ここのところ、瞑想を終えたあとに結局雑念の堂々巡りをしていたのではないのかという感覚を持つことが多い。
僕は瞑想法についてちゃんと指導されたりしたことはなきに等しいので、ほとんど我流になっている。そのやり方が正しいのかどうかはわからない。
30分なら30分、一時間なら、一時間とにかく座る、動かない。
それが外面的な方法。
内的コントロールには、主に光のイメージと、「神様」というマントラを使う。言語と、イメージの双方向からの働きかけ。
あまりにも雑念が粗大になってくると、これを使って、ある程度静かになるとまた特に何もしないで座る・・・ということをくり返す。
30分を過ぎたあたりから、状態が深まっていくことが多い。
まあ、本当は何をもって深まっていくと言うのか知らないですが・・・。
なので、これまた我流の基準で深まっていくのである(笑)。
だからもしかすると僕は、瞑想してないのかもしれない(獏)。
しかし、まあ話を「雑念の堂々巡りをしている感覚」に戻す。
多分、これはあるレベルの静かさに慣れてきたので、雑念に敏感になっているということのような気がする。微妙過ぎて知覚できないような思考・・・「何考えていたの?」ときかれて「何も。」と応えるときでも思考は常に流れている。本当に何も考えていなかったと考える人は、その瞬間に無意識であったために自分が何を考えていたのか思い出せないというだけのことだ。
なので、思考が停止するということは厳密な意味では、普通起こらない。
しかし、リラックスや、本質的個性の発見という目的のために瞑想をすると言う場合、「思考停止」など普通は必要としないのではないかと思う。
まあ、とにかく、死ぬまでやるくらいの気持ちで継続することが重要だろう。
天体について。
太陽、月、およびその他の惑星と地球との関係について意識的に考えはじめたのは明らかに前回の修道会以後のことだ。
しかし、それ以前から「太陽」という表象に関しては無意識の中で活性化しはじめていたような感じがする。
先々週、ブッククラブ回に立ち寄った時に、スターピープル誌のバックナンバーの中に「太陽と新文明」という特集を組んでいるものがあった。
僕が考えていたことととても近いことが特集されていたので購入した。
太陽に意識の焦点をあてることは、もっとも身近な命の与え手を確認することであると同時に、エネルギー問題や、エコロジーの問題を考えることでもある。
「新文明」として述べられているのは、今までの化石燃料を使用した文明の代わりとなる、「循環型文明」である。
現在の「西洋商工業都市文明」の動力源となっている石油は、過去に蓄積された生命の死骸、言い換えれば過去の太陽光である。何億年もかかって蓄積された資源を掘り起こして、動力源とし、自然環境を破壊し、その上に物質的価値観を主軸としたライフスタイルを営んできたのがここ百数十年の歴史だった。南米のラスタファリズムはこの文明を聖書に登場する邪悪な都市にちなんで、バビロンと呼んでいる。
しかし、こんな風に、過去のエネルギーに頼るのではなく、現在惜しげもなく降り注がれている宇宙のエネルギーを循環させながら生活していけるのではないかというのが「循環型文明」の発想だ。
例えば代替資源として注目されているものに、大麻がある。
大麻は生長も早く、資源としても有用なので20世紀以前にはエネルギー源として注目されていたのだが、石油エネルギーを中心的に運用するという世界的方針の中で法的に封印されていった。
日本神道では、大麻は太陽のシンボルと考えられており、神社の鈴縄や注連縄にも大麻繊維が用いられているというのはとても興味深い事実だ。
それは太陽のエネルギーをもっとも直接的に我々に媒介してくれる植物かもしれない。。。
しかし、このような実質的なエネルギー運用の転換以前に、それ以前の心理的段階として、多くの人が太陽という「巨大な生き物」を新たな視点で捉え直すという現象が起こってるのだと考えたい。
毎日毎日、空を巡る太陽。しかし、その真の姿を僕らは理解していない。
いつか僕らは、「初めて太陽を見る」という意識を経験するのではないだろうか。
僕は瞑想法についてちゃんと指導されたりしたことはなきに等しいので、ほとんど我流になっている。そのやり方が正しいのかどうかはわからない。
30分なら30分、一時間なら、一時間とにかく座る、動かない。
それが外面的な方法。
内的コントロールには、主に光のイメージと、「神様」というマントラを使う。言語と、イメージの双方向からの働きかけ。
あまりにも雑念が粗大になってくると、これを使って、ある程度静かになるとまた特に何もしないで座る・・・ということをくり返す。
30分を過ぎたあたりから、状態が深まっていくことが多い。
まあ、本当は何をもって深まっていくと言うのか知らないですが・・・。
なので、これまた我流の基準で深まっていくのである(笑)。
だからもしかすると僕は、瞑想してないのかもしれない(獏)。
しかし、まあ話を「雑念の堂々巡りをしている感覚」に戻す。
多分、これはあるレベルの静かさに慣れてきたので、雑念に敏感になっているということのような気がする。微妙過ぎて知覚できないような思考・・・「何考えていたの?」ときかれて「何も。」と応えるときでも思考は常に流れている。本当に何も考えていなかったと考える人は、その瞬間に無意識であったために自分が何を考えていたのか思い出せないというだけのことだ。
なので、思考が停止するということは厳密な意味では、普通起こらない。
しかし、リラックスや、本質的個性の発見という目的のために瞑想をすると言う場合、「思考停止」など普通は必要としないのではないかと思う。
まあ、とにかく、死ぬまでやるくらいの気持ちで継続することが重要だろう。
天体について。
太陽、月、およびその他の惑星と地球との関係について意識的に考えはじめたのは明らかに前回の修道会以後のことだ。
しかし、それ以前から「太陽」という表象に関しては無意識の中で活性化しはじめていたような感じがする。
先々週、ブッククラブ回に立ち寄った時に、スターピープル誌のバックナンバーの中に「太陽と新文明」という特集を組んでいるものがあった。
僕が考えていたことととても近いことが特集されていたので購入した。
太陽に意識の焦点をあてることは、もっとも身近な命の与え手を確認することであると同時に、エネルギー問題や、エコロジーの問題を考えることでもある。
「新文明」として述べられているのは、今までの化石燃料を使用した文明の代わりとなる、「循環型文明」である。
現在の「西洋商工業都市文明」の動力源となっている石油は、過去に蓄積された生命の死骸、言い換えれば過去の太陽光である。何億年もかかって蓄積された資源を掘り起こして、動力源とし、自然環境を破壊し、その上に物質的価値観を主軸としたライフスタイルを営んできたのがここ百数十年の歴史だった。南米のラスタファリズムはこの文明を聖書に登場する邪悪な都市にちなんで、バビロンと呼んでいる。
しかし、こんな風に、過去のエネルギーに頼るのではなく、現在惜しげもなく降り注がれている宇宙のエネルギーを循環させながら生活していけるのではないかというのが「循環型文明」の発想だ。
例えば代替資源として注目されているものに、大麻がある。
大麻は生長も早く、資源としても有用なので20世紀以前にはエネルギー源として注目されていたのだが、石油エネルギーを中心的に運用するという世界的方針の中で法的に封印されていった。
日本神道では、大麻は太陽のシンボルと考えられており、神社の鈴縄や注連縄にも大麻繊維が用いられているというのはとても興味深い事実だ。
それは太陽のエネルギーをもっとも直接的に我々に媒介してくれる植物かもしれない。。。
しかし、このような実質的なエネルギー運用の転換以前に、それ以前の心理的段階として、多くの人が太陽という「巨大な生き物」を新たな視点で捉え直すという現象が起こってるのだと考えたい。
毎日毎日、空を巡る太陽。しかし、その真の姿を僕らは理解していない。
いつか僕らは、「初めて太陽を見る」という意識を経験するのではないだろうか。
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