去年の10月13日 スタートレックで「カーク船長」を演じたウィリアム・シャトナーさん(90)がジェフ・ベゾス創設の宇宙ロケット、ブルーオリジンに乗って地球を見下ろした直後のインタビュービデオ。
「カーク船長」ことウィリアム・シャトナー、地球の美しさを語る
シャトナーは、『スター・トレック』シリーズで宇宙を探索する司令官、ジェームズ・T・カーク船長を何十年にもわたって演じてきた。2021年10月13日(現地時間)の朝、ブルー・オリジンのニューシェパードで離陸したシャトナーは、実際に宇宙への冒険の旅を体験し、地球から約100km離れた宇宙の入り口へと飛び立った。この旅で、彼は宇宙に到達した最高齢の人物になった。
「色の美しさ。そして、とても薄い」と彼はブルーオリジンの創業者、ジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)に言った。
「あの色の美しさを見たかい。突然、青を通り越して、黒になってしまうんだ」
そしてシャトナーはこう付け加えた。
「黒、醜悪な黒が見える。そして下を見るとそこには青があり、上には黒がある。母なる大地と安らぎがあり、上には…死があるのだろうか。私にはわからない。それは死なのだろうか。死とはそういうものなのだろうか」
飛行を振り返る時、顔を覆って涙をぬぐう場面もあった。
宇宙から地球を見た多くの宇宙飛行士は、「畏敬の念」「人類との一体感」「地球の儚さへの感謝」など、圧倒されるような感情を抱いたと言う。これを専門家は「オーバービュー・エフェクト(概観効果)」と呼んでいる。
「今起こったことに感動している。尋常ではない」とシャトナーはベゾスに言った。
「私はこの状況から元に戻らないことを願っている。今感じていることを維持できるようにしたい。失いたくない」
シャトナーさん 90?? いろいろ90代には見えん(;'∀')(;'∀')
スタートレックあんまし見たことないけど、この俳優さん1931年生まれなんだよね。
宇宙旅してるから時間の流れ方がちゃうんかな(笑
15歳ごろ、第二次大戦の終わりを迎え
アポロが月に着陸した頃 39歳 ベルリンの壁が崩れた頃60才くらい 9・11の頃70才で とかか
そして90才で大気圏外にでる・・・ウーム
すげー人生 (゚д゚)

なんかスタートレックっちゅーのは、いろいろ 超常現象からんでますね。
カウンシル・オブ・ナインとの接触とロッデンベリーの『スター・トレック』の未来
スタートレックプロデューサーの、ロッデンベリーという人は1970年代に サイキックのフィリス・シュレンマーという人物がチャネリングしていた「カウンシル・ナイン(9人の長老)」という意識体とのセッションに参加していた・・・とか いう話しがあるみたい。
この実験にはアンドレア・プハリック博士も参加してたらしく、この方は ユリゲラーを研究したりしていた かなり著名な研究者です、確か。
彼らを巻き込んだ、サイキックのフィリス・シュレンマーとは何ものぞや。
ちょっと大物がいろいろ絡んでて気になる話です。

天の川銀河における地球の位置。
最近、よく銀河のことを考えています。
こういう↑恒星が数千億個あると言われ、直径が10万光年の大クラスターにこの世界は属しているのに、銀河に対して無意識っていうのはなんかおかしいなあと思うんですよね。
銀河系の中心にはいて座Aスターと呼ばれる巨大ブラックホールがあり、太陽系はこの周囲をだいたい2憶五千万年ほどで一周していると考えられているようです。
壮大な話しです(。-_-。)
しかもその太陽系の動き方っていうのは、上下に波打ちながら動いてるようなんですね。
つまり、水平上に銀河のディスクがあるとすると、そのディスクの上部にずれたり、下部にずれたりしてるという。
そして銀河の水平面上には 電磁気力が強く働く「ダークディスク」と呼ばれるエネルギー帯があるというのです。
2,3年前のNEWTONの特集号にリサ・ランドール博士へのインタビュー記事が載っていました。

それによるとランドール博士は、地球上の大量絶滅は、銀河中心と太陽系の位置関係が原因である可能性を考えているようで・・・
なんか詳しくわかりませんが、銀河のディスクと太陽系が水平の位置関係になると 太陽系はダークディスクに突入し 重力の影響などで 大量の小惑星が地球に降り注ぎ それが恐竜の絶滅とも関係するのではないかと話されていました。(あくまで仮説ですが)
これが3千~4千万年に一度起こるらしいんですね。
確か どこかの国の科学者が 太陽系全体が 今 非常にエネルギーの高密度な空間に突入しており、そのことにより各惑星に異変が起こっているという仮説を発表していたと思います。
この高エネルギー帯というのが、ランドール博士の言うダークディスクと同じなのかどうかはわかりません。
でも、スピ系で一時期よく言われた フォトンベルト的な概念と近いものがありますね。
地球で起こっている環境異変というのは 確かに多くは人間の環境破壊によるものかもしれないんですが、太陽系全体が高エネルギー帯に入っていることも関係しているのではないかと 個人的には思います。
で、まあ こういうようなことが事実であるならば、銀河と僕ら人間の文明の関係って言うのは ひっじょーにおっきいですよね。
ただ単に壮大な話しであるだけではなく、銀河のリズムと言うのは 太陽のリズムと同様 確実に地球にエフェクトしている。
だから 確かマヤ文明では 銀河中心をフナブクーと呼んでましたし、他の古代文明でも銀河中心を常に意識していた文化はあったかもしれない。
夜空に天の川がくっきり見えていたならば その光の中心に向かい 手を合わせないわけがないと思う。
神道で言う アメノミナカヌシ という神様は もしかしたら この銀河中心にある なにか なにものかではないかという気もします。
僕らは ガイアとつながっており、また 太陽から直接的なエネルギーをもらっており、銀河中心を軸に旅している。
ガイア 太陽 銀河
このそれぞれ大きさの異なる3つの同心円に含まれている ということは なんか意識したほうがいい気がするんですよね。
頭の百会からコードが 銀河中心に伸びていると想像したら なんか気持ちよくないでしょうか?(*'▽')
実際伸びてる気がするんだよな~~。
だって こんな大きい光の渦の中に巻き込まれているんだから エネルギー的に何かで中心とつながってないわけないですよね。
進化した銀河って どういうものかと 想像します。
きっとニューロンのネットワークのように、銀河に数千億個あるそれぞれの恒星系の文明が 互いにつながり 容易く移動・交信するようなもの。銀河全体が ひとつの 情報のWEBとなっているような状態ではないでしょうか?
2兆個あると言われる銀河に その域まで進化した銀河がないとは言えません。
というか、この天の川銀河も ほとんどその域に達しているけど、地球人だけがそれを知らないという可能性さえあります。
まあ、地球の一部の人々はUFO飛んでたら撃ち落として 「UFOとったどー」でリバースエンジニアリングしてたみたいなんで。
ある種 鎖国状態。でも ずっと鎖国はしないでしょう。
もしも、地球の人類すべてがこの天の川銀河のネットワークにログインできれば ・・・・
あらゆる世界と 交信・移動出来るならば・・・
どんな世界が開けるんでしょうね??
そんなことを想像しながら、、
眠る前に 銀河の中にいること、想い出してみてください(*'▽')

以下、文中のフィリップ・K・ディックの秘密経典とは 小説「ヴァリス」に収録されている釈義と呼ばれる文章です。
ヴァリス〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)
なんというかディックが書き留めた オリジナルの神秘主義的思想のようなものでしょうか。
その中で何度か <帝国>は終滅することがない という言葉が出てきます。
<帝国>というのは 超物理的な領域からこの世界を支配しているマトリクスのようなものでしょうか。
ある種の絶対悪のようなもの?
ディックによれば この<帝国>に対して 通常の戦いは通用しません。
帝国の一部を覆すものは それになるからです。
では、どうすれば、帝国から解放されるのか?また それの象徴する悪と向き合うか ということを マルクス・アウレリウスの「自省録」などもひきながら 書いた記事でした。(短いです)
<帝国>は終滅する 2009年6月25日
否定性(悪・誤りと認識されるもの)を否定しない
否定性を否定する人を否定しない
なぜなら、すべて自分の心の問題
心穏やかに生きるために
<帝国>と戦うことはその錯乱に感染するに等しい。これはパラドックスである。
<帝国>の一部をくつがえす者は、誰であろうと<帝国>になる。
<帝国>はウィルスのように急激に増殖し、その形態を敵に押し付ける。それによってみずからの敵となる
F・K・ディックの秘密経典書42より
悪のヒーローの「本当の」目的は、自分を憎み、やっつけてもらうことである。
それによって、彼は不死の命を得る。
「みずからの敵となる」ことによって、分離混乱状態を継続できるのだ。
「イルミナティ」と戦うものは、「イルミナティ」の一部となる。
<帝国>とは錯乱の規定、錯乱の法典化である。狂っており、本質が暴力的なものであるため、暴力で持ってわれわれにその狂気を押し付ける。
秘密経典書41より
しかし、神は否定性と戦ってはおらず、それを世界を回す車輪の一部としている。
そして
人間は、宇宙理性ミトラから、次のような本性を与えられている。
コスモクラトールミトラは、妨害し邪魔立てするものをすべて天命に向かって方向付け、
その組織の中に折込み、自己の一部分とする能力を持っている。
われわれも、同様の能力が授けられている。
マルクス・アウレリウス『自省録』より
否定性は、否定性と戦うことによって、人を自分の一部とし、
神はすべてを受け入れることによって、すべてを自らの一部としている。
ここに、まったく違ったふたつの次元の相似形がある。
戦うことにより悪は生まれ
受け入れることによって、神は目覚める
以下の二つの理由から、君は自分におきることに好意を持たなくてはならない。
第一に、それは天なる至高の原因が君に編み込み、君に割り当てたと言う関係にあるからだ。
第二に、たとえ個別的に各人に現れるものでも、宇宙全体を支配するコスモクラトール=ミトラにとっては、彼の計画がとどこおりなく進行するための原因となっているということだ。
コスモスと言う完全なものにあっては、原因と結果の連鎖から一部を切り離すならば、その全体は傷つけられるのだ。
『自省録』より
悪を終滅させる方法は、すべてを受け入れる以外にはあり得ない。
2009年の女神の性質シリーズを、再掲載してます。
ふとそう言えば 2009年と言えば 豚なんとかというウィルスが流行ったんだっけ・・・

と その頃の記事を探したら みつかりました。
最初は、2009年4月26日。(URLはすべて無効)
昨日、メキシコシティーで、豚インフルエンザの感染が拡大し1000人が感染68人が死亡と報道された。
更に、ウィルスは豚→人感染のみではなく、人→人感染へと進化しているようだ。
メディアによると、最初に感染が確認されたのが、4月10日頃。
約二週間ほどの間に爆発的に増加し、市内の学校や公共施設が閉鎖されている。
今回のウィルスは、警戒された鳥インフルエンザが進化した、『新型インフルエンザ』ではない。
しかし、1000人感染、68人死亡という情報が正しければ、致死率は7パーセント程もあり、通常のインフルエンザの死亡率が1パーセントもないことから考えると、毒性はかなり強いと言える。
加えてこの感染力を見ると、すでに国境を越えアメリカ国内にかなりのキャリアが存在してもおかしくないのではないかと個人的には思える。(米で確認された感染者数は8人)
昨日、ニュース番組の中で確か、『メキシコでの封じ込めはもうできる状況ではない』と専門家が話しているのを聴いたが、それはつまり多かれ少なかれ海外に流出していることを意味する。
24日の段階で、米疾病対策センターは記者会見を行い、すでに防止する事が難しい段階に入っていると話した。
ベッサー氏は、メキシコでの感染者14人から採取したサンプルのうち、半数が今回の豚インフルと同じA型H1N1型と判明。メキシコで感染拡大しているものと、同じ株である可能性が高いと見られる。しかし、死亡者が出ているメキシコの症例とは違い、発熱と嘔吐、下痢と言った比較的軽い症状のみで、いずれも快方に向かっている。
CDCは予防ワクチンを国内に配布する準備も進めているが、すでに感染爆発が起こる下地ができている可能性もある。備蓄してあるワクチンも今回の豚インフルに特化したものではなく、「遺伝子が適合する」株であるため、どれだけ効果があるか分からない状況だ。ベッサー氏は、「(予防接種や隔離などによる)感染拡大への対策を打つには、遅きに失した可能性も」と語っている。
http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/090425-221158.html
現在の状況は、日本人にとってはまだ必要以上に不安を感じる必要はないとも言えるが、逆にすでに日本にキャリアが入ってきていても不思議ではないと僕は思う。
サーモグラフィーによる帰国者の感染チェックを成田で行っているようだが、感染爆発は二週間前から始まっているのだ。その時に感染した人が、一週間くらい前に入国していてもおかしくないのではないだろうか。
また昨日のWHOの緊急会議では、警戒レベルのフェーズ3から4への引き上げは先送りされた。フェーズ4になれば渡航規制などが始まるらしいが、3の段階では渡航者の注意などにとどまる。
しかし、もし大事をとるならこの時期にこそ規制をかけるべきだ。
今日からGWが始まり、大量の人がメキシコや、また米国に出国する。
すでにメキシコに接した北米地域への旅行には危険が伴うと、自分なら考える。
その人たちが休みが終りいっせい帰国した時、もし感染者がいたら本当に水際で食い止められるのだろうか?
このように考えた時、非常にGW前という今の時期の豚インフルの発生はタイミング的によくないし、日本に上陸する可能性も低くないのではないかと思える。
WHOがフェーズの引き上げを行わなかったのは、何か、大事にはおそらく至らないという情報源があるのか、その辺はわからないが・・・。なんか米の疾病対策センターの発言の重みとのずれも感じられる。
今回の豚インフルが米国でパンデミックをおこせば、経済危機と合いまった大きな混乱が生じるだろう。仮にメキシコ市である程度封じ込めできれば結構なことだが、これは来るべき『新型』への警告かもしれない。あるいは陰謀的に考えれば「実験」ともとれる。
不安をあおることを言うのは良くないとかいいながら、また頭の中で第一の天使がラッパを吹き始め(笑)黙示録になってしまったが、最近、「あー余計な事を知らなきゃよかった」と思うこともある。
豚インフルのニュースだけ見て、他に情報がないと、「まー怖い」で流せるかもしれないけど、僕は関連するアセ系の情報が頭の中で暴れ出し「時は来タレリ!」という心境になってしまうのだ。
草薙君が裸になったのは、草薙の剣がさやから抜かれたということかも(半分冗談)
とは言っても、MIXIの日記などを読んでるとやはり金融恐慌のさなか、こんなことが起こって大変な時代だというような感想を書いてる人が結構多く、やはり世の中の一部分ではこの時代の流れをなまなましく感じている人もいるんだなと思った。
僕は今年から、ある程度の食料は貯えておこうとかなり本気に思っているし、2、3年持ちそうな缶詰をちょこちょこ買いだめたりしている。そして、どうも、都会にはいたくないという本能的な直観のようなものを一年位前から感じている。(←まあこれはいろんな要因があるのだけど)
とりあえず四五日頭がおかしくなるのは、しょうがないだろう。
と、ここまで書いたところで、アメリカの新しい情報がネットに出てた。
豚インフル米で感染者 11人
【ワシントン=勝田敏彦、ニューヨーク=田中光】
豚インフルエンザの感染が米各地に広がってきた。米疾病対策センター(CDC)がカンザス州とカリフォルニア州で感染者を新たに3人確認し、感染者は3州で計11人になった。また、ニューヨーク市では感染の疑いがある生徒が8人いることが25日わかった。ニューヨークの症例も感染が確認されれば、全米の感染者は4州、計19人になる。
AP通信によると、カンザス州の感染者は、州中央部に住む夫婦。報道によると、夫が最近、仕事でメキシコに出張して戻ってきたところ体調を崩し、その後、妻の体調も悪くなった。症状は軽いが、2人から採取した検体を調べたところ、豚インフルエンザウイルスであることが判明した。
またメキシコ国境に近いカリフォルニア州南部でも、35歳の女性が感染していることが新たにわかった。この女性も症状は軽く、回復している。
一方、ニューヨーク市の保健当局によると、東部クイーンズ地区の私立高校の生徒約100人が、インフルエンザに似た症状を訴え、市が生徒9人を対象に簡易検査を行ったところ、8人からA型インフルエンザウイルスが検出された。いずれもこれまでわかっているヒト型と違うタイプで、市は豚インフルエンザの可能性があるとみている。
市や高校などによると、生徒たちは23日ごろから、発熱やのどの痛みなど始めた。いずれも症状は軽く、入院している生徒はいないが、学校側は、感染の広がりを防ぐため、週末の予定をすべて中止した。生徒らの中には、家族に感染が広がっているケースも確認されている。ニューヨーク・タイムズ紙によると、生徒の一部が最近、メキシコに旅行していたという。
市は今後、検体をCDCに送り、ウイルスのタイプを確認したうえで、市内の学校を休校にするかどうかなどを判断する。
米国での感染者または感染の疑いがある人はいずれも、豚と接触した形跡がなく、「人から人」感染が起きた可能性が高い。
今のところ亡くなった人はいないようだが、どこまで広がるのだろうか。
ウィルスは同じはずなのに、症状が軽いというのはなぜだろうか?
(有色人種の方が激しく症状が出るよう「設定」されている可能性もある。)
しかし感染力は強そうだ。
キャリアは米国で現時点で数十人、数百人居ても不思議はない。
日本に居ても、人ごみとかちょっと注意した方がよいかも。
ロイター通信などによると、メキシコのコルドバ保健相は25日(日本時間26日朝)、同国内での豚インフルエンザによると疑われる死者は81人に増えたと発表した。感染者は1300人以上となったという。
だいたいこういうことが起こると 脳内が黙示録になるのは今もこの頃も同じなのだが、豚なんとかも人工ものって考えたことなんてすっかり忘れてた。ていうか そうなの?
続いて、4月28日の記事。
パンデミックがどのような「効用」を持っているのか について。
パンデミック効果
『新型インフルエンザ』は、最初の報道が入った24日から僅か4日ほどで世界十六カ国に広まった。
ただ、不思議なことに、メキシコ以外の国では死亡に至った例は報告されていない。
これはまだメキシコほど感染者がないためにそうなのか(だが実際は毒性は致死率10パーセント弱あるくらい強いか)、もしくは、やはり人種によって効き方が違うのか、あるいはウィルスの毒性が消滅したのだろうか?
もしも現在のウィルスが毒性がたいしたことないのであれば、むしろ今の内に感染しておいた方がいいのかもしれない。
というのは、この豚インフルエンザが一旦収束して第二波、三波となって再来する時にバージョンアップしていても今感染しておけば、その強力版に対して抗体を持つことが出来るからだ。
が、もちろん今の奴がホントによわっちいのかどうかはまだわからない。そうである限り成田へ行って到着ロビーで大きく何度も深呼吸を繰り返す気にはなれない。またこれが拡大していく間に変異して強力化(毒性が強くなる)するという可能性もあるのだろう。
鳥インフルエンザから来るH1N5型の『新型』が現われた場合、その死亡率は約60パーセントと言われている。今回のものはそれと比べたら毒性は取るに足らない。しかし、10パーセントの致死率でも、強力な感染力で世界中にひろがれば十分脅威的だ。
基本的に、今回のウィルスは豚と鳥と人の遺伝子が入ってるそうだが、おそらく人為的な『製品』である可能性が高いのではないだろうか。専門家も人工的なものではないかと言う人がいる。
ただ、もしそうだとすれば、これはまだ一番強いカードを出したわけではない。第二第三の製品が控えているような気がする。
そのような陰謀論的なこととは別に、 今回の事で、このようなパンデミックが発生しそうになった時、その結果どのような事態が想定され、また誰が得をするのかということがぼんやりとわかってきたような気がする。
基本的に今回の金融危機、これは終息して景気が上向いているわけではなく、それぞれの国家が膨大な国債を発行するなどして市場の損益を補填しようとしているに過ぎないようだ。
日本でも53兆円の資金を使い必要ならば、株をすべて買い上げるような政策が検討されている。これは通常の資本主義の終りを意味し、国家が経済を統率するという社会主義的な構図に移行しつつあることを意味する。国としては、今の時期威信を高める必要がある。
グローバルな資本主義経済が破綻し、それを国家が補償するという形で吸収していけば、残るのは国家間の利害の対立であり、ブロック経済圏の出現となる。
この先さらなる強力なパンデミック(今回のものではなくとも)が起これば、いくつかの国で国境閉鎖、鎖国という自体が起こる可能性もある。日本では輸入をストップすれば、国内の食料をまかなえない。輸入なしで、いったい一億人がどれくらい生存できるのだろうか。
これは困った事態だが、国家や資本の管理者にとっては、民衆を恐怖で封じ込めることができるし、パンデミックの名のもとにある種の「統一性」、一致団結してこの驚異に立ち向かおうという空気を醸成できる。
実際人間は巨大な敵を目の前にすると、簡単に団結する事が出来る。
食料や、必要なものを支配されれば、人は権威に頼るしかない。
このように、僕には、経済危機も、パンデミックもどちらも「国家の優位」というのだろうかそのような、方向性を持っているように思えて仕方ないのだ。
ただ経済危機のみならば、そこは新しい命をはらんだカオスだけが生まれる。
ひとつのシステムが破綻すれば、人は新たなムーブメントを求めたり、政治運動を起こしたり、暴動も起こる。またそれこそ自給自足のようなことをはじめたりする人も多くなる。以前のような社会はもうごめんだからだ。これでは管理を維持したい人間からみれば、収拾がつかなくなる。
そこで必要なのは、ある種の「脅威」なのだ。
その脅威が生存の危機を感じさせるものであればあるほど、人は以前のシステムへの不安や、新しい価値の創出などよりも、命あってのものだねで、既存の国家システム、また医療、メディアに依存してしまいやすくなる。
パンデミックは、その「脅威」として使用されている、また使用される可能性があるということだ。
以上のことはすべて暇な僕の頭の考えた妄想だが。
でもホント早く、自給村をたくさん作らないと・・・。
残念ながら 妄想ちゃうかったみたいであるよ(´・_・`) と10年前の自分に言ってあげたい。
最後に、5月19日の記事です。
豚第二ステージ(?)、岩戸、A・Hさんの話し
昨日書いた記事で、どうしょーかなーと思いましたが、一応アップします。
若干、脳内世紀末系だったので、一晩寝かせました。
メディア報道などによると、神戸、大阪などで海外渡航歴のない高校生などの間で新型インフル感染が拡大126人の感染が確定したという。さらに奈良では1000人近い生徒がインフルエンザ様の症状で学校を休んでいるという情報も伝えられた。
専門家によると、他地域への拡大は時間の問題ではないかという。
東京ではまだマスク姿の人はちらほらいるくらいだが、今後の展開しだいではいつ首都圏が神戸の街のようになっても不思議はないだろう。
ただ、前の記事にも書いたが、今回のものについてはむしろ感染して抗体を持っておいたほうがましなのではないかと僕は思うので、いまさらマスクを買う気にはなれない。
マスクを買う気にはなれないが、僕は今ヘルパー系の仕事をしているので、事業所のほうから大量にマスクを送ってきている。そして早くも(でもないか)手洗いや、うがい、顔を洗うことなどの徹底を求められた。
今回のことについてはまったく心配してないし、恐怖感もない。
問題は、今回のものが秋以降に強毒化してやってきた場合、あるいは鳥インフルと合体して強力になるという可能性もあるようなので、そのような時になにが起きるか(絶対にくるといえるものではないが)ということがだいたい今回の騒ぎを見ていればシミュレーション出来るということだ。
まず間違いないのは、病院が使いものにならなくなるということ。
すでに感染者全体を入院させることが困難なため、自宅療養を進めている。これが強毒性だったらいったいどう対応したのだろうか?
さらに多少の水や食料の確保は、やはり秋口までにしておいたほうがいいのではないかと思ってしまう。一定の期間ひきこもり生活を出来るくらいには・・・。
今後万一、強毒性のインフルエンザが世界のどこかで発症すれば、あらゆる航空便の停止が行われてもおかしくない。
というのは、今回のことでいかに水際対策をしても確実に検疫をすり抜けて入ってくるということが周知の事実になった。
その状況でさらにどこかで強力なウィルスが出現すれば、日本国内の被害は想定できない規模となる。それを防ぐためには大量の人間の行き来自体を規制するよりほかなくなるのではないだろうか。
さらにこの騒ぎは政治的に利用される可能性がある・・・ということは、マドモアゼル愛さんがブログで書いていた。
マドモアゼル愛のぶらりブログより
新インフルはかかっても通常のインフルエンザよりも症状は軽いかせいざい同程度のものですので、通常のインフルエンザと同じ程度の対応で本質的にはよいのですが、これを政治的に、また経済的に、利用されやすい点に注意がいります。
とくに心配なのは、食糧です。
国際的な食糧不足が今年から顕著になるというのが私の考え。
それは政策の失敗と関連するためインフルとすり替えが起こせる点、怖いものがあります。これから日本はいつ突然に食糧が不足してくるかわからない時代に入るでしょう。新インフルエンザのまん延を理由にすることも可能性だと知っておくことが大切。
以前にも言ったように、備えあれば憂いなしで、ある程度の食糧は備蓄しておいた方がいい時代になりました。新インフルの脅威というよりも、新インフルをつかった食糧難隠し、金融崩壊隠し、大不況隠しが行われる可能性を忘れてはならず、そのための対策が必要ということです。私は個人的にはプーチン来日以降、こうしたことが急速に発展したことにおかしなものを感じていますが、まあ、錯覚だとしても、新インフルが政治的に利用される面はあるかもしれません。
今回の金融崩壊は本物ですが、誰も責任を取りたくはありませんから、どうしても上位者は混乱を利用します。ですので、経済活動をなさる方はその点からも注意がいります。新たな投資や思惑は大体は失敗すると思うので、本当は何もしないでいるのがいいと個人的には思っています。
新たな投資、とくに起死回生の投資などは危険な時代です。もう少し様子を見ましょう。注意深く守りに徹する時代です。
とくに新インフルが低毒性で死者も出ていないうちから、関西ではイベントの中止が相次いでいます。これでは日本経済は確実にやられますね。今は儲けを考えるときではありません。それよりも英気を養いましょう。(引用終わり)
5月16日(土)に国内の感染者が発見されたが、これが急拡大したのが17日(日)。
この17日というのは神戸の人にとってはおそらく忘れがたい日付け、95年1月17日の阪神淡路大震災と同じ日付でもある。
そしてマイミクの方が5月17日、岩戸開くという記事を前に書いていたことを思い出した。
岩戸は神(アマテラス)が閉じ込もった、岩屋の戸。
神戸は、神の戸の街である。
1+7=8 開く 「8のつく日に気つけるよう言っておくぞ」
これらのことを総合して、僕は今回のことは浅間の噴火の時と同じように、「型」ではないかと考える。この出来事にパニックになったり、またまったく無視するのではなくサインとして「学ぶ」べきではないかと感じる。
6月の最初にA・Hさんという人の奈良太陽信仰めぐりツアーに行く予定になっていたが、それまでに関西圏でどれくらい広がっちゃうのか。あるいは、インフルウィルスは湿気と高温に弱いといわれているので梅雨に入ると同時に今回は終息していくのだろうか。
A・Hさんのセミナーがあったのは4月19日だった。
その日になぜか、感染症なども自分の光の力で防ぐことが出来ますなんていう話しが出ていて、その約一週間後にメキシコであれが始まったので、これも僕の中では微妙につながっている。
あとわけがわからないのが流しに置いていた「イソジン」ではないが、ヨードのうがい薬が豚流行以後、消えたこと。せまい部屋なのにどこ探してもないの・・・。む・・・これは何かのサインに違いないと言うと、相方にはそれは「部屋をもっときれいにしろ」って言うサインだと言われてしまったが
でも、ホントどこにもないんだもんな~~。
しかし、こういう時こそ騒ぎを気にせず『瞑想』ですね
もうちょと今後いろいろあると思うので、これしきのことはなるべく気にしないようにはしています。
自分が遊園地のメリーゴーランドに乗っていると思っていて、いきなり宙返りし出したら、ビビりますが、最初からジェットコースターに乗ってるとわかっていたら、当たり前のことです。
やれることはやって、あとは天にお任せで・・・。
ここから、2022年です。
豚インフル騒動のころ、ウィルスを脅威として なんらかの統制の手段として用いる可能性というのは 頭にあったみたいだけど。
マッチポンプ劇場として ワクチンが本チャンの脅威になる可能性というのはさすがに思いつかなかった。
いや、マッチポンプっちゅーか 実際は マッチ・ガソリン劇場か。
マッチを擦って ポンプと見せかけてガソリンをかける。(お注射がガソリンなわけですね)
こんなん 予想できるのはかなりのサイコパシーやと思う。
今後のプランデミックは 2009年の時点でどこかで 予感してても ワクチンの集団接種映像を見てこの上なく不快に感じるようになるとは 思わなかった。だいぶ想像の斜め上を行く現象が 今もなお起こっています。
僕自身やや悔やまれるのは、2020年の当初、豚の時とはまったくレベルの違う 恐怖に囚われていたこと。
「これホントにヤバイ奴だ」と感じたんですよね。来るもんが来たと。
だから、電車でまだマスクをしてない日本人はどうかしてるぜ、とか 日本の対策はなんてダメダメなんだとか そういうことを記事に書いた気がする。
でもね、見えてなかったんだな~~ そういうことじゃなかった。
マスクなんてそんな急いでしなくてよかったのよ。その後年単位ですることになるんだから。
もし、2009年の自分に来るべくパンデミックに際して メッセージを送るなら・・・・それは
サージカルマスクを買えでも、備蓄しろでもない。
大丈夫だから 怖がるな そして 国やメディアを信じるな ってことですね。
だってね
今回のこのプランデミックに関しては 物質的に準備しても何の意味もない。
なぜならこれは情報戦であり 心理戦。
(マスク・ワクチン・ソーシャルディスタンス・絶え間ない感染情報)などをワンパッケージとしたニューノーマル化と 健全な人間性や生命力との間の駆け引き。
メンタルの戦いであり、命と幸福 自由と人間らしい生き方を守る戦い~ (ou(工)u)ノ
2009年の自分に言いたい。
『危ないウィルスが流行ってるからという理由で 皆がマスクをしてる時、一人だけ ノーマスクで平然と歩けるメンタルを培え!!』と
まったくなんのこっちゃわからないと思うけど(笑)
あと、したいアドバイスは
今のうちにめっちゃ海外旅行しとけ かな(。-_-。)
ちょっと順番前後しますけど、2009年の今頃に書いた 女神の性質シリーズのその1です。
2009年 1月19日
ユング心理学で言うところのアニマ(男性の中の女性元型、永遠の恋人)と、グレートマザー(太母)はお互いにそのイメージを共有しあっている。
つまり、アニマの中にもマザーのイメージが在り、マザーの中にもアニマのイメージが在る。
ヘッセの「デミアン」の中に登場するエヴァ婦人は、主人公の憧れの女性だが、恋人のようでいてまた母のような面影を宿しており、その雰囲気はすべての人類の「母」のようである。
エヴァ夫人はアニマとマザーを融合させたような、永遠の女性、女性性の純粋な具現化のような存在だ。
原初のアニマにおいては女性性とは、ただどこか魔的なエロスに過ぎない。
豊満な肉体や、性的に貪欲かつ無節操な女性イメージとして現れることもある。
男性的な直線的性欲がそれを射止めるための「射的」でしかない。肉体的に魅力的であればそれだけ、弓はつよく引かれ、それを射止めるための集中力が凝縮される。
週刊誌のグラビアやアダルトビデオに登場する女性などは、アニマのこの側面のみを主に強調したものだ。女性の性的な魅力のみを強調するのは、真の女性性への冒涜である。それは女性性の原初的な一側面に過ぎない。(ただし性的な魅力を表現することは必ずしも悪いとは思わない。問題はそれが女性性の一部分にしか過ぎないのにそれが全てであるかのように考えることにある)
この領域では、女性は使い捨てにされる性の道具であり、男性性と女性性のコミュニオンは起こらない。女性性は傷つけられ、また男性性も暴力的な存在にただとどまらざるを得ない。
しかし次の段階において、アニマはやや精神的なものになる。
つまり「優しい女性、包容力のある女性イメージ」の登場だ。
肉体的なイメージもある程度はこのレベルの精神的なイメージとリンクはしている。
このレベルにおいて、いくらかアニマはマザーの性質を帯び始める。
グレートマザーは、人を生み、そして愛し、育む母の元型だ。
アニマの中に自分を受け止めてくれる受容性や、男性として成長させてくれる教育性(?)を見る時、アニマとマザーは融合し始める。
性的なアニマの持ち味は、その牽引力だ。
牽引力は女性性の主要な特性のひとつだ。
彼女は男性性を自らの中に牽引し、エネルギーを放出させる。
しかしその関係性は刹那的である。
男性の個性を受容し、理解するという性質がまだ現れていないからだ。
男性の視点からしても、そのアニマの存在理由はただ自らの欲望の放出でしかない。
しかし、アニマに他の女性性の特質・・・人格的な受容性や優しさ、理解力、智慧など・・・が現れてくるにつれて、アニマとの関係性は刹那的なものではなく、全人格的なコミュニケーションや精神的な意味に裏打ちされた長期的なものとなる可能性がある。
牽引された男性性は、それのみで終わらずに、存在を抱擁されるのだ。「週刊誌のグラビア」は「ロマンチックラブ」の領域へと進む。この領域に至ってはじめて男性性は女性性によって変容し始めることが出来る。
つまりどのような内的異性を持っているかということは、どれくらい男性として成熟しているかという目安でもある。
アニマは、自分自身なのだ。アニマが変容すれば、自己も変容し、自己が変容すればアニマも変容するのである。
「女はヤルものだ。」と言う男性は彼自身の男性性のレベルについて告白していることになる。
女性性の全体ではなく断片しか把握していない場合、やはり男性性も断片的となる。
同じように、女性自身が自分の女性性を肉体的な美や、性的な魅力にのみ限るなら彼女は自分自身のトータルな女性性と接触することは出来ない。そのことによって様々な問題が発生する。
彼女が自分をエロス的アニマと同一化すればそれだけ、幼稚で暴力的な未発達なアニムス(女性内男性イメージ)を同時に形成し、外的にもそのような異性と接触しやすいからだ。
現在の消費主義商業文化の中では、女性の肉体イメージは大きなマーケットになっているので、そのアニマの側面は男性にとっても女性にとっても必要以上に異様に大きなウェイトを占めている。
テレビをつけると化粧品や様々なCMが、あなたはもっときれいになれるはずだと訴えかける。
女性も「過度に」スタイルを気にし、雑誌のモデルのような体型になろうとしてダイエットに励む。そうしないと女性として価値がないと半ば思い込まされている。
彼女は、女性性の恵みである自己の肉体を半ば敵視し、思い通りに支配、改造しようという「男性的な」願望にとらわれる。
女性が美しくなるのは男性にとってもうれしいことだ。
しかしこの現象は、真の女性性をヴェールで隠し、アニマ・アニムスを未発達な段階に留める役割りもしているので、男性女性双方にとって不利益も大きい。
問題は女性性が商売の道具として、乱暴に扱われているということにある。
ある意味これはレイプだ。
女性性とは、単に人間的な特質を越えて拡がっているものだ。
『女神』とは女性や母性の神格化ではない。
そうではなく、人間の女性性や母性こそが『女神』の現われなのだ。
『女神』の性質は、生命を生かすもの、育てるものとして、自然界の森羅万象に浸透している。
例えば命のゆりかごである海洋として、ガイアとして、アマテラス・太陽として。
科学はそれらを女性的とはみなさないだろう。
しかし僕らのハートはそれらを女性だと感じている。
そのポイントを押さえなければ、僕らは女性性の全体像に達することは出来ないだろう。
つまりアニマは断片的であり続けることとなる。
アニマとは人間的心理学の枠を越えて存在する、宇宙的存在なのだ。
さらに発展したアニマは、もう女神のようなイメージになっている。
これが女性性の全体性だ。それはもうほとんど人とは呼べない。
先の段階では受容性というのは、いくらか消極的な女性的性質と混同されるようなところもあったが、このレベルではもはやアニマの放つ愛や、包容性は積極的な力として、人を霊的に目覚めさせはじめる。
この女神的アニマの発揮するする牽引力は、生物的本能に従って男性のエネルギーを自らの個人的エゴや肉体に牽引するものではもうない。ここで現れる牽引力は、愛や存在の根源へと人を連れ戻す牽引力だ。
女神はやはりエロス的アニマや、普通の女性のように人を自分へと引き付けるが、彼女はもう純粋な愛それ自体になっているのだ。女神的アニマの牽引力は神の『愛』の牽引力である。
性的な魅力や、心理学的なレベルの受容性はもはや二次的、三次的な価値になっている。
しかし、その内部にはそれらもすべて秘めている。
ここでは人を産み出した「マザー」と、そして人を成長、変容させる「アニマ」とが融合している。
それは母のようであり、また恋人のようである。
デミアンの「エヴァ夫人」の誕生だ。
ラーマクリシュナはすべての女性に、この至高のアニマ(マー)を投影して、彼女らに仕えよと説いた。
映画「マトリクス」でネオにメッセージを伝えるオラクル(預言者)もこのイメージに近い。
彼女の吸うタバコはまるで原初的魔的アニマの名残のようだ。
この智慧の女神の前では、男性性は子供になる。
和尚・ラジニーシは男性性は最後には子供になると言っていたと思うが、
それはただの無知な幼児ではない。
存在性にサレンダーした覚者の姿といってもいい。
女性性とはそのもっとも純粋な形においては、積極的な力なのだ。
女性性とはまた「世界内世界」、「形」の創出者でもある。
ロシアの名物人形マトリョーシカのように、この宇宙は、原初の女性性(エロス的アニマのことではない。女神の方)の内部に、いくつもの「マトリクス」を多重的に発生させていると言われる。
それは例えばこのようになっている。
僕らは母の子宮(これも世界内世界だ)に10ヶ月いた後に、この地球(これも宇宙の中の世界内世界、ガイア女神)に生まれるが、それ以前に『肉体』という世界内世界にも霊的に受肉している。
この肉体を通して魂は世界を経験し、この目で見、この耳で聴き、生存欲、性欲、食欲、自我欲などの衝動に支配されながらもこの人生が展開していくのだ。
このような意味で、『肉体』とは形態の中の形態、世界内世界、マトリクスの中のマトリクスである。
この肉体は、魂の教育者、意識の保育者であり、キリスト意識を宿しているという意味で「聖母マリア」であるとも言われる。それはまた原初の女性性(女神的アニマ)の現われだ。
このように僕らは、肉体、地球、太陽系、銀河、宇宙・・・というようにいくつもの世界内世界、宇宙内宇宙。マトリクスの中のマトリクスに生きている。より広く解釈するなら、国家や組織、会社、家庭、などというのも女性性の顕現であるところのマトリクスであり、小さな宇宙だ。
しかし世界、マトリクスに生きるということはある「苦痛」や、「幽閉の感覚」を可能性として潜在させている。それは、ある閉ざされた宇宙にいる時、その宇宙が恐ろしい場所、望まない場所、苦痛に満ちた場所になるという可能性が常にあるからだ。
健康な人なら、病気になる可能性(肉体マトリクス内存在の苦・不安)、平和な国なら戦争になる可能性(国家マトリクス内存在の苦・不安)、居心地のいい会社ならそれが感じの悪い雰囲気になる可能性(会社マトリクス内存在の苦・不安)などがある。
つまりひとつの世界内世界に生きるということは、そこからいつでも脱出できるという保証がない限り、潜在的に恐怖を宿しているということになるのだ。これが女性性に潜在する「苦」だ。スタニスラフ・グロフはホロトロピックセラピーで、このような幽閉感覚を出産時の残存記憶BPMとしているが、おそらくもっと根源的なものではなかろうか。
ポジティブなグレートマザーは、その内部の生命を生成化育させるが、ネガティブなグレートマザーは生命をその腹の中に飲み込み、幽閉し、破壊する。
これが「形」がもつ潜在的なふたつの可能性だ。
アニマのレベルとはまた別の話で、原初の女神という元型が持つふたつの性質だ。
正のマザーは、慈愛溢れるマリア、パールバティであるが、負のマザーは血にまみれ、干し首の首飾りをして踊り狂うカーリである。
ポジティブな女性性はわが子を愛し、優しく、時には厳しく育む母(または家庭)である。ネガティブな女性性は、わが子をスポイルし、大きなトラウマを与える母(または家庭)である。
ポジティブな女性性は、国民が安心して、自由に暮らせる国家や共同体である。ネガティブな女性性は国民を粛清する自由の全くない独裁国家である。
部屋で言うなら
ポジティブな女性性は、こころやすらげる自分の部屋だ。
ネガティブな女性性は、出て行きたくても出て行けない、寒くて不潔な監獄だ。
関係性で言うなら
ポジティブな女性性は思いやりに溢れて、自由を尊重し、お互いを気遣い受け入れあう関係だ。
ネガティブな女性性は、支配服従の関係や、過度に束縛しあう関係、お互いのためにならないとわかっていても離れたくても離れられないDV、共依存カップルなどだ。(もっとも関係性は多くの場合どちらの側面ももっている)
ユダヤ神秘主義のカバラでも、ビナーというセフィロトは形態の母なのであるが、アマ(暗く不毛なる母)と、アイマ(明るく豊穣なる母)という異なった二つの別名も持っている。それは「大いなる海」とも呼ばれる。また興味深いことに、ビナーが与える霊的体験は「悲嘆の霊視」と言われる。
これは「悲しみ」というものが、形態や、世界内世界存在となることに潜在していると考えるなら、とても理にかなっている。形態があるからこそ、破壊という苦がある。
しかし同時に破壊というのは実は、秩序のカオス化を意味し、より根源的な母体への回帰でもある。
エネルギーが、かたちから解放されるには、破壊と変容の二通りの道がある。
それは「自殺」と、「死ぬ気になって生きる」の違いのようなものかもしれない。
『 「ビナー」、「大いなる母」が時として、「マラー」、「大いなる海」とも呼ばれる。もちろんそれは「あらゆる生き物の母」である。彼女は生命が顕現世界に至る時にくぐりぬける元型的子宮である。生命にある器を与えるために形を付与するものは、すべて彼女に属する。
しかし覚えておかなければならないのは、形の中に閉じ込められた生命は、それによって組織化され発展することは出来るけれども、それ自身の次元にあって、無制約(同時に未組織)であった時よりも、ずっと自由を失うということである。
形の中に閉じ込められることは、それゆえ死の始まりである。形は制約し、限定する。拘束し抑制する形は、生命を阻止し妨害する。だが生命を有機的に働かせることができる。
b自由に動く力の観点から見れば、形の中に監禁されることは消滅である。形は力に無慈悲なる教訓を与えるのである。』
ダイアン・フォーチュン著 「神秘のカバラー」より
またインドのタントリックな考え方では、この現象世界は太母(マハー・マーヤ)やによって産み出された幻影(マーヤ)だが、その中で生きる人間が真理(プルシャ・真我)に気付くことなく、迷妄にとらわれているのは、母なる神が人をマーヤにかけているためだと言う。
女性性は幾重にも世界内世界に僕らを閉じ込め、またその中で生かす。
しかし、ゲーテのライフワーク『ファウスト』の最後の言葉はなんだっただろうか?
それは「永遠の女性がわれわれを上昇させる」というものだ。
永遠の女性とは、霊化されたアニマ、マザーとアニマの結合したエヴァ夫人、あるいは女神である。
この永遠の女性は、僕らをあらゆる束縛から解放させる力なのだ。
神の愛の牽引力であり、
自由を与える力だ。
しかし、自由とは何か?
自由とはマトリクスからの、いくつもの世界内世界、あるいは信念内信念からの自由である。
ということは永遠の女性、至高の女神、純粋な女性性、神の愛の牽引力とは、
???僕らを女性性から開放するのである???
???しかしマトリクスとは女性性から生まれたのだ???
???自分で閉じ込めて、また解放するのか???
おそらくこれが女神の持つ最大の二面性であり、謎であり、その神秘的な微笑の魅力ではないだろうか。
女神の手のひらの上で、僕らは愛の音楽によって踊らされているのである。ここに至っては、暗い母と明るい母、パールバティとカーリ、「愛し育むもの」と、「閉じ込め壊す」ものはひとつになり、ただひとつの女性性しかなくなっているだろう。
愛とはまったく正反対のものをも包み込む。それほどまでに女神の僕らへの愛は、深いようだ。
ルドン作 ベアトリーチェ (ダンテ「神曲」のヒロイン 永遠の女性の象徴とみなされる)
ウィリアム・ブレイク作 三匹の獣から逃げるダンテ
恐ろしい獣に追われていると、天上からいとしい恋人が救いの女神として・・・
しかし、実はベアトリーチェと獣がつるんでるんだからたまらない・・・。ダンテもお手上げ
2009年の記事にコメントいただいたので、今回はこの記事よりプレイバック~~(*'ω'*)
2009年の丁度今頃の時期ですが、女神の本質に関する考察が止まらなくったことがありました。
その一連の思索を書いたものになります。
ちょっと順番が前後するけど、今回は そのシリーズの②より。
読みやすいように改行など若干修正しました。
右のカテゴリーに収録されています→女神の性質
なお以下の記事で繰り返し出てくる カーリーとパールヴァティはともにヒンズーの女神です。

パールヴァティ

カーリー
2009年1月21日
先の投稿で、世界内世界に存在しているという事実が苦を宿していると書いた。
それはマトリクス内存在にとって、いつパールバティ(正のマザー)がカーリ(負のマザー)に変身するのかまったく予期できないからだ。
しかし、しばしば僕らはある種のマトリクスには盲目的にされており、それがカーリ化した時に初めてそのなかに生きていたことに気付くという事態になる。
例えば、そのひとつが「経済システムマトリクス」だ。
金融恐慌が進行するにつれて、メディアも今までの市場原理主義がいけないとか、米英中心のシステムや、実態のない金融カジノで金を増幅させてきたつけが回ってきたのだとかいろいろ言い始めたが、それまではその構造などメディアで真剣に取り上げられたこともあまりないし、僕らも素人が理解するには複雑すぎるのでその構造には盲目にされていた。
だがひとたびそれがカーリ化すると、そのシステムの矛盾をすべて一般人がかぶることになるわけである。
矛盾は最初からあった。不運が重なったのではない。根本的に生き方がおかしかったのだと思う。その巨大なる矛盾の上に、僕らの生活は成り立っていたわけだ。
もうひとつ例を挙げれば、例えば日本人は諸外国に比べて、国家マトリクス内存在だという認識が希薄であると思う。また「日本民族」であるという自覚も薄い。逆に「日本民族としての誇りを持て!」なんてことを誰かが言うとちょっとヤバイ人に見える。
これに比べて独裁国家である北朝鮮や、民族的に大きな困難を背負わされてきたパレスチナの人々などはいやが上でも国家・民族的意識は強固にならざるを得ない。
そんな民族・国家意識などというものは争いの火種であるので、ない方がいいという意見もあるだろう。しかしその認識がないのが果たして本当にいいことなのか、僕にはわからない。
もし『国家』というものが存在しなければそれでいいだろう。
だが実際には現在、『日本』は国境線によって他と隔てられた、マトリクス(世界内世界)だ。
ということは常に、この世界内世界の状況によって、また他と分断されてることによって苦を背負う可能性を秘めているということでもある。それがはっきりするのは、困難な時代が訪れた時であるだろう。
この、「日本国家」のように潜在的に僕らを飲み込んでいるカーリに対してあまりにも無自覚であるのは、自分が肉体を持っていることに無自覚なくらい危険なことかもしれない。現在の日本はパールバティというより、透明化したカーリと言った方がいい不気味さがある。この透明存在の顔を目を凝らして見る必要がある。
『国家』は潜在的に危険なものだ。
それは原初の形態化、ビナー( はいたか注※ ビナーはカバラ生命の樹のエネルギーセンターのひとつ)に苦の種が存在しているのと同じだ。
現代人の多くの人は、国家のみならず、組織というものへの不信感を強くしている。
『組織』とはミクロでは人間がふたり集まった友人や恋人関係であるだろうし、マクロでは多国籍企業や国家だ。その中でも『宗教組織』のイメージは悪い。
1995年、あの組織が起こした事件以来、人々は宗教組織(カルト)への警戒を強くした。
カルト組織への警戒感は、カーリ化したマトリクス内にとらわれる恐怖に基づいている。(誰もこんな言葉で考えないと思うけど)ネガティブマザーは、わが子をその腹の中に飲み込み、幽閉した後、破壊する。
実際あの教団の施設内では、小部屋への幽閉や、暴力、薬物によるマインドコントロールなどが行われていたとされる。
これは極端な例だが、人はある組織に入る時、自分の何かを・・心理的自由や金銭やその多いろいろ・・・を奪われる可能性を感じやすい。
この現代には、人間が構成する組織全般への根源的な不信感が広がっているように思えてならない。
組織にとっての理想は、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンの精神だろう。
相互扶助の精神だけが、組織をカーリではなく、パールバティ、正のマザーにする。そして、その組織は外側に開かれたもので、全体に対してもワン・フォー・オールとなる必要がある。
逆に、組織の一部が大勢の構成員を、心理的・物質的に搾取するシステム、または組織内部はまとまっていようとそれが全体に対して害を及ぼすような(詐欺集団のような)システムは負のマザーに支配されている。
いくら組織が繁栄しても、それが全体の犠牲の上に成り立っているなら、構成員は自分自身をネガティブなエネルギーの中に閉じ込め、究極的には自己を損なっているからだ。(閉じ込め、破壊する)他を損なうことが、自己を損なうことになるのは、それは全体(他者)とは、最終的には自分自身であるからに他ならない。
カルト宗教、悪質企業、学級崩壊や家族崩壊。
このような現象は人から共同体への信頼を徐々に奪っていく。
引きこもりやニートという現象も、あらゆる共同体への不信感の拡大と無関係とは思えない。
彼らには大口を開けて、すべてを飲み込むカーリの「幻影」が見えているのだろう。
もし社会に出て働くということが、自分の感性もなにもかもすり減らして、病気になるほど労働するということであるとすれば、社会や、彼らがそこで働く「企業」というのは、「閉じ込め破壊する」カーリ以外の何物でもない。(もちろんこれは極端な見方ではあるが)
その「閉じ込め破壊される」事態を避けるために、自室というもうひとつの「子宮」にこもらねばならなくなる。だがTVやゲーム、好きな本やアニメに囲まれた部屋もそれが長期化すればやはり人を損なう母体となってしまう。彼はやはりカーリの悪夢にうなされて夜中に目を覚ますことになるだろう。
彼らが求めているのは、自己を受け入れ、育ててくれる、「何か」、「誰か」、言い換えれば女性性であり女神(ポジティブマザー)の力なのである。
自室という「子宮」はこの、人を成長・変容させる女性性の代用品なのだが、代用品とは言え、人が困った時に必ず女性性にすがるのは非常に興味深い。それにカーリも彼らに何かを必ず教えるのだ。
カーリは単に破壊者ではなく、厳しい教師の顔をも持っている。
僕は引きこもり状態の時、実際よくカーリ(ネガティブマザー)の化身が登場するような夢を見た。
大きな無人の屋敷をさまよっていて、薄暗い部屋にたどり着くと、そこには一人の女が描かれた絵がかかっているのだが、その顔は下半分だけがライトアップされ口元しか見えなかった。その口元は笑っていた。
その絵は屋敷の女主人の顔だと思うのだが、僕は彼女が非常に恐ろしく感じたのを覚えている。床にはいまだ生まれざる胎児の写真が無数に敷き詰められていたからだ。
この他に、カーリ化する可能性のある、又はすでにしているマトリクスは以下のようなものが考えられるだろう。
①エネルギー供給システムマトリクス→例えば中東で戦争が起こると、石油は一気に高騰する。
②食糧供給システムマトリクス→日本に輸入が途絶えると、手に入る食料は激減する。
③ガイアマトリクス(地球内世界そのもの)→異常気象や天変地異の増加によりカーリ化する
①と②に関しては現在のマトリクスの仕組を変容させることで、カーリ化する危険性を減少できる。
例えばロシアから石油を直接輸入する、代替エネルギーの開発を急ぐ、食糧自給体制を確立するなど。
その為には、まずそのマトリクス内にいるという認識が必要になる。
なお前回、今回とマザーの否定的側面をカーリ、肯定的側面をパールバティと便宜的に書いたが本来このように分割できるものではないと思う。
世界内存在として形態化することによって生まれる影響として、「閉じ込められ壊される」と「愛され育まれる」の元型的なふたつのパターンが存在し、それらは『世界内世界を形成する』という原初の女神の活動によって発生しているということを言いたかったに過ぎない。
本来は、このふたつが融合したひとつの母性しか存在していないし、一見ネガティブなものにもポジティブな側面が必ずある。形を経験することが、形を超越する学習なのだ。だから形を持つことによって発生するネガティビティを知ることも当然重要となる。
そして形を越えた世界を垣間見させるのは、形の創出者であるところの原初の女神、至高のアニマ・マザー、「永遠の女性性」である。僕らは彼女の娘・息子たちだ。
最後にスタニスラフ・グロフのBPMの概念を書いて終りにしたい。
グロフはLSDセラピーや、過呼吸を利用して変性意識に人を導くホロトロピックセラピーを指導していく過程で多くの人が出産時の記憶に拘束されていることを発見し、これはBPM(Basic Perinatal Matrix)基本的分娩前後のマトリックスと名づけた。
BPM1は子宮の羊水に穏やかに浸っている状態で、その状態が心地よいものであれば胎児は「大洋的感覚」、二元性のないすべてと一体であるという感覚を感じている。平和、静寂、平穏、歓喜が体験される。
しかし逆に状態があまりよくなければ、その体験は汚染された自然のイメージや、強制収容所のガス室で死んでいく囚人と自分を一体化させる。ここですでに、世界内にいることで発生する苦が始まっているのである。
続いてBPM2は子宮口が開く前に、子宮が収縮を始める段階だ。
この段階では平和な世界は終りを告げ、胎児は肉体を締め付けられる。マザーのカーリ的側面が顕著になってきたのだ。出口(子宮口)はいまだ開いていないのに、世界が自分を押し付けるように周囲から迫ってくる「出口なし」の状況だ。この体験は「敵意に満ちた世界に閉じ込められる」イメージとしてセラピーなどで浮上してくるという。
BPM3は子宮を追い出され、狭苦しい産道を進みながら誕生に向かって苦心する段階。
そしてBPM4で世界へと誕生する。
グロフは現代をBPM3の時代と呼んでいたと言う。
『BPM3とは、出生プロセスのもっともきつい局面であり、胎児が自らの死に相当する出産を前にして、著しい葛藤にさらされる状態を表している。
このような状態では、超越(出産)への希求が高まると同時に、鬱積したエネルギーの劇的な消費を促すエロス的欲求や攻撃性が高まるとグロフは言うのである。こうしたグロフの見解は単なる推測によって産み出されたものではなく、サイケデリックな物質を使った臨床的な観察によって産み出されたものであることに注意してもらいたい。
我々は現在、エロスと暴力が社会に蔓延しているのを目撃している。こうした現象はある意味憂慮すべきものであり、世紀末的な現象として慨嘆する向きも多い。しかし、グロフの考察に従うなら、エロス的欲求や暴力衝動の高まりは、超越的欲求の高まりを示す一つの兆候とみなすことも可能なのである』
菅靖彦 著 『変性意識の舞台』本文より
もしや現在多くのものがカーリ化しているという事実も、エロス的アニマの増殖も、未知への誕生の生みの苦しみなのだろうか。
そもそも誕生とは胎児にとっては古き世界の死である。自らは望むべくもない。しかしプロセスは「勝手に」進行する。多少体を締め付けられようとも、母なる宇宙への信頼が問われている。
西洋文明終末期の
最終的な崩壊と成熟の
人間性のプロセスは次のようになる。
1、マニピュラチャクラの否定。
すなわちエゴ・トリップの頽廃。
2、ムラダーラ・チャクラへの退行。
すなわち、セクシャルな事柄や麻薬の流行と、その反動としての超管理社会。
3、死もしくは狂気についての狂気的関心。あるいは、その反動としての社会的平和や宗教への熱狂。あるいは戦争と暴力。
ここまでで、ムラダーラチャクラへの退行の試みは、終息する。
つまり西洋文明の実質的崩壊である。
4、だが一部分では、
この崩壊を乗り越えて、真の成熟過程が進行する。
5、死についての非抑圧的な正常な関心。
6、そして
メンタル体、アナハタチャクラの爆発。すなわち超越的な慈愛と、純粋な瞑想行為の発現。
ダンテス・ダイジ 『アメジスト・タブレット・プロローグ』本文より
※以下コメント欄です。ご感想ありがとうございました☆※
最近読んだ漫画の悪役の台詞に、「人間は苦痛より快楽に弱い生き物なのだよ。ふっふっふ。」というものがありましたが、社会のマトリクスも表面的な快楽、快適さによってそれを認識することが出来なくなってしまうという性質があるのだろうと思います。
釈迦も我々の世界の本質を一切皆苦と認識するところから悟りの修行がスタートしたわけで、ある意味、今のカーリ化した世界の状況もマトリクスの本質を認識し、そこから脱出するチャンスであるとも言えるかもしれないですね。
私は、「マトリックスレボリューションズ」のネオとスミスの最後の対決のシーンが大好きなのですが、あれは人間の意識の変容のプロセスを描いているような気がしてならないのです。
マニピュラからアナハタに上昇するには、あのくらい大変な自我との戦いがあるのかもしれませんね。
しら URL | 2009/01/23 21:34 | 編集
>しらさん
コメントありがとうございます♪
>釈迦も我々の世界の本質を一切皆苦と認識するところ>から悟りの修行がスタートしたわけで、ある意味、今の>カーリ化した世界の状況もマトリクスの本質を認識し、>そこから脱出するチャンスであるとも言えるかもしれないですね。
カバラを知った時、釈迦の「一切快苦」(こんな風に変換されちゃったw)の認識というのはまさにビナーが与えた霊的体験ではないかと思ってしまいました。
母体内部がカーリ化するのは多分出産のプロセスなんでしょうね。
グロフは現代をBPM3(産道にいる)と言っていたようですが、どうも子宮内部の様子が一変して産道に押し出される前のBPM2ではないかとも思えますね。あれ?なんか世界が「変」だよ?という感じの認識。産道に出た胎児のストレスはもっと大きい気がしました。
スミスって面白い存在ですね。マトリクスのエージェントも廃業しちゃったまさに「自我」ですね~。マトリクスも飲み込むガン細胞みたいなイメージでしょうか。
はいたか URL | 2009/01/24 11:50 | 編集
子供の頃 ベッドの中で
夜のしじまを聴きながら
宇宙の大きさを想った
ブラックホール
赤く膨れていつかは消えていく太陽のこと
2兆個もあるという 銀河のこと
幻のような青く小さな惑星
悩みのちっぽけなこと
すべてが 儚く見えて 怖かった
少し大きくなった あの夜には
あなたと手をつないで
丘から銀河を眺めた
ぎっしりと散らばる冷たい光は
やっぱり怖かったけど
あなたの手の温もりが
私を ここへと つなぎとめた
二兆個の銀河の下
車や カフェや 自動ドアがある街で
あなたとなら
儚さを忘れて歩いてゆける気がした
それから 地球が太陽の周りを
何十回か回った いつかの夜
大きな彗星が青い尾をたなびかせ
夜空を燃やした時
世界中の人々が
空を見ていた
畏れと美を感じながら
何十億かの私たちは 2兆個の銀河よりずっと少ないけど
ともに永遠の中を旅していることを知った
そして今夜
降るような星空の下
私はまた たった一人で 宇宙の広さを想っている
あなたの手の温もりも 彗星も
彼方に去っていった
しかし 私は怖くはない
胸は熱く脈打っている
どれほど宇宙が広く
また銀河がいくつあろうと
私の時が あまりに短く 儚くとも
この夜空のすべてに 命が宿り
私たちに似た無数の誰かが 何かが 夜空を見ている
そのすべてが 私たちだとすれば
2兆個の銀河も多すぎはしない
永遠も長すぎはしない
子供部屋のベッドの中でも
あなたと手をつないでいた夏草の丘でも
いつも私は 無限の私たちと共に
夜空を見ていたことを知ったから・・・
July 2021

今回のエッセンシャルは、瞑想家ダンテス・ダイジさんに関する記事です。
ダンテス・ダイジて誰よ?
と聞かれても ちょっと説明するのがめんどく・・・じゃなくて 大変なので、ご興味のある方は直弟子でいらっしゃった渡辺郁夫さん(広島大学教授)のホームページなどをご覧ください。
僕はこのダンテス・ダイジの講話録「13番目の瞑想」に、東京に来たばかりの頃出会いました。
確か 中野の古書『大予言』だったと思います。
その本の中に残されたダイジの言葉、『君たちは愛なんだよ、愛そのものなんだよ』というのを読んだときの不思議な感覚を今も覚えています。そして ダイジがしばし講話を行った三鷹に 僕もその時住んでいたことも、何か目に見えないつながりのようなものを感じさせられたのでした。
ダイジ氏は1987年12月11日 37才でこの世を去っており、今年で35年目になります。
そんな昔に亡くなった人とつながりを感じるというのも おかしな話かもしれないですけど、ダイジの数冊の講話録はずっと僕の中でバイブルとして 心の支えとして また導きとしてありました。
最初は、講話録を読み その人となりや どんな人だったのかということを想像していました。80年代に亡くなった人なのでそれ以上 踏み込みようがありません。
しかし、その後 mixiのダイジコミュニティで 生前の講話の音声や 未出版の著作の原稿を読むことが出来るようになりました。彼の声を聴くことはより一層自分をダイジのバイブレーションに近づけてくれました。
今回は、過去にさかのぼり ブログに初めてダイジの名前を書いたあたりから、何本かプレイバックしたいと思います。
まとまりのない内容ですけど(*'ω'*)
沈黙の聖者 2005/09/04 21:03
電脳空間をさまよってる時に見つけた、メヘル・ババのスマイル。
言葉で語ることが無意味であると感じ、40年以上にわたって沈黙を続けたという。
僕は、メヘル・ババとはまったく違う意味で、あまりしゃべれなくなってきた。自分は、何も知らないということがますます自明のことになっていくに連れて・・・。
ダンテス・ダイジとの出会いを綴った文章を見つけた。
以下のページのメルマガvol.9~14あたりに連載されている。
http://www.sun-inet.or.jp/~yuto/whatnew.htm (URL無効)
あんまりこっち系の世界に詳しくない人が読むと、単なる基地外さんにしか思えないかもしれないな・・・。
僕は会ったこともないのに、勝手にダイジを敬愛していたが、「和尚とはアトランティスで酒飲んだ」にはさすがに引いたかな。
しかし、普通ではない凄味は充分伝わってくるので、読めてよかった。
ダイジがババジとどうやって出会ったかということや、「スケ番」のクンダリニーをあげて三分間殺したエピソードなどが面白い。
渡辺郁夫さんの講話録のイメージとは大分違う、狂気を感じさせるグルの姿がある。なんでも、夜中に弟子の家にやってきて、眠っている弟子をいきなりぽこぽこ殴りつけ続けたとか・・・・。いやー
すごい。
貴重な資料なので、ワードにコピペしておいた。
このホームページは、掲示板がすごいことになっているのでいつ消えてもおかしくはないだろう・・・。まるで死肉にむらがるハイエナのように、出会い系の書き込みが殺到しておるので。
「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の瞑想法を久しぶりに少しやってみて、チャクラ全開瞑想は、上下の軸と左右の軸を無限大に拡大するんだなーと思った。上に上げすぎたら気持ちいいけど、もしや戻って来れないのではという感じも。
瞑想における空間の使い方・・・・というか、そういうの気になる。
I先生はこの前、「手のひらの上に地球と太陽系が収まるくらいにまで意識を宇宙に飛ばすのも良い」というようなことを言っていた。
自我意識が振り回されている日常の出来事も、意識を引き上げれば、ちっぽけな米粒のような世界の中で起こっているに過ぎないということ。
「空間的に」意識を拡大すればするほど、結局は転変する現象の舞台は視界から消えて、不変の空間が多くなってくる。悟りはすごくスペーシーな感じらしい。
今日は瞑想していたら、また身体と意識の位置が軽くずれている感じがした。眼を閉じて、「神のみこころののままに」と想うとまた回りだした。
くるくるくるくる
以下の記事は そのダンテスダイジの肉声データを初めて聞いた後に書いたものです。
★ダイジのテープが来る☆ 2006/06/22 10:12
ダイジの肉声テープを聴く事ができた。
想像のイメージと、実際の声のギャップに幻滅するかとも思ったが、そんなことは全くなかった。
講話録を文字で読んだら、なにげなく読み飛ばしてしまうような内容も音声で伝わるとよりこころに染み渡る。
それと同時に音声で言われると、そのことの恐ろしさがじわーっと伝わってくる部分もある。ダイジは言った。
『一度きりの君たちだ。
そして君たちが死んだら、永遠に、永遠に、永遠に、今ある君たちがくり返されることはない。
たとえ無限の時間が経ったとしても・・・。』
講和録4の「素直に生きる」のなかで、「すべてが同じに見える」という状態について語っている箇所がある。その部分もテープに入っていたのだが、肉声で聴くとかなり鬼気迫るものがあった。この人は発狂すれすれのような状態を通ってきたんだと感じた。
『とにかくそれが起こったとき、みんな同じに見える。
もう、女も男もない。だって女がいたり、男がいたりしたって少しも意味がないんだもん。
もう、優秀も劣等もない。優秀っていうのが意味ないんだもん。
そしてそう感じている自分さえ、意味ないんだもん。でも、それは灰色だ。まだ入り口に過ぎない。何故?見てる自分があるから。
もし、本当にニヒリズムっていうのがあるとしたらね、大抵のニヒリズムはロマンチシズムの一種だ。だけどもし本当にニヒルっていうのがあるとしたら、その灰色の世界、つまりみんな同じに見えちゃうんだよ。
ただ、見える立場がそこにある。だから灰色なんだ。
その時何する?
やることがないんだ。そん時座るんだ。じゃあ言おう。その時座るって俺は今、ここで言った。
だけど、言わなくても座るんだよ。そういう風に出来てるんだよ。俺はどういうわけか知らない。でもそういう風になるんだ。
万事休す。その時、見ている自分が消える。』
「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」のなかの公案禅の章で描かれている、ある人の死によって引き起こされたというダイジの精神状態は多分、そのようなものではなかったのだろうか。
ダイジも、愛と智の人だ。
リアルな、リアルな人だ。
僕は何人かの人にそれに似たリアルさを感じてきた。
一人はHIVに罹った人だった。
その人は、異様に「生もの」だった。
そして、I先生もやはり「生もの」に感じられる。
ダイジの話し声もすごく「生もの」的だ。
異様に、生きている。
なにひとつ目を背けていない時、初めて人間としてリアルになれるんだろうか。
このテープを聴きたい方は、mixiというコミュニティサイトに登録し、ダンテス・ダイジのコミュに入れば、希望することができます。
講和録とかぶっている内容も多いのですが、初めて聴く内容も多いので、そこらへんはテープ起しして文書化しようかとも思っています。
<以下コメント欄>
ダイジ
はいたかさま、初めまして。
ダイジをキーワードに検索をして、こちらのブログに来ました。ブルーさんの日記の抜粋を上げているサイトは拝見した事があったのですが、はいたかさんのHPだったのですね。
肉声テープ、聞いた事がないのですが、講和録に収録されていない内容で興味深いものがありましたら、文章化されるのを楽しみにしています。では、失礼します。
すぎぴい URL | 2006/06/24 18:28 | 編集
すぎぴいさん、こんにちは。
「ぬけがら日記」読まれてたんですね。あれ、中途半端ですいません。いつか、もうちょっと書き足します。復刊されるのが一番良いんですけどね~。
テープも素晴らしいので、すぎぴいさんも良かったらmixiのコミュに登録されることをお勧めします。
又、遊びに来てくださいね。
はいたか URL | 2006/06/24 20:28 | 編集
上の肉声の文字起こし読んで 「何もかも意味ない」ってダンテスダイジってかなりヤベー人なんじゃないかという印象を持つ人がいるかもしれないのですが、これはあくまでもダイジの一部で もっとさわやかな語り口のものがいっぱいあります。
あえてこれを選ぶって言うのは なんというか 僕の一種の趣味の悪さみたいなものかもしれません(´∀`*;)ゞ
その後コメント欄に ダイジのお弟子さんで 「ファイ」という名前をダイジからもらった方が 書き込んでくださり とても興奮しました。
以下 ダイジのお弟子さんであった ファイさんとのコメント欄での対話です。
井之頭一丁目さんというのがファイさんになります。
第慈とは井の頭でよく話し合いをしたり酒を酌み交わした者です。
もう27~8年前ですが懐かしく思い書き込みします。
広島の渡辺氏とほぼ年代は同じ頃です。
最近になって第慈がネット上でよく見かけるようになりました、それだけ世が混沌としているということかな?
第慈の本や関連本・テープを聴くのもよし、でも第慈の言っている事は、あくまで相談者個人への回答が前提なんだ、第慈にとって世の中が良くなろうがまたその逆であっても、そんなに彼の場合は重要視しないんだ。
あくまでも個人がハッピーになれば、それで良しとする、これが第慈の教えなんだ。
そして、そこに第慈の優しさなりが見えてくるんだ。
第慈は相談者を見極めたうえで話をするから、時として全く正反対の事を平気で言うから、字面を鵜呑みにしてはいけないよ。
「ダンテスの悪影響」と自分自身でも言っているよ。
世に出る聖者でも必ず2タイプあるらしい、その事を踏まえて、読むなり聞くなりしてほしい。
井の頭一丁目 URL | 2006/08/31 09:30 | 編集
井の頭一丁目さん、書き込みありがとうございます。ダイジとお酒を酌み交わされたということ、とてもうらやましく思います。
僕も一度、ノロへ行ってみようと思っています。福生にも衝動的に行ったので・・・笑。
おっしゃる通り、ダイジの言葉はすべていわゆる待機説法だと思います。「君がどうかい?」と言う言葉すらもしかするとそうなんでしょうか・・・。
二種類の聖者とは・・・・??
はいたか URL | 2006/08/31 21:03 | 編集
「ノロ」を知る貴方へ、第慈と面識があるんですか?
ノロは懐かしいですね、遠い若き日の思い出です。
今も、あの店あるんでしょうかね?
精神的宗教的系統、「モーゼ・イエス・空海・出口王仁三郎」
「クリシュナ・釈迦・老子・達磨・ドンファン」この二つのながれがあるとのこと。
井の頭一丁目 URL | 2006/08/31 23:44 | 編集
うーん・・・、「モーゼ・イエス・空海・出口王仁三郎」は「クリシュナ・釈迦・老子・達磨・ドンファン」に比べて より霊的な世界での使命を持っているように思えますが・・・。世直しの人・・・ということでしょうか。
残念ながらダイジ氏にお目にかかったことはありません。
でも会ったこともないのにその言葉がこれほど心に響くのは本当に不思議です。
mixiというコミュニティサイトで、ダイジのテープが回っています。そのテープの中に、居酒屋ノロでのダイジの説法というのがあって知りました。ダイジが詠む王仁三郎の歌も聴く事ができて、素晴らしかったです。思い出の中にダイジが存在してるなんて本当にすごいですね!
はいたか URL | 2006/09/01 20:03 | 編集
第慈は世の中の発展性云々よりも、個人の内面性に主体を置く、仏教で言う「小乗仏教」的な、ニュアンス。
モーゼやイエスは、世の中の発展性や平穏な世の中をつくる的ないわば「大乗仏教」的要素を言っている。
その二つの流れがあるという意味です 。
第慈は酒が好き(酒豪)で、自分では「俺のパワーを目の当たりにすると君たちは面食らうから、酒に酔うことで押さえているんだ」とよく言ってたよ、でも第慈の酔った姿は見たことがない、下手な踊りは見たことがあるけど。
井の頭一丁目 URL | 2006/09/01 21:11 | 編集
自分を肉体につなぎとめるためにアルコールを使っていたんでしょうか。。。もしくは、単純に好きだったのか。テープを聴くとシラフでもちょっとろれつが回らない感じがします。
井の頭さんは、ダイジから指導を受けられていらっしゃったんでしょうか?
はいたか URL | 2006/09/02 21:43 | 編集
第慈のパワーは計り知れない、アルコールはそれをセーブするらしい、
確かにアルコール大好きです、余談ですが日本酒をラッパ飲みするときもあった。
肉体から出るときは、サハスラーラチャクラから容易に抜け出るらしい。
第慈の会話は、頭で考えて話していないんだ、我々と違うところで会話してるんだ、
第慈の脳波は常に「アルファー波」らしい、たぶんどのテープも同じ口調だと思うので、確かにいつも同じ酔った様な口調ですね、酔ってる訳ではないよ。
何度も指導を受けてますよ、今でも初対面の日は忘れられません、
初対面の日、第慈と目と目が合った瞬間、自分の息が荒くなって次の瞬間、胸がとてつもなく熱くなりその後の会話は、覚えていないんだ、帰り間際「いい朝が来るよ!」と言っていた。
翌朝目が覚めたら、世界が変わっていた、全てが輝いていた、鳥も・木々や草花や
電車に乗っている人々もみんな輝いて「みんな生きている」と実感した。
その後、全て分け隔てのない光った世界に一週間居たんだ、
でもそのあと格好良く言うと「無の世界」俗な言い方をすると、「お馬鹿さん」の世界に約20年ほど苦労した、当然結婚もし子供もいるが、ものの本質が見えちゃって、やりたいと思う仕事が無いんだ、でも家族を育てる為必死さ。
第慈から「ファイ」と呼ばれてました。
ちょっと昔懐かしんで、長くなりました、ごめんね。
井の頭一丁目 URL | 2006/09/03 06:17 | 編集

もうこのブログ、気づけば15年以上やってます(*'ω'*)
前から思っていたことだけど、個人的な記録としてデータで落としておきたいと思う部分があり、今 ワープロソフトへのコピペ&ペースト作業をしてます。
まあ なんかの理由でサーバー上のデーターがクラッシュするとかアクセスできなくなるとか ないとは言えないので。
EMP兵器が炸裂するとか(笑)いや、まあそんなことはないだろうけど。
で、その中で読み返してると、書き出し1年目くらいはほとんどなんのリアクションもなかったけど 2年目くらいから たまにコメントいただけるようになり 『ああ、そう言えばこんな人も見てくれてたんだな』とあらためて思いました。
なんか さすがに15年前とかまだ20代なので 今と比べると だいぶ自分の考え方とか感性、文体も違ってます。
かなりマニアックなところもあるし ただ 割と真剣に悟りとか そっち系のことには興味があったんだなーと。
2005年に書き始めたので その頃って さすがにダイアルアップ接続ではないけど、多分ADSL回線とかなんですよね。
だから、WEBであまり動画をみてた記憶ってないし、音楽も聞いてなかった気がする。もちろん、ツイッターとかもやってなかった。
パソコンと ガラケーだけ。
SNSの走りとして mixiをちょこっとやってたくらい。
ブログに ツイートとか、動画を貼り付けることもない。
そいうときのブログ書くって 今とはまったく意味合いが異なっていたんだよなあ と感じました。
今後 時々ネタが他にないときなど、過去記事をコピペしてくなかで 目にとまった記事を再掲載していこうかなと思います。
まあ、15年以上なので・・・21世紀最初の時代感も感じられるかもしれません。
コメントをいただいた記事については 公開コメントのみ、掲載させていただこうと思います。
今日は 2005年10月(ブログ開始から2か月後)の記事になります。
灯台と岬
2005/10/19 20:49
30分、4000円でまたリーディング系のセッションを受けた。
どこに行ってもとりあえず、今生に関係の深い前世については質問しているので、今回も一番初めにきいてみた。
場所はイギリス、アイルランド。時代はわりと近代。
灯台が見える海辺の岬にひとりで住んで、詩を書いて暮らしていたそうな。
少しさびしげな様子らしいが、それはどうも世の中に対する考えを詩とか物語の形で発表しようと、共に創作していた仲間が外国に行ってしまったかららしい。で、そいつが帰ってくるのを待っているということだった。
以前も別のところで、その辺にいたといわれたことがある。もっともそれは2000年くらい前ということだったけど。
その時は、あちら側の世界とつながっていろいろ見える人間だったが、見えるものを全部いいふらしたものだから村八分にされて、孤独死したということだった。
もしかすると、その辺に何回も生まれているのかもしれない。
今回は、何ひとつこちらの情報を与えていないので、なかなか感度がいいのではないかと思った。
詩は、大学生の頃かなり書いていた時期がある。いろんな詩人の詩集を図書館でコピーして集めていた時もあった。ブレイクとかイェイツの詩ですごく好きなのが何篇かある。
精神世界系のことを書くときは、どちらかというとシンボリックに表現する方が好きだけど、それはその頃の影響なのか?とか思う。
子供のときは、なぜかイギリスが好きだった。
良くわからず、響きだけで好きなのが、『グラストンベリー』。小さな修道院(だっけ?)がある丘陵。
昔、共に創作をしていた仲間は今生ではまだ会っていない。
だが、彼と会うことによって、なにかに駆り立てられるように、表現しようという衝動が湧き起こってくるだろう、といわれた。
はぁーそんなことあるんかいな。
興味のある方は一度、どうぞ
http://rebirth.cc/index.html (URL無効)

アイルランド モハーの断崖
↓ここより 2022年↓
サイキックな人によるリーディングセッションは何回か受けていますけど、この時のは『灯台と岬』という イメージがなんか印象的でよく覚えています。
で、まあ記事にも書いてますけど それより以前にアイルランドかスコットランドにいたと全く別のサイキックに言われたことがありました。
この人生では一回も訪れたことはありませんが、上のモハーの断崖のような風景はちょっと胸が高鳴るものがあるし、そう言えば文中のイェイツもブレイクもイギリスの詩人でしたね。他、ケルト的なものは全般的に好きです。
リーディング自体は いろんな人から複数回受けているので、もちろん 全部アイリッシュと言われたわけでありません。
以下は 全部別の人からもらった過去世の回答です。
◆スコットランドかアイルランドのサイキック
◆アイルランドの詩人
◆ギリシャに住んでた思想家みたいな人
◆インドのサドゥー
◆イスラエルの修道僧
◆自殺した修道僧(ムチでよく罪を償うため体を叩いていた)
◆人里離れて住む日本の刀鍛冶(江戸時代?)
この中で自分的に 何かが反応したのは、アイルランドORスコットランド と、イスラエル 詩人や 修道僧というワードでした。
だからまあ おそらくですがお坊さんみたいな人生や 表現者(売れてないと思われw)の人生っていうのは 何回か経験してるのかな。
こうやって見ると まったくバラバラではなく 多少共通項目が見えてくるところが興味深いところです。
あと どうもあまり人と会わないような人生とか、隠遁者的な宗教集団にいたようなイメージを告げられることが多い。
多いっていうかほとんど全部そっち系だ。
刀鍛冶の過去世を読んでもらった方からは、「そういう過去世ばかりなので、今生もそのやり方で生きて行ってOKです」とか言われました。
OKですか・・・そうですか~~(=∀=)
おそらく 今後はもう前世リーディングを積極的にしてもらうことはないと思います。
というのはある程度納得したから。
なんでこういうことに興味があったかというと やはり、自分の本質は何か? どう生きればいいのか?ということが知りたかったからだと思うんですよね。
その辺の答えがこの頃より 多少は見えてきているので・・・・
あとは自分で模索したい。
それぞれの人が僕の中に見たのは 本当に過去世なのか っていうのは証明しようもないことなんですけど、僕のエネルギーに固有のなんらかのパターンを読んでもらったのは 確かなのではないかと思っています。
それぞれ、参考になりました。
『私は 光に包まれている
私は光である
すべては 光である
光のみが存在する
私は光の海である』
『私は神に包まれている
すべては神である
私は神である
神のみが存在する
よって すべては完ぺきである
みこころが行われますように』

年末から年始にかけて、神様の気配のようなものが感じられやすい気がしました。
うちの近所に大きい栗畑があるんですけど、お正月にその道を散歩してると ものすごい静かで・・・
枝に落ちずに残っている枯れ葉が風に揺れて かさっかさかさ という音が時折聴こえるだけで、しかもその音の存在感がなんかすごい。 枯れ葉の音だけじゃなく 乾いた畑の土とか、その辺の雑草もいつもと違うように見える。
静かだと、自然の存在感が本当に増します。この感覚時々感じるんですが、、、
そう言えばパンデミック一年目の夏 山梨の小淵沢に旅行に行った時も。
ほとんど観光客もいない中あるいてると、静けさと澄んだ空気の中に立ってる松林の存在感が すごかった。
もちろん、蝶々とか生き物たちはより一層 リアルに 生き生きと見えます。
ありふれた自然 いつも 身の回りにあるんだけど、ここまでリアルに感じられない。
多分、社会の動きとか人の活動が減って その「音」とか波動が 激減すると ずっと存在していたバックグラウンドが生々しく浮かび上がってくる。
ただ単に「連休」じゃなくて、帰省で東京から出てる人も多いし、季節がらそこまで外で大騒ぎすることもなく家の中で テレビ見たりしてることも多いだろうし、本当に日常のパターンが「止まってる」感が強い。
5月の連休だとこの感じはない。
人間がいなければ この世界はどれくらい静かなんだろうって ちょっと想像した。
きっとゾッとする程だと思うけど、それが本来のこの世界の姿かもしれない。
雨の音 風の音 動物たちの鳴き声 川のせせらぎ 波の音
それだけが続く 数千年 数万年を想うと めまいがする。
僕も人間なので 一切人間的活動のないところに 生きていく自信はない。
そして、人間的活動があると やはり そのパターンやエネルギーに意識が巻き込まれ バックグラウンドにあるものが見えなくなる。
それは 自然や神様。
本来的に僕らが包まれているものを想い出せる いい機会だった。
すべては神や光 だとすれば この世にある様々なひどいことは なんだという話しになる。
ひどいことはいくらでも存在します。
でも、すべては神でもある。
それらは 本質的には 神=紙 の上に書かれた 絵ではないかと思うのです。
紙がなければ どんな絵も描けない。
そして その絵には いい現象や悪い現象が描かれる。
そして現在は 善悪の配分がこのような状態になっており、もう少し 未来にはまた違う配分になって 少しいい世界になってるかもしれない。
でも、それはどちらにしろ 紙=神 ありきの 写し世の状態です。
だから世の中がどうなっても すべては 紙=神であり 光である。
そこんとこは変わらない。
そして 僕ら自身も 紙に描かれた『絵』でjはなく 本質は紙=神である ということになります。
まあ、僕もほとんどの時間 『絵』の世界に生きていますけど。
『絵』の世界のチャカチャカした動きや刺激的な情報に ついつい惑わされます。
それはそれでいいんだと開きなおってる部分もある。
しかし いろんな 波動が止まったお正月と言うのは 『紙』の気配が わずかながら感じられました。
やっぱりたまに 「紙」 を想い出した方が 「絵」 を楽しめるのかも。
新年1本目。
なぜか、みにくいアヒルの子について話しました。↑
動画の中で、話すの忘れたことちょっと追加します。
スピ系師匠に「みにくいアヒルの子」だと言われて、「自己嫌悪とか自己否定とまったく逆のものが見えてくるよ」と。
その後日 部屋で一人で座っていると、自分の特質とか魅力みたいなものが ものすごくバーっと感じられたことがあったなーと思い出しました。
確かに 自己嫌悪とはまったく逆のものが見えた。
もっとも それ以後ずっと 自分大好き君でいるわけではなく、、、基本そんなテンションは高くないんですけど(笑)
ただ、あの体験も潜在意識の中にはずっと生きていて、人生を下支えしていてくれてるような気もします。
誰もが 自分自身が思うよりも ずっと 美しい存在なのではないでしょうか。