ラムサ:無限の思考 その③

 こころを開く
 
 では、どのようにすれば自分自身に課した制限を解除して、神の無限の思考へと開かれることが出来るのだろうか?簡単に言うと答えは『愛』なのだが、それについてのラムサの説明がやはりすばらしい。




①自分を愛する

 それは単に望むことを通じてなのだ。キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてをいとおしみたいという望みなのである。自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。


 自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを越える。審判を越え、時間と言う幻影を超えるのである。あなたは自分の命を満たすためだけに生きるようになる。そしてよろこびの道だけを辿る。その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。

 自分を本当に愛し、自分は神そのまますべて受け入れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父と一つであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。それが脳の能力を解放し、神の心に在るすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起したり、少しめまいがしたり、なんとなく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は次に強力な電流へと変換され、中枢神経を通って、あなたのからだのひとつひとつの細胞へと送られる。これが体中が痺れるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起す。その波動は細胞ひとつひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからだ。

imagesCARJ9PZM.jpg(妖怪ぬらりひょんはマスターでしょうw)

 
 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものとなるのである。
 
 自分の創造性と人生を限定してしまういちばんの方法は「わからない」と口にすることだ。あるいは自分にひらめく「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」だ。忘れないで欲しい。あなたは法をつくるものであり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。「わからない」と言えば、わかることはない。「できない」と言えば、けっしてできない。「自分は父なるものの愛に値しない」と言えば、それを受け取ることはけっしてない。そういうふうに語るのは、そういうふうに思っているということだ。そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考過程を実現した現実を表出させるのである。

 あなたはちょうどコンピュータのようなものだ。毎日あなたは自分の知識の中に「疑い」を入力している。「不足」を入力しているのだ。そして知識の中に「知らない」ということを入力していることになる。それでは自分の世界を自分で盗んでいるようなものだ。疑いと限界しか知らないあなたは、自分の考え方や言葉によって、生の力そのものを自分自身から奪いとっているからである。 

 もし、皆の言葉のすべてを取りさり、ほんの一握りを残すとしたら、それはこうなる。「私はもう知っている、私は絶対だ、私は完全だ、私は神なのだ、私は在る」このほかに何も言葉がなかったとしたら、あなたはもはやこの地上界に限定された存在ではなくなることだろう。

 知ること、ただ知ることだ!「これが起きることを私は知っている」「自分が神であるのを私は知っている」「自分が幸せなことを私は知っている」「自分が在ることを私は知っている」・・・知ること、知ること、知ることだ!必要なのはそれだけである。いつも知っていることだ。知らない、あるいは、知ることはできないと言えば、絶対にそれを知ることはない。もう知っているということ、そうすればすべてを知ることができるのだ!

 あなたとわたしの違いがわかるだろうか?私は自分が限りなき神であるのを知っているが、あなたは知らない。違いはそれだけのことなのだ。私は自分が在ることを知っているが、あなたはまだこれからそれを実感しなければならない。社会はそうではないと言っている。だが、彼らに何がわかるというのか。自分たちを毎日埋葬しているだけではないか。


 ②価値判断を越える

 自分の知るという行為をあなたはなぜ邪魔してきたのか。それは思考が物質という形をとったものを理解しようとする中で、あなたの思考過程が物質界の現実にすっかりとらわれてしまったために、あなたは生についての見方を根本的に変えてしまったからなのである。

 物質とは、思考を最も大きく変容させることによって作り出される思考のレベルなのだ。それはまず、想念を光へと下げ、次に電磁場へ、そして今度はそれをプラスとマイナスを持つものへと分割することによってつくられる。したがって、物質と言う形の神とつながろうとするならば、あなたはそのたびに、思考の本来の姿である純粋さと分割できない「在るということ」ではなく、対極を持ち、分割されている想念を知覚し、理解しているのだ。物質に集中し、生存の方向を向いていればいるほど、生を対立する極という側面から見るようになる。上下、遠近、明暗、大小、善悪、プラスマイナス、速い遅い、熱い冷たいといった具合だ。

 自分自身の人生を「在るということ」の眼から見るのを学ぶのだ。花を手にする時、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは「花」という想念だ。花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。そうするとあなたはキリストと同じように考えている。すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。自分の体験を限定したり、価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を超えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。

 ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、と言う以外の見方を決してしてはならない。その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分のうちに変質した見方を作り出すことになる。そして自分が知覚したものは、自分がそうなるものでもあるからだ。その想念は、自分の存在のうちにフィーリングとして刻まれるのである。つまりあなたは自分を犠牲にすることになるのだ。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。

 人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」と言う見方で見ることだ。もしある人間が他に対して残虐であったり、憎しみを持っているなら、その人が残虐であり、憎しみを持っているということは真実だ。なぜなら彼らはまさにそういう形で自己を表現しているからである。その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。そしてそれは、100パーセントあなたの体験となり、うちに変質をもたらすのだ。


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 誰も価値判断を下すに値する人はいない。肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。それが誰であっても、どんな形で自己を表現していても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。彼らのその存在を愛するのだ。彼らが存在する限り、あなたもまた存在していく。どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。

 さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法はなんだろうか。それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。このきづきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。

 幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じた時には、自分の思考を調べて見ることだ。やがてあなたは、自分や他人に判断を下したり、生と言うものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。

 それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断をくだしてはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへのきづきが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。

(抜粋おわり)




 「誰も価値判断を下すに値する人はいない」と言ってるところにとても魅力を感じる。
 ジャッジするのはいけませんよ~ではなく、「損だよ」という自分の意識に与える影響を詳しく語っているのが良い。

 だから超ジャッジな人を見て、ダメだな~あれじゃと思ってしまう(ジャッジな人をジャッジする)ということもあるけど、イエスの言葉ではないが「彼らはすでに報いを受けています」ということで、それがジャッジな人が世界を体験している方法なのだからこっちの意識を変性させてまで口を出さなくてもいいということになる。

 これは聖書の山上の垂訓『裁かないように、あなたが裁かれない為です』の現代版みたいなものだろうか。
 きっと山上の垂訓もホントは「人を裁くと神様怒って君も裁くよ」という意味じゃなく。ジャッジすることによって、自分の意識が変性してしまうことを注意してるのだと思う。


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 ところでアセンション論者の人がアセンションを語ると同時に、意識レベルがアップしない人は別の惑星に行くというディセンション現象を語るという現象があるがこれがものすごく典型的に

 『物質に集中し、生存の方向を向いていればいるほど、生を対立する極という側面から見るようになる。上下、遠近、明暗、大小、善悪、プラスマイナス、速い遅い、熱い冷たいといった具合だ。』という見方の一パターンに思える。高次元や低次元、進化や退化という概念だけに振り回されると神なる実在(在ること)を忘れてしまうことになるんだろうか。


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 進化でググって拾った画像。

 (みんな同じ!いや。。。そう言う意味じゃないか。)
 
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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/12 21:46
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