまだ燃える空が映っていた。

 感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に

 「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう

 と尋ねる声が聴こえた。


 「夜と霧」第四章 非情の世界に抗して より




2021. 06. 03  


 


 時々見させていただいているマドモ愛さんの動画の、このお話し。

 面白かった。

 いつも自分が考えているテーマとかぶるところがありとても興味深く観させてもらいました。

 現代の都市の生活では、人は人工音に囲まれて暮らしていて、そのことがストレスになっている。

 職場でずっとパソコンに向かい、帰宅してもスマホやテレビに向かうような生活では、自然音に触れる機会が少ない。
 (デジタル処理されたものは、鳥の声でも本当の自然音とは言えない)
 
 パソコンに向かっていて疲れるのは、多くの情報に触れたからではなく、実は情報が少なすぎるからではないかと愛さんは言われています。

 自然の中を歩いていると、落ち葉の道を歩くだけでも、ざくざくという音に無数の周波数が含まれている。

 それに比べると、人工音に含まれる情報は圧倒的に少ないのではないかと。

 
 去年 僕も似たようなことを考えていたことがありました。

 それは、移動手段として 車や電車より徒歩の時がもっとも 多量の情報を処理しているのではないかと思ったんですね。

 確かに電車、車、飛行機 、「目的地に早く着く」という意味では徒歩よりも優位です。

 でも、その時に 視覚・聴覚・嗅覚・皮膚感覚から脳が受け取る情報量というのは 圧倒的に少ない。

 こういう人工的な移動手段は、早く着くことの代償として、五官から受け取る多量の情報を失っているとも言えます。

 東海道中膝栗毛であるとか、奥の細道的な旅というのは ものすごく非効率に見えて、現代人の旅よりも計り知れないほど多くの「情報」を受け取っていたのかもしれません。

 数知れない樹と、森と、生き物の声 、人々、暑さ、寒さ、天気の移り変わり、いくつもの日の出と黄昏、匂いの「印象」を受け取っていた。

 彼らが自然から受け取った「印象」を100とするなら、僕らが受け取る印象は果たして 20とか30もあるでしょうか。
 
 ロシアの神秘主義者グルジェフは 受け取る「印象」により人は生きていると言いました。

 その「印象」をより質の高いものとすることが 意識の目覚めにとって重要だと。

 
 WEBに蓄積された 文字情報や画像情報 動画情報 これらの総量は ここ10年 20年で想像を絶するほどふくれあがっています。

 その量は やじさんきたさんが受け取れる情報を 1とすると 100倍か 1000倍か見当もつきません。

 ですが、五官で自然や生き物から受け取る「印象」は圧倒的に減っているのではないかと思います。

 
 果たしてデジタル情報によって人は目覚めることができるのでしょうか。マインドを複雑にすることは確かだと思いますが、真の心地よさや幸せ感を与えてくれるのは やはり「生きてるもの」から来る「印象」ではないかと思います。

 愛さんが言われてるように、朗読をしたり、歌を歌ったりすることは 自分自身の生命から発した 生の情報です。

 だから声を発すると その波動により元気になる。
 
 一人暮らしをしていても、命からの波動を得ることができます。

 寂しくなったら you tube♡ 

 ・・・というのもいいんですけど、たまにパソコンスマホから離れて 2,30分くらい自分の声と遊ぶのも リフレッシュ出来ておススメです。

 朗読してもいいし、歌ってもいいし、マントラなどを唱えてもいいし、声と遊ぶ方法はたくさんあります。


 画面の向こうで世界レベルの美声の歌手が歌う歌も、今 僕らが声帯を震わせ、からだを震わせ、周りの3次元空間を震わせることとはくらべものになりません。

 どっちが上かではなく、次元が違うんですね。
 
 一方は2次元的デジタル的部分的であり、

 もう一方は、3次元的アナログ的全体的な 体験です。

 youtubeの歌手の発する周波数はデジタル処理により一部カットされてるけど、僕らがここで声を響かせればその全周波を脳に届けることができます。

 だから

 声の良し悪し、歌のうまい下手も関係ありません。
 現実の中で響きを体験することが とっても大事なのだと思います。


 あと、昔の大家族のような環境で生きていると、様々な周波数を受け取ることができたと愛さんは言われています。

 これも、すごく納得です。

 おじいさんの声 おばあさんの声 お父さんお母さんの声 兄弟姉妹がはしゃぐ声 泣く声。
 鶏や犬の鳴き声とかもあったりして
 自然の中に住んでいれば その他無数の 心を活性化する周波数が飛び交っていたにちがいありません。


 僕も子供の頃7人家族で・・・・ちょっとうるさい環境でしたが、今思うと、「ある種豊かだったな・・(-∀-)」と感じるところがありました。

 その辺の感覚を あまり更新してないエッセイブログで以前書いてたので、最後にちょっとご紹介したいと思います(´∀`σ)σ

 『豊か』さというのは、様々な命の周波数で満ちていること、そして生命の「印象」をたっぷり吸収できることではないでしょうか。





引用



        白いお餅 緑のお餅 2019/12/30



何日か前、通勤途中コミコミの西武線に揺られて「あー今日も混んでるなー」とため息ついてる時、



  ふと、餅つき機の中で ぐおんぐおんと回転しながらもち米が立派なもちになっていく様子を思い出した。



  人の記憶ってどういう構造なのかわからない。



  今の状況と全然関係ないことが 時々頭を過る。



  なぜコミコミの西武線の中で、2,30年前の(かなりざっくりボヤカシとくw) そんな記憶を思い出すんだろうか。



  あれは子供の頃のお正月だ。



  毎年家で お正月前には お餅をたくさん作っていた。



  白いのや 緑色のや 小豆や 栗の混ざったような いろんな種類のお餅。



  丸いのや 四角いの お供え用のと とにかく 大量に作られた。



  杵とうすじゃなかったけど かなり大型の家庭用餅つき機があった。



  出来立てのおもちを 砂糖醤油なかんかで 食べるのはとってもおいしかった。



  僕の家族は7人家族だった。



  おじいちゃん おばあちゃん 父と母 二人の弟 そして僕。



  クリスマスもお正月もほぼ頓着しない今の父からすると あのものすごく気合の入った年末の餅つきは



  やはりおじいちゃんと おばあちゃんの存在があったゆえだった気もする。



  きっとおじいちゃん おばあちゃんにとっては お正月にはうちで餅をつくのが当然だったのだ。



  僕は餅つきの進捗状況が気になり しょっちゅう 餅つき機の中を覗き込みながら 母やおばあちゃん 弟たちとふざけながら家の中を走り回っていた。



 ふと その雰囲気や匂いを思い出すと



 大家族の一員として 見守られながら 年末の雰囲気にはしゃいで できあがっていくお餅の塊をのぞいていたことがとても不思議に感じられる。



 そして なんだか動けるスペースや 場が その頃よりも少なくなってるような気がした。



 ワンルーム賃貸に暮らして 朝方こうやって満員電車に乗っている 帰りも多分混んだ電車に乗って ワンルームに帰るんだろう。
 そのあとシャワーを浴びて ご飯を食べて、パソコンに向かうかもしれない。


 そんな現在と比べると、その頃は 二階にあがって父と母と一緒のこたつに入りテレビを見たり、また下に降りて 祖父と祖母と一緒のこたつに入ってみたり 弟たちと家の周りを走ったり そしてもちろん7人全員で同じ食卓を囲んだりしていた。



 毎晩 毎朝・・・・7人で食卓を囲んでいたなんて とても信じられない。



 相当大きいテーブルが必要だったし、今 そんなテーブルを僕の部屋に置けばそれだけで部屋が埋まってしまう。



 そう考えると 今の暮らしが 子供の頃よりもずいぶん収縮してるような気がしてしまう。


 隣の家には仲の良い4つ年上のお姉ちゃんが住んでいて そっちのうちの中でもよく遊んだ。 
 自宅にも行事の度に 親戚が集まったりしていた。



 今 僕は隣の部屋に住む人のことさえ良く知らない。



 今 部屋の中には子供の頃なかったものがいっぱいある。



 でも、その分自分の暮らしが豊かになってると言えるかは微妙だ。



 そして 子供の頃に感じた豊かさは きっと「家族の人数の多さ」の結果でもあったんだろう。



 父はアマチュア無線機に向かったり テレビで竹村健一がしゃべってるのを見てるし、仕事から帰宅した母親からはいつも病院の匂いがするし、祖父母は朝夕仏壇に向かい勤行して線香の煙が流れてくるし、僕はファミコンに夢中になってるし、弟たちはぎゃーぎゃーケンカしてるし・・・という世界だ。



 うるさかった。

 にぎやかだった。

 様々な音や声が 飛び交っていた。


 人の数だけ 多様な刺激があり それらがすべて豊かさだったのかもしれない。
 今になって そう思う。

 木の板の上に並んだ できたての 白や 緑や 黄色いお餅のように。









 


2021. 06. 01  


  この世には様々な蔑称めいたものがあります。

  年をとった男性を おっさんや じじいという、 女性をばばあという。子供をガキという。

  バブルの頃は、おとなしいと根暗と呼ばれ 袋に漫画を入れ持ち歩いてると オタクと呼ばれる。

  こういった蔑称めいたものは 呼ばれた対象を分類してわかったつもりになってるようで、結局 その呼称を使用するものの精神性をあらわしているのに過ぎないのかもしれないと思います。

  一種のヘイトですね。でも ヘイトしてるという実感があまりなくて、無意識に自分を上位に置いている。

  まあ、人間なので誰でもそういう部分は多少あるのですけど。

もちろん  愛とかユーモアがあればいいんですよね。

  「おい、オタク」 「うるせえな 変態!」

  とか そういう掛け合いを楽しくやれるならいいし。
  言葉でプロレスできる仲なら 毒舌は楽しいわけですよね。
  「アホか」って割と関西では普通に言いますが、これはほとんど誉め言葉。 

  僕も関西人なので、割と、言葉でプロレスするみたいな感じというのが 本性に根付いていて、ちょっときついこととか いじる系のことを言われるとなんかうれしい部分あります。やっぱり、心理的にソーシャルディスタンスを保つ標準語に比べて関西圏のコミュニケーションっていうのは こっちの間合いに入ってきてくすぐってくるみたいなとこが どっかあるんですよね。

 でもまあ 世にあふれてる呼称の中には どうやっても冗談になりにくいものとか、どういう気持ちでこの言葉使ってるの?と問い詰めたくなるものがある。

  一時期しょっちゅう「死ねばいいのに」という言葉を 往来で聴いてた時期がありました。

  これは冗談でも 僕は使いたくありませんでした。

  まあ 「負け組」とかもそうですね。 これってどうやっても言葉でするプロレスに使えない気がする。

  人に対して冗談で言うにしても、自嘲的に自分をそう呼ぶにしても、あるいはメス争いに負けた雄の動物をユーモアで負け組って呼ぶにしても

  なんか、いや~な気分になるというか。

  「変態」とか「バカ」とかは使えても 「勝ち組 負け組」はなんか使えない。
  使うと 自分の感性が汚される感じがする。

  そういう呼称ってあるんですよね。


  今日は その一例の話しなのですが・・・


  時々 ブログに書いてますけど、僕は細く長ーく一般に「障害者介護」と呼ばれる業界(?)に関わっています。

  で、最初からちょっと違和感があったのが、この「障害者」という呼称でした。

  いやいや、介護者とか福祉関係者が「障害者」って普通に言っていいのか? っていうところがちょっとあったんです。


  今でも「障害者介護の方で働いてまして・・・・」と自分で使う場合、消えない微妙な違和感を感じます。

  ある利用者さんは、「障」を「笑」に変えて、 「笑害者」と名乗っていました。

  笑うと害がある者 なんだろうか 笑うのに障害がある者なんだろうか 

  わかりませんが、いろいろ意味深。

  これはなんか面白くてよいですけど。



  「障害者」への違和感というのは、おそらく自分が重度の心身の病やけがを負ったとき、「障害者」なんて絶対に呼ばれたくない。

  「障害者手帳」 なんていう名前のものを持たされたくない。

  でも、自分は今 介護する側として その言葉を日常的に使用している・・・というところからもきています。

  

  最近ちょっといろいろあり、

  いや 考えれば考えるほど これひどい呼称じゃねえか なんだよ 障害者って??

  と 結構ムカムカしてきたのです。
 

  これってさ、よくわかりませんが 為政者的な上から視点から分類したものですよね。

  「はい、君たち健常者 こっちは障害者だよー」 みたいに。

  なんかそういうような愛のなさを 非常に感じるのですが。

  この国ってのは、根幹のとこが50年、60年ほとんど変わってないんじゃないかと。
  変える気もないんじゃないかと。

  
  もっとましな呼び方はないのか、他の国ではどう呼んでるんだろう。

  それで ちょっと調べてみると 英語では 障害のある人を Handicapped , Disabled と呼んでいて これはニュアンス的には日本の障害者にやや近いですが、しかし 日本語の障害者という冷たく変な語感は独特のもので 意味的には近くても響き的にちょっと違う気もする。

 障害者という語感は、完全に障害と その当人を一体化してしまっているんですよね。障害人間ってことですよ、早く言うと。

 英語圏のHandicapped のほうがまだましじゃないか。

 そして、20年ほど前からは米国で Challenged(チャレンジド) という言葉が生まれ、今ではスゥエーデンでも使われてるそうです。

 これは「 The challenged(挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」を語源とするらしいです。

 チャレンジドか・・・

 ちょっと持って回った感じはするけど、「障害者」より全然いい!! と個人的には思いました、

 障害があるということにフォーカスするよりも、その心身の状態で人生を生き切るという挑戦をしている 挑戦者とみなした方が 人をエンパワーする力が全然違う。

 なんでも

 そもそも米国でこの言葉が生まれ、世界的に広まったのは「人権の国アメリカと言いながら、自分たちが、“Handicapped” や “Disabledperson” というネガティブな呼び方をするのは、おかしいのではないか?」という声が約20年前に市民からあがり、様々な呼称が提唱されるという経緯を経て、“the Challenged” が使用されるようになったのだ、と聞きました。

 という経緯があったようです。こちらのサイトから転載させていただきました。

 
 僕は、「障害者」と同じように「(社会的)弱者」という言葉もあまり好きではありません。

 その人が 「強い」か「弱い」かなんて どうしてわかるというんだろうか。

 まったく動けないような体でも その人が生きているのは とてつもない精神力を持っているからかもしれないのに。

 その「強さ」を無視して 見た目や 社会的状況だけで 「弱者」と呼んでしまっていいのか と思います。


 たかが言葉と言えども、そこには名付けた人の愛や意図が表現されていて  

 どう呼ばれるかによって、人は元気を与えられもするし 気力をそがれもする。 


 だから 結構 大事なことで、社会的な成熟度のバロメーターでもあるのではないでしょうか。


 「おからだの不自由な方」とかいうような ちょっとおからだがむずむずするような丁寧な表現にするのではなく、「挑戦者」というレベルにまで意味的に飛躍させるのは 欧米っぽい勢いがあり好きですね。

 腫れ物にさわるように呼ぶのではなく その人のスピリットへのリスペクトが先行してるというか。

 
 スピ系の考え方として、チャレンジドな人々は、学習の進んだ魂で、あえて困難な環境、肉体を選んで生まれてくるのだとも言います。

 まあ 確かに そういう人もいるかもしれないですが 

 学習の進んだ魂か・・・

 うーん・・・そうね(いろいろ想起中)

 いや~~ ま いろいろじゃね?(笑)(゚∀゚)


 僕の経験では 利用者の人の言動に すごい尊いものを感じる時もありますし 「おいおい」と思ったり ムカッとすることもあります。

 いろんな人が居るし 一人の中にいろんな面がある

 そういう意味で、発展途上の 僕らとイコールでいいんじゃないかと思いますけどね。

 あえて上に置く必要もない。

 でも、すごい経験してるな~~と そういう意味でのリスペクトはあるんですね。



 僕らは誰でも ある程度 チャレンジドだと思うんです。

 みなこの時代の制限や制約 個々の環境の中で 生き抜くという挑戦をしていると。


 悪いことがおこっても それは単に悪いことではなく 与えられた課題であり チャレンジでもある。

 心身にハンディのある人を チャレンジドと呼べる感性は 僕ら自分自身が人生にチャレンジしているスピリットであるという 自尊心をも高めてくれるのではないでしょうか。


 他に対して使う呼称は 結局のところ 自分自身について語ってるものでもあるのですから。



プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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