2011.
08.
09
昨日8月8日は、ヒラク、ヒラクの日だった。
あるいは8レル(晴れる)8レルとでも読めるだろうか。
家の近所車道を横に入ったところに、100メートル以上まっすぐ一本に伸びる道がある。
左右は畑になっていて、人通りも多くない。
昨日夕方そのお気に入りの場所で西の空を見ていると、雲や光の感じがとても美しく澄んでいるように思われた。空のあちこちに存在するきれいな場所を見入っていると、視界のほぼすべてが「空」で覆われこの空、果てしなく広がる空間だけが実在であるかのように思えてくる。そんな時地上に目を向けると、畑の向こうに立つ家々や自転車で通り過ぎる人は本当に小さくなんだか非現実的にさえ感じられる。
しかしひとたび車道に戻り、車の音や多くの建物に囲まれると世界はまた変わる。とてもすべてが濃密であり
「空」がなく、様々なせわしいリズムで人や車が動き回っている。いったいどちらが本当の世界だろうか。コンビニの前にたつ「フライドチキン」というのぼりや、ATMの前で並ぶ人々、マンホールのふた、「止まれ」の標識、それらはあの「空」に比べれば虚構なのではないか。僕らは空や大地、水や木々の狭間に生きていることを忘れ、この虚構世界に生きているのではないか。いつもそこで空を見ているとそんな思いが湧いてくるのだった。
虚構世界とは、無限の生命世界の中に人が作り上げた世界である。
その世界は生命とのつながりを忘れ「内側」だけを向いている。
そこには国家があり、宗教があり、大企業があり、学校があり、軍隊がある。
虚構世界の内部は常に戦争をしている。
見える戦争もあるし、見えない戦争もあるが、戦争の意味はひとつだ。
暴力により他者を服従させようと争うことだ。
そして戦争によって膨大な金が動いている。
この金、貨幣というものはただの鉱物や紙に過ぎないが虚構世界のルールによって価値が付与されている。
それを持っていれば、畑を耕していなくても野菜が食べられて、動物たちの血に濡れなくても肉を食べることが出来る。いったいなぜか?それがこの虚構世界のルールだからだ。
このようにして、無数の命が、「紙」の為に殺された。
無数の森や 海辺や 山々が「紙」の為に破壊された。
虚構世界では、命よりも虚構が力を持っているのだからそれも当然の帰結だった。
虚構世界の住人たちは、夜になるとテレビと言う箱に映る映像を眺めて時を過ごしたがその多くは「虚構」だった。多くの住人たちが人を「うそつき!」と罵りながら、別の人間にうそをついていた。「真実の告発者」が妻につまらない隠し事をしていた。虚構世界においては「嘘」は空気のようにあたりに満ちていたのだから仕方ない。
しかし虚構世界に生きている僕らも実在世界の生命がなければ決して生きてはいけない。
太陽なしでは、大気なしでは、大地なしでは、海なしでは、雨なしでは、木々なしでは一日足りとは生きることは出来ない。しかし虚構世界の住人は、虚構のみを大事にし、自らを生かす実在世界の命への恩を忘れ去った。そして本来人は、この実在世界・生命世界の存在であることもわからなくなったのである。
この虚構世界は実在世界を覆う、雲のようなものなのか?
これらがみなそのエネルギーを失い、雲のように空から消えていくとき、僕らはその澄み渡った空を歓迎できるだろうか。晴れ渡った空の向こうから、大地や空、太陽と月、今まで人を生かし続けてきた大いなる世界がはるかに巨大なリアリティとともによみがえる時に・・・。大地が光りだす時、それを受け止めることが出来るだろうか。
すべての雲が晴れる季節を、僕らは歓迎できるだろうか?
あらゆる虚構世界が幻のように消えていくとき、人を生かすのは実在するもののみである。
空気と光 水や大地 そして実在世界に目覚めた、お互いの存在だけだ。
この虚構世界は終わっていく
虚構世界を統べる「いつわりの王」が力を失うに連れて
そして人はその虚構世界と共に滅びるか、あるいは実在世界とともに生きるかの選択に問われている。
この地上には古来よりいつわりの王を頑なに拒んできた民族がある。
彼らは貨幣もほとんど持たず、また便利さは人を堕落させるとしてテクノロジーの多くも拒絶した。
そしてただ大地や太陽を敬い日々の質素な恵に感謝して生きる生活を守り続けた。
また一方いつわりの王に完全に取り込まれ、支配されてきた民もある。
彼らは貨幣で様々なものを買うばかりか、支払いを将来に先延ばししてまでものを買いあさり快楽をむさぼった。
僕らはどちらだろうか?
それは僕らが何を本当に大切に思っているか自問すればわかるだろう。
あらゆる命の根源や、太陽や大地や水、共に連帯する人々や、自分の真のビジョンだろうか
あるいは
貨幣や、地位や名誉、気晴らしの娯楽や、刹那的な快楽だろうか?
今僕らが愛しているそのものは、果たして実在だろうか? 虚構だろうか?
命とつながることか?内側へと収縮することか?
おそらく誰でも虚構と実在、どちらの世界にも共に生きているに違いない。
ただ虚構世界では、虚構の方が実在に見えてしまいやすいのだ・・・。
空が晴れるときが恐ろしいかどうか、それは生活や意識においてどれだけ実在世界とつながっているかにかかっているように思う。
あるいは8レル(晴れる)8レルとでも読めるだろうか。
家の近所車道を横に入ったところに、100メートル以上まっすぐ一本に伸びる道がある。
左右は畑になっていて、人通りも多くない。
昨日夕方そのお気に入りの場所で西の空を見ていると、雲や光の感じがとても美しく澄んでいるように思われた。空のあちこちに存在するきれいな場所を見入っていると、視界のほぼすべてが「空」で覆われこの空、果てしなく広がる空間だけが実在であるかのように思えてくる。そんな時地上に目を向けると、畑の向こうに立つ家々や自転車で通り過ぎる人は本当に小さくなんだか非現実的にさえ感じられる。
しかしひとたび車道に戻り、車の音や多くの建物に囲まれると世界はまた変わる。とてもすべてが濃密であり
「空」がなく、様々なせわしいリズムで人や車が動き回っている。いったいどちらが本当の世界だろうか。コンビニの前にたつ「フライドチキン」というのぼりや、ATMの前で並ぶ人々、マンホールのふた、「止まれ」の標識、それらはあの「空」に比べれば虚構なのではないか。僕らは空や大地、水や木々の狭間に生きていることを忘れ、この虚構世界に生きているのではないか。いつもそこで空を見ているとそんな思いが湧いてくるのだった。
虚構世界とは、無限の生命世界の中に人が作り上げた世界である。
その世界は生命とのつながりを忘れ「内側」だけを向いている。
そこには国家があり、宗教があり、大企業があり、学校があり、軍隊がある。
虚構世界の内部は常に戦争をしている。
見える戦争もあるし、見えない戦争もあるが、戦争の意味はひとつだ。
暴力により他者を服従させようと争うことだ。
そして戦争によって膨大な金が動いている。
この金、貨幣というものはただの鉱物や紙に過ぎないが虚構世界のルールによって価値が付与されている。
それを持っていれば、畑を耕していなくても野菜が食べられて、動物たちの血に濡れなくても肉を食べることが出来る。いったいなぜか?それがこの虚構世界のルールだからだ。
このようにして、無数の命が、「紙」の為に殺された。
無数の森や 海辺や 山々が「紙」の為に破壊された。
虚構世界では、命よりも虚構が力を持っているのだからそれも当然の帰結だった。
虚構世界の住人たちは、夜になるとテレビと言う箱に映る映像を眺めて時を過ごしたがその多くは「虚構」だった。多くの住人たちが人を「うそつき!」と罵りながら、別の人間にうそをついていた。「真実の告発者」が妻につまらない隠し事をしていた。虚構世界においては「嘘」は空気のようにあたりに満ちていたのだから仕方ない。
しかし虚構世界に生きている僕らも実在世界の生命がなければ決して生きてはいけない。
太陽なしでは、大気なしでは、大地なしでは、海なしでは、雨なしでは、木々なしでは一日足りとは生きることは出来ない。しかし虚構世界の住人は、虚構のみを大事にし、自らを生かす実在世界の命への恩を忘れ去った。そして本来人は、この実在世界・生命世界の存在であることもわからなくなったのである。
この虚構世界は実在世界を覆う、雲のようなものなのか?
これらがみなそのエネルギーを失い、雲のように空から消えていくとき、僕らはその澄み渡った空を歓迎できるだろうか。晴れ渡った空の向こうから、大地や空、太陽と月、今まで人を生かし続けてきた大いなる世界がはるかに巨大なリアリティとともによみがえる時に・・・。大地が光りだす時、それを受け止めることが出来るだろうか。
すべての雲が晴れる季節を、僕らは歓迎できるだろうか?
あらゆる虚構世界が幻のように消えていくとき、人を生かすのは実在するもののみである。
空気と光 水や大地 そして実在世界に目覚めた、お互いの存在だけだ。
この虚構世界は終わっていく
虚構世界を統べる「いつわりの王」が力を失うに連れて
そして人はその虚構世界と共に滅びるか、あるいは実在世界とともに生きるかの選択に問われている。
この地上には古来よりいつわりの王を頑なに拒んできた民族がある。
彼らは貨幣もほとんど持たず、また便利さは人を堕落させるとしてテクノロジーの多くも拒絶した。
そしてただ大地や太陽を敬い日々の質素な恵に感謝して生きる生活を守り続けた。
また一方いつわりの王に完全に取り込まれ、支配されてきた民もある。
彼らは貨幣で様々なものを買うばかりか、支払いを将来に先延ばししてまでものを買いあさり快楽をむさぼった。
僕らはどちらだろうか?
それは僕らが何を本当に大切に思っているか自問すればわかるだろう。
あらゆる命の根源や、太陽や大地や水、共に連帯する人々や、自分の真のビジョンだろうか
あるいは
貨幣や、地位や名誉、気晴らしの娯楽や、刹那的な快楽だろうか?
今僕らが愛しているそのものは、果たして実在だろうか? 虚構だろうか?
命とつながることか?内側へと収縮することか?
おそらく誰でも虚構と実在、どちらの世界にも共に生きているに違いない。
ただ虚構世界では、虚構の方が実在に見えてしまいやすいのだ・・・。
空が晴れるときが恐ろしいかどうか、それは生活や意識においてどれだけ実在世界とつながっているかにかかっているように思う。
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