意味づけの崩落と変容

 
 「嘔吐」と神秘感覚


 サルトルの小説「嘔吐」で、マロニエの根っこを見た主人公ロカンタンがその裸の実存の不気味さを感じる場面がある。他の筋はほとんど覚えちゃいないが・・・。

 確か中沢新一の「チベットのモーツァルト」でも、チベット僧の指導の下湯呑み(確か湯のみだったような)を見ているとそれが手の中でなんだかわからないものになっていくというエピソードがあった。

 こういったことは日常でもあって、例えば漢字の書き取りとかで同じ漢字を「猿 猿 猿 猿 猿」とか書き連ねているとこの漢字の形が意味不明なものに変容していく。

 つまり極度に集中すると、日常的な意味と言うものは分解して霧散してしまうのだ。
 人が孤独を恐れる理由のひとつはそこにあるように思う。
 日常的な意味、というのは自分自身のみで保持しているわけではなく、他者と共同で同じルールに従うことによりそれが確かなものであるといういわば共同幻想を生み出している。

 現代の特徴は孤立することはできても、孤独にはなれないということだ。

 ひとりになっても情報はあふれているし、それらのひとつひとつが世界はこうあるべきというものの見方を僕らに押し付けてくる。しかし、ある程度の孤独の空間に入ると、集合意識の束縛をほんの少し振り切ったように、そして意味づけを保持してくれる他者の力が奪われたことにより世界は未知の姿を垣間見せることがある。

 ドラッグでもそれは起こる。
 見慣れた世界が見知らぬものに、時空間と自己が意味不明なものに変化していく感覚はかなり気持ちが悪い。
 そこに「未知への恐怖」が生まれる。「今」の気持ち悪さというやつか。
 しかしひとたびそれに触れれば、すべての意味づけは仮のものであるということが感覚的に理解できる。
 恐怖はまだ途中であることを教えてくれる。
 「今」が気持ち悪いというよりも、「今」が姿を見せるプロセスにおいて既知の世界が脱落していくのが気持ち悪いのかもしれない。
 それを手放し、委ねることができればその先には別の世界がある。

 以前、通常の意味づけが部分的に崩壊していた時、とうもろこしの粒が「命」だということに気づいた。それは人が理解できない未知のエネルギーが凝縮したものだった。しかもそれはカップラーメンに入っている、乾燥したしわしわしたちっこい粒だった。にも関わらずそれは「命」だったのだ。その時の意識の開け方では、そこに恐怖はなかった。神秘があった。


 「私」の分解と死

 これは「私」に関しても言える。
 僕らは普通、自分を個的自己と同一化している。
 こういう名前があって、こういう過去があって、こういうことが好きで、こういう仕事をしているという自己だ。それらの集積が普通僕らが「私」と呼ぶものだ。
 だがこれを仮に「個的アイデンティティー」と呼ぶならば、「普遍的アイデンティティー」とでも呼ぶべき私がいる。例えば「人間」としての私だ。

 この30億年余りの進化ののちに誕生した、60億の二足歩行の生物の一人としての「私」である。
 その「私」が見る、ということと個的アイデンティテイーを持つ「私」が見るのでは同じ見るでも意味が違う。
 しかし明らかにその「私」は存在し、個的「私」の背後に潜在している。

 クリシュナムルティが「私」ではなく「全人類の脳」が今を見ていると言い、地球を見た宇宙飛行士が地球上の全生命を代表して「私」が地球を見ていると感じたその「普遍的私」だ。

 以下は宇宙飛行士の1969年の3月3日アポロ9号の乗組員として初めて宇宙に出た、ラッセル・シュワイカートの体験だ。カメラが故障したため、5分間その場で待つようにと言われたシュワイカートは宇宙空間の中でただ一人になった。

 「突然することがなくなった私は、ゆっくりとまわりを見渡しました。私の真下には真っ青な美しい地球が拡がっています。ちょうどアメリカの西海岸の上を飛んでいたのですが、その風景は信じられないほど美しいものでした。そして、完全な静寂。視界をさえぎるものは一切なく、無重力のため、宇宙服の感触すらなく、自分はまるで素っ裸でたったひとり宇宙に浮いているような感じでした。その時、突然、私の中にこんな想いが湧き上がってきたのです。

 『どうしてわたしはここにいるのだろう・・・・・

  ・・・どうしてこんなことが起こっているんだ・・・

 私は一体誰だ。。。。。。


 そうだ 

 ここにいるのは私ではなく、我々なんだ。


 これはまるで奇蹟じゃないか。

 私は、いや、我々は、今まさに地球に育まれた命が、地球の子宮から生まれ出ようとする

 その一瞬に立ち会っているんだ



地球K~1


 こんな確信が一瞬にして生まれたのです。考えたのではなく、一瞬に流れ込んできたのです。
 私と言う存在が、眼下に広がる地球のすべての生命と深くつながっている、というだけでなく、地球そのものとも深くつながってるんだ、ということが頭ではなく心で理解できたのです。こんなに深い連帯感は、今まで一度も味わったことはありませんでした。このときから私の世界観は大きく変わりました。もちろん、この体験の前と後でも同じ人間ではあるのですが、世界に対するものの見方が大きく変わりました。人間にとって、世界観の大きな変化と言うのは、えてして、何もすることがなくなったそんな時に生まれるものです。だから私はよく冗談に言うんですが、デイブ宇宙飛行士が私に『五分間だけなにもせず、ジッとしていろ』と、言った時、私は宇宙で最初の失業者になった。でも、心をきれいにするためには、失業するのも悪くないな、なんていつも言ってるんですよ」




 世界観の変化は何もすることがなくなったときに生まれる、という言葉がある。
 個的自己は自分を役割(多くは人間関係や仕事上の)と同一化している。
 特にアポロのミッションなどという大きな責任が伴う仕事をしてるとき、役割としての自己を忘れるというのは大変だと思うのだが、やはり地球が一望できるというロケーションにいるという事実がそれを引き起こしたのだろう。

 通常時には現代文明の集合意識は、僕たちが「個的アイデンティティー」であることを前提としており、また全体としてはその見方を強化する情報を多く発信していると言っていいだろう。自分を証明する無数のIDが存在する。これはAさんとBさんが全く違うということを前提としている。履歴書には、こまかくどんな学校をでたのか、どんな仕事をしてきたのかを詳しく書き込む。便宜上のこととは言え、このようなことがさも重要であるように認められているのならそれらと自分を同一化してしまうのは当然だ。

 僕らは、人間であり、生命であり、宇宙自体のシステムの部分であり、神の心なのだがその「私」はなかなか注意を払われない。

 人間という鋳型から僕らは生まれる。
 そしてその鋳型は「女」の形をしている。
 すべての男児は女性体から発生するからだ。
 男は母から生まれるのみならず、自分自身の肉体が女性からメタモルフォーゼするのである。
 だからすべての人間のテンプレートは、実は女神である。
 男性性が暴走したといわれるこの西洋型文明をバランスさせるために女性性の復権が唱えられる理由はそこにもありそうだ。それはつまりそのテンプレ的「女」のうちで人類はひとつであるからかもしれない。

 ではこういった普遍的自己への目覚めはどのように起こるのか?
 それはひとつはやはり個的自己の希薄化、部分的死だろう。
 自分が全体から分離した個的自己でしかないという思い込みがある限り、やはり普遍者は目覚めはしないと思うからだ。

 ブエブロインディアンの長老の言葉をまとめた「今日は死ぬのにもってこいの日」に次のような言葉がある。



 若いとき、わたしは何も知らなかった
 背はすごく高かったが、中身は育っていなかった
 そこである日わたしは山へ行った
 すこしだけ死んでみようと思ったのだ
 これは部族の者が、浄めのためにやるやり方だった
 わたしの口は開き
 わたしの叫びは風の上に落ちて、すぐに吹き払われてしまった
 目は何ものも見なかった
 すると、太陽はわたしの無知に目隠しをした
 わたしの耳は沈黙を聞くばかり
 すると、川はわたしを歌の中に溺れさせた
 わたしの手は空気を押しとどめた
 すると、火はわたしを燃やしつくした
 とうとうわたしは無になってしまった
 ある日目を覚ました
 真実を言いなさい、と風が言った
 そこでわたしは言った、怖くてたまりませんと
 そのわけが知りたければこれを見なさい、と太陽が言った
 そしてわたしは、村が変貌してゆく様を見た
 音楽を聞きなさい、と川が言った
 そしてわたしは、わたしの部族の者が笑っているのを聞いた
 暖かみを感じなさい、と火が言った
 そこでわたしは子供たちを抱えた
 自分が真に誰だかを知りなさい、と精霊が言った
 そこでわたしは、わたしは人間です、と言った



 僕はこの言葉に心惹かれていたが、最後になぜ彼が「人間です」というのか今ひとつぴんとこなかった。
 しかし最近もしかしたら彼の意識が個的自己から普遍者である「人間」へとシフトしたからかもしれないと思い至った。川の歌の中で溺れさせられ、火に焼き尽くされて、彼の個的自己は少し死んだ。そしてそれは「浄め」だったのだ。個的自己が死ぬことが「きよめ」と言われることが興味深い。彼の個的自己が死ぬことにより、世界に怯えつつも団欒に心をなごませ、子供を抱くという普遍的人間のエッセンスに触れたのではないかと思える。

 ここにも古い意味づけの崩落が、新たな、そしてより全体的な意味の変容を起こすという構造が見える。


 価値ベクトルの拡散が起こる


 先日、宇宙の99パーセントを無視して築かれた価値世界が西洋型文明であるという記事を書いた。
 本の中でネイティブアメリカンの人たちは、西洋人をデラシネ(根無し草)とみなす。
 彼らはルーツを失っている、ほっときゃ自滅するさ、というのだ。
 ルーツとは大地であり、水であり、太陽や月、神だ。
 自らを生かすものとの接触を絶つ文明には崩壊しかありえないと彼らの古き知恵は考えているのだ。
 そしてこの言葉は西洋人だけではなく、残念ながら現代の僕ら日本人にも当てはまると言わざるを得ない。

 もしも西洋型文明が暴走した男性性によるものであるとみなすなら、そびえる摩天楼は黒きリンガム(男根)である。その中で商取引がおこなわれ、金の流れが世界を動かす。99パーセントの価値世界がこの黒きリンガムによってレイプされているという状態が、今だ。

 現代の特徴をもうひとつあげるとすれば、それは価値の、意味の、中央集権構造だと言える。
 ひとつのカリスマや、ブランドや、巨大な娯楽ゲームに無数の人間の意識が集中する。
 そこに黒いリンガムがいくつもいくつも生まれるわけだ。 

 だがこの黒いシバリンガが急速に崩落していっているのも、やはり今ではないかと思う。

 すると何が起こるかというと、それらを支えていたエネルギーが解放され、僕らの価値意識はより普遍的なものへと帰っていくと思う。一点に集中していたエネルギーが、足元の大地へ、頭上の空と太陽と星星へ、大気に満ち渡る命へ、自分自身へと帰っていく。もしそうなれば新たな時代が始まるに違いない。

 だがすべてが崩落する時にはその「恐怖」を利用して新たなリンガムを、価値のヒエラルキーが構築される可能性もまたある。それがよく陰謀論者が語るNWO(ニューワールドオーダー)であり、これはまんざら絵空事でもないかもしれない。

 僕らにはいくつか選択肢があるだろう。


 ●沈みゆく船と共に沈むのか(価値の中央集権を基礎とした古きシステム)

 ●新たなガレー船の奴隷となるのか(新しいとみせかけて、今なお中央集権的な管理型世界)

 ●それぞれの手漕ぎボートで、助け合うのか(それぞれの個、それぞれの地域、土地、水、自然に価値ベクトルが回帰した状態)
 
 これらすべてが混合した形で、ことが起こっていくのだろう。




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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/15 06:38
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