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生き辛さの根っこ

 先日会った休職中の知人が、アスペルガーでは?と診断されたという話を聴き、僕もネットで簡易版アスペルガーチェックをやってみた。

 結果→29~30点。

 33点以上だと可能性が濃厚ということで、いちお閾値内には収まっているが結構高い値だった。

 自閉関連の著作で有名なニキリンコさんの本も読んでみて、その独特の世界に驚いた。
 例えば強いアスペルガー(高機能自閉症)の人は、見えてないものはない、という認識があり自分の背中は見えてないから「自分に背中はない」と考えることもあるという。

 ニキリンコさんのホームページ面白い。
 

 また別の人は、小学校に通ってる時クラスメートは『教室の備品』だと思っていたという。
 それぞれが自分と同じように家族があり、毎日教室に通ってきているという想像力を通した認識がなかなか出来ないようだ。また自分が学校に向かっているのか、学校が毎朝自分のところに来ているのかも曖昧な部分があったというからすごい。

 さすがにニキリンコさんと比較すると自分の認識はほぼ「定型発達」の枠内に収まっているように思える。
 だが自閉スペクトラムの中に自分も含まれるのではないかと思うことが少しある。


  ■多分3、4才だと思うが僕は食事をする時にそれぞれの食べ物の味が混ざるのがいやで、ご飯はご飯のスプーン、おかずはおかずのスプーンというふうに頼んで分けてもらったことがある。さすがにそれは今はないので両親に矯正されたのだと思うが、今思い出したのだがそう言えばご飯とおかずを一緒に食べるというのも気持ちが悪かった。幼ない僕にとっておかずとご飯は別のカテゴリーに属したもので、ご飯はふりかけをかけてそれだけを食べるものだった。 

 ■小学校2年生頃だろうか、あるときから午後の授業が始まり、「昼休み」というものが出現した。しかし僕はこの昼休みという概念がすぐわからなかったようで、突然クラスメートがいなくなって誰もいない教室から外を見るとみんな遊んでいる。でも授業が終わったのかなんなのかわからず、混乱していた。

 ■なぜか消しゴムを使わず、手(指)で消すということが止められず、通知表に書かれて注意された。

 ■階段の何段目は二段飛ばしで上がらなければならないとか、玄関と台所の敷居をまたぐ時は足を痛くなるまで
あげないといけない、とか床に頭をくっつけてその位置から見える床に反射してる模様をみないといけない、とか無数の自分ルールに拘束されて約数ヶ月ほど日常生活に支障をきたした。

 ■クラスメートの顔と名前を覚えるのが得意ではなく、クラス替えから半年くらいたっても名前が出てこなくて担任に「まだ覚えてないの?」と言われた。正直、「興味がなかった」という部分もあると思うが、今でも人の名前とか顔を覚えるのが苦手だ。(言葉は割とよく覚えるが、視覚記憶能力は悪い気がする)親とか、結構身近な人でもその人の顔を視覚化するのが苦手。

 といったことから自閉スペクトラムのボーダー部分に含まれる可能性もあるかもと思ったのだが、もしかすると違うかもしれない。

 自閉スペクトラム自閉症は症例が多彩であり、健常者から重度自閉症者までの間にははっきりとした境界はなく、虹のように境界が曖昧であるため、その多様性・連続性を表した概念図を自閉症スペクトラムと呼ぶ。映画レインマンのようなタイプから、アスペルガー、アスペルガーと健常者のボーダーなどが含まれる。

 ただ高機能自閉の人の本を何冊か見て得たのは、自分がずっと感じてきたある種の『生き辛さ』の原因は、トラウマとかそういうのではなく『体質』の部分に多くあるのではないかというひらめきだった。つまり、それは  『病気』というよりもBODY&MINDのハードウェアの質の問題ということだ。自分はそのハードウェアの性質にさからい、変えようとしていたのかもと思った。

 おおまかに分けると人のいき辛さの原因というのは、3つあると思う。

 ①カルマ(外的条件) 幼い頃親を亡くすとか、すごいアクシデントに見舞われるとか、独裁国家に生まれるとか、いかんともしがたい外的条件。 可塑性 <低>

 ②思考、感情、肉体の病んだパターン、トラウマ  可塑性 <中> 

 ③体質 <自閉であるとか、ADHD、同性愛者であるとか> 可塑性<低>


 ①と③は並列的な関係にある。それ自体を変えられる可塑性は高くない。より根源的なレベルにある。ハードウエア。

 そして①や③の現実が、比較的可塑性の高い②のレベルの現実へ影響する。
 僕は③体質のより細やかな理解が癒し・医療の現場では必要だと思うのだが、その理由はすべて②『病』と捉えるならば③体質的原因により不適合を起こしている個人は、すべて「治すべき対象」となってしまうからだ。例えばそれは、はるな愛を無理やり大西研二にするようなものだ。

 わかりやすい例を出そう。
 僕は数年前非常に忙しく、過密な環境の出版社で働いている時、うつ状態になり心療内科に行くと抗鬱剤のSSRIを処方された。しかし僕はそれを飲みながら働くよりも、そこを辞めることを選んだ。つまり現在の医療では個体差のある個人の体質を無視して、労働環境に適応させるということを主目的としている。

 これは医療ファシズムとでも呼んだ方がよい。そのメッセージは働けないのは、あなたが病気だから(おかしいから)ですということだ。 
 
 こんな心療医療ばかりだから自殺者が減らないのだと思うが、まあ人によってはどうしてもお金が必要で辞めるに辞めれないという場合もあるだろうし、薬が必要な状況(それがないと自他を傷つける場合)もあるから全否定はしない。しかしあまりにも個人の体質へのこまやかな理解というものを怠っている気がする。医療とは本来「理解する心」なしには成立しないはずなのだが。治療法を患者に合わせるのではなく、患者を治療法にあわせてるのがほとんどだろう。投薬、という簡単な治療法に。

 結局個人が生きやすくなるためには、自分の体質を把握するということが重要になる。

 生き辛さ、の正しい理解だ。
 
 その上でのサバイバルが大切であって、特にマイナーな体質の人は闇雲にまわりと同じ生き方に合わせようとするとダメージが大きく出来なければ自己嫌悪・・・の負のループにはまってしまうかもしれない。

 苦しいのは自分が悪いんだ、自分がおかしいんだ、生きてても仕方ない
 そんな思いとともに自ら命を断ってしまった人たちの中に、多くの自閉スペクトラムの人たちがいたような気がしていたたまれない。

 僕らに必要なのは正しい自己愛であり、自己理解である。
 その上で初めて相互理解が可能となる。



 近況:I先生の修道会等への参加をしばらくお休みすることにしたため、一旦全部リセットしたい気持ちが強くI先生関連のリンク等をすべて消してしまいました。関係者の皆様失礼をお許しください。どれくらいの期間になるかわからないけどしばらくはマイペースで、人目を気にせず好きなことを好きなように書いていきたい。どうも顔が割れているといろいろ気になって自由に書けなくなるようで、閉塞感があった。ということでブログ名も気分を変えるために昔のHPの名前にしました。




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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/30 16:51
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