◆ それでもヤンキーには逆らえない
中学生の僕にしてみると ヤンキーは是か非かではない。
それは、ただそこに存在しているものだった。
インドで牛がそこら辺をうろうろして、電車を止めたりしているけど、かの地ではそれが当たり前の光景だ。
それとちょっと似ている。
あのガラの悪い集団は 入学した時から学校にいたのだ。
逆に言うと 僕には ヤンキーのいない中学生活はどんなものかということがうまく想像できない。
街路に牛や 物乞いの人のいないインドをうまく想像できないのと同じだ。
彼らが最初からずっとそこにいる以上
嫌だけど、・・・・まあ、世の中 こういうもんちゃうんかな・・・ てな感じだった。
トイレは煙でもくもくしてるものだし、気を抜いて歩いてると すれ違いざま蹴られたりする。
運悪くつかまると 餃子の王将にぱしらされたりする。
そういうものなのだ。きっと世界が始まった時から・・・
だからヤンキーなんていなくなればいいのに、、、という発想にはならなかった。
環境というのは恐ろしいもんだな、と思う。
慣れるとそれが当たり前になってしまう。
彼らが暴力的なことをするのは、人一倍目立ってしまっていたりする生徒に対してだったので、直接的な危険は僕にはなかった。
それに、彼らは弱いものを陰湿にいじめたり、自殺するほど追い詰めたりすることはなかったようなので、ある意味わかりやすい存在ではあった。
何しろ 髪がまっきっきだったり ダボダボのズボンをはいてたりして 見た目で危険だとすぐわかる。
全身で 俺たち かなり やべーぞ! とアピールしてくれている。
彼らは誰かが気に入らなかったら リンチするだけ(しちゃだめだけど)なので 陰でこそこそ悪口を言ったり 無視したり ということはする必要がない。
まっきっきの集団が廊下の向こうから歩いてきたら 回れ右をすればいい話だ。非常にシンプルでかつわかりやすい。
しかし そうはいかない場合もある。
ヤンキー集団の中には
幼稚園の時に 僕をいじめていた ケンタがいた。
ムラサキ組とミズイロ組の2年間にわたり 意地悪をされていた僕は 卒園式の日に 思いっきり彼の足を踏んでやった。
二年間いじめられてようやく仕返しができたのは、明日からもう会わないからだ。
いわゆるイタチのなんとかというやつだが、その時初めて僕は やな奴に「逆らう」ことができた。
もう明日からは ケンタに会わない・・・・・
確かに 僕のその時の判断は間違ってはいなかった。
明日からは もう会わない
しかし そこには「当分は」という単語が抜けていた。
それから11年の時を経て僕らは 再び このガラパゴス中学で相まみえることとなったのだ。
彼は僕を見るなり 校舎の窓から大声で 叫んだ。
「お前 幼稚園の時 〇◎●(自主規制) 漏らしたやろーーーっ」
「漏らしてへんわーーーーーーっ!!ォ━━(#゚Д゚#)━━!!」 と僕は反射的に 上の方に向かって 言い返した。
ったく・・・・なんだ再会するするやいなやの この低レベルの応酬は。
確かにシャイすぎてトイレに行きたいとも言えず、教室で粗相したのはホントだ。
ああ、ホントだとも、何が悪い!
でも、なぜそれを校舎の二階の窓から 叫ばれなければならないのか
なぜ11年も前のことで このような辱めを受けねばならないのか。十分にトラウマになっているというのに。
しかし ケンタ
意地悪そうなのは幼稚園の時からまったく変わってないじゃないか。
むしろパワーアップしてるぞ。
染めた髪がまったく違和感がない。
こいつはきっとヤンキーになるために生まれてきたのであろう。
思い返すと 幼稚園の時から茶髪だった気さえしてくるではないか。
やっかいなやつと再会しちゃったな。。。。
第二ラウンドのゴングが鳴った。
ケンタは時々 僕にちょっかいを出してくるようになった。
ケンタがまったく理由もなく 僕の股間を蹴り上げてくる。
そして逃げていく。
僕は追いかける。「ひゃーひゃっ ひゃっ」と笑いながらケンタは逃げていく。
逃げていくから 僕は追いかける・・・・どこまでも
ケンタには追い付けず 休み時間が終わるチャイムが鳴る。
だいたい 僕が はあはあと乱れる呼吸と 大事な場所がズキズキしたまま休み時間が終わる。
こういうことを時々繰り返していた。
何も面白くない。
しかしこの不毛なチェイスによって 僕が ヤンキーの集団から狙われることはなかった。
他のヤンキーから「おい、おめえ 何ケンタを追いかけてんだよ」とかは言われなかったし、他の仲間を引き連れて ケンタが僕にからんでくることもない。
多分ケンタが 個人的な意地悪心からやっていただけで、ヤンキーの集団は 特にそれに対して興味がなかったのだろう。
僕も 一応ヤンキーぽい身なりのケンタを追いかけたりできたのは 彼はただのヤンキーではなく、幼稚園の時から知ってる「宿敵」という認識があったのかもしれない。
つまり、11年たっても 舞台を変えて 二人とも 園児と同じようなことをしてたという話しだ。
こういうのをカルマと言うのだろうか。。。
しかし ヤンキーの中には 嫌いじゃないヤンキーもいた。
最初はすべて恐ろしく ヤンキーという集団はオールブラックにも見えた。
でも彼らがそこにいるのが当たり前になってくると、その黒の中にも 微妙なグラデーションが見えてくる。
左近君 というヤンキーはなぜか 「クーには そんなことするなよ」 と 他のヤンキーから 僕をかばってくれたことがあった。もちろん、蹴ったり 殴ったりされたこともない。
なぜかばってくれるのかわからなかったが、そういうことがあると 好感度は急上昇し、左近君は 黒の中の白に見えてくるものだ。
他に 龍村というヤンキーが同じクラスにいた。
僕は目が悪くよく目を細めていたからか、「お前目つきわるいんじゃあっ!(o゚□゚)o≪≪≪ワアァァァァァァッ!!」 と龍村に大声で恫喝されたことがあった。
いったい何が悲しくて ヤンキーに目つきが悪いとか言って怒鳴られなきゃいかんのだ。
龍村は背が低く、髪をつんつんに立てていて、多分普通にしてたら可愛い感じの、星の王子様がグレたような風情をしていた。
明らかに何か家庭に事情がありそうな気配を漂わせていた。
目つき悪いとか恫喝されたけど、僕はあまり龍村を嫌いにはなれなかった。
ある時、他のヤンキーが 2,3人 教室になだれ込んできて 何かわめきながら席についている龍村を連れて行こうとした。
龍村の何かが彼らの気に障って リンチしようとしてたのかもしれない。
龍村は 逃げるでも 弁解するでもなく ポケットを両手に突っ込んだ ふてぶてしい態勢のまま前方を睨んでいた。
やるならやれよ お前らが俺に何しようが 俺に関係あるか
そう言ってるみたいに。
そして特に抵抗するでも弁解するでもなく 引き立てられていった。
何があったのかはよくわからない。
しかし 彼のその様子が 僕にはなにかとても男らしいものに見えた。
左近君や龍村は ヤンキーという「黒」に属してはいるが 黒の中の黒ではない。何か白いところを持っている黒だ。
中学生の僕はそんな風に認識していたかもしれない。
そんな風に僕の中学の3年間は すぐ近くにヤンキーがいるのが当たり前の日々だった。
中三のころ授業中に、社会科の教師とヤンキーが教室の床の上で 上になり下になりの乱闘を始めたこともあった。
ヤンキーが黒板に板書してる先生にうしろからものを投げたのが原因だった。
これに先生が逆上して「おらーーっ!ε=ε=(怒゚Д゚)ノ」と ヤンキーに向かっていった。
授業そっちのけで くんずほぐれつの取っ組み合いに
さすがに ここどこだっけ?と一瞬判らなくなったが 3年間荒れた学校を見てきたあとでは それほど驚きもしなかった。
あんなひどい中学に通っていた人はそうそういないと思う。
でも ヤンキーもタバコの煙もない中学生活を送っていたら、きっとよかったんだろうけど、、、ちょっと物足りない気もする。
あのどろどろした世界の記憶が ホメオパシーのように 僕の心の免疫を多少は強化してくれた気もするからである。
しかし 僕が 週刊ジャンプの「ろくでなしブルース」やマガジンの「カメレオン」が あまり好きでなかったのは きっとヤンキーガラパゴス中学に通っていたせいだろう。
ヤンキーにはリアルで 十分おなかいっぱいになったので 漫画であらためて読みたいとはとても思えなかった。
ヤンキーガラパゴス中学は 現在では ごく普通にクリーンな 公立中学校になっているという。
かつてイグアナたちが気炎を上げて闊歩していた形跡は もうどこにも見当たらないだろう。
◆ヤンキーにはさからえない
僕は、子供の頃は やられたらやり返すことをモットーとしていた。
聖書の中で「右の頬を打たれたら 左の頬を差し出しなさい」とイエスが言うシーンがある。
この教えとは真逆のポリシーである。
おとなしいためいじめの標的になりやすかったので、泣き寝入りしたらなめられるということを徐々に学んでいった。
理不尽なことをされたら、全力でケンカせねばならない。
今から思えば爪でひっかいて流血させたり、軽くからかわれるとビンタしたり、ちょっと過剰防衛気味? というところもあったと思うけど。
右のほほを打たれる前に 相手の両頬をグーでぶん殴れ的なところがあった。「目には目を」ですらない。半沢直樹的と言ってもよい。まあ、実際にグーで殴ったりしたことはないけど。
大人でこんなことをしたら敬遠される。ていうか捕まる。
でも、小学生ということもあり 全力でケンカした相手とは その後いじめられなくなっただけではなく、ちょっと仲良くなったということもあった。
しかし、11、2歳にもなり別の学校に転校したあとは 取っ組み合うようなケンカは一切やらなくなった。
それはちょっと大人になってきたというのもあるし、クラスで一目置かれる要素が カッコよさとか 面白さとか サッカーのうまさとか そういう洗練されたものになっていったということもある。
そして攻撃も叩いてくる とか いうわかりやすいものではなく ちくっとすることを言ったり、陰口を言い合ったり、なんとなく仲間はずれにするという陰性のものに変わっていた。
もはや全力でケンカしたら わかりあえて 「お前もなかなかやるな」みたいな そういう少年漫画のようなシンプルな世界ではなくなっていた。
そういうちょっと大人びてきた世界の中で 僕は
暗めの読書好き 優しいところもあるが ちょっと変な子 というキャラクターの中にはめ込まれていった。
大人びた世界ではあっても 誰かへのアタック自体は 行われており 見えない石つぶてが時々教室を飛び交っているのがわかる。
時には それが自分に飛んできているのもわかったけど、あからさまに嫌がらせをされてるわけではないので、どんな風にやりかえせばいいのか、仲良くなればいいのかという もやもやが どんどんたまっていった。
見えない悪意はたちが悪い。
「僕のことが嫌いなら、陰でこそこそ言わずに殴って来いよ」 そう何度も思った。
ちょうどその頃家庭でトラブルがあったこともあり、僕はどんどん人が信じられなくなっていった。
気分が悪いと ひたすら先生をにらみ続けるとか 自分でもよくわからない奇行をしていたこともある。
心の中ではなんか、みんな嫌だな 自分も嫌だな・・・と時々思うようになってきたのだった。
そんなモヤモヤした想いを抱いたまま、小学校を卒業し 中学生になった。
僕の入学した中学。
最初はわからなかったが、そこはとんでもない場所だった。
廊下の窓ガラスの多くが割れていて、修理しようとする様子もない。
防火扉には女性器の俗称がデカデカとマーカーで殴り書きにされている。が、拭き消そうとする様子もない。
男子トイレは個室と個室の間の扉が破壊されていて、便器がむき出しの状態でただ並んでいる。
なのに 直そうとする様子が見えない。
そういう破壊されたトイレ、校舎の裏などいたるところで常に 強面の連中がタバコを吸っている。
トイレはよくたばこの煙でけむっている。
が、教師がそれを撲滅しようとする様子もない。
そう、僕が入学したのは・・・
京都府下で1,2を争う、おそらくは全国的に見てもトップクラスに荒廃したヤンキー公立中学だったのだ!
リーゼントの、ブリーチの、茶髪の、龍の刺繍の入った学ランを着た、今では見かけない様々な種類のヤンキーが生息していた。
まさにそこは古都京都のガラパゴス、ヤンキー特別保護区のような ありさまだった。
彼らは一般の生徒を特にこれといった理由もなく、なぐったり蹴ったりしていた。
僕もすれ違いざまいきなりボディブローを入れられたりした。
抵抗はしなかった。というか、出来なかった。
彼らはいつも徒党を組んでいる。少しでもやり返せば 全員からボコられるのは目に見えている。
しかもその攻撃の仕方が、ストーブで焼いた10円玉を背中に入れる・・・などとにかく常軌を逸してた。
そんな連中に関わり合いになりたくない。
「爪」とかでかなう相手ではない。タイマン(1対1でケンカする)をはるにしても ためらいなくグーで顔面を殴ってくるような連中だ。
公立中学なのに教師たちですら放置している気配が濃厚だった。
なんで?
マジにヤンキー保護区なの?
小学校の時にクラスのリーダー的存在だったミナミ君も、目立つからか ボコられたという噂が伝わってきた。
ミナミ君はチェロも弾けて、面白くて、スポーツもできたというのに、、、、
ここでは、 面白さでも カッコよさでもなく 暴力が支配している。
誰も ヤンキーには逆らえないのだ、と僕は思った。
◆ やっぱりヤンキーには逆らえない
小学校の時、ヨシダ君らの他に 割と仲良くしていた まこと君(通称マコッチ)という友達がいた。
マコッチの家は母子家庭で、そのせいかどうかは知らないけど ちょっと寂しそうなところもあった。
でも背が高くて 優しいゴジラのような顔をした 茶目っ気のある子だった。
そんな彼と 僕は気が合った。
お互いの家を時々行き来して遊んでいた。
それはあの恐ろしいヤンキーガラパゴス中学(仮)に入学する前のことだった。
僕とマコッチは一緒に学校から帰っていた。
突然マコッチが言った。
「クーちゃんは、俺が中学に入ってヤンキーになったら 友達でいてくれる?」
僕は 「え~~ 絶対嫌や"(-""-)"」と返事した。
嫌や・・・というよりも何かの冗談だと思った。
背は高いけど優しい顔をしているマコッチは ヤンキーというイメージとそぐわない。
冗談だと思ってるから 僕もそっけない返事をした。
マコッチも僕の返答に特に何も言わなかった。
ところがどうもそれは冗談ではなかった。
彼とは中学では別のクラスになったが、どうもヤンキーとつるんでいるというような噂が僕の耳にも入ってきた。
いったいヤンキーたちは どのような過程でヤンキーとなっていたのだろうか。
彼らの大半は 中学入学時からヤンキーだ。途中デビューの話しは僕は聴いたことがない。
ということはだ、彼らは 入学する前に 「もう中学は3年間ヤンキーでいく」と決めていたことになる。
そして同じ志を持つヤンキー仲間と示し合わせ、新入生デビューするのか。
あるいはすでに中学生のヤンキーから、小学生のヤンキー予備軍にお誘いがかかる、というような上下のつながりもあるのかもしれない。
もしかすると地域の闇社会との関りもあるのだろうか。
ヤンキーだったことがない僕には想像するしかない。
しかし、どうもマコッチは 僕に変な質問をした時には すでに誰かから誘いがかかっていたのかもしれない。
今となってはそう思う。
まさか本当に彼がイグアナに・・・じゃなくて、ヤンキーになるとは思ってなかった僕はショックだった。
というか 意味が分からなかった。
なんで小学校の時全然 普通だったのに 中学からはヤンキーになんなきゃいけないんだよ・・・。と。
だいたい、ガラじゃないだろ。
ある日、思わぬところでマコッチと再会することになった。
中学からの帰り道。雨が降っていた。
人気のない道を歩いていた時、遠くの方にヤンキーの集団がいるのが見えた。
彼らは誰かを囲んでいた。囲まれているのはマコッチだった。
ヤンキーたちは何か言いながら 去っていった。
恐る恐る近寄ると 雨にずぶぬれで ケガをしている様子のマコッチが座り込んでいた。
どんな言葉をかけ 何を話したか覚えていないが ボロボロのマコッチを連れて家に帰った。
とりあえず僕の部屋で、タオルや Tシャツを貸してやり 着替えてもうらうことにした。ケガはそれほどひどくはなさそうだ。
どうしてこうなったのか、彼は詳しいことは語らなかった。
でも、僕には彼が 似合わないことをしてるように思えて仕方なかった。
無理してヤンキーなんかになろうとするから こんなことになるんだよ・・・向いてないんだよ。
そう言いたかった。
マコッチが僕のCDコレクションを見たがったので、見せると 彼は中島みゆきのCDに注目した。
一応弁解しておくと 中一の僕が中島みゆきのファンだったわけではない。
ユーミンのCDが欲しいと祖父にねだると、どこをどう間違えたのか 中島みゆきのCDをプレゼントされたのだった。
母から袋に入ったCDを渡され 開けてみると まったく知らん人が出てきた。
僕は 誰やねん!!このおばさん(知らなかったのでねw) とがっかりして ほとんど聴くこともなく 棚にたてかけていたのだ。
マコッチは 「・・・『時代』、聴かない?」と 僕に言った。
時代??って
見ると CDの一曲目が『時代』という曲だった。
言われたとおりに再生ボタンを押す。
短いイントロのあと 『今はこぉ~~んな~~に かなぁ~~しくてぇ~~~』とあの歌声が突き上げてきた。
『そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう・・・
まわるまわるよ時代はまわる 』
その瞬間
ぞわぞわぞわーーっという
何か鳥肌のような 悪寒のようなものを感じた。
ヤンキーに雨の中ボコられて、友達の部屋で タオルを借りて 悲しそうに着替えてる マコッチ・・・・
いやいやいや
この歌とこの情景 フィットしすぎだろ。
フィットしすぎて 逆に気持ち悪いだろ。
このドはまりしすぎる曲を自分でBGMに選曲するマコッチの感性って
・・・普通 ちょっと恥ずかしくないか・・
なんなん? 可哀そうな自分を演出してるのか マコッチよ
そういう複雑な思いもあったが 選曲が的確過ぎて 彼への同情もまた強くなっていった。
マコッチは小学生の頃から小田和正の曲とか聴いていて、僕にも編集したテープを貸してくれたことがあった。
僕も透明な歌声が気に入って よく聞いていた。
音楽に詳しかったんだろうと思う。
もしあの時 マコッチが 「時代」なんて選曲をしなければ あの日のことも そんなに鮮明に僕の中に残りはしなかっただろう。
そして今でも『時代』を聴くと 悲しそうに体をふいたり着替えている マコッチを想いだしかねないのも ちょっと悔しいところだ。
勝手に自分主演のPV作って 僕の心のライブラリーに刷り込んだ感じだから。
結局彼は中学の3年間ヤンキーを通した。
中三の時に同じクラスになったけど、お互い住む世界が離れすぎたのか 一緒に遊ぶことも 話すこともあまりなかった。
ちょっと寂しかった。もう彼と僕は違う世界に住んでいるんだなと思った。
子供の時は みんな個性があるけど、お互い近い世界に住んでいる。
お医者さんの子供も サラリーマンの子供も お金のある子も ない子も ひとつの<場>を作れる
でも大きくなるにつれて みんなそれぞれの世界に生きるようになり、同じところではなく 互いの違いを見つけることが得意になる。
みんなと違う自分になる というのは成長のために必要なことなのだろう。
わざわざヤンキーになるという選択をして 僕の住む世界から遠のいた マコッチ。
中三の修学旅行の写真にも 写真の一番端っこで上目遣いの いわゆるメンチを切る ような表情で写っている。僕とはずいぶん離れて。
でも、小学校の時のクラス写真に写った あどけない彼の笑顔が 彼の本当の表情だったと僕は思っている。

このブログを書き始めたころ、なぜか幼いころの記憶を書き始めた。
すると、まるでタイムトラベルをしてるようにいろいろなことを想いだしてとても楽しめた。
普段思い出すこともない 小学生の頃の友達や 遊んだ場所 住んでた家
思いだすことはなくても それらは確かに 心の中に生きているということが わかる。
楽しいことだけじゃなく 悲しいこともあったと思うけど、思い出のヴェールに包まれると すべてはなつかしい記憶になって甦る。
昔住んでいた家の記憶、町の記憶、家族の記憶、学校の記憶、クラスメートたちの記憶・・・・
それも決していいことばかりじゃないけど、7人もの大家族に属していたこと、いつも(毎朝)にぎやかな教室にでかけていたということがちょっと不思議な気がする。
学校では四季折々いろいろな行事がある。
7月には教室に大きな笹があらわれた。
小学校4年生の頃 七夕に短冊をつけるとき みんなで願い事を書いた。
転校する前の小学校での 最後の夏だ。
僕は いそいそとそこに 『夏休みに 四国へ行けますように』 と書いた。
意地悪なクラスメートの男子がさっそく 「四国へ行って何するの~~ひゅーひゅー」と ひやかしてきたので、僕は爪で思い切り二の腕をひっかいて瞬殺してやった(過剰防衛)。彼はすぐに静かになった。
デフォルトの通常兵器として 僕はよく 「爪」 を使っていた。
とりあえず、全力でひっかくと ほぼほぼみなすぐに戦意を喪失する。
いきなりのマジ切れな反撃に冷やかした男子も ドン引きしていた。
カイジ並みのざわざわと、こいつ・・・わけわからん・・・的な空気が教室に漂っていた気がする。
しかし、僕がそこまで怒るのには理由もあった。
四国へ行く・・・というのは僕の中である種神聖な願望だったのだ。
3歳の頃 僕は母親に連れられて 愛媛の宇和島へ行った。
母の友人とその二人の子供たちもいた。
僕はそこで初めて海を見た。
そして・・・・その雄大さに感動した・・・かもしれないが、、、実は海のことはほとんど記憶にない。
ただ覚えているのは 旅館の窓から見た空が曇っていて 「台風が来る」と母が教えてくれたこと。
何かそれにドキドキしたこと。
カフェテラスの珈琲の匂い、、、
帰りに熱を出したこと
などしかない。
しかしそれ以後ずっと その旅行の記憶は とても楽しかった旅として 僕の心にファイリングされていたのだろう。
そして7年後のある日 「もうどうしても、今年こそは、四国へまた行きたい」という強い願望として 甦ってきたのだった。
そんな7年越しの夢を馬鹿にするのは許せん!!→→→ 必殺の爪で血祭じゃ!という流れだったのだろうと思う。
だから 短冊に書いたあと 母にも自分としてはずいぶんしつこくお願いした。
「夏休みに 四国行こ 四国」と何度も言った。
でもその願いは結局かなえられなかった。
父と母は共働きで いつも忙しく 夏は母の実家に車で帰省することになっている。
高速を3時間ほど走って、加古川の祖父母のうちに行く。そこで一泊か二泊する。
それはそれで楽しみなイベントでもある。
見知らぬ風景を観れるし、祖父や祖母 叔父さんや叔母さんに可愛がってもらえるし、従妹の女の子と喋るのも楽しい。
畳の寝室には回り灯篭が回っていて まわりを神秘的に浮かび上がらせる。
家から田舎までは片道3時間くらいかかる。
帰り道 僕は眠ったり 起きたりしながら
父の運転する車のバックシートの窓から空を見上げ ずっとついてくる星を見ていた。
夏の旅行と言えば 主に その帰省だけで、僕のイレギュラーな願い事が聞き入れられる余地はなかった。
「あかん、あかん」と比較的簡単にスルーされた。
頼めば叶えられると期待していた 僕はずいぶんがっかりした。
クラスメートをひっかく程 行きたかったというのに・・・
今となっては 自分ですら なぜあの夏に 四国に行きたかったのか よくわからない。
海が見たかったからなのか、3歳の頃の楽しさや安心感を取り戻したいと思ったのか 今となってはわからない。
でもきっと10歳には10歳なりの理由が、そしてなんらかの必要性があったのだろう。
それから8年たって、僕は四国の大学に入学した。
別に10歳の頃の願望を引きずり、いまだに四国に行きたかったからではない。
入試科目とレベルが自分にちょうど合っていたというだけだ。少なくとも表面的には。
宇和島の近くではなかったけど、自転車で小一時間走ると、きれいな真っ青な太平洋が いつでも見れる場所だった。
入学と同時にほとんど学校には行かず、引きこもって悶々としていた僕は 海を見ると 解き放たれたような爽やかな気分になれた。
だから、授業のある日も 休みの日も 何度も その海への道を一人でたどった。
生まれ育ったあの山に囲まれた町とはまったく違う。空間の広がり、太陽の輝き。
水平線を横目に見ながら、海沿いの道路を自転車で走り続ける。
この海の風景が、本当に、好きになった。
もしここで育っていたら どんな自分になっていたのだろう。
いつしかその海は僕にとって 癒しや自由、希望の象徴になっていった。
2回生の夏、両親、弟たちが遊びに来た。
みんなで竜馬の像が建つ浜辺に遊びに行った。
「あの海 本当にきれいやったわ」と母は今でもたまに口にする。
3歳の頃海を見せてくれた母に 今度は僕が 海を見せたことになるのだろうか。
もしかしたら、四国の大学へ行ったことも何もかも あの3歳の時にした夏の旅の続きだったのだろうか。
僕は今でも楽しみなイベントの前に、熱を出さないか心配する癖がある。
旅と発熱がどこかで結びついてしまってるのだろうか。
先に楽しいことがあると、それが体調不良でぶち壊しにならないか、どこかで気にしている。
積乱雲の向こう側へ向かう 夏の旅。
それは 今でもまだ続いている。
幼いころ宇和島で見た海は、大学生の頃自転車でたどり着いた海辺や 大人になってインドのムンバイで見た海や、沖縄の離島で見た海と ひとつにつながっている。
子供たちの小さな願いをたくさんつけて揺れる笹の葉と、潮の香り。
高速のヘッドライトとテールライトの連なる光。
そのひとつひとつの世界は夢の泡のようだ。
無数の思い出がその中に宿る。
思い出は小さな種となり またどこかで 時間を越えて 新たな経験の花を咲かせる。
遥か過去にあった何かに憧れて 僕は前へ進んでゆく。

◆ライオンの権威
前回の記事。
クラスのリーダー格のミナミ君が、うちに遊びに来て僕のドラ●エの勇者に自分の名前を付けたって書いたけど、、
あれ違う。
ミナミ君じゃなくて、ヨウスケか他の誰かが「忖度」してやったのかもって 思い出した。
まー ね
ホントーっにどうでもいいことではあるけど、、、
まあ、そんくらいミナミ君は暗黙のリーダー的キャラだったわけだ。
決してジャイアン的ガキ大将な感じではなく
11才とか12才にしては 言うことがちょっと大人びていて面白いし センスがある そして独特のカリスマ性みたいなものがある し、勉強もスポーツもそこそこできる。
割と彫りの深い顔立ちで
加えてバイオリンとかを習っていたりして、女子にも人気があった。
ある時 ヨシダ君が 僕につけられた「走る原始人クウ」みたいなニックネームを、自分もつけてほしいとみんなに言ったことがあった。
そこでミナミ君は 「走るホームベーカリー ヨシダ」という名前をつけてあげて みんなにバカ受けしていた。
なんでホームベーカリーなの??っていうかホームベーカリーって?
当時僕は ホームベーカリーとは何か良く知らなかった。
今考えると 小太りで 四角っぽく 色白のヨシダ君はホームベーカリーに似ていなくもない
まあちょっと映画「スタンドバイミー」に出てくる、バーン・テシオみたいな感じなのだ。
そのネーミングは小学生にしてはなかなかのセンスである。
そして、関西は確実に オモロイやつが勝ちって風土がある。
正直、僕もミナミ君はなんかすごいと感じていたし、一定のリスペクトもいだいていた。
だからこそ、自分のやってるゲームの主人公にミナミ君の名前を付けられても、最後までやり通したのだろうと思う。
ミナミ君と僕とは小学校の2年間 高校の3年間 同じクラスだった。
と言っても ミナミ君と僕とは お互いに属するグループがいつも違い その距離感は決して近くはなかった。
でも、僕はミナミ君をいつも どこかで意識していた。
彼とは感覚や勢いが違いすぎて あまり一緒に遊びたいという感じでもなかったが、おそらく17とか18になっても僕は 小学生だった頃の彼のリーダー的イメージをひきずっていた。
ミナミ君には嫌われたくない。
認められたい。
そう思わせる何かが 彼にはあった。
僕は夜行性のフクロネズミかなんかで 彼はライオン。
住む世界が違う。
憧れはするものの かといって 僕が真昼のサバンナに放り出されたら、隠れるのに必死でとてもじゃないが一緒に遊ぶ余裕などないだろう。
でも
一度 図書館で ミナミ君が僕の読んでる本を目に止めたことがあった。
「何読んでるん?」
僕は何百ページかあるジュール・ベルヌの『海底二万マイル』を読んでいた。
「面白いよ」と僕は言った。
ミナミ君は若干ビビった感じで 「こんなん面白いわけないやろ!」(字ばっかりで分厚すぎるから)とつっこんだ。
彼は賢かったけど 読書家っていう感じではなかった。
僕も全部わかって読んでるわけじゃなくて、たぶん飛ばし飛ばし、内容を追っていたんだと思う。
でもなんとなく ミナミ君にお前すごいな、と言われたようでうれしかった。
僕は彼と同じサッカーフィールドで生き生きと走り回れないけど
彼の歩いて行けない世界を 僕が歩けることもある。
きっとそうなのだ。
中学生になると ミナミ君と一緒のクラスになることはなかった。
彼の雰囲気が独特で ちょっといちびってると思われたのか 集団でヤンキーに凹られたこともあったようだった。
それでも彼はめげることなく 学校に通っていた。
ある日中学からの下校中 彼と彼の友達と すれ違ったことがあった。
彼の顔は小学校の時と同じ 悠然とした ちょっと偉そうな いつも何かに面白がってるような笑顔が浮かんでいた。
ヤンキーにボコられ委縮してる様子はない。
何も怯えるもののない ライオンの笑顔だ。
僕の方はというと中学に入ると 以前に輪をかけて さらに激暗キャラを究めていた。
ミナミ君が言った。
「クウは何に興味があるん?」
僕はどもりながら 「し・心霊現象とか?」 とつぶやいた。(半分ネタ)
「あっぶねー!!」とミナミ君たちは爆笑して 去って行った。
そんな風に いつも微妙にパラレルワールドを歩いていた僕とミナミ君は 一度だけ同じ道を歩いたことがある。
高校の卒業式の夜だった。
クラスの女子の家で飲み会になり、他の男子と一緒に僕とミナミ君もそこにいた。
僕は 結構べろべろになるまで飲んだ。
足元おぼつかずぐてんぐてんになった僕を見て、「こんななった人見るの初めて・・・」と 僕がちょっと好きだった女子があきれ顔で言った。
ミナミ君が僕を途中まで送ってくれることになった。
二人で自転車を押しながら もう終電も終わったあとの 線路に入り そこを歩き続けた。
何を話したかはまったく覚えていない。
あれほど長く彼と二人でいたのは 初めてだったかもしれない。
僕は 四国の大学に合格して 京都を離れることが決まっていた。
高校生最後の夜に 彼とこうやってスタンドバイミーできるのが 僕はちょっとうれしかった。
彼は今 僕のためだけに この線路を一緒に歩いてくれているのだから。
高校生活の、いや生まれ育った京都での生活の締めくくりのシーンとしては悪くなかった。
その後も彼の存在は 見えないレベルで 僕の選択に影響を与え続けた。
大学に入って 演劇を始めようなんて思ったのも、彼が「演劇をやりたい」といつか言ってた言葉をふと思い出したからでもあった。
クラスメートではあったものの、何度も一緒に遊んだものの 決して仲のいい友達とは言えない。
確かに彼に対する 強い憧れはあったが これはボーイズラブ的な話しでもない。
一体 ミナミ君の何が自分に影響を与え続けていたのだろうか・・・。
それから●十年。
一昨年、京都で同窓会があった。
僕は出れなかったけど 会場から僕の携帯に電話がかかり、クラスメート何人かと話したあとミナミ君の声が聞こえてきた。
「クウ 久しぶり」 あの頃とほとんど変わらない深い声だった。
彼が僕が前に通っていた小学校で、先生をしていることは僕も知っていた。
僕は東京で今福祉の仕事をしてることなどを彼に話した。
「今 京都でもそっち系の 募集多いよ」とミナミ君
そして
「帰っておいでえや」と彼は言った。
どうしてだろうか。
もう、小学生でも 高校生でもないのだが 彼にそう言われると 帰った方がいいのだろうか なんてちょっとでも考えてしまう。
ライオンの権威は今でも僕の心の奥に 刻まれているようだ。

アウマクア=高次の自己
ウハネ=日常の自己
ウニヒピリ=下位の自己 インナーチャイルド
言霊:
「ありがとう ごめんなさい 愛しています」
「ずっと側にいるよ いつも味方だよ 守ってるよ 大丈夫だよ」


◆勇者・戦士・僧侶・僕
転校した後、前の学校ほどは外でみんなと遊ぶことはなくなって、ひとり図書館に向かうこともよくある僕であったが、クラスメートと僕をつなぐ「ツール」があった。
それは、ゲーム。
家庭用ゲーム機がどこのうちにもあるという時代でもなかったので、よくみんな家に遊びに来た。
遊びに来たというか、ゲームをやりに来た と言ってもよいだろう。
今のように ハリウッド映画級のCGが動き回り、喋りまくるようなものではなく、粗いドット絵のキャラクターがかくかく動いてるようなものだったけど みんなやたらとゲームをやりたがった。
正直僕は、どう見てもこいつらゲームをやりに来ている・・・というのがわかるやつもいるので、あまり楽しくない部分もあった。
「今日うちに遊びに行ってもいい?」というのは「今日ゲームやりに行っていい?」にほぼ等しい。
でもかといって、彼らが嫌いだったり、まったく仲間意識がないというわけではない。
だから断りにくかった。
断り続けていたら友達がいなくなってしまう という不安感もあっただろう。
僕の家によく来ていたのは、ユウタ君と ヨシダ君だった。
ユウタは色の白くて、背の低い、ちょっと小動物的なかわいい感じの子だった。
彼は、そんなに自己主張は強くないが、クラス男子のメジャーグループの属していた。
ヨシダ君は、小学生にしてハードロックを聴いていたりして、感性が早熟な感じがする少年だが、その一方いまだに毎日お母さんにランドセルに教科書を入れてもらっているというマザコン説のある子だった。
ヨシダ君は、運動音痴で 休み時間にトイレで大きい方をしてるのを見つかったり、いろいろと痛い言動をバカにされがちな傾向があり どちらかというとメジャーグループからはずれていた。
彼は卒業文集の寄せ書きに 「幸せをつかむんじゃない 幸せを感じることができる心をつかむんだ!」と書いていた。
こういう小学生ぽくないことを、かっこよくないヨシダ君が書いてしまうから すごくいじられるのである。
この年頃になると、クラスの中にかなりはっきりとメジャーグループとマイナーグループができつつあった。
今でいうスクールカーストの兆しのようなものだろうか。
僕も ヨシダ君と同じくやはりマイナーグループよりだった。
僕としては バカにされているヨシダ君といつもつるんでいるのは やや自尊心が傷つく部分もあったのだが、なんとなく気が合うところもあったのだろう。
ヨシダ君は 痛い言動も多いが たまにちょっと気の利いた面白いこともいう。
ハードロックを聴いてるだけあって どこかアンテナが立っている。
二人とも運動下手で文系、かつややチキンなところも似ていた。
草食系のユウタも嫌いではなかったが 子供っぽい感じであまり話が合わなかった。
でもなぜか、彼はメジャーグループ寄りなのだ。
ユウタからははっきりとゲームをやりに来てる感が感じられたが、ヨシダ君とはもう少し気が合う関係だった。
ある日僕はとうとう待ちに待ったドラ●ンクエストの最新作を入手した!
・・・・というか親に買ってもらった。
すると クラスのメジャーグループ系の男子が ぞろぞろうちにもやってきた。
メジャーグループリーダー格の ミナミ君を筆頭に、彼と仲の良いヨウスケ、カタヤマ君 他にも見物人が数人・・・。
ドラ●ンクエストはパーティーを組んで 敵を倒して 経験値を積み レベルアップさせ 最終的に悪のラスボスを倒すのが目的。
4人パーティーで
まず伝説の 『勇者』(主人公)がいる。
そしてあと3人 仲間を付けられるのだが、その仲間たちは 戦士 僧侶 魔法使い 武闘家 遊び人 などの中から職業を選べる。
たいていは 勇者 戦士 僧侶 魔法使い というパーティーを組むのが王道だった。
誰も「遊び人」は普通 入れない。(弱くて、戦闘中に遊んでたりコケたりするため)
僧侶はダメージ回復系の魔法を使えるので 必須。 ホイミ ベホマ ザオリク!
魔法使いは攻撃系の魔法を使えるのでこれもほしい。 ベキラマ マヒャド イオナズン!
そして武器を使った攻撃力と守備力の高い 戦士となる。 かいしんのいちげき!!
(勇者は 魔法も武器もそこそこ)
それぞれのキャラクターには 好きな名前が付けられる。
これからゲームを始めるにあたって、ずっと付き合っていくキャラに命名する。
最低でも数十時間はかかる 長い旅の始まり。
もっともワクワクする瞬間でもある。
ゲーム機のコントローラーはリーダー格のミナミ君が握っていた。
まず勇者の名前だ!
何か一瞬 場がざわついたというか 空気を推し量るようなムードが流れ・・・
ミナミ君が入力する。かちゃかちゃ
勇者: ミナミン
えっ(゚△゚;ノ)ノ
かちゃかちゃかちゃ
戦士: ヨウスケ
僧侶: カタヤマ
魔法使い: クウ (←僕)
えええっ(o゚□゚)o≪≪≪ワアァァァァァァッ!!
・・・・いや ま、そうか リーダーっぽいミナミ君が勇者になるのは当然か。
一瞬、勇者:クウって入れてくれるのかと期待したけど 僕は勇者ってキャラじゃないし・・・・しかし、ちょっと待て キャラじゃないとかじゃなくて これ、僕のゲームなんだけど、、、
あーなんかもやもやする!!
ゲーム中にも現実の力関係反映かよ
勝手に魔法使いにされてるしぃぃ・・・(。´・(ェ)・)
言いたいことは多々あったが、それをグッと飲み込み、ゲームが進み始めた。
その日のうちに 全員結構レベルアップして いくつかのイベントをこなした。
ミナミ君も ヨウスケたちも夕方には帰って行ったが、僕はその設定でそのままゲームを進めた。
まあバックアップデータ(ぼうけんのしょ)が3つくらい取れるので、勇者クウという設定で最初から新たに初めてもよかったのだが、
夕方までみんなといっしょに展開を見ていて 僕もかなり感情移入しているので、もうこれでいいやと思ったのだった。
まあ魔法使いも悪くないさ。
そして、数週間後・・・
結局僕は勇者ミナミンで、ラスボスである大魔王ゾーマを倒して 世界に平和をもたらすことに成功した。
もうその頃には「よくぞやった勇者ミナミンよ、そなたのことは伝説として語り継がれるであろう!!」なんてセリフを読んでも、感動の方が強くて 誰やねん、勇者ミナミンて、どうして勇者クウじゃないんだ・・・・とかはどうでもよくなっていたけどさ。
ちゃんちゃん((^∀^*))
こういう風に書くと 僕はメジャーグループの筆頭であったミナミ君に対して 鬱屈した想いを持っていそうだけど、それは当たっていない。
僕は ミナミ君に対して どこか憧れのような感情を持っていた。
彼は明るくて、活力があったけど、内面的な深みも秘めてるような感じがしていた。
ある日の作文の時間のこと 担任の坂田先生が ミナミ君の机の側に来て
「ミナミ君はお兄さんが亡くなったから そのことも書いたらどう?」と言った。
ミナミ君はそれに対してなんと言ったのかわからないが、とても硬い表情をしてるのが、僕の席からも見えた。
あとで、ヨシダ君が 「 先生が あんなことミナミに言うのは・・・ あれはおかしい!」 と僕に興奮気味に言った。
こればかりはヨシダ君の言うとおりだ。僕も先生、なんでそんなこと言うのと思った。
彼は、義憤にまかせてこういうまともなことを時々言うのである。
いつも活気があるミナミ君から時々感じる 影のようなもの 内面性のようなものは そういう事情とも関係していたのだろうか。
そんな勇者ミナミンは現在 奇遇なことに 僕が転校する前にいた小学校で先生として教壇に立っている。
何年か前、別ブログで主に子供の頃の思い出をメインに書いてた記事があります。
考えてみると、今まで、家族とか 学校とか サークル活動とか いろんな<場>を経験してきて、それぞれの<場>のことを振り返ってみると それぞれに異なった自分がいたし、異なった物音や匂い 関係性があったなーと思います。
その記憶を文章として起こしていると、記憶の中のその領域が活性化され 思い出しもしなかった人の名前、固有名詞などが次々と湧き上がってきます。その世界に入り込み、何時間か経つと 「あれ? ここどこだっけ、明日の予定はなんだっけ?」とほんの一瞬わからなくなる。
そういう感覚が癖になり、一定期間続けて書いてました。
あわただしさや孤独の中でたった一人で生きてるような錯覚に陥ることもありますが、過去を振り返ると その過去の<場>の中に関わってきた無数の人たちのイメージが浮かんでは消えていきます。その当時の自分の想いも。
以下 そのブログ記事を加筆修正したものになります。
このブログとは やや異なった雰囲気の文章になってると思います。
なにかなつかしさの感覚や 共感を 読んで感じていただければうれしいです。
Childhood's End シリーズとして何回か更新して見ます。
初回は、前回記事で引用した部分の続きから。

◆寄せ書き
前回 周りを山に囲まれた妖しい町から、「街」へ転校することになったって書いた。
でも、首都圏基準で見るとどちらもたいして変わらない、田舎に違いない。
新しい家は 同じく京都市の北の方、国際会館っていう巨大な施設の近くだった。
世界中から要人が集まって 温暖化に対する会議をしたりして、「京都議定書」もそこで議決されたわけだけど、周辺はのどかだ。
よく来賓歓迎の花火が夜空を染めるのを、家族で家の窓から見物した。
転校初日、僕はがちがちの四面楚歌な気分で学校に向かい、教壇に一人立って短い自己紹介をした。
と言っても名前を小さい声で言って、「よろしくお願いします」とどうにかもごもご言うのが精いっぱい。
でもそれに対して 大きすぎるくらいの拍手が教室中から帰ってきて ちょっとホッとした。
好奇心をたたえてこちらを見つめる たくさんの顔がある。
新しい席に着くと、前の席の男子が早速振り返って 「どこに住んでるん?」とかなんとか話しかけてきた。
彼はかずみ君と言って その後よく いっしょに帰ることになる。
僕には新しいクラスメートが 学校の雰囲気が やたらと都会的に見えた。
みんな人なつっこくて明るそうだ。
家の周辺にしたって、前の家みたいに怪しそうな場所なんてひとつもない。
竹藪もないし 精神病院もないし 地蔵すらなかったような・・・
山は遠くに見えるだけ
登下校時には 住宅街の間の道を歩くだけだ。
なんか 普通だ。
つまらないとまでは思わなかったけど、淡々としている。
そして子供ながらに ここの子供たちのパーソナリティは 前の学校の子供たちとちょっと違うと感じた。
ここの子供たちは、みんな小奇麗で 着てるものとかもあか抜けていて ちょっと大人びているような気がした。
前の小学校の子供が 小汚かったというわけではないのだが、、、(笑)
前の友達たちは 一部粗野なところもあるけど、親しむと素朴で優しかった。
ここのクラスメートもみんな優しそうだし、受け入れてくれてる感じはする。
でも何年間もかけて、時には取っ組み合う喧嘩したり また仲直りしたりして 少しづつ自分の場所が出来てきた、あの学校の安心感とはやっぱり比べられない。
ここは なんとなくみな 「いいとこの子」みたいなイメージ。
転校したあと、一度だけ前の小学校に行った。
担任の先生が寄せ書きの画用紙を貼りつけた 大きな袋を僕にくれた。
袋の中には 一人一人が 僕に書いてくれた イラストとメッセージが入っていた。
僕はそれを抱えて家に戻り、庭先に座って読んだ。
どんなことが書いてあるのか ちょっとだけ見てやろうと思ったのだ。
読んでるとすぐに視界が歪み あとからあとから涙が頬を伝った。
泣きながら 僕は 読み続けた。
僕はあの11歳くらいの春に 特別な経験をした。
新しいクラスの全員に迎え入れられるという経験
それは教壇の上で30個以上の見知らぬ顔を見ながら 自分の名前を言って みんなの拍手を聴くこと
親しんでいたクラスの全員から見送られること
それは30人以上の僕を知ってる人たちが 別れと励ましのメッセージを、一人一人僕に書いてくれること。
寄せ書き。
どちらの経験も、貴重な経験だったと思う。
子供としては大変だったけど。。。その寄せ書きをずっと僕は大事に持っていた。
ところで
話しはかわるが 僕はサッカーや野球、バスケなどおよそ球技と名のつくものは軒並み好きではない。
興味がないというのを越えて
はっきり言って やや嫌い である。
ワールドカップとか言って世間が騒ぐときは 精神的に
耳と目と口をふさいだ三猿の置物のような 気持ちでいる。
その原因は どうも この頃の経験にあるような気がしている。
◆遊び時間と残酷なゲーム
僕が幼稚園の頃、よく覚えているのは、自分の席に座ってお気に入りの絵本を読んでいたことだ。
絵本は『おしいれのぼうけん』という。
幼稚園の押し入れに閉じ込められた二人の男の子が 異世界に迷い込み、協力し合いながらねずみばあさんという怪物と対決するというお話しだった。
ちょっぴり怖くて 不気味で スリルがあって 幻想的で 最後はハッピーエンド。
最後の方の夜空に星が降るシーンの絵がとてきれいで 今でも鮮明に覚えている。
他の園の子供たちは ブロックコーナーで遊んでる子が多かった気がする。
僕もたまには ブロックで遊んだんだろうけど 鮮明に覚えているのは 『おしいれのぼうけん』を読んでたこと。
星降る夜空の挿絵を じっと見つめていたことだ。
おしいれの中に広がる 夢とも現実ともつかない世界に心が躍った。
幼稚園でも小学校でも 中学生になっても 休み時間、遊びの時間というのはいつもちょっと苦手な時間だった気がする。
他の子供たちが元気にはしゃいでいる その中で 僕はひとりぽつんと途方に暮れている。
そんなイメージが強い。
実際はいつもそうだったわけじゃなくて、校庭でみんなと走り回って遊んだこともいっぱいあった。
僕が好きなのは 鬼ごっことか かくれんぼとか 走ったり 追いかけたり 逃げたりする遊びとか ちょっとアクロバティックなごっこ遊びだった。
ところが大きくなるにつれて さすがにみんなそういう遊びはしなくなり、特に男子は主に球技に走ってゆく。
僕はボールを使った遊びは 好きじゃないし 得意じゃない。
たぶん ドッジボールくらいまでなら 楽しめたのだが それは主に 「ボールをよけるのが楽しい」からだった。
サバイバルゲームのような要素があるのでワクワクする。
転校した学校では みんな休み時間にサッカーをしていて、それを窓から見てることが多かった。
僕は10歳くらいの頃は 走るのが早い方で クラスの男子の中でトップ5には入っていたと思う。
あまりに早いので『走る原始人』という変なあだ名をつけられたほどだ。
それでもサッカーは苦手だった。
まず、ボールさばきが下手なので 誰もパスをしてくれない。
というか、パスしてもらっても困る。どないせえっちゅうねん。
足が速いだけでは戦力にならない。
だからゲームに加わる時は もっぱらディフェンス専門になる。
顔面全体で ボールをブロックしたこともある。
ブロックというか 飛んできたボールに当たっただけであったが。
ディフェンスばかりやっててもちっとも面白くないので そのうちやらなくなった。
野球に関しては 放課後 近所の広場で みんなと遊んでいるときに 凡ミスばかりするので
あきれられ 泣きそうになっているところに
「ああぁーー泣くなよ~~」とからかわれ
「うぎゃー!!」と逆ギレして叫んだところ
あたりがシーンと静まりかえり そのままゲームが一時中断。
ゲームを絶叫で強制シャットダウンさせてしまった僕は泣きながらうちに帰った。
うちに帰ると ゲーム機のスイッチを入れて 怒りをこめてボタンを連打しまくった。
そんなトラウマがあるためか、野球もサッカーもいまだに好きになれない。
そもそも僕としては そんなに好きでもないのに みんながやるっていうから行かなきゃ っていう付き合い意識が幼いなりにあったんだと思う。
なのに なのに である。
好きでもないことをやらさせられて その上 呆れられるとか、ディスられるとか こんな屈辱を味わうとは・・・みたいな部分で破裂したような気がする。
今書いてて 思ったけど 僕の苦手なものは
野球にしろ バスケにしろ サッカーにしろ バレーボールにしろ
チームプレイを要する球技。
そして、ミスすると「仲間から」思いっきり白い目で見られる という可能性のあるスポーツであるみたいだ。
なんて残酷なゲームなのだろうか。
だかが遊びなのに。
逆に
チームとは関係なく 走ったり 隠れたり 追いかけたりする 遊び。
これは気楽だ。
そして楽しい!
僕がつかまれば、僕がアウトと言うだけの話しで、誰に文句を言われることもない。
それに逃げたり 隠れたりするときに感じる 原始的なスリルのようなものの方が
ボールを追いかけるよりも 僕にとっては楽しい。
やはりマインドが『走る原始人』ということか。
テレビ番組の「逃走中」には本気で参加したいと思うし、サッカーはゴメンでもサバゲーならやってみたい。
そんな風に 転校した学校では だんだんグランドでみんなと遊ぶ機会は前よりも減った。
僕は 誰もない図書室に行って そこでSF小説を読んだりしながら休み時間をよく過ごすようになった。
図書館にはウェルズやジュール・ヴェルヌなど古典的なSF作品や ポー、ブラムストーカーなどの怪奇ミステリー作品がたくさんあった。
思春期の始まりとともに 内向化への道を歩み始めていた僕であったが、
ところがある日の放課後 息を弾ませながら クラスの仲間と校舎を走り回っていた。
なぜ そういうことになったのかわからないが 授業が終わって がらんとした校舎全体を使って鬼ごっこをすることになったのだった。
誰もいない放課後の校舎は ちょっとミステリアス。
どこに鬼が潜んでいるのかもわからない。
息を切らしながら 鬼がどこにいるか情報交換しながら逃げ回る。
あれが、僕がした「ラスト鬼ごっこ」だったかもしれない。
たぶん6年生とかで、好きな女子の話しもこっそりし始める、、そんな年ごろにやった最後の鬼ごっこ。
実はこの鬼ごっこ ちょっと裏事情があって、
隣のクラスのいじめられていた女の子の 「菌」をつけ合う、「菌」をつけられると鬼になるというひどい設定のものだった。
今から思うと ずいぶん残酷なゲームだと思うけど、そんな遊びをしながら
あの女の子が見たらどう思うだろうとか、こんなひどい遊び止めないかとか、
悪いことをしてるという想いもほとんどなく 僕はただただ楽しんでいたような気がする。
誰一人としてこんなことはやめようと言わなかったし、僕自身にしろ そんなことを言うやつが誰かいたら興ざめしただろう。
振り返れば胸が痛む記憶であり しかし 楽しい記憶でもあると言わざるを得ない。
それは知らず知らずのうちに 笑いさんざめきながら 残酷でいられた時代でもあった。
僕も その 無知の明るさの中で 知らず知らずのうちに傷ついたり 傷つけたりしてたのかもしれない。
◆なつかしくて妖しいあの場所
子供の頃、京都市の結構田舎に住んでいた。
家の周辺は
コンビニはおろか、
スーパーも2,3キロ歩かないとなかったと思う。
車もほとんど通らず昼間も静かだった。
学校からの帰り道は、竹藪の林のような道を歩いたり、古い土塀の路地や田んぼの間を歩いたり、一人で帰る時はちょっと怖かった気がする。
子供のころの記憶って 意味がわからないものが いくつかある。
客間に般若のお面がかざってあったんだけど、その面の鼻の穴をのぞきこんでみると 毛が入っていた
え??
それだけの記憶とか。
そもそもなんで鼻の穴をのぞこうとしたのか・・・
家の中にいる時 誰か知らない人が 低い声で僕の名前を呼ぶ声を聴いて
「うわーぎゃーお父さん! お父さん! 誰かが、誰かが~」と親の元に走って行った記憶とか ??
勝ち気で僕によくからんできた女の子が 誰もいない場所に僕を引っ張って行って
腰のあたりに痣があるから見せてあげると、肌を見せようとしてきて
どうしていいかわからなくて 目を伏せて立ち去ったような記憶とか ??
隣の家が教会だった。
夜に窓からその庭をのぞくと、牧師のおじさんが両手をゾンビのように前に水平にあげてゆっくり歩いているのを見た。ぎゃー><なに? なんなん??
??
今考えてみると 低い声は もしかして 父親が僕をからかっていたのかもしれないとも思う。
毛はきっと 「偶然」 紛れ込んだんだろう。
女の子は僕のことが好きだったのか それとも虐待??
牧師さんはきっと何かの健康法でもやってたのか。。。きっとそうに違いない。
でも 思い出の中の 家とその近所は 何かが潜んでいるような ふしぎで ちょっとあやしい雰囲気がある。水木しげるの漫画みたいな。自然霊が潜んでそうな気配。
それは僕がちょっと臆病な子であったからそう思うのか あるいは 実際にあやしい場所だったのか 今でもわからない。
ただ大人になって東京に住んでる今から思うと、実際にあやしい場所かどうかはさておき、あそこには何かが潜んでいるスペースはたっぷりあったことは確かだ。
苔むしたお地蔵さま 妖怪が出るという噂の川 近所の精神病院 裏山の林の中 誰か子供がおぼれたという噂の貯水池
子供の想像力を刺激して 怪異が隠れてそうに思わせる場所は確かに多かった。家の中にすらたくさん怖そうなエリアがあった。
怖がりの僕から見れば まったく化け物だらけの場所だったに違いない。
でもそんな怖い思い出ばかりではなく 山奥の池に車で蛍を観に連れて行ってもらったり、花火をしたりもした思い出もある。
車の窓から流れ込んでくる山の濃い緑の匂い、そして鼻をつく火薬の匂いがすぐによみがえってくる。
僕の家は大所帯の7人家族。
おじいちゃん おばあちゃん 父と母 僕と ふたりの弟。
犬も一匹飼っていたし 熱帯魚もいた。
そこはちょっと不気味だけど それでもたくさんの命と 緑に包まれた場所だった。
僕は喘息持ちだったし、何もかも満たされた子供時代だったわけじゃない。
でも東京のワンルームの一室で一人住まいの 今 とりとめなく思い出してみると あそこも悪くなかったなと思えてくる。
子供の頃住んでいた家と町のことを想いだしていると、いろいろな感覚が渦巻き、しばらく頭を離れなくなった。
Googleマップでそのエリアを開いてみる。
南側と西側、北側が山に囲まれている 逆コの字のエリア。
山ぎわまでおそらく100メートルほど。
東側だけが唯一開けていて ベランダから比叡山が見えた。
北側の山地を見ると、直線距離で5キロほどのところに牛若丸とサナートクマラで有名な鞍馬寺がある。
近くには岩倉具視幽棲宅。
門跡寺院である岩倉実相院(床の間に紅葉が映り込む、床紅葉で有名)、そして精神病院がある。
この土地は鎌倉期から、メンタルを病んだ人たちの療養地として知られていたらしい。
と同時に貴族の 隠遁の地であったという情報もあった。
登下校時に通る「目無し橋」という橋があった。
なぜ目無し橋というかというと、この橋の竹藪に人魂が飛んでいて、そこを通る人が恐ろしくて
目を閉じて通ったかららしい。
その脇には目無し地蔵というかなりのサイズの石仏が並んでいる。
この地蔵も相当古くおそらく鎌倉期のもの。
あらためて思い返すと、
あのー・・ちょっといろいろとミステリーが多すぎやしませんか・・・・(笑)
まあ、京都はこういうスポット多いかもしれないけどね。
深泥池(みどろがいけと読む。タクシー怪談発祥の地)とか、狐坂とか(笑)
そんなわけで、僕が感じていた「妖しさ」はゆえなきことではなく、おそらく濃厚な「山の気」とその土地に宿る歴史から醸成されたものだったのではないかと思われる。
僕が怖がりだから・・・だけでは決してない。
僕は怖がりかつ 内向的だったが うちでは超うるさいというタイプでもあった。
親には「内弁慶」と言われていた。
学校ではシャイすぎてあまり友達は多くなく、時々いじめられた。
しかしそういう時には 父親から教わった大外狩りや 爪で血が出るほどひっかく!という技でやり返すこともよくあった。
だから学校はそんなに好きじゃなかったけど、
四年生になると結構よく遊ぶ仲間が出来ていた。
あれ?いつの間にかみんなの輪の中にいる
そのことが子供ながらにちょっと不思議だった。
なぜ友達ができたのかもよく覚えていない。
子供だし、よし、頑張って友達を作ろう!なんて思わなかったと思う。
学校が楽しくなった。
友情とか 勇気とか
子供向け漫画雑誌に書いてあるようなことが ちょっとわかった気がした。
でもそんなある日 僕の家族は引っ越しすることになった。
数キロしか離れてない場所だけど 校区は変わる。
せっかく仲良くなったみんなと別れなくちゃならない。
それが悲しくて 僕は教室で泣いた。
行きたくなかった。
数キロしか離れていなくても、子供にとってはまったく知らない場所。
誰も知り合いのいない場所・・・。
そこで一からはじめなきゃいけない。
大人になってからも、時々 僕は 引っ越す前の家にいる夢を見た。
祖父はその家で亡くなった。
だから その家は 僕にとっての7人家族みんながそろっていた最後の場所だった。
確かにちょっと不思議で妖しい町だったけど、みんなそろっていた。
家の屋根には父が建てた巨大なアマチュア無線のアンテナが、遠い世界の方を向いていた。
命の君と、3Dホログラム

Affirmation
真の生命だけが実在する
それ以外の力を持つように見えるもの
巨大な建築物 権威 国家 通貨 兵器 価値観などは
一枚の葉に宿る露にうつされた
3Dの幻影である
もっとも小さきものが もっとも巨大であり
もっとも巨大に見えるものが 儚き幻影である
命の君は すべてを癒やし給う
命の君は 私の中で生きている
彼<生命>は必ず勝利する

昨夜はなんか、睡魔がひどく(´ぅω・`)ネムイ・・・呼吸がなんにもしてないのに深い腹式呼吸になり、ボーっとするので早く寝ました。21時半とか、、、そんな時間に布団に入り 睡眠導入剤を飲む暇もなく 自然睡眠に。
2時ごろ目を覚まし・・・いろいろな夢見たなーという感じですが 内容ははっきりせず・・・ただなんかうちの母方の親戚とか そっちのお墓をちゃんとしないといけないとか そういう内容だったのは覚えてて、なんでこんな夢見たんだろうと しばらく布団の中で内容を思い返してました。
ちょっと思ったのは、母方のいとこって全員女性で、息子がいるのは母の兄妹の中で 母親だけなんですよね。
母は当然 父の姓になってるので だから母の旧姓っていうのは この代で終わるわけです。
母方の祖父にとって 男孫は 僕とその兄弟だけで・・・・その男孫の長男である自分に なんか来てるのかな・・・・とかいろいろ考えてました。
ちょっと前にも書きましたけど、祖父の弟さんが 沖縄戦で玉砕したことを最近知り、沖縄の平和祈念公園で名前を探して見つけました。沖縄に遊びに行ってダイビングしてた頃は そんなこと全く知らず 普通に沖縄が好きななだけだと思っていたんですが、それを知ってからちょっと複雑な気分になっています。
以下、他のブログで そのことについて書いた記事です。
実家に帰った時、父が、母方の家系図を見せてくれた。
父は家族の記録を調査、記録するのが好きで、その興味の対象は自分の父母の祖先だけじゃなく、母方の家系にまで及ぶ。
こと細かく書かれた系図や年表を見ていると、いったいこの情熱はどこから湧いてくるんだろうと思う。
とはいえ、僕も最近 自分のDNAがどのようなルーツを持っているかということに関心を持ち始めていた。
10代 20代の頃は割とどうでもよかったことではあるけど、自分の体と長い間過ごすうちに、「あれ? そういえば これ、どこからきたんだろう?」 という素朴な疑問がふと頭をもたげる。
日本人がもしも大陸を横断したり、海を渡って この島にたどり着いたんだとすると、僕のDNAの中にもそんなジャーニーの記録が残っていることになる。そのDNAの声に耳を傾けたくなってきた。
そうすると 自分の命が何を願っているのかということがわかるような気がするからだ。
だから 父が 作った母方祖先の 歴史年表を僕は食い入るように見つめた。
母方親族には 橋本関雪という日本画家の師であった片岡公曠(こうこう)という人物や 戦後改進党という政党で衆議院議員をしていた人(小畑虎之助氏)、カンの虫封じ師をしていた人 など興味深い人物がちらほら見える。
この人たちの才能や能力のほんの一部でも自分に宿ってはいないだろうか・・・と淡い希望を抱いたりもする。
年表を読み進めているうちに 視線が止まった。
「1945年 5月20日 沖縄首里にて戦死」とそこには書かれていた。
それは僕の祖父の弟であった Tさん についての記述だった。
「え!? おじいちゃんの弟って 沖縄戦で亡くなってるの??」 と僕は思わず声を上げた。
僕から見て大叔父さんにあたる Tさんは 1945年の 5月20日 25歳の若さで 沖縄で戦死していたのだった。
1945年の 5月と言えば 当時司令本部のあった 首里が米軍によりまさに陥落しようとしていた頃のようだ。
どうやらT大叔父さんは その攻防の中で命を落としたようなのである。
知らなかった。
というか申し訳ないけど 祖父に弟さんがいたことすら 今の今まで知らなかった。
僕は ここ数年沖縄に心惹かれてきた。
北谷でダイビングをしたり 神の島と言われる久高島を訪れたり 首里城にも立ち寄った。
それは自分自身の旅だと思っていた。
沖縄の民話や伝承が気になったり ウチナーグチ(沖縄方言)がとても懐かしく聞こえたり、沖縄の唄を聞いて泣けてきたりするのは、もしかして過去世で琉球にいたのかな?? なんて思うこともあった。
父も母も関西出身の僕にとって 不思議な憧れで僕と沖縄を結ぶ糸は DNAではなく 魂以外にないと思っていた。
それと同時に 沖縄の影にも 僕の心は吸いこまれていくようだった。
幼いころに聞いたサトウキビ畑の歌は脳裏に 悲しく 透明な風景を 浮かび上がらせた。
戦さの記憶。
戦後何十年経ってから生まれたにも関わらず、
しかも 遠く離れた 島の歴史でもあるにも関わらず なぜか あの戦争の記録を調べていたこともあった。
大叔父さんのTさんの存在を知ったことで 僕と 沖縄を結ぶ糸が 一本増えたような気がした。
DNA的にも 僕と沖縄とは 因縁で結ばれていた。
沖縄県糸満市にある平和記念公園には平和の礎という碑があり、沖縄戦で亡くなった24万人もの人々の名前が刻まれている。
祖父は数年前に99歳で亡くなったが、ずいぶん前に そこに刻まれた弟のTさんの名前を探しに 沖縄を訪れたことがあったそうだ。
そんな話しも初めて 母の口から聴いた。
血の物語に耳を傾けようと思えば もしかすると それは引き寄せられてくるのかもしれない。
神の島を尋ね 美しい海に潜って楽しんでいた その頃の僕は そんなことは何も知らなかった。
でも 何も知らなくても きっと 僕は 僕の命の書の中に生きている Tさんとともに 旅をしていたのかもしれないと思う。
上の記事の中で カンのむし封じ師をしてた人がいた と書いてるんですが、なんか 一種の民間療法?というかまじない師?というか そういう人がいたのが結構気になっており・・・
母方のルーツは 兵庫県の養父市というところらしいんです。←やぶ市と読みます。
で、世間には「やぶ医者」という言葉があるんですが、もともとの語源は 「養父に名医がいた」ことから来るという一説があるようです。そういうところで、そのご先祖?は虫封じをしていた。
その人がやぶ医者の語源になったっのかどうかは知りませんが 、、なんかいろいろ面白いなあ と思います。
ちなみに 養父市って かなりアクセスは辺鄙そうだけど 写真で見る限り こういうような棚田があったりして とてもよさげなところに見えました。

日本人の原郷的な・・・何があるかわからないこういう時代、こういう風景を見るととても 心が休まり 訪れてみたいと感じます。
心のふるさと的な。
僕も京都に実家はあるんですけど、最近引っ越した家なので、あまりその周辺はなつかしいという感じはしないんです。
割と風光明媚な鴨川とかも近いし 古いお寺もあるいい場所ですけど、「なつかしい」っていう感覚とは違う。
子供の頃過ごしたのは全然 風光明媚な場所ではなく ちょっとどんよりしたスポットも多かった小さな町でした。
でも、そこの方がやっぱり 記憶の中では「なつかしい」って 家だって 思うんですよね。
でも、そこはもう自分の家ではありません。
ふるさとは記憶の中に、時間軸の向こう側に行ってしまった感覚です。
ずっと昔からある家に生まれ育って 帰省すれば 今も その場所で すべてのなつかしさが自分を迎えてくれる・・・みたいな そういう「おもひでぽろぽろ」的なふるさとを持っている・・・という人はもしかしたら 今では稀なのかもしれないですよね。
でもだからこそ、ずっと変わらない 自分が属する場所・・・そこに帰ればありのままで迎えられて ずっといなさいよと言ってくれるような場所への憧れも 強まっていると言えるかもしれません。
自分がここに「属する」と心から思える土地があるというのは とても幸せなことなんですね。
血の流れの中で あるいは魂の旅の中で 人は様々な場所とつながっている。
だからふるさとと未来に出会うということだって・・・あるのかもしれません。
「帰ってきた IM HOME! 」
心の中で そう何度か繰り返すと 過去とも未来ともしれない 「ふるさと」の風景が見えるような気がするときがあります。
子供の頃、京都市の結構田舎に住んでいた。
家の周辺は
コンビニはおろか、
スーパーも2,3キロ歩かないとなかったと思う。
車もほとんど通らず昼間も静かだった。
学校からの帰り道は、竹藪の林のような道を歩いたり、古い土塀の路地や田んぼの間を歩いたり、一人で帰る時はちょっと怖かった気がする。
子供のころの記憶って 意味がわからないものが いくつかある。
客間に般若のお面がかざってあったんだけど、その面の鼻の穴をのぞきこんでみると 毛が入っていた
え??
それだけの記憶とか。
そもそもなんで鼻の穴をのぞこうとしたのか・・・
家の中にいる時 誰か知らない人が 低い声で僕の名前を呼ぶ声を聴いて
「うわーぎゃーお父さん! お父さん! 誰かが、誰かが~」と親の元に走って行った記憶とか ??
勝ち気で僕によくからんできた女の子が 誰もいない場所に僕を引っ張って行って
腰のあたりに痣があるから見せてあげると、肌を見せようとしてきて
どうしていいかわからなくて 目を伏せて立ち去ったような記憶とか ??
隣の家が教会だった。
夜に窓からその庭をのぞくと、牧師のおじさんが両手をゾンビのように前に水平にあげてゆっくり歩いているのを見た。ぎゃー><なに? なんなん??
??
今考えてみると 低い声は もしかして 父親が僕をからかっていたのかもしれないとも思う。
毛はきっと 「偶然」 紛れ込んだんだろう。
女の子は僕のことが好きだったのか それとも虐待??
牧師さんはきっと何かの健康法でもやってたのか。。。きっとそうに違いない。
でも 思い出の中の 家とその近所は 何かが潜んでいるような ふしぎで ちょっとあやしい雰囲気がある。水木しげるの漫画みたいな。自然霊が潜んでそうな気配。
それは僕がちょっと臆病な子であったからそう思うのか あるいは 実際にあやしい場所だったのか 今でもわからない。
ただ大人になって東京に住んでる今から思うと、実際にあやしい場所かどうかはさておき、あそこには何かが潜んでいるスペースはたっぷりあったことは確かだ。
苔むしたお地蔵さま 妖怪が出るという噂の川 近所の精神病院 裏山の林の中 誰か子供がおぼれたという噂の貯水池
子供の想像力を刺激して 怪異が隠れてそうに思わせる場所は確かに多かった。家の中にすらたくさん怖そうなエリアがあった。
怖がりの僕から見れば まったく化け物だらけの場所だったに違いない。
でもそんな怖い思い出ばかりではなく 山奥の池に車で蛍を観に連れて行ってもらったり、花火をしたりもした思い出もある。
車の窓から流れ込んでくる山の濃い緑の匂い、そして鼻をつく火薬の匂いがすぐによみがえってくる。
僕の家は大所帯の7人家族。
おじいちゃん おばあちゃん 父と母 僕と ふたりの弟。
犬も一匹飼っていたし 熱帯魚もいた。
そこはちょっと不気味だけど それでもたくさんの命と 緑に包まれた場所だった。
僕は喘息持ちだったし、何もかも満たされた子供時代だったわけじゃない。
でも東京のワンルームの一室で一人住まいの 今 とりとめなく思い出してみると あそこも悪くなかったなと思えてくる。
子供の頃住んでいた家と町のことを想いだしていると、いろいろな感覚が渦巻き、しばらく頭を離れなくなった。
Googleマップでそのエリアを開いてみる。
南側と西側、北側が山に囲まれている 逆コの字のエリア。
山ぎわまでおそらく100メートルほど。
東側だけが唯一開けていて ベランダから比叡山が見えた。
北側の山地を見ると、直線距離で5キロほどのところに牛若丸とサナートクマラで有名な鞍馬寺がある。
近くには岩倉具視幽棲宅。
門跡寺院である岩倉実相院(床の間に紅葉が映り込む、床紅葉で有名)、そして精神病院がある。
この土地は鎌倉期から、メンタルを病んだ人たちの療養地として知られていたらしい。
と同時に貴族の 隠遁の地であったという情報もあった。
登下校時に通る「目無し橋」という橋があった。
なぜ目無し橋というかというと、この橋の竹藪に人魂が飛んでいて、そこを通る人が恐ろしくて
目を閉じて通ったかららしい。
その脇には目無し地蔵というかなりのサイズの石仏が並んでいる。
この地蔵も相当古くおそらく鎌倉期のもの。
あらためて思い返すと、
あのー・・ちょっといろいろとミステリーが多すぎやしませんか・・・・(笑)
まあ、京都はこういうスポット多いかもしれないけどね。
深泥池(みどろがいけと読む。タクシー怪談発祥の地)とか、狐坂とか(笑)
そんなわけで、僕が感じていた「妖しさ」はゆえなきことではなく、おそらく濃厚な「山の気」とその土地に宿る歴史から醸成されたものだったのではないかと思われる。
僕が怖がりだから・・・だけでは決してない。
僕は怖がりかつ 内向的だったが うちでは超うるさいというタイプでもあった。
親には「内弁慶」と言われていた。
学校ではシャイすぎてあまり友達は多くなく、時々いじめられた。
しかしそういう時には 父親から教わった大外狩りや 爪で血が出るほどひっかく!という技でやり返すこともよくあった。
だから学校はそんなに好きじゃなかったけど、
四年生になると結構よく遊ぶ仲間が出来ていた。
あれ?いつの間にかみんなの輪の中にいる
そのことが子供ながらにちょっと不思議だった。
なぜ友達ができたのかもよく覚えていない。
子供だし、よし、頑張って友達を作ろう!なんて思わなかったと思う。
学校が楽しくなった。
友情とか 勇気とか
子供向け漫画雑誌に書いてあるようなことが ちょっとわかった気がした。
でもそんなある日 僕の家族は引っ越しすることになった。
数キロしか離れてない場所だけど 校区は変わる。
せっかく仲良くなったみんなと別れなくちゃならない。
それが悲しくて 僕は教室で泣いた。
行きたくなかった。
数キロしか離れていなくても、子供にとってはまったく知らない場所。
誰も知り合いのいない場所・・・。
そこで一からはじめなきゃいけない。
大人になってからも、時々 僕は 引っ越す前の家にいる夢を見た。
祖父はその家で亡くなった。
だから その家は 僕にとっての7人家族みんながそろっていた最後の場所だった。
確かにちょっと不思議で妖しい町だったけど、みんなそろっていた。
家の屋根には父が建てた巨大なアマチュア無線のアンテナが、遠い世界の方を向いていた。
今日のお絵描き。
ワンネスイメージ。

「I am a facet of the divine and always connected to it 」 ANITA MOORJANI
私は 神の欠くことのできない一部であり 常に それとつながっている
すべては ひとつである
私は いつも その中に属し 愛され 見守られている
私は 高次の自己とひとつである
また
すべての 生命は それの一部である
私は すべての生命とひとつであり
すべての生命により 生かされている

コロナで死んだのだと言われた人たちがいたが、死者数が増えたということは全くなかった。
ありとあらゆる死がコロナとは関係なくても、コロナの死として記録されていた。
ワクチン接種が2021年1月6日に始まり、それからの死亡率は異常だった。
この15年間、葬儀屋としてこんなことは初めてで、他の人に聞いても同じ感想だった。
そしてそれはまさしくワクチン注射が始まってからのことだ。
ワクチンを注射されている子供たちは間もなく病気になり、死んでしまう。ワクチン接種の結果としてだ。
彼らがこんな風に平然と人を殺すのであれば、ためらうことなく私のような人間を黙らせるんじゃないかな。
コ ロナで死んだ子供はいないのだから、子供たちにこのような遺伝子治療を施す理由はない。全くない!
弁解の余地も全くない。 これは人口削減のアジェンダだ。
人口削減の一環として、彼らは2つの戦線で攻撃を仕掛けている。1つは人を殺すことで、私は葬儀屋としてそれを目の当たりにしている。もう1つは子供たちを不妊にしたり、障害者にしたりして将来子供を作れないようにすること。
真実は、ワクチンが人々にダメージを与え、殺しているということだ。私は葬儀屋としてそれを目の当たりにしている。
長年英国で葬儀業を営まれているという方が、今年1月6日以来の死亡者数の激増に関して、ご自身が体験されたことを話しています。
話者の情熱が伝わってくる、非常に見ごたえのある インタビュービデオです((((;゚Д゚)))))))
動画プラットフォーム Odysee より。
以下、はいたか現況
東京は最近は、20数人ご新規感染者が発表されているだけですが、いまだノーマスクで歩いてるとやや自意識が過剰に働いてしまう状態が続いています。 自分含め、みんな一体なんのためにマスクをしてるのかよくわかりません。
ここ数週間、飲みに誘われることが多く、居酒屋に3回くらい行ったし、今週末も旧友と飲む予定になっています。
自分的にはこの一年半以上特に自粛してるつもりはなかったけど、なんか街中に行くのが億劫で部屋とか自然の中で過ごすのが一番落ち着きました。
考え過ぎかもしれねいけど、夏くらいから どうも救急車のサイレンの音が多すぎるような気がしています。
欧州では若いスポーツ選手が突然倒れたり、死亡したりする例が急増しているようです。
日本でも免疫の低下により起こる帯状疱疹が増加していることが報じられていました。
・・・そんな感じで 極端な言い方をすると、なんだか文明の残骸の中にいるような気分になることがよくあります。
いや~ 頻繁に聞こえるぴーぽーぴーぽーで 運ばれてる人が 自他のため良かれと思ってショットした人かもしれないと想うとたまりませんよ・・
メディアや 大企業や 国家 自治体などが 連携し、人の健康を損なうような世界は 「文明」の名に値しないし、構造の中核がもはや腐敗した 信じられないものに変質しているような印象を受けます。
学問の世界において最高の権威であるはずのノーベル賞を受賞した、リュック・モンタニエ博士のような人がmRNAの危険性を告発しても、その見解は主流メディアにあがらない。
例えば以下は、東京理科大学名誉教授の村上康文さんがフォーブスに寄稿した文章だそうです。
3回目以降の「ブースター接種」についてですが、とくに慎重に進めていくべきであると考える研究者は、私を含め、少なくありません。
現状認可され、世界で使われているワクチンはすべてウイルスの毒性のあるスパイクタンパクの全長を使ったワクチンです。
これを、5回とか6回とか7回、人体に接種することにはリスクが伴う可能性があることを、ワクチン開発者は認識すべきでしょう。
同一の抗原で繰り返し免疫化を行った場合、5回目から死亡する例が激増。7〜8回繰り返すと半分近くが死亡するという動物での研究結果もある。
このような「スパイクタンパク質の全体」を抗原とすることにより、ワクチン接種者の中には抗体依存的感染増強(ADE)により重症化するという人が出てくる可能性が考えられます。
実際、RNA型ウイルスの「デング熱」では、フィリピンで、200人以上の子供がワクチン接種後、ADEで死亡するという悲劇が起きています。
そして 今度はこれを子供たちに打ち始めるという・・・ おめえら 脳みそ大丈夫か?(○´・Д・`)ノ
おい
スーパークレイジーすぎて 自分の頭がおかしいのかなあ だったらいいのになあ と思う(´;ω;`)
だもんで・・・積極的に このクレイジーすぎる世界と関わる気が全くしないというか ・・・・ そういう気持ちになりがちなのですが、お酒を飲みに行ったりする機会が増えると、やっぱ ビールの味はビールの味だし 食べ物の匂いとか、うるさい喧噪とか 笑い声なんていうものは、まったく同じで・・・ほろ酔いの気分で目を閉じると 全く何も以前と変わってないなあという気分に瞬間的にはなれて、ある程度は楽しむことができました。
ただなぜか自分と相手の間にアクリル板があって、異常にしゃべりにくいという なんかの罰ゲームかよ・・・(´∀`*)
それでも、この1年半どちらかというとストイックに ある種深刻に過ごしてきたところもあるので、お酒を飲みおいしいものを食べる機会は とっても気分転換になりよかったです。
まあ、日本も来月には3回目とか ワクパスがどうとか言ってて きなくさいんですけど、オーストラリアとか一部の米国の州に比べるとやはりゆるいようで、海外では接種してないと仕事が出来ない、学校にいけないなど人権を侵害されるような状況もあり、海外から日本に帰国するという方も増えているようです。
割と 世界の状況と言うのはまだら模様であり、すごく強権が発動され医療ファシズムが浸透している地域と、比較的ゆるい地域があり・・・日本の状況も世界基準で見るとそんなに悪くないのかもしれませんね。
ここ数年大自然豊かなオーストラリアに憧れていて、去年は行く予定だったんですけど、それもこの騒ぎでつぶれちゃってがっかりでした。
が、まさかオーストラリアが全部ではないにしても半収容所のようなことになるとは思いもせず、、、ホント 人生 どこで生きているのが幸いか最後までわかりません。
ワクチン接種して、健康被害が出てきた場合でも、いろいろな選択肢が調べると出てきます。インドで絶大な効果を発揮したイベルメクチンがワク後遺症に効果があるという情報もあるし、様々なサプリがあるようです。
また、ワクの半分くらいはプラセボ群というか いわゆる水ワクチンだという話しもあるので、その場合2回打つとして50パーセント×50パーセントの25パーセントを引き当てれば、まったくなんの影響もでないかもしれません。
それでも、少なくとも国内数千万人が健康リスクを抱えているという状態は やっぱりただ事ではなく、、、肌感覚でそれを感じています。
最近のワク関係のヤフコメを読むと、殆どのコメントが反ワク的なスタンスで あれ?て思うんですけどね、、、ほとんどの人が、これ絶対おかしいと思ってんじゃない? でも、それが大手メディアとかに全然っ反映されないのはなんでなんだろう。まあヤフコメに書き込む人口って 全体から見ればごく少数だとは思うけど、それにしても少なからずの人が この流れに異常を感じてるはずなんだけど。
同僚とか リアル人間関係の周りは、がんがん打ってるし 反ワクぽい人が居ないのが、、、ちょっとさびしいので この流れへの違和感を心底感じてる人と リアルでつながって お酒飲んだりしながらこの先の時代について話したりしたいな~なんて 時々思っています。
別にデモに参加したりする必要はないけど、、この先いろいろあるかもしれないので 連携は必要かなって最近 よく思います。
文明の残骸が崩れ落ちた時に、助け合えるように。
社会や文明が残骸化する時は、その中に取り込まれていた それぞれの実存や生命が 解き放たれて輝く時でもあるはずだ・・・ということに希望を持ちたいです。
超不都合な科学的真実 「長寿の秘密/失われた古代文明」編 (5次元文庫)
最近、ケイ・ミズモリさんの書かれた本をよく読んでいる。
パキスタンに100歳以上の長寿者が多いと言われる、フンザ族という民族が暮らす村があるが、その寿命の秘密は彼らの飲んでいる水にあるという話しがある。
パトリック・フラナガンという科学者が彼らが飲む水・・・フンザ水・・・を研究し、その結果を著作にしている。
フンザの水が人を健康にするのは、そこに含まれている成分・・・シリカ(ケイ素)やその他のミネラルなどが原因という説もある。
しかし、どうもそこに含まれている成分だけではなく、水そのもの性質が重要であるようだ。
それはフラナガンの研究によると、水の表面張力が関係してるらしい。
フラナガンは理想的な表面張力を持った水を生み出すために、渦を形成させて水を流すという手法をとった。そしてマイクロクラスター水という フンザ水の性質をもった水を開発したという。
このフラナガンという博士は、11歳で「誘導ミサイル探知装置」を発明し、アメリカ政府に特許権を売却しているようで 控えめに言っても神童からの天才ではないかと思う。


↑非常にお元気そうです。
フンザ水に僕が興味を持ったのは 8月末に参加した トリニティー、ビーワンの体験会で知った『アクアリオ』という水が、やはり製造の過程で回転を加えているという話しを聴いたからだった。
『アクアリオ』は、女優の小雪さんが使っていて一時期話題になったようで、その浸透力の高さに驚いた某化粧品メーカーさんは製造法の開示に非常に高額のオファーをしてきたという。
僕は『アクアリオ』をスプレー容器に入れて、時々 顔や髪にスプレーしているけどとても気持ちがいい。
フンザ水であるマイクロクラスター水と、『アクアリオ』と、その製造プロセスはまったく同じではないかもしれないが、どうも回転を加えるというところは共通しているように思える。
そして、水にそれぞれの理論で回転を加えて 特別な性質を付与させているという製品は他にもいくつかあるようである。
また、フローフォームと言って、水をメビウス状に流すことで 水を活性化させエネルギーを発生させるという装置も存在している。 これはさいたまの巨大モール 越谷レイクタウンにあるフォローフォームで 最近見学に行ってきた。

メビウスも 左回転と右回転を含んだ 渦状の運動だ。
セミナーで知ったトリニティー自体は、酸化チタン、シルクなどの化合物であり、その中に 特にミネラルであるとかビタミンであるとか生物に栄養を与えるものは含まれていない。
そのはずなんだけど、作物に噴霧すると収穫が増えたり、病気が減ったりする。いったい なんでそんなことになるのかと考えていた。
その結果思ったのは、生命の発生とか、健康というのは 僕らが思っているパーティクルな粒子状のものよりも、より波動的な現実に答えがあるのではなかということだった。
例えば、メビウス状の運動であるとか、電気的な状態であるとか そういうこと。
トリニティであるとか フンザ水のような水は より豊かに生命が生育・発展するような<生命場=環境>みたいなものを提供するのかもしれないと思う。
強力な<生命場>のもとでは 生物は大きく強く成長するし、病は癒える。
おそらく地球の生命場は古代もっと強く、ヒーリングパワーも強かったと思われる。
ソマチット 地球を再生する不死の生命体
生命の元素と言われるソマチッドも、古代の層に眠っているものは強力で、貝化石などから体に取り込むことが出来るらしい。
太古の植物化石層を原料とした、ヒューミックシェールという健康飲料があるけど、これも太古の土壌の豊富なミネラルを保持しているのに加えて 古代ソマチッドを取り入れているっていうのもあるのかもしれない。
・・・・と、こんな風にトリニティーの作用や効果を考えているうちに、、、
ソマチッド、フンザ水、メビウス運動など・・・ 生命場を生み出し、健康という状態の礎になるものに関して いろいろ情報が入ってきた感じがする。
そんな中でケイ・ミズモリさんの本をまた読むことになった。
ミズモリさんの著作は、既得権益層によって封印されて 世に出なかったテクノロジーや発見について多く述べられている。
電気自動車でさえも、高性能なものは潰されてしまうという現実があるようだ。
電気自動車でさえそうなのだから、フリーエネルギーや 反重力技術、製薬業界を脅かす治療法などに関しては 封印され無視されるのが当たり前なのかもしれない。
より問題なのは 生命場を生み出し維持する技術、 根本的に健康を改善する知恵までもが フィルタリングの対象となってしまっていることだ。また都市部での生活や、食生活そのものが、大地からのエネルギーをフィルタリングしてしまっている。
そのため人は、 特に都市に生きる人々は もっとも根本的なフォースフィールドから切り離された状態で 癒しを求めることになりがちだ。
全世界的に生命力が脅かされているこの時に、すべての生命活動を支える根本はなんだったのか考えてゆきたい。
【最新版】超不都合な科学的真実 ついに反重力の謎が解けた! これが古代人が操る未知のテクノロジー《空中浮揚(反重力)》の正体だ
2002年のドラマ「漂流教室」見始めると 面白くて 結構はまる。
正直梅図かずおさんの原作は 絵柄とかが ちょっと苦手な部分があるけど、ドラマバージョンはさわやか。
いきなり学校全体が未来へとタイムスリップしてしまい、生徒たちや先生らが 異世界に放り出されるというストーリーである。
こういう日常変容物のドラマは全般的に好きだ。
窪塚洋介の一見クールで 今風で ともすればニヒルだが実は全力で生徒を守る情熱的な先生像もよい。さすがビルからキノコダイブをしただけのことはあると思う。
ちなみに最近窪塚さんは↓の映画にコメントを寄せているヽ(≧∀≦)ノ

窪塚洋介(俳優・アーティスト)
「改めて自分がこの宇宙の一部、この神秘の一部だと思い出した。未曾有のパラダイムシフトを迎える今、この映画でパラダイスを思い出そう。皆が思い出せる場所にあるから。」
3月には、インスタでノーマスク宴会の写真をアップして物議をかもしたようだけど、そのコメント
「当たり前のことですがメディアに洗脳されず、ちゃんと現実に地に足つけて立ち、普段から腸活して生きている免疫ド強の方々と、優秀な常在菌の交換も出来て、さらに免疫上がっちゃったなあ…」
さすがあさみ先生だ・・・(;゜0゜) いいね、いいね~~
~
ヒロインの常盤貴子のキャラもすごくいい。
ファニーところと キレイ系なところと 男前な特徴がミックスされて イキイキしている。
で、最後のエンディング映像がやっぱいいんだよな~。
フィルムの感じな 画像で 失われた日常へのノスタルジー感を出しながら そこに山下達郎の主題歌「Love land island」がかぶる。この取り合わせも 妙ーにマッチしている。
今観てると、20世紀始め頃へのノスタルジーを感じるかもしれない。
ずいぶん時代が変わったから余計にそう思うんだろうか(*´~`*)
今を生きろ だね・・・
パン(プラン)デミック以降、時々 黙示録の中を生きているかのように感じることがある。
黙示録とはヨハネによって書かれた文書で、この世界の終わりと 新しい世界の始まりがどのようにして起こるのかが描かれている。
その書の多くは、イエスが再臨するまでの7年の患難期を描くことにさかれている。
天界で戦いが行われ、ミカエルに敗れたルシファーは 地へと投げ落とされる。
そして、いくつもの封印が解かれる。
それによりサタンは この地上で、自由に活動するようになる。
一方で、教会や信徒・・・神とつながる力・・・の多くが天に引き上げられる。(携挙)
それもサタンの地上での力を増すためだ。
地震、小惑星の衝突や 巨大な太陽フレアのように描写される天変地異が多数起こる。
地上は、主にサタン勢力と 神を認めない人々とで構成されることになる。(その渦中にあって回心する人もいる)
サタンと獣によって、世界政府がつくられる。そこに住む人々は 額か手に666の刻印を受けなければ「ものを買うことも売ることもできなくなる」。
・・・・・と このようなことが実際に起こるかどうかは 僕にはわからない(。-_-。)
これはあくまで聖書の中に描かれたひとつの終末の姿だ。
でも、ちょっと興味深いのは 黙示録の中での「悪」の描かれ方だ。
サタンは ある意味、至福千年期が実現するためのコマとして 父なる神により使われている。
それは聖書的体系の中で、神の計画が実現するために欠かせないプログラムのひとつになっている。
サタンはエデンの園の時代から存在し、人間の歴史と密接不可分の動きをする。
しかし、それがはっきりとした働きとして地上に及ぼす影響は 黙示録の時 つまり 終末においてピークに達する。
666の獣として 神の被造物である 人類を支配するまでになる。
悪の働きが終末においてピークに達するのなら、やはり現在は 黙示録的なような気もしてくる。
最近想うのは 闇が闇に隠れなくなったということ。
全ての人がそうは思ってないにしても、あまりにもあからさまに、この世界に対して働きかけている感じがする。
お注射と言い 情報統制と言い こんな馬鹿なことが・・・というようなことが粛々と進められているという感じを受ける。
しかしまだ大多数の人は これを異常だとは考えていないようだ。
その一方で
アンチDS というか アンチコロナ というか アンチお注射 という考えのもとで、その現れてきた悪に対して 憤りを燃やして、攻撃し、全員とらえてグアンタナモかどっかに投獄してしまえばいい、これは 「善と悪の戦いだ!!」 と血気盛んになっている流れもある。
そいつらを根絶やしにすれば、この世はよくなる・・・!と。
でも 本当にそうなのだろうか。
今まで善と悪との闘いというような構図において 善が確立されたことはあったのだろうか?
僕ももちろん これらの一連の騒動の背後で とんでもないことをやってる連中がいるな・・・と思うところはあるが 善と悪の戦いという構図で 自分を善において悪を憎むというのは ちょっとしんどい話しだ。
日本の黙示録的な預言書日月神示には 「悪のお役」や「悪憎むこと悪ぞ」という言葉がある。
これは聖書とちょっと違う部分で、聖書ではサタンはもうどうやっても最後には 火と硫黄の池に投げ込まざるを得ない憎むべき存在なのだが、日月神示には 悪とさえ融和するというか 受け入れるというか そういうニュアンスがある。
そして 「イシヤと手を握る」ことが ポイントとさえ書かれている。
悪のお役というのは 岩戸を閉じる役だ。善の役はおそらく 岩戸を開く役だろう。
閉ざそうとする力と 開こうとする力の 葛藤やダイナミズムの中で あらたな次元が生まれるのだろうか。
こういうようなことは 悪に対する抽象的な理解として これまでも考えてきた。
もともと 僕は 社会的に 悪とされることをした人物を よってたかってここぞと ふるぼっこにする風習が好きではない。
悪とされることをした人物は 全体の歪みがそこにおいて現れたポイントでしかない。
今は自室で平和にブログを書いているから そんな風に落ち着いて思考できる。
だが、今後 より一層 悪が誰の目にもはっきりとその姿を現すようになった時 それを恐れずに 憎まずにいることは結構大変なことだろうとも思う。
それはあえて言うと 自分がアウシュビッツで 収容されていて 看守や親衛隊や ヒトラーを憎まずに 「ああ 悪のお役なんだなあ」と思えるかどうかということである。
レベル高っ(。Д゚; 三 ;゚Д゚)それは無理かも
これは ちょっと極端だが それほどではないにしても 「悪」に対して どのような態度で臨むのかが問われるようになる可能性がこの先あるんじゃないだろうか。
というか 今がもうその時期に入ってるのかなあ。
パンデミックがプランデミックであるということ・・・・まだまだ意味の分からない成分を 人のからだに入れるということを推し進める方向性。それに同調することしかしない、メディア・大企業・自治体など。
この背後に何があるのか? もしもこれらが意図されたものであるなら どのような指揮系統になっているのか。
トップにいるのは誰なのか。グローバルエリートの集団なのか、中〇なのか。その連結したものなのか。
世の中の動きが異常すぎることにより、より一層 その何者かの存在が浮かび上がり 黒幕集団がいると思う人々が急速に増加する。
それは、闇があぶり出されたというよりも、世界経済フォーラムのような場所で 今後のアジェンダを宣言するように、もはや闇が闇に隠れようとはしなくなっている状態ではないかと思う時もある。
バレようがバレなかろうが 我々はそれを推進するし、またその力を持っている。
そのような宣言にさえ思えるのだ。
だから目覚める人が増えれば・・・式のポジティブ論や、反グローバルエリートへのムーブメントを自分的には素直に受け入れにくい。
というか、反グローバルエリートへの運動が過熱すれば、おそらく、その運動はまた分裂と混乱に追いやられるような気がする。 彼らはそういのが得意だ。
それは「悪」を「悪」として認識し、敵をつくり憎むからやはり 内部分裂していくのだ。
もしもより一層「悪」が可視化されるような時が訪れた時、それに恐れを抱かず 憎まないのはとても難しい。
受け入れない という姿勢は大事だ。非暴力・不服従。
自分や大事な人を守るために 「悪」は受け入れない。
悪に逆らわず 何も疑問に思わない 柵の中の羊(シープル)になることが答えではない。
でも戦えば 憎めば 負ける 、圧倒されて絶望しても 負ける。とっても難しい(・ω・`彡 )з
今より厳しい時代が来た時、僕もどうしていいかわからない。
ヒントはある。
結局「悪」を 神の内部に組み込むしかない。
「悪」の意味付けと言ってもよいが それが神のシナリオの中でどのような役割を演じているかという意味付けをする。
もしも外的な「悪」があまりにも醜悪であり 意味付けなど出来ない時 内的次元が避難場所になる。
アウシュビッツの収容所で 最後まで生き残った人々の多くは 意外にも繊細で 芸術を愛するような内的な次元を持っている人々だった。ハリウッド映画のタフガイのようなむきむきのヒーロータイプではなかったようなのだ。
外的な現実が完全な袋小路に見えても、彼らは内的な世界で 永遠なるものや美に触れることができたのかもしれない。
そしてある女性は 窓から見える樹に 「永遠の命」を観ることが出来た。もはや ホロコーストという現実の中の死と絶望は 彼女の中で重要ではなくなったのだ。
彼女の中では「永遠の命」が現実となった。そこで、彼女にとってのホロコーストは終わった。
同じように もし 僕らがそれを見つけられれば グローバルエリートのアジェンダとやらも、プランデミックも終わる。
結局 自分にとって 神聖なる何かを 内側に持っているかどうかが 外部に存在するように見える「悪」とバランシングできるかのポイントになるのではないだろうか。
まー どっちにしろ すごい時代ですね。
いろいろ考えてると おなか減ったから ご飯食べよ(〃▽〃)

いったん落ち着いたかな?
今回の太陽活動Xクラスのフレアも一度起こり、かなり強かった。
でも今日はまだ一度も起こってないし、太陽風も速度落ちてきている。
昨日はもやもやした晴れ方だったが、今日はすごくすこーんと抜けてる感じの晴天で気持ちいい(o‘∀‘o)*:◦♪
このタイミングでエネルギーがばーんとぶつかり、何かギヤの切り替えが行われ、新たな扉が開いたようなそんな感覚なんだけど どうだろう。

昨日、富士美のエジプト展で見た セクメト女神。
セクメトは頭がライオンの女神だ。頭の円盤は太陽をあらわす。
伝染病をもたらす神とされ、「火のような息」を吹くと恐れられたほか、戦いの女神でもある。一方で家庭では、穏やかな女神になるという。
とwikiにはあるけど、展示会場には癒しの女神であるとも書かれていたような。
外では破壊神、家に帰ると良妻賢母みたいな(笑) 時々いますよね・・・て いないか。
僕は このセクメト女神の造形が昔から好きだ。
この展示の配置はなんか 狛犬のような 門柱のような イニシエーターがくぐりぬける門のような感じになっている。
背後が星空になっているのでスターゲイトみたいで迫力がある。
映画「ネバーエンディングストーリー」で アトレーユが くぐりぬける南のお告げ所の門のようでもある。
その門をくぐる時、自分に疑いを持ち恐れを持つと、像の目から出る光線により焼かれてしまう。
ついついイニシエーターになったつもりで、ふたつの女神の間を行ったり来たり してうろうろしていた (* ´ ▽ ` *)
自分自身を疑い、恐れを抱きそうになった時、よく自分に言い聞かせる。
『私は 無限の意識であり、愛に属している』
この認識の次元があるかないかで、物事の見え方がずいぶん異なる。
セクメトも通してくれるかもしれない。
古代エジプトという世界は今も存在している。
現在とは違う 色合いと 匂いと リズムと知恵と 社会構造のマトリクス。
それは神の心の中に 現代と同時並列的に存在している。
古代は陳列棚の中にあるのではなく、今この時代こそが 古代エジプト人の見ている奇妙な夢の世界かもしれない。
古代を見つめると それもこちらを見返してくる。
彼等から見える 今の奇妙さと 不思議さを想った。
エネルギー価格や 食料の高騰 全体主義化とそれへの反動 ワクの後遺症など 何かと不穏な兆候はあるけど、すべての人が無事に年を越え、新しい春を迎えられますように。
それぞれのスターゲートを無事にくぐっていけますように・・・