2019-12-23 22:41:28
去年の今頃も 僕はこの大きなケヤキの根っこに裸足で座っていた。
今年も靴を脱いで この根っこの上に座る。
12月の公園は人影が少ない。落葉樹の葉はほとんど落ちている。
地面は昨日の雨の湿気が残ってて少し冷たい。
でも樹の肌は、太陽の温もりを吸い込んでかほんのり温かい。
そのぬくもりが素足に伝わってくる。
大きな根っこは座椅子みたいに、その根の股にすっぽりと座って 幹に背中をあずけることができる。
そうして目を閉じていると すぐにじわじわ~っと気持ちがよくなってきた。
朝から頭が重くて痛かったけど あまり気にならなくなり 意識がクリアになってきた。
象の背に揺られたり クジラの背中で昼寝をしたりするのは、こんな気分に近いんじゃないだろうか。
大きな生き物に 自分をゆだねて 安らいでる感覚。
樹は生きている。
だから こんなに気持ちよいのに違いない。
樹は地下に根を伸ばして 地球とつながっている。
このケヤキ君に座っていると そのほかの樹や 動物や 虫たちとも つながる。
ケヤキ君はこの地球に生きる、多くの命の声と僕をつなぐアンテナだ。
だから 気持ちがいいんだろうか。
どこからか飛んできたてんとう虫が手に止まり、少し手の上を歩くと また羽根を開いて飛んで行った。
ひとつの命とつながることは 他のすべての命とつながることだ、という想いが浮かんだ。
都会の中で生きていると ある誰か一人との接点は その人との接点でしかないように思えるけど 本当はそうでなないだろう。
ある誰か一人とのつながりは その誰かとつながる幾人もの人々との つながりでもある。
命はもともと、ひとつなのだ。
生命との一体感を感じることは 僕にとって 一番心地よいことのような気がする。
それを感じさせてくれたケヤキ君に
「乗せてくれてありがとう」とお礼を言って 僕はまた靴をはいた。
冬至も終わった。
はっぱを落としたケヤキ君は クリスマスツリーのようなきらびやかさはないけど、そんなこと関係なしに 寡黙にそこに生えていた。
寒い夜にも そこにどっしり根を張っているケヤキ君は スゴい。
きっと すべてとつながってるから、出来るんだ。
次はもっと早く 遊びに来るね^^
2019-12-12 21:01:36
昼間 あたたかかったけど、家に帰る頃には風も冷たく とっても寒くなっていた。
この頃都心の方にたまに通勤してるので、どかどかどかと 靴音だけが大きく響く 渋谷駅の通路を歩いて 長い長いエスカレーターを上り、ぎゅう詰めの電車に乗る。
満員電車で仕事に行ったりするのは 何年かぶりなので ちょっと慣れてきたとは言え なかなかしんどい。
人にぶつからないように歩こうとするだけでストレスだし、すごい速さでこっちに歩いてくる人が 若干怖い。
うまく言えないけど 全員が 全員をただの雑踏として ある意味障害物として見ている空間というのは 殺伐として感じる。
自分のことを知らない無数の人の間を歩いている という感覚。
それは20代で東京に来たばかりの頃感じた感覚。
慣れたようでいて 今でもやはりどこかで奇異に感じて たまに思う。
「あー この人ら全員僕を知らないし 僕はこの人らを誰も知らない」と。
なぜか ちょっと呆然とした感覚になる。
まあ 全員僕のこと知ってても それはそれでストレスだろう。
変装して歩かなきゃならない。
そんな風に雑踏に対して いつまでも意識的であるのは やっぱり比較的静かな町で育ったからなんだろうか。
寒い中 家路を足早に歩いている人たちは なんだかいつも以上に互いに無関心に見える。
そろそろ街路樹の葉もほとんど落ちかけてるし 日が沈むのも早い。
毎年今頃になると 落ち込みやすいので 冬至まであと何日・・・と指折り数えてしまう。
人恋しくなり やめてたお酒も飲みたくなる。
冬至を過ぎれば ちょっとづつだけど日が長くなる。
本格的に季節が冬に向かうのはそれからだけど 僕にとっては 冬至は春の始まりに思える。
寒い街中を歩きながら 『火』がみたいな と思った。
どうして、このきらびやかな都市には 生きている炎がないのだろう。
至る所をネオンやLED照明の鋭角的な光が照らし出しているというのに、火は燃えていない。
自宅に帰ったとしても、あるのはガスコンロの青白い炎だ。
あたたかい色合いの火が見たければ キャンドルでもともすしかない。
以前インドに行ったとき ブッダガヤ近くでホーリーの火祭りを見た。
最初電車の車窓から 漆黒の闇の中に小さく鬼火のような炎がちろちろと踊っていた。
やがて、駅に着き、オートリクシャで村に入ると。 村のあちらこちらで 天高く炎が燃えていた。
何メーターもある見上げるような炎だ。
あの小さな鬼火が こんなにも巨大に燃え上がり夜空を焦がしている光景に圧倒された。
あんな風に 激しく ぱちぱちと音を立てて夜空を焦がして燃えている 大きな炎を見たら元気が出そうな気がした。
冬至前の闇と寒さには、あんな炎が必要だ。
大きな炎の周りで 人々が 暖をとって 「あったかいね」と笑いあい あたたかい食べ物を椀に入れてふるまったりしてる・・・
そんな光景が見たい。
ここにはないけど きっと世界のどこかでは今もあんな火が燃えて その周りに人が集っているはずだ。
うちに帰ったら 野菜がたくさん入った あたたかいお味噌汁でも 自分のために作ることにしよう。
きっと今よりも 気持ちがあたたかくなるはずだから。
2019-10-13 18:11:58
子供の頃、視力が両目とも2.0だった。
それが特にすごいという自覚はなく、当たり前だとしか思わなかった。
ところが 12歳くらいになると、本の読みすぎか ゲームのし過ぎか、ゼロコンマ台に落ち込んだ。
視力検査の時、自分だけとても視力が悪かったから恥ずかしかった。
大人になってからは0.3前後のあたりをうろうろしている。
眼鏡は持っているけど、かけたりかけなかったりする。
映画の字幕を読むにはあった方がいいし、スーパーや書店で買い物をするとき、ブログを書くときなどもないとちょっと不便だ。
自然の細かい美しさを見たい時も ほしい。
でも、あまり情報が目からたくさん飛び込んでほしくないときははずしている。その方が落ち着く時が結構ある。
電車の中や 広告など多い街中、会話中に相手の表情を細かく読みたくないとき、裸眼の方がいい。
ぼやーっとした視覚で相手をとらえながら、話しに耳を傾ける方が集中できるのだ。
しかし、そんな風にかけたりはずしたりしてるもんだから、道で落としたり なくしてしまったマイグラスは数知れない。
眼鏡を持ち歩く煩わしさに、レーシックしちゃいたいなーと思うこともあるが、そうすると、ぼやーっとした視覚は失うことになる。
いつもクリアな視界か、TPOに合わせて眼鏡で調節するか・・・果たしてどっちがいいのだろうか。
視覚を閉ざすと、世界の感じ方が変わる。
時々アイマスクなどをつけて、数十分~一時間 ぼーっとしていることがある。
最近 つけると目があったかーくなってアロマの匂いが漂うアイマスクにはまっていた。
寝転んでいる時もあるが、飽きると、そのまま目隠し状態で部屋の中を歩いてみる。
記憶を頼りに 時々 けつまずいたりしながら 手探りで歩くと、見知らぬ世界にいるようだ。
触覚には距離がないので、いつも 今・ここを感じていられる。
きょろきょろと視線を動かし、現象を追うのをやめると、心が安らぐ。
自分だけの暗闇という<場>にうつる。
やがて いろいろなことが心に浮かぶ。
今日、あんなことをしたな 昨日はあの人にあったな ・・・・ そんな風にして物事の流れをとりとめなく辿ったり
そうしていると、考えるもの 感じるもの 存在するものとしての自分が よりはっきりしてくる。
時間の流れまでもが いつもと違ったものに感じられる。
きっと子供の時に 布団の中で目を閉じた時の 暗闇も 今 大人になって目を閉じた時に見える暗闇も
何も変わらないのかもしれない。
いつの時も 変わらず <自分>がいて <考え>があり <感情>もある。
目に映る世界や 鏡に映る自分は 常に変わっていく。
でも、目を閉じた世界は変わらない。
そして、目を閉じても聞えてくる 親しい人の <声> がある。
人の声は 年をとってもあまり変化しないことが多い。
<声>は波動だ。
その人自身の刻印をずっと保っている。
<声>は外見よりも、永遠の魂により近いのかもしれない。
目に見える世界に疲れたら ・・・・
目を閉じて、暗闇と言う場に移り 目に見えない世界を見てみる。
でも、そこは本当は暗闇なんかじゃない。
自分の意識 命 声 触れ合う手 抱きしめられる感覚 思い出 夢・・・・・愛がある。
そんな空間を単に 暗闇とは呼べない。
すべてを含んだ豊穣な闇。
目を閉じても そこに残るものだけが きっと真実だと思う。
2019-06-22
高校生の頃、期末試験とかで学校が早く終ると、家に帰って『笑っていいとも』を見るのが楽しみだった🙆 もちろん『ごきげんよう』のサイコロトークも続けてみていた😁
学校では、クラスメートとぎゃーぎゃー騒ぐタイプでもなく 不登校 留年すれすれの暗めなやつだったけど 僕は昔から一貫してお笑いが好きだ。
関西はひどい風土で クラスメートにいきなりホウキを手渡されて これでなんかやれと急にふられたりする。
ぼくはむちゃくちゃテンパり (;´゚д゚)ゞ あわわわとなって よくわからないことをやると
当然ド滑りして
なんやねん、、それ、😑
と白い目で見られ非常に傷ついた記憶がある。
なんでだ、、いきなりホウキ渡されて 自分なりに頑張ったのに なぜこんな屈辱を味わうのだ😫
とそういう経験があると お笑いが嫌いになってもよさそうだがそうはならなかった。
面白い人は無条件でリスペクトしてしまうところが僕にはある。
最近は 兵藤大樹さんの 『最悪な5日関』という2時間近くの 1人トークを聴いた 完全に匠の話術だった。(YouTubeで視聴可⭐)笑えるとか越えて 感動した。
鬱っとした気分で み始めたけど 見終わる頃にはいっぱい笑い、意識が若干クリアになってた。
100分も色々なシーンを脳裏に想像させるわけで、、、
語りの上手い人の話術を長時間聴くのはかなりの脳トレになるんじゃないだろうか。
コントより どっちかというと トークの笑いが僕は好きだ。
ネタネタしいものより アドリブ度が高い笑いにぞくぞくする。
それは多分 僕がいきなりホウキを渡されてもなにもできない人であるからであろう😃人間 自分にないものに憧れる。
深刻になりやすい僕は その反動として笑いを必須の栄養素として育った🌳
愛は人を救う
でも 笑いも人を救うと思う。
そして このふたつは つながっている。
大笑い出来ない時は、口角をほんの数ミリ、、一センチあげてみるだけでも世界が変わる。
それは きっと心がゆるみ 今まで経験した楽しいこと、面白いこと ふわっとしたことの記憶がしまわれた箱が開くためだろう。
その中には 忘れかけていた キラキラしたものがたくさん入っている。
少し 口元をゆるめるだけで そんなキラキラが見える。
笑いというのは 本当に魔法のようなものだと思う🔯✨
アドリブのきかない僕も ほうきを持たされた自分を想いだし 微笑むことは出来るのだ😉
2019-05-25
歌いながら気持ちよく歩いていても、前から人が来るとつい声を潜めてしまう。
見知らぬ人に歌声を聴かれるのはやっぱりちょっと恥ずかしい。どうしてだろうか?
歌はとてもプライベートなもの、言わば家用のもの 部屋用のインナーとか お風呂とか 散らかったキッチンとか そういったものと同じ世界に属するもの。そう感じる人も多い。
自分の歌はちっともうまくないし 恥ずかしい みっともないと。
しかし 僕は歌いながら歩いてる人を見て 悪い気がしたことはない気がする。
これは上手い 下手 関係なくだ。
正直 カラオケでは 乃木坂を裏声で歌う男の友人の歌に疲れることもある。これは仕方ない。
罪悪感は持たない。
でも、道ですれ違う 歌声にそれはない。
確かに一瞬だからというのもある。
その一瞬聴こえる 歌声とか ハミングが自分を元気付けてくれることは前から気付いていた。
その理由も最近わかった気がする。
歌は昔から求愛や 宗教的な儀礼 コミュニケーションの手段として使われてきた。
それは基本的に つなぐもの なのだ。
歌いながら戦うこと、破壊することは容易ではない。
そりゃ歌には 深い悲しみや怒り 恨みを歌ったものすらある。
クイーンのボヘミアンラプソディーの歌詞を読んでると 心臓を鋭いものでつかれてる感じがする。
でも それらは歌として表現された時点で、破壊性を越えたものにシフトしている。
だから歌ってる人を 見ると 無意識が安全性を感じる。
この人は 今 つなぐ状態 開いた状態にいるんだと思う。
すれ違う歌声が 僕を安心させてくれるわけはこれだと思う。
歌うことは 害意がないという かなり明白なサインになるんじゃないだろうか。
そのことに気付いてから僕は 見知らぬ人に歌声を聴かれるのは 恥ずかしいけど いいことかもしれないな と思うようになった。
無数にすれ違う見知らぬ人の 一部からかすかな歌声が響いてくる。そうしたら ぎすぎすして周りは敵ばかりに思える心がやわらぐこともあるかもしれない。
だから 歌いながら歩いている時、前から見知らぬ人が歩いてきても なるべくボリュームを落とさず 誰かの耳に届ける勇気をもっていいとおもう。
きっとあなたの歌声を聴いて 少しだけ元気になったり 微笑みが戻る人がいるはずだから。
僕も そんな時 声を潜めない練習をしている。
以前書いたエッセイブログより。
2019-05-20
「君たち人間には想像もできないようなものを 私は見てきた
オリオンの側で炎に包まれていた宇宙船。
タンホイザーゲートの 闇の中で輝いていたオーロラ。
あの、めくるめく瞬間も いつかは消える。
時が来れば・・・
涙のように、 雨のように・・・その時が来た」 ロイ・バッティ
さっき雨が降り始めた。
僕は雨が好きだ。
さすがに1週間も降り続いたり、災害級の雨は困るけど、2、3日なら全然いい。
土が濡れて夜の中に立ち上る匂いが 本当に心地よい。木々がみずみずしくなって 世界がよみがっていくような感じがする。
一人の夜は淋しい時もあるけど、雨が降っていて 雨音を聴いてると、いつも落ち着いている。
なぜだろうと 時々想う。
雨は 道路を濡らし 木々を濡らし 誰もいない公園の遊具や 車も濡らし 信号灯も濡らす。
雨の音によって 僕は世界とつながっている。
だからだろうか?
最近思ったのは もしかすると 母の胎内にいた記憶を思い出すからだろうかということ。
胎児はちゃんと聴覚が発達していて、心臓の鼓動や 体液の流れ 母親の声などを聴いているという。
中でも母の声は 高周波部分のみがフィルターされて胎児に届くという。高周波音は 天の音でもある。
この世界に宿る魂のために 胎内はスピリットの世界を思わせる環境になっているんだろうか。
部屋を包む雨音は そんな遠い記憶を思い出させるのかも。
雨は言い訳にもなる。
特に予定のない休みの日、どこへ行こうかとあれこれ考える。
でも朝から雨が降り続いてるそんな日は
家でゆっくりしていよう
そう堂々と思える。
とりとめなく いろんなこと想いながら 雨音に耳を傾ける。
その音は 安全に守られてるから 包まれてるから ここにいてもいいよって言ってくれる。
だから僕は 雨の日には どこにもいかなくていい。
一人でも淋しくない。
このシリーズでは、自分なりに心身の状態を安定させ、向上させるであろうものを紹介してきました。
今回はその中でも重要ポイントになります (∩・∀・)∩ キャー
僕らの存在をピラミッドのような四角錐とすると、「理解する」「運動する」「笑う」「感謝する」などはそれだけでは、ピラミッドの底辺の正方形の様々な場所に位置するものにすぎません。
そこに、ピラミッドの頂点部分を追加することで、本当のピラミッドになり、立体性が生まれます。
そして、その頂点を意識しつつ高まっていくことができるのではないかと思います。
その頂点は何かというと、ひとつはすべての現象の根源である存在。
神様、創造主、<源 ソース>、仏 様々な言い方があるけど、そういうもの。
もうひとつは、すべての命はひとつであるという、生命の全一性、ワンネスです。
基本的に、すべてはバラバラに互いに関係なく存在しているという意識は サバイバルモードを起動させます。
その世界では必死に戦って 生き残り活動をしなければなりません。
また、他者を支配して 隷属させる、必要以上に他者に依存する という行動も すべてがバラバラであるという認識に基づいています。
一方で、生命自体が本当は一つであるという 生命の全一性に根差した認識は ハートモードを起動させます。
単なる生き残りから→つながり、喜び、愛、安心、などがメインの状態になります。
またサバイバルモードを起動せざるを得ない時でも、ハートモードにつながったまま そうすることができます。
サバイバルモードは下のチャクラだけが機能している状態で、ハートモードは上部のチャクラが機能している状態と言えるかもしれません。
つまり何を言いたいかと言うと、ハートモードの安定性は すべてはひとつであり、根源には創造主が在るというところから来ているのです。
それがピラミッドの頂点部分であり、フィフスエレメントです。
断片化から全一性へと帰っていくのが、意識のシフトであり、すべての癒しのベースなのではないかと思うのです。
では、そのピラミッドの頂点部分、根源と全一性とはどのようなものか・・・
以下は僕の持つモデルですが、このようなものではないでしょうか?
◆多次元生命と光の海
ちょっと前に宇宙の本を読んでいて、銀河が無数に集まった大規模構造のイメージが画像を見た。
それは、中にボイドがあるバブルが集まったような構造をしていて、引きでみると以下のようなものになる。
この光が全て、銀河で構成されている。
途方もない構造物だ。
これって脳のニューロンにも似てるし、網目状の構造は 葉脈のようでもある。
このミクロにもマクロにも反映する大規模構造のようなあり方を観て、生命はひとつである(ワンネス)という意味がわかったような気がした。
生命はもともと、ひとつながりのもの(ネットワーク)として創造されているのではないだろうか。
一枚の葉が 全生命だとすると、僕ら個々の命というものは、葉脈中のグリッドの交点のようなものかもしれない。
通常、意識は そこにフォーカスして ここだけが自己であると認識している。
しかし、意識が覚醒すると フォーカスの範囲は拡大し、全体が自己になる。
その時 生命とは全体性であることがはっきりする。
「私は全ての命とひとつである」
「私は全てである」
僕がここで書く、生命というのは 地球上の物質的 3次元的なものだけではない。
宇宙の生命、スピリットの世界、多次元の世界、それらをすべて含んだ「生命意識」が このような構造をしている。
だから、僕らはスピリットの世界の住人、宇宙人、動植物 すべてとひとつながりであるし、すべてはこの生命の葉という全体を構成する「私」でもあると言える。
これはひとつめの「ワンネス」だ。
この生命の全体性、ネットワークは 超時空間から発生している。
それは 創造主、神 真我 ニルヴァーナからという言い方もできる。
そこでは 時間も空間もない。時空が創造される以前の領域(ハイパースペース)だと思われる。
僕はよく 至福に満ちた 光の海としてイメージする。
ひとつながりの全生命は、この光の海から発生する泡のようなものだ。
無数の泡は互いに絡み合った形で生まれ バブルネットワークを形成する。
泡は 海水が形を変えたもので、本来 その海とはひとつである。
だから 僕らの真の居場所は 実在 光 至福 であり、常にそこにいる。
泡は常に 海の中にあり 海からエネルギーを供給されている。
ただ、通常 この時空の幻影 こころの産み出す幻影(バブルに映る影)にフォーカスしているため、そのことがわからないだけなのだろう。
しかし わからなくても 僕らはすでに光の海である。
「汝はそれなり」
「我は神なり」
これがふたつめのワンネスになる。
僕らはすべての命とひとつであり、神とひとつである。
僕らはすべてであり 神である。
これは、ひとつのモデルに過ぎないので 別の例え 別の表現をする方もたくさんいると思います。
臨死体験者のアニータムアジャーニさんが著書の中で書かれてるような、クラブにあるミラーボールを例えとして使うことが出来ます。

ワンネスがふたつある(神との合一と 生命との一体性)というのはわかりにくいかもしれませんが、これは師匠に教えてもらったことでもあります。
どのようなモデルでも大丈夫なので、断片化→全一性へとシフトするものを採用し、意識するようにすることが大事な気がします。
感情においては、愛され感、愛してる感、喜び、笑い、感謝、安心感、安全感
体においては、リラックスし 安全を感じている状態、安定した呼吸、人や動物とのふれあい 温めること(お風呂や飲み物)
行動においては 自分や人を愛する行為、喜びに基づいた行い
・・・などが全一性のハートモードへとシフトするキーになるようです。
そして心においては、
🌟すべての現象の、命の根源を想う
🌟すべてはひとつながりの生命であることを意識する (モデルとして樹や葉っぱニューロンなど)
🌟すべては 神・光・命 であることを意識する
🌟私は 神・光・命 であることを意識する
というわけで、本日の波動を高める儀式は 💛全一性と根源を想う💛でした。
あなたが すべてはひとつであるという真理に安らいでいられますように(´ω`人)
根源からの恩寵と祝福がありますように💖
子供の頃、大空を自由に どこまでも飛んでみたいと夢見たことはないでしょうか?
そんな想像を楽しんだ方は多いと思います。
僕もご多分に漏れず、幼稚園の頃 大きくなったらジャンボのパイロットになりたいと作文に書きました。
なぜかというと「 どこまでも 空を飛んで行けるから 」。
お客のことはあまり考えてませんでしたw
今は飛行機に乗りたいとはそんなに思わないけど、「風になりたい」と思うことがよくあります。
風(大気)は海も山も 国境も関係なく、地球を巡ることができる。パスポートも、外貨も カードも税関も関係ありません。
もしも風の視点で、何年も地球を旅すれば 人生観や世界観はまったく変わってしまうでしょう。
国や文化、言語で分断されていない ありのままの ガイア自体が経験できるはずです。
僕らは地球という広大な世界に生まれつつ そのほとんどを生まれ落ちた国の、狭い文化的世界や生き方の中で暮らし、地球をほとんど体験しない・・・・というのはなんだかとても残念です。
でもいつか未来の世界では、はっきりとした国境線はなくなり どのような場所でも 個人で旅行できるような乗り物も登場するかも・・・ですね。
ふと思い出したのですが、戦前 確か日本に、エイリアンとコンタクトした 子供がいて 宇宙人がUFOに乗せてくれて ピラミッドを見せてくれた・・・というエピソードがありました。
戦前の日本で エジプトなんて ほとんどの子供たちは行けない時代です。
そして、日本全体が戦争の狂気と思想統制に染まっていく時代です。
そういう時に それらすべてを 遥かに飛び越えて ピラミッドを見て 心を高鳴らせた子供がいたかもしれない・・・なんか作り話であっても すごく救いを感じさせる話だと思うんですよね。
UFOに乗れなかった子供にしても、愛国教育に息苦しさを感じている子供たちは 何か まったくそういうナショナリズムとは異質の 科学や空想の世界に心の居場所を見出していたのではないでしょうか。
彼らは UFOではなく 心の翼で 時空を 飛んでいたのです。

◆ 視点をシフトさせる
「風になる」というのは、言い換えれば 視点を変えるということです。
見知らぬ風景を見る、あるいは上空高くに舞い上がり 鳥瞰的視野を得る。
それによって得られる魂の解放と 気づきです。
どんなこともそうですけど、この現象世界では 物事は相対的にしか理解できません。
ずっと赤色の中で暮らしていたら 自分が赤の中にいることもわかりません。
赤の意味もわからない。
でも赤色を一歩出ると 隣にはオレンジ色があった。そこから振り返った時に 初めて 自分がとても濃いい色の中にいたことがわかります。
でも まだ二色を経験しただけです。赤色という概念が判ってくるには 最低でも あと 数色経験する必要がある。
これと同じように 自分のいる世界、あるいは人生について気づきを得るには それを俯瞰的に 外的視点で見る必要があります。
宇宙飛行士は大気圏外に出て、地球の美しさ尊さに気づく。
臨死体験者は 人生から一時的にプラグアウトすることで その全体の意味・構図を垣間見ます。
その時 心が解放されます。
もっと自由に 愛と共に生きればよかった とか 狭い地球の上で 何を人は互いに争う必要があるのか? 国境線などどこにあるのか?
そのような気づきが起こります。
また、これはちょっと空想的な話しですけど・・・・
人の意識は時間性の外にだって出られることがあるようです。
タイムトラベルと言うと SFチックになりすぎて あれですが・・・・
異なった時空を経験した という人は たくさんいると思うんですね。
熱心な歴史家や人類学者は稀に、そのような時間を超越する体験を持つようです。
ありありと、別の時空を感じ取る。
本当は そうしないと、今いる「時間」のこともわからない。
「平和な時代に生まれて」とか「なんてひどい時代だ」とか言いますけど、これもなんらかの別のものと比較してのことです。
戦中世代から見ると 確かに 僕らは平和な時代に生まれた。
でもそれは相対的な事実であって、本当に平和な時だったのかなんて 誰にもわからないんですよね。
冷戦下であり 核の傘に守られてたりしたわけですから。
また常に 被占領国家への洗脳プロパガンダが行われていたかもしれなかったりするわけですし・・・
そう・・・少なくとも 5000年生きてるとか タイムトラベルしまくってる という人でないと この「時」について 平和かそうではないか 含めて はっきりとした判定は下せないはずなんです。
そのため、『地理』という空間性の学問は現地を確認できますが、『歴史』という時間性の学問は常に状況証拠による推測という手段でしかその全体像を描けず、また権力者による書き換えが常に行われてきた可能性のある 非常に不確かなもののような気がします。
◆ あり得るパターン
視点のシフトにはどのような種類があるか整理してみたいと思います。
2次元→2次元のシフト
これは通常の目線での移動です。同じ目線で異なった風景を見ることです。水平上の移動。旅。
2次元→3次元へのシフト
はっきり高度感を感じる状態にシフトすること。高い場所、航空機、その他空を飛ぶアクティビティ、対外離脱、宇宙船。また、水中で自在に活動すること(ダイビングなど)
3次元内での視点の移動
原子などのミクロの世界から、細胞、生物、惑星、恒星系 銀河系 など、それぞれの規模でのクラスターを思考で意識する、あるいは現実として体感する。
3次元→4次元以降へのシフト
時間を俯瞰、あるいは超える位置。 臨死体験、神秘体験 タイムトラベル
現象次元→ゼロ次元 光 空性 OR 創造主 へのシフト
覚醒体験 悟り
思考次元での旅
書籍、映画、もしくは自身のイメージで、異なった世界を旅する。人生を回顧する。
🌟自己や現象を俯瞰的に「引き」で観る、大きな時間性・空間性の中で観る
🌟自己や現象を「空」として観る
🌟からだの外から自分を観ているイメージを持つ
🌟原子の視点から見ると どのように見えるかイメージする
🌟地球が掌の上に載るくらいまで意識を拡大させるイメージを持つ
🌟異なる時代もしくは海外の文化・慣習を学ぶ
🌟母国語とは異なった言語の思考パターンに触れる
🌟旅をする
🌟見知らぬ土地に移住する
🌟一日単位、一週間単位、一月単位などで最近の日々の流れを回想する
視点を変える時、大きな視点でものごとを見る時、心の中に愛や創造主の輝きがあることを覚えていてください。
悠久の時や 無限の星空を見上げると 自分なんて小さくて ミジンコみたいなもの・・・・
それもある種事実かもしれず、 人生なんて世界なんて大げさに考えるほどのものでもないような・・・・
でも、それと同時に このミジンコの 内側にも 神性が宿っている という真実があります。
あなたにとって最高のものは常に あなたとともにあります。
その喜びと共に 風の旅を楽しみたいですね。
・・・・というわけで 本日の波動を高める儀式は 🐤風になる🍃 でした。
あなたの心が 限りなく自由に 解き放たれていますように(´ω`人)
関東一円~東北、もっすごい揺れましたね((((;´・ω・`)))
一回寝入ったあと、地震の数分前に目が覚めてボーっとしてると激しく揺れ出しました。
東京都内で震度4らしいけど、とにかく長かった そして 激しかった。
停電とかはなかったけど、一時間くらい情報収集してたので、現在もまだぼーっとしてます。
なんか久しぶりに、ストレスで胃の辺りが気持ち悪くなりました。
さすがに、あそこまで揺れると、揺れがおさまってもこれ寝ていいやつなのか?と からだが躊躇します。
3・11の時東京で5強の揺れを経験してるのですが、ほぼその感じでした。
実はここ数日調子が不安定で 特に昨日は朝からものすごく調子が悪かったのですが、春先で気温の変動も大きいし、太陽でもMクラスフレアが起こっている、そういうののトータルの作用かと思ってました。
でも、今思えば とにかくからだが怠く重たいのと、頭が締め付けられるような感覚、寝ようと目を閉じうとうとすると、耳の奥で「パーンパーン」となにか破裂してるような音が聴こえる感じがしたり、、、
いやいや 僕の頭大丈夫かな? と不安になるレベルでした。
これくらいマグニチュードが大きいと、肉体も何か感知するのかもしれません。
地殻が動く時の電磁気的な反応なのかな?
それが、脳とか自律神経にエフェクトするのか(。-_-。)
まだたくさんのニュースが流れている状態だと思うけど、これ以上危険に関するインフォメーションを入れたくないので、ちょっとシャットダウンして、安全にフォーカスします。
安心・安全、つながりにフォーカスしてリラックスするか、
交感神経が優位のサバイバルモードになって落ち着かない時は、エネルギーを吐き出すためにちょっと激しめの運動をしたり、この際防災準備を徹底するためにからだを動かす!ウォ━━(#゚Д゚#)━━!!
・・・・とかもよいかもしれません。
今回、ひさしぶりに揺れて いろいろ気づきました。
非常時に交感神経優勢のサバイバルモードになるのは ある種必要なことです。
昔から津波被害のある地域は『津波てんでんこ』と言って とにかく肉親にもかまわず個人個人がバラバラになって逃げることを推奨したりもしてますよね。逃げ遅れや 共倒れを防ぐための知恵として。
これはもう、余計な指示待ちをしたり、頼ろうとしたり 空気を読んだり 誰かに気を使ったり 様子をうかがってないで とにかく「逃げろ!」という、、逃走のサバイバルモードに一体化することの勧めです。
肉食動物に襲われたら散り散りになって逃げていく 、草食動物のイメージ。
また一方で、災害の時に 被害が少ないように祈ったりするようなことは、サバイバルモードから抜け出して、つながり・安心のハートモード(腹側迷走神経系)に復帰するという意味もあるのだなと思います。
いや、もちろん そういう時の祈りはやむにやまれぬものとして 祈らずにいられないから祈る という方も多く、特に 自分を安定させようとして祈るわけではないと思うんですが
結果的に そういうような行為が 自分の神経系を安定させて 交感神経系活性化の只中にあっても ハートモードにアンカーさせる。
「情けは人のためならず」 っていうようなことの具体例かもしれません。
それを忘れずにいられれば 何があっても 自分の人間性の最良の部分とつながっていられる。
サバイバルモードのままだと、からだに負荷がかかります。
また危機に対応するという方向性でしか動けません。
視野は狭くなり、遊び心・創造性は失われ、真のインスピレーションは生まれにくくなります。
それらはハードモードから生まれる特性です。
運動したり、防災準備をしたりして、交感神経系がある程度落ち着いたら、積極的に安心・つながりのモードにシフトすることがおススメです。 安心のサインを探し、つながりを感じましょう。
自分のエネルギーが、
この惑星の安定した中心とつながっている。
この惑星を俯瞰した時に見える「青」と溶け合っている。
また意識においては、僕らは 明るく・安全で・互いにつながった場所に属しています。
ハイヤーセルフ、グループソウル、光の世界、創造主とつながっています。
これは意識している限り、いや、忘れていても 決して切れないつながりです。
ガイアとつながり、意識界とつながっています。
そこに僕らは属しています。
安心感、つながり感が生まれるまで、
この二方向のつながりを意識して見てください。
次のような言葉がハートモードへのキーワードになります。
🌟あたたかさ
🌟やさしさ
🌟信頼
🌟安心
🌟わたしは青い惑星に属している
🌟わたしは愛に属している
🌟つながっている
🌟誰かが見守ってくれている
🌟守られている
🌟希望
🌟共感
🌟大丈夫
皆様が安全であり、心にも平和がありますように (*´∀`人 ♪
遊びについて、考えていると、最近読んだ『セラピーのためのポリヴェーガル理論』という本の中の次の一節が目を引きました。

「あそびは、腹側迷走神経系の社会交流と交感神経系の可動化が共に働いている状態で、ふたつの自律神経が絡み合っている時に起こります。
ヴェーガルブレーキは解放されて、あそびの交感神経系の可動化を許し、それから可動化があそびから防衛に変わる前に、ヴェーガルブレーキが再び踏み込まれます。
これら二つのシステムが手をつなぐのを想像してみましょう。このシステムをつないだ手が離れてしまうと、あそびの興奮は安全から危険にすばやく変わります」
ちょっと、この本を読んでないと 何かいてあるのかわかりにくいかもしれません。
腹側神経は 社会的なつながり安全を 司る自律神経系。
交感神経は 闘争・逃走反応。
ヴェーガルブレーキというのは、交感神経系が興奮しすぎるのを抑制し、社会的なつながりモードを維持するためのブレーキです。
二匹の子犬がお互いにじゃれあったり、嚙み合ったりしてる光景ってありますよね。
ああいう遊びをしてる時、興奮状態は高まるんですが、その興奮度が針が振り切って 本物の闘争状態にならないように、ブレーキが作用する。そうすると つながりを保ったまま疑似的な攻撃行動をすることができる。
そういうようなことだと思うんです。
つまり、遊びっていうのは、腹側迷走神経系に碇をおろしたままで、交感神経系を高めるっていう 高度なモードなんです。特に子供や動物たちがするような遊びです。
腹側迷走神経系の働きが安定していないと、すぐに交感神経の高まりに押し切られて、不安・怒りなどが増幅されてしまう。
まあ、ふざけてるうちにテンションがおかしくなっていつのまにか 大喧嘩してたなんてことは 誰にでも起こり得ることで、特に子供の頃は多いですよね。
でも、そのふざけると ケンカのぎりぎりみたいなところを行ったり来たりすることで、自律神経は鍛えられていく。
すぐにキレるというのは、ある種 このような状態を経験してこなかった結果であるとも言えます。
大人では、特に親しい間柄以外では そういうことはあまりありません。
昨日、上司とふざけすぎて いつのまにか ケンカになってたわ・・・とかw まあないですよね。いや、あったら楽しいけど、コメディ映画みたいで。
でも、それは礼儀や 常識で、失礼にならないように、ならないように・・・という枠の中でふるまっていて、そもそも交感神経が高まった状態を作り出さないようにしてるからでしょうね。
そうするとブレーキが利きすぎて 抑うつ反応が強まります。
よく遊んでる子供と、一般的な大人では 自律神経の使い方がまったくことなるんですよね。
大人になったからと言って、腹側迷走神経にアンカーした 交感神経系の高まり=遊び というモードを使わなくなるのはさびしいことです。

僕の中学生の頃、男子の間で相手の太もものあたりを膝で蹴りつけ合う、という遊びが流行ってました。
今思うと何が楽しいかよくわからないんだけど、、、クリーンヒットしたらめちゃ痛いし・・・でも、僕もよく蹴ったり蹴られたりしてました。
というのはその中一の年に僕は 初めて(と言っていいくらい) 仲の良い友達が出来たんですよね。
彼は僕に変なあだ名をつけたり、膝で蹴ってきたり、よくしましたけど、それがうれしかったんです。
今まであまりそういう経験がなかったので。
毒舌を言い合えたり、蹴り合ったりするけど、仲がいいという その感覚は今でも貴重な記憶です。
思えば、仲のいい友達同士の毒舌っていうのも、腹側迷走神経系にアンカーした 疑似的な攻撃ごっこなんです。
じゃれあってる子犬みたいな。
そう考えると、人を含む生き物って 他の生き物への攻撃衝動を基本的には持ってるものじゃないかとすら思うんです。
それを否定するべきじゃない。
それは、「遊び」として昇華出来得るものだから。
だから 僕は 成長の時期で、会話がため口から、敬語へと変わり、 毒舌が当たり障りのない会話に置き変わっていくことに言いようのない寂しさを感じてたことがあります。
じゃれあう子犬のような関係性は二度とないのかと。
でも、たまにですね~~大人としての距離感を簡単に踏み越えてくるって人に会うこともあり、、、
もうだいぶ前だけど 会社で働いていた頃、頭をしばいてくる女の人が居たんですw
割と見た目綺麗で、姫っぽい感じでしたが
なんかの突っ込みかなんかで。。。突っ込みで頭しばいてくるって いきなり 10年以上前の高校生とか中学生の行動パターンに戻されたみたいで、衝撃のあまり子犬になりそうになりました。
まあ、これは極端な例ですが・・・今でも僕は やや毒舌気味なキャラクターとかに魅力を感じるところがあります。
↓これ、ちょっと前に撮った動画ですけど、本に載ってた 日常では言わないようなセリフを声に出して言う、というエクササイズです↓
なんか、半分くらい カラオケボックスの罠とか 全然関係ないこと話してますがw
役を演ずる(演劇)というのも、腹側迷走神経にアンカーして とてつもない悪を表現したりする。。。非常に高度な神経系の使い方で、「遊び」と通ずるところがあるな~と思いました。
ホモ・ルーデンスという言葉があります。
その意味は 「遊ぶ人」。
歴史学者のヨハン・ホイジンガの著作のタイトルだそうです。
人間とは 遊ぶ存在・・・・。「遊び」というのは僕らにとって とても本質的な要素かもしれません。
僕らの中には無邪気な遊びを求めるインナーチャイルドが、大人になっても存在しています。
でも、大人になると遊ぶことがいつの間にか忘れられていることが多い。
だから大人にとってこそ「遊ぶ」というのは 大事なことです。
しかしどうして、大人の遊びというと なんかいやらしい感じがするのでしょうか
まあ 別にいいんですけど、いやらしい遊びでも ( /ω)
ただ、もっともっと 子供の頃には いやらしい遊びだけではなく いろんな遊びのパターンを僕らは知っていたような気がします。
隠れる 逃げる 叫ぶ 歌う 漫画を描く 虫捕りをする ボールを投げる 雪玉を投げる 探検する ヒーローヒロインにになりきる ぬいぐるみとお話しする
その中には 人間の持っている様々な心身のモードの発現が含まれていて その中で とても豊かな時を過ごすことが出来ます。
僕らはもともとは 楽しいから行動していました。
それが遊びでした。
義務からでも お金の為でも 見栄の為でもない
喜びのための「動き」が遊びでした。
◆遊びのプロフィール
子供の頃 どんな遊びをしていたでしょうか?
少し思い返してみるだけで、その頃の軽やかなバイブレーションとつながれるかもしれません。
(生育トラウマがある場合は 想い出さなくてOKです)
僕自身のことを書くと、割と内向的なチャイルドだったので、折り紙を折って それをたくさん貼り付けたノートを持っていたような記憶があります。
あと、カットしたりんごをちょっとづつ食べると 形が変わっていくから それが全部別の生き物のような気がして、新しい形が生まれるとそれになんか名前を付けていたような記憶がある。
ぱく・・・〇〇ちゃん
ぱく・・・△△ちゃん みたいな
神様と心の中で テレビのCMがいつ終わるかについて命を賭けた賭けをしていた記憶がある。
隣のお姉ちゃんと一緒に、段ボール箱で地蔵を作って その前にお供え物をしたりして礼拝ごっこをして遊んだ。
そしたら、夜に熱を出して寝込んだw 信心深いおばあちゃんが、地蔵なんか作るから「罰当たったんや(`・ω・´)」と言ってました。
((((;゚Д゚)))))))ヒー
あ、なんか変な話しばかりになっちゃった(。-_-。)
あとは・・・
自分の部屋を図書館にしようとしたことがある。貸出しカードや 本のポスターも作った。
うちで家族対象にアニメ映画「銀河鉄道の夜」のビデオ上映会をした。チケットは自分で絵を描いて作って配った。
好きなアニメ映画やドラマの主題歌をテレビから直どり録音したテープのコレクションがあった。
「ドラえもん」が好きで、映画版の原作を時間を忘れて夕闇の中読みふけった。特にドキドキしたのは「魔界大冒険」。

父親が壁に映写する8ミリフィルムに映る 「海の生き物の世界」は何度見ても飽きなかった。
母が寝る前に読んでくれた「ムーミン谷」の童話は今でも大好きだ。

たった一人冬眠から覚めてしまったムーミンの成長物語 「ムーミン谷の冬」が一番心に残っている
京都市の田舎で育ったので、周りはわりと自然に囲まれていました。
腕白な友達に 地下に潜った暗い用水路を探検に連れてかれた記憶。足元がぬめぬめしてて 不気味で怖かったが、ちょっとワクワクした。
夜にくわがたむしを取りに 懐中電灯片手にクヌギ林へ行った。
たくさん雪が積もると 家の裏手にあった山で そりで遊んだ。もちろん定番の雪だるまと雪合戦も。
周に一回くらい放課後に「遊びの会」っていうのがあって、クラスメイトと鬼ごっこやドッジボール、キックベースをした。
隣の家の4つ年上のお姉ちゃんと、二人でいろんなごっこ遊びをしていた。時々泣かされたwけど気が合い楽しかった。
なんか、こうやって書き出してみると、本当に子供の頃の 行動のパターンって多様だったな・・・とあらためて思います。
エネルギーがあふれている。
今、その頃よりいろいろ知ってるかもしれないけど、使用している心身のモードは どうも当時より少ない気がする。
やがて、大きくなると 僕の遊びは「ゲーム」が大きな割合を占めるようになりました。
ファミコンから スーファミ プレステの初期くらいまでしかやった記憶はありませんが、、、「ファミ通」というアスキーのゲーム雑誌を読むのを異常に楽しみにしてた。連載されてた桜玉吉さんの漫画(このネタわかる人どんくらいいるかな(〃▽〃))も楽しみにしてました。

そして現在、僕がしている遊びは・・・・・カラオケ(歌うこと) 自然の中を歩くこと 映画・海外ドラマ 小説や漫画を読むこと 「考える」こと 想像すること 書くこと ふざけた話しが出来る同僚と話す・・・とか
ですかね。
最近見たのでは、この「僕だけのいない街」実写バージョンが面白かったです。
もともとこの作品は漫画から読んでて、アニメも見たけど、実写で観ても・・・全然楽しめる 好きなストーリーです。
奇しくも このストーリーって タイムトラベルして 虐待を受けていた孤独な女の子の命を救う話しで・・・その女の子が主人公と関わっていくうちにどんどん生き生きと子供らしさを取り戻して明るくなってくんですね。 仲間やボーイフレンドが出来て 子供らしく「遊べる」ようになっていく。
しかし、あれですね~~こういう好きなドラマや映画はもちろんたくさんあるんだけど、
僕の中ではなぜか 動画よりも紙の本を手に取って「マンガ読んでる」時の方が 断然 遊んでる感が強い。
ちょっとその理由はわかりませんが、、、、もちろん動画も楽しいんだけど、あのワクワクしながら手でページを繰っていく感じって ホントに子供心が喜ぶ感じなんですよね。
なんかね、僕がちょっと特異体質なのか、映像って長時間見ると「飲み込まれる」感じが強いんです。自分がいなくなるというか・・・。
その感覚が気持ち悪い。
動画配信サイトは便利だけど おすすめ動画とかいろいろ出てきて落ち着かない感もある。
その点 紙の漫画なら ちょうどよいペースで めくれる。 想像力の余地も多少あるし遊んでる自分がはっきりいるから 楽しめるのかな~~。
今年は積極的に漫画を読んで遊ぼうかな(〃▽〃)
やっぱり 思考をコントロールされたり 悪い意味で自分がいなくなる っていう遊びはあんましよくないです。
なんとなくスマホをいじくっていて何時間も過ぎてるとか ツイートを読み始めて止まらなくなってるとか、っていうのはどうも遊びというよりも時間を吸い取られているような感覚がするときがある。
漫画をついつい読んじゃうとか ついついあやとりをしてしまう ついついぬいぐるみと遊んでしまうっていうのと
ついついスマホをいじるって言うのはかなり現象的に違いますよね。後者にはより麻薬的な感じが伴う。
脳を条件づけられてるというか、、、まあ ゲームもそうかもしれないんですけど、本人は遊んでるつもりでも、実はコントロールされてるというか、、、そういう遊びが増えてるような気がします。
ミヒャエル・エンデの童話「モモ」に時間泥棒っていうのが出てきて 人間の時間を盗みますけど
現代の時間泥棒はデジタル端末に潜んでいるのかもしれないですね。

みなさんの遊びのプロフィールはどのようなものでしょうか?
◆ 『遊び』を人生に取り戻す
人生とは楽しむためにあるとか、人生は「遊び」だ、という人生哲学を持つ人たまにいます。
インドの言葉で「リーラ」というのがありますけど、これは神の遊戯・戯れという意味。
この現象の世界は、神様の遊びのようなものであることを意味する言葉です。
ある臨死体験をした方は こちら側に戻った時 「すべてはよくできたつくりものに過ぎないんだよ。」と語ったそうです。
あちら側の世界から見た場合、こちら側で僕らが生真面目になっている物事というのは 単なるまやかし・・・とか芝居の書き割りみたいなものと認識されることがあるようです。
だったら、「リーラ」という言葉が生まれるのも無理ないですね。
子供の目からは、大人がサバイバルモードにより真剣につくったこの世界は すべてはおもちゃ箱の中のように見えるかもしれません。
パトカーや 救急車だって、彼等にとってはそういう形と変な音を出す興味をひくおもちゃです。
スーパーの店員さんだって 遊びでレジを打ってるようにみえるかもしれない。
一度、子供の視点に戻って、すべては 〇〇ごっこだと考えてみるのはどうでしょうか?
おまわりさんごっこ 銀行ごっこ レジ打ちごっこ 大人ごっこ パンデミックごっこ、戦争ごっ・・・・
ちょっと不謹慎になりすぎますのでやめときます(・Д・)ノ(大人)
しかし、すべてをごっこと見るのは そんなにいけないことでしょうか。
すべての物事を論じ 批判し 批判されることを恐れ 人の身になり 深刻に考える大人の心と
すべてを遊びと見る子供の心
このふたつ、どちらが真実に近いかと言うと、「リーラ」的な視点で言うなら 子供の心なんじゃないかと思います。
それにいくら僕らが大人的な視線でこの世界の物事を見ていても、僕らの中の子供はすでに 最初から この世をおもちゃ箱と見ているかもしれないんです。
その内なる子供の視点と たまにシンクロしてみる、それだけのこと。
僕らはすでに十分長い間、深刻にいろんな事象を大人目線で考えてきました。
かつて 深刻なニュースが流れなかった時は一度としてなく、大人たちはこの100年以上ずっと新聞を睨んできました。
子供たちはその新聞紙で飛行機を作って遊びます。
別に15分だけなら すべてをごっこと見てみても、そんなに罪あることではないんじゃないでしょうか。
人は子供も大人も安心で安全な環境ではないと 「遊ぶ」 のは難しいそうです。
パンデミックや戦争やらといろんなニュースが流れますけど、それらをすべて真剣に受け取っていれば、僕らの人生から軽やかさという質や 遊び心が奪われてしまいます。
せっかく生きているのにそれはもったいないですね。
僕らが幸福を味わうのは、サバイバルモードの時ではなく 心に平和があり 愛があり 遊びがある時・・・
どんな時代でもそれを味わうことはできるはずです。
時間泥棒たちに『時』を盗まれないように
僕らの子供心が 少しでも輝く時間を 日常の中に取り入れていきたいと思います。
🌟 遊びのプロフィールを作る
🌟 子供の頃していた遊びを想い出し、そのエネルギーとつながる
🌟 その中で今でもやってみたいことがあれば実行する
🌟 好きだったアニソンを口ずさむ
🌟 「いっぱい遊ぶぞ~~」と言ってみる (どんな感じがするでしょうか?)
🌟 遊んでるつもりで 実は『時間泥棒』に時を盗まれていないか、チェックする
🌟 スマホ、PC、テレビなしで 一番楽しいことって何か考える
🌟 最近 楽しく遊んだな~~と感じたのはいつでしょうか?
🌟 遊んでる子供たち、動物たちを見る。彼等と遊ぶ。
🌟 子供心が喜びそうなアクティビティに参加する
🌟 宇宙をおもちゃ箱として見る アートとして楽しむ
というわけで、今回の波動を高める儀式は 💛遊ぶ💖 でした~~
あなたが 楽しく 幸せに 遊べますように(*´∀`人 ♪
こんな想像をしてみてください♪
あなた自身よりも あなたの存在を深く理解している存在がいます。
その存在は あなたのからだ 感情 思考 のみならず魂の深いところまで すべてを知っています。
なぜ 今 僕らが 時空の特定の今という時代を選んで生きることにしたのかも、知っています。
その存在は常に 僕らの一日一日を興味深く見守り 一緒に今を生きています。
その存在は 今の あなたをとても愛しく思っています。
ある朝目が覚めると 枕元に一冊の本が置いてありました。
そこには あなたにとって必要なあなた自身の情報が すべて書かれています。
どのような憧れがあるのか どのような食べ物がからだを元気にしてくれるのか 体や心の持って生まれた性質に関して 深い痛みや固定観念について 今まで経験してきた出来事の意味について
どのような瞑想や運動が良いか
幸せであるために、意識を高めていくために 癒しのために 今 もっとも必要なものは何か?
そんなことが書かれた 完全に あなたに特化した オーダーメイドの本で これを読めば 他の外部の情報は一切必要としないような・・・・本です。
そんな本が手に入ったら ずいぶん生きることが楽しくなるかもしれませんね。
この本は完全なる絵空事ではありません。
僕ら自身にフィットしたものは、いつでもこの瞬間に存在しているような気がします。
ただ、この本は 僕ら自身で少しづつ書き進めていく必要があるものです。
自分自身への理解と共感、気づきを通して。
でも本当にたった一人で書くというわけではなく、僕らのことを関心を持ち見守っている大いなる存在が いつも筆に手を添えてくれています。
◆『汝自身を知れ』
僕らは テストでよい点を取ったり、人と競争させられたりしますが、自分自身を知るということに関しては 特にそれを推奨されない教育制度の中で育ちます。
そうなると、自己のイメージと言うのは 外部的に与えられる 成功・失敗や どんな学校を出て どんな仕事をして 収入はいかほど? ということに限定されがちです。
また、人に 「ああ言われた こう言われた」「こんなことでほめられ、けなされた」「こんな仕事をしろと言われた」というようなことを自己イメージ構築のデータとして使用するしかありません。
そこにはすっぽりと内省するという方向性が 人間育成の中で抜け落ちているような気がします。
義務教育は、ただ外部的な情報を記憶して 処理するということに重きが置かれていて、残念ながら それはそもそも 人間を育てるというシステムではないのです。
だから、自分を理解するには 経験を通して 自分はこういうときどんな反応をするのか、どんなことに情熱を感じるかということを模索していくしかありません。
すべての人生経験には きっとそのチャンスがたくさんちりばめられていると思うんですね。
成功体験だけではなく むしろ 一般的には 失敗体験とされることの中に たくさんの気づきがあるかもしれない。
でも、人生を社会適応への 成功・失敗でしか考えられないと 自己を理解するというチャンスを棒に振ってしまうような気がしています。
競争や外的評価(点数)という要素が強く働く義務教育制度では、そのようなデメリットがあるんですよね。
でもそれもおかしい話しで
ソクラテスの言ったように 「汝自身を知る」 これが 知恵の根幹であるならですよ、、、
「自分を理解する」 そこにそもそも競争なんかあり得ない話しなんです。
そういう競争のない世界を 教育の根本におかないと すべては ただ社会的サバイバルの為の養成所に子供を通わせるような 殺伐とした状態になっていくのではと思います。
子供たちはいったい どこで 自分の素晴らしさを理解する方法を教えてもらえるのでしょうか?
◆ 自己理解とバイブレーション
ちょっと固い話しになりました。
記事タイトルの「波動を高める」っていうことに戻りましょう。
自分を理解するということと、「波動を高める」 この関係性は簡単で・・・
よく楽しいことをしたら波動が上がるよって いうけど
何が本当に楽しいか理解してなければ 出来ないですよね。
そういう単純な意味で バイブレーションを高めることには 「自己を理解している」 ということが必須の要素ではないでしょうか。
「自己理解」はバイブレーションを高める その方向性を示唆します。
愛や 感謝 喜びというものは誰にも普遍的なリソースで、それは確かに周波数を高めると思うんですが、より個人的な理解も必要です。
何をしていれば もっとも 愛や 喜び 情熱を感じるか。
自分自身である という「感じ」が伴うのか?
人生のビジョン 魂の願い・・・・そこまで深いことではなくても、どんなものを食べたら 本当においしいか とか どんな映画が好きか とかそういう細やかな理解のひとつひとつが 意外と 結局は 魂の性質だとか ビジョンとも結びついているのかもしれません。
まずは、今 ここで 自分は何を感じているか? に気づくということが すべての自己理解の出発点になります。
以下、自己理解への入り口の例・・・・。
🌟日記をつけて感じたことを書き留める どんな時「いい感じ」がして どんな時「嫌な感じ」がしたか
🌟なんでも自由にできるとすれば何をするか?と自問する。いくつでも書き出す。そこに共通点はあるか?
🌟子供の頃夢中になったことや、当時の夢を回想してみる。何か特徴的なパターンはあるでしょうか
🌟アロマオイルのセットを買って どの匂いが一番好きか試してみる
🌟好きな人々を知り合いでも 有名人でも何人でも思い浮かべましょう。何か彼らに共通点はありますか?
🌟好きな動物をイメージし、なぜ好きなのか?考えてみる
🌟なにがもっとも恐れや悲しみ、怒りのトリガーになるか理解する。奥深い恐れを出来る範囲で見つめ、理解する。
🌟あまり馴染みのない環境に飛び込んで、内部で何が起きるか観察する
🌟絶対普通なら歌わないような曲をカラオケで歌ってみる🎤🎵 (どうでしたか?つまらなかったですか 意外と楽しかったでしょうか)
🌟魂の願いや ミッション・ビジョン 生まれてきた意味について探求する
🌟占星術、心理学などのタイプ論を学ぶ
🌟ポリヴェーガル理論などを学び 自律神経系の反応と親しくなる
ということで、今回の波動を高める儀式 💛理解する💛でした。
これを読んだ方が より一層ご自身と仲良くなれますように(´ω`人)