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ラムサ:無限の思考 その②

 知っているということ

 『ラムサ』本物かなんなのかわからないが、情報としてのクオリティが高いので何度読み返しても面白い。もう数回ラムサのことについて書いてみる。

 まず最初にラムサの語る思考の考え方は概ね以下のようなものだ。

 この宇宙全体は神が自らを思い巡らせるために創造したもので、それは思考により成っている。
 この思考が振動数を落としていくと、やがて→光→電磁波となり最後にもっとも密度の濃い物質となる。
 神の思考は無限の意識の流れとして宇宙全体に満ちている。
 そしてこれらの想念を受け取ることによって、人の体は維持されているというのだ。
 普通肉体は食物によって維持されていると思われているが、ラムサ的には想念が人体を維持しているらしい。
 言い換えれば「情報」ということになるが、これはグルジェフが人間は「印象」によって生きていると言ってたことを思い出させる。「印象」がまったく入らないと即座に死んでしまうというのだ。そしてこの入ってくる「印象」のクオリティを高め、意識を変化させるテクニックのひとつが自己想起、ダブル・アテンションだった。

 意識はちょうど河のようであり、身体の細胞一つ一つを含め、あなたの自己はすべてそこから途切れなく栄養を与えられている。思考はあなたの生を維持し、それに実体を与えてくれるものだからだ。意識の流れからの思考によって、あなたは生かされているのである。個々の細胞に食物の栄養物質を運ぶ血液の流れによって身体が生きているのとまったく同じように、あなたの自己全体は、意識の流れから発する思考の物質を通して維持されているのである。

 カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の皮を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。そこに共通しているものはなんだろうか。それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけではなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。これは「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰が座っているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎこんでいる。そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。あらゆるものが存在する思考の河である神は、常に拡張し、動いているからだ。

 すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないに関わらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。すべては思考へと戻っていく。そしてこれが何かが「知られる」ということなのだ。


 
 人はすでに無限の情報の海に浸されていて、脳は本来それらをすべて受信する機能を持っている。しかしその一部、社会意識と言われる共同現実(共同幻想)しか受け取っていない。社会意識というのは次のようなものだった。

 皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身(肉体)の死、自我の死のどちらであってもである。したがって皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受けいれられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められている。

 なぜかというと左脳の機能の一部としてある「変性自我」が社会意識からはみだす情報をフィルタリングするからだという。

 (変性自我は)神なる人間が、ただ生き残る生物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。そしてその世界観は、身の安全という概念の中におさまらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け入れるのを拒んでしまうのである。変性自我とは、化身のうちでさらに大きなきづきを持つためにすべての想念を受け入れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。

 そして変性自我を通り抜けて入ってきた想念を、人は知ることになる。
 これが『知っている状態』とラムサが言っているものだ。
 『知っている状態』は単に知識として知っているのではなく、深いフィーリングと全身でそのことを知るということらしい。そしてこの『知っている状態』が人生をつくっていく。

 社会意識は、怒りや嫉妬、悲しみ、欠乏、老化と病のことはよく『知っている状態』になる。
 だからそれにより展開する世界はこのようになる。
 もし社会意識のネガティブな面に染まりきり自分が、つまらなく、意味のない存在だと『知って』しまっていたら、物事は閉塞した状態でしか動かない。このような状態を閉ざされた心と呼ぶ。

 閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。だが、神という領域では、何も不可能なことはない。どんなものであろうともその概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。それがすべての創造物が存在するようになった道なのである。誰かに対し何かが「ただの想像に過ぎない」と告げるときあなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。そしてまさにそれこそが、この地上界のすべての子供たちに起きていることなのである。つまり、あなたたち皆のことだ!

 だからつまり、簡単に言うと自分の人生をよくしたければ怒りの変わりに許しや愛を、悲しみのかわりに喜びをも「知っている状態」にすればいいということになる。そしてそれらを大きくしていけばいい。
 悲しみや不足によって生を展開させられたのなら、喜びと豊かさによっても展開できるはずである。なぜならどちらもそれを「知っている」から起こっているに過ぎないのだから。・・・・とラムサ理論によれば少なくともそのような結論になる。基本的にこれらはスプーン曲げと一緒で、誰もが自分の知ってる方向性に従って自分の人生を曲げている・・・だけなのだろうか?ただ純粋なよろこびの方向に曲げるのは社会意識を越える必要があるので、少し難しいだろうけど。

 ところで先日の瞑想会でもたまたまスプーン曲げの話しが出て、I先生曰く

 「スプーンを曲げられる人は、スプーンが曲げられるって知ってるから曲げられるの。サイババが猿出したりするでしょ?あれもサイババは自分が猿出せるって知っているから出せるんだ。でも猿でろ~猿でろ~(-"-)ってこんな風に頑張ってたら絶対猿はでないよ(笑)」

 ということでやはり「知っている」という言葉が出ていた。
 
 あとよく『神が意識にない人にとっては、本当にその人にとって神はないんだよ』と言うのを聴く。
 その人の認識している(知っている)現実が良かれ悪しかれその人の全宇宙ということになるだろうか。

 またラムサ本の中で面白いと思った例え話がある。
 この考えで行くと、自分の病気は自分で治せると『知って』いたら、自分の治癒力が病気を治すことになる。
 しかし自分の治癒力は知っていなくても「どこかに偉大な治療師が存在し、彼が病気を治してくれると」と絶対的に『知って』いたらやがてそのような出会いを経由して彼の病気は癒されるだろうと言うのだ。
 これと同じく、自分が神であると『知って』いなくてもどこかに偉大なマスターが存在すると『知って』いたらその人はいつかそのようなマスターと出会うのだろうか。

 このような出会いを人はカルマのため、ということもあるがもしかするとカルマというのも一種の情報の束でありカルマの現実化というのは無意識、あるいは魂が知っていることの実現なのかもしれない。こころは重層的な構造なのでその深部にいくほどどんなプログラムがあるのか(それが何を知っているか)は見極めにくい。そこには自己破壊的なプログラム(ネガティブな知)と、生命的なプログラム(ポジティブな知)が混在しているはずだ。情報を保持している主体が一つではないというところが、人間のわかりにくさなのかもしれない。自分が何を知っているのか(どんな知によってマインドが構成されているのか)見極めるのも、なかなか透徹した観察力がいりそうだ。
 
 一般に物事の成就は才能、向き不向きと、自信、モチベーションにかかっていると思う。

 同じ歌のレッスンを受けていても、才能が同じとするなら

 「自分が歌が上手くなると知っている人」と「自分はたいしてうまくならないと知っている人」では確実に結果に差が出てくるだろう。一般にこれは「自信」と呼ばれる、知のふたつの形態だ。

 これに加え

 「歌が上手くなるとすばらしい可能性が開けると知っている人」と、「上手くなってもたいしていいことはないと知っている人」でも結果は異なってくる。これはモチベーションのある・なしというふたつの知の形態だ。このようにみればなにを「知っている状態であるか」ということがその人の現実に大きく影響するのは間違いないことではあるだろう。

 
 何によって生きているか?

 ラムサ的に言うなら、ひとりひとりの人間は無限の神の思考のチャネラーで、そのなかのどの部分を受け取っているかということだけが違うことになる。
 無限の思考、それはまさにF・K・ディックが小説『VARIS』のなかでVast Active Intelligence System(巨大にして能動的な生ける情報システム)と呼んだものを連想させる壮大な概念だ。

 すべての記録を貯蔵するという意味では「アカシックレコード」の概念と似ているかもしれないが、神の無限の思考は常に人間やあらゆる存在との相互作用の中で常に変化していると言う意味では、もっと生きてる感がある。

 すべては、この情報システムから来ていることであり、どのような人間が喋っていても結局その源はここに帰することになる。だから、クリスタルチルドレンジェシカは「どのような存在が私に喋っているか特定することは、なにか邪魔な気がする」といったのではないだろうか。ということで僕もこの情報はラムサからではなくVARISからだと考えようかな。

 自分の思考や気づきや感情がそのような巨大な情報システムにプールされ、その中で相互作用を起しているという考えは、僕にはごく自然なこととして受け入れられる。その中ではすべては「一者の思考」なのだから、そのシステムの端末である僕らは孤独ではないことになる。

 無限の神の思考の中には、社会意識も含まれるし、自然の意識や、純粋に「在る」ということの至福の意識が存在しているという。これによって生きるということが、いわゆる聖者と呼ばれる人たちの状態であるという。そこには「在る」ということ以後に現れる善悪の二極性や、社会的なジャッジはない。「在る」ことの純粋性と、永続性の意識であると言う。

 つまりあらゆる人は、どのような想念を食料として生きるかによって違う現実を生きていることになる。
 これを書いてるとどうしてもまたグルジェフの食物論、、、水素3とか水素12とか水素48とか宇宙にはいっぱいあって目覚めた人間のセンターは数字の少ない水素で機能しているというようなことを思い出す。

 意識の河から『在る』ことに基くよろこびや、平和を常に受け取っているということはその内部が「一」にトータルになっているということかもしれない。二極対立をもとにした怒りや、妬みなどの想念で生きていると人の内部はいくつもの考えが葛藤している状態「多・他」に置かれるだろう。
 純粋なよろこびによって生かされる人は内的葛藤のないトータルな自己となり、その内面でいろいろな想念や人々と戦うことは終わっているはずだ。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/09 20:11
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