なにもない事の価値

 芝居の中には、かならず「間」が存在する。

 セリフとセリフの間の沈黙、殺気立ったひやっとするような間もあるし、あたたかな間もある。言葉にならない沈黙を埋めるのはその場の雰囲気のクオリティであり見ている者の想像力だ。

 一方、現代のある方向性は「間」と「沈黙」を消去しようとしているように思える。
 
 キラキラした照明や、大音量で空間を満たす音楽、そしてひっきりなしに流れるニュースと情報は一体何なのか?おそらく原因はふたつあり、「沈黙」は金にならない(真逆のことわざもあるけど)、ということと現代の人は人間の通常の性質を越えて「沈黙」を恐れているということにある。そして「沈黙」を恐れることは、死や喪失、そして何もないということの恐れを抑圧していることとつながっているのだろう。

 なにか表層的な文化のみを見れば、僕にはいまあふれている多くのものに悲しみや、痛みの生々しさ、といったクオリティが存在していないように見える。そのかわりにどこかてらてらした、つくりものぽい印象のポジティブさやかわいらしさが糖衣のように覆っているが、その中身はものすごく空虚なあながあいてるようなそういうイメージだ。この「空虚さ」というのは、「沈黙」とはまた異なり「沈黙」を恐れ、へそを曲げているようなそういう心理から生まれているようにも思える。

 悲しみを描くこと、告白することはネガティブではない。
 それを覆い隠し、別のものに摩り替える方がどちらかといえばネガティブであるし、物事を正面からみすえずにそれを虚無化したり自他に対して破壊的になることがネガティブである。
 悲しみを受け入れ切れるなら、それをごまかす必要はないのだ。 

 もし文化やアートが、生を誠実に反映したものであろうとするならば、生と同時に死もその中に映しださなければならない。するとそこには必ず闇、沈黙、薄明、空白といった性質が伴うだろう。それは感情的には悲しさやさびしさとして感じられるかもしれない。だがそれが、バランスをももたらす。
 空白を描くために、線を引く、そういった思想はもう失われ、ただアーティストは自分の世界で必死に白紙や沈黙を埋めようとしているのだろうか。

 もうひとつの原因は、現代社会はスピンすることで活力を維持している3グナで言えばラジャス型文明(シャブ的文明)なので、沈黙や、停止、空白はその対極に位置する。僕らはスピンすることは正しく、止まることは間違っているとどこかで思ってるふしがある。本当に止まるなら、スピンをやめてその回転軸に近づくことができるのだがそれをしない。それを恐れていることと、集合的にその習慣が確立されていないからだ。 

 余暇、休息、癒しもスピンすることに費やされることが多い。
 休んだり、気分転換したりするのに本当はなにもいらない。ただ、スピンを「停止」して静かにしていればいい。「停止」することで新たなエネルギーが充填される。そして「停止」していることで知恵や、インスピレーションも生まれる。その中から本来は「動き」をするべきであり、スピンエネルギーのままに翻弄されて動いていれば、混沌としていくばかりだ。

 しかしこのスピンが金をうむためには、何もないことよりも 何かがあるということを価値あることにせねばならない。だから、空白、闇、死、なにもないということについて、いつのまにかネガティブな意味づけがなされているのだろう。

 でも考えてみれば何もないことはとっても素晴らしいことだ。
 何もない空間があるから、僕らはここに存在できる。
 なんかでぎゅうぎゅうに詰まってたらとてもいられない。

 何もないスペースがなければ、そこには何も入らない。
 何もない場所があるからそこには何かとても素敵なものが入ってくるかもしれない。
 生まれるかもしれない。そのスペースを大事にして、騒音で埋め尽くさないようにすることが大事な気がする。
 スピンエネルギーの声は大きい。
 しかしスピンエネルギーとは別の小さな声で、何かが僕らにささやいている。
 静けさの中ではそれが聞こえる。
 

 p02.jpg
 
 昔、「君、森田童子の雰囲気だね」と言われたことがwあるけど、この人の歌限りなく物寂しいが落ち着く。なんか現代から決定的に欠落した要素がこの人の歌にはあるような気がする。

森田童子「たとえばぼくが死んだら」



森田童子「ぼくたちの失敗」



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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/10/24 15:42
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