虚無の微笑

 無明庵の新刊、「虚無の微笑」。
 面白い。
 同じ悟りを開いた人の中で、なぜ論争が起こるのか、なぜ語り口が異なるのかということについての大きな示唆になっている。
 この論理で行けば、
 小悟の境地で至福と共にある人、絶対の実在が真理だと認識した人は、絶対無や、死や、闇を語る人物を無知の中にいると考えても不思議ではない。
 もしや小悟にいる人は、大悟にいる人を正しく理解できない場合もあるのではないだろうか。

 最近ネットで読んだこの文章が思い出される。

  
 「菊池霊鷲師との対面」


 http://www.hept.net/jp/ryoju/19891129.htm

 『この時OSHOは霊鷲師に「あなたの光明を認め祝福する・・・、しかし光明を超え、無にいたるあと一歩があります。」といった内容のメッセージまで送っているのですが、OSHOはわざわざ自分のアシュラムに立ち寄ってくれた覚者に対して純粋にただ彼女を祝福さえすればいいのに、まだあと一歩(One more Step)があるといったようなちょっとした嫌味ともとれるようなコメントまで差し挟んだりしていて、今思うと、当時OSHOには彼女の尊さがよく理解できていなかったのではないかと思われるふしがあります。または彼女の尊さを理解していたがためにそういった嫌味ともとれるコメントが差し挟められてしまった可能性もありますが。

 元々OSHOは光明とは意識の量子的飛躍であり、段階をつけられるような出来事ではないと述べているので、その彼自身が比較や段階を超えた領域であるはずの光明のさらに次の地点(Step)についてコメントしているのは、そのコメント自体に無理があります。OSHOは彼の最晩年の講話の中でも“光明を超える”ということについて述べていますが、そこではあくまでも光明そのものを超えてしまうといったような不自然な発言などせず、ただ光明があまりにも自然な現象になっていて自分が光明を得ているということを忘れている状態のことであるとしか語っていないのです。

霊鷲師自身は後に「OSHOが本当に光明を得たのは彼の死の数ヶ月前のことだった」と述べています。・・・・
 また、光明を超えて無にいたるあと一歩についても「光明の先にあるのは無なんかじゃない、あるのは無限の実在だけだ」とはっきりと言い返しています。
これについては無明の真っ只中をさ迷っている私などがコメントをはさむ余地などないような気もしますが、別の筋からの情報「今存在しているものには始まりも終わりもなく、形は変えても永遠に存在し続けます。そしてそれは非存在になることはありません。というのは、非存在は決して存在しないであろうものですでにいっぱいだからです。・・・それが存在の無限的意味です。」というどこかの高次元の存在からのコメント、そのコメントと霊鷲師のコメントには共通性があるように思えます。しかしながら、光明の先に非存在にいたるということについては別の日本の覚者として知られるEOという方も彼の著書の中で図解まで入れて述べられているので、そのことが気になって霊鷲師に彼の本を見せてコメントしてもらったことがあります。そしてその時彼女からかえってきた言葉は次のようなものでした。
「人間、“わかった”と思った瞬間から、勘違いがはじまる。』

 もちろん、僕もこの筆者と同様無明のなかをふらふらしていに過ぎないので、なんとも言えないが、少なくとも小悟の経験がないがゆえに「なんとも言えない」と言えるような気もまたする。
 
 小悟の経験が圧倒的で、近くに信頼する大悟した師匠がいなければ、それは最終的な真理として語られるかもしれない。
 
 どちらにしても、僕らは、小悟にしろ大悟にしろ、「悟」に向かうしかない。

 が、「神は夢である」という大悟者の言葉を聴きながら、神に祈ろうとするのも妙な気分がする。




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未分類 | コメント(13) | トラックバック(0) | 2006/09/22 20:28
コメント
私もその本を手にしております、これから読むところです。
ダイジにしてもEOにしても、翻訳者という雑音が入らないのがなによりです。

それだけに、今翻訳中のバーナデッド・ロバーツの出来具合が気がかりなところです。

mixiの招待状、ありがとうございました。
不慣れなもので、やっと登録が終わったところです。
ザッハさん

メールのお返事遅くなりまして、失礼しました。

今後ともよろしくお願いします(^^

僕は参加してないのですが、mixiにはEOのコミュもありましたよ。
灰たかさん

また、えらく前のブログのコメントですいません。

ただ、このブログでの記事はずっと前から気になっていた内容でした。

ボクはOSHOさんを尊敬していて、今でも、osho 系瞑想を時々しています。

しかし、今日、リアルさんのブログから、トニーパーソンズというお方(よく知りませんが悟った人みたいです)の話の内容を読んでみて、もしか、菊地霊鷲 の方がosho より高い境地にいたのでは?

と、感じました。


Osho のサニヤシンではありませんが、ちと、ショックです。

10年前の自分なら、osho のいうこと絶対でしたから(笑)

しかし、だれがスーパーマスターか?なんて考えるのも、あんまり意味ないかなんて最近思うわけで、自分の助けになる教師なら
、それこそ、悟ってなくてもよろしいんではないでしょうか、と思う今日この頃です。
 子羊さん、おひさしぶりです♪

 >しかし、だれがスーパーマスターか?なんて考えるのも、あんまり意味ないかなんて最近思うわけで、自分の助けになる教師なら 、それこそ、悟ってなくてもよろしいんではないでしょうか、と思う今日この頃です。

 まさにそうだと思いますよ。スーパースターであったり有名な人である必要はないし、人である必要もないような気がします。

 和尚さんは僕も好きでよく読みました。あれだけ語れる人はもういないんでしょうね。和尚に自分がインスパイアされた部分だけ重要で、その彼がどのような境地だとか、どっちが上かとかは二次的な問題ではないでしょうか。サイババも確か、それが完全な詐欺師であっても、あなたが彼によって神を教えられたならば感謝すべきだとかなんかそのようなことを言ってますよね。

 僕らが受け取ったものに従って彼らを判定すればいいような気がします。
 気に入らないブッダに会えば、ブッダを殺せばいい
 でも殺そうとしてもこちらの心に浸透してくるブッダも居ますよね。
 それが僕らにとって殺せない本物ですね。

 この記事を書いたの忘れてました。この頃とは僕も考え方がかなり変わってます。結局、神に祈るってホント意味があるのかなーとかそういう気分で書いたのです。でも、今はこうは書けないです。空とか絶対無という境地もあるとは思うのですが、、、

 長いお返事になってしまいました^^;
 でもこの6年前の記事に2012年にコメントがつくのは感慨深いですね。
 ありがとうございます♪



太母さんいまでも
はいたかさん

はじめまして、太母さんのことが書かれてたので、ずいぶん時間が経ってますが、コメントしたくなりました。

私は太母さんの晩年に、足しげく通ってました。本名は控えさせていただきますが、お会いしているかもしれませんね。

組織を作らない太母さん、土地一寸で寺
という、鐘楼は要らない、りんがその代わり、仏像もなく蓮の掛け軸だけ。葬式をあげないお寺。

天網恢々、そにしてもらさず、って、みんなアミダサマの懐住まいってこと。アミダサマって無限の宇宙のこと。ほかにもいろいろお話を伺いました。

Oshoの著書も、感銘を受けました。世界中から人が集まるということはステキです。

太母さんは、弟子はとらない、そこにとどめず、行ってらっしゃいと見送る太母さん。さらさらとしている姿。質素な暮らしぶり。お茶目なところもありましたね。

いまでも太母さんのことを想うと、なぜか涙があふれてきます。
>底流様

 こんにちは!10年も前の記事にコメントいただきありがとうございます。

 太母さんという方にはお会いしたくとはなくて、ネット上の和尚とのやりとりを書いたこの文章が非常に興味深く、引用しつつ記事にしたものだと思います。

 無か実在か、というような疑問を頭のなかでもてあそんでいたような 

 あの頃とは興味の志向性がややかわって、今では和尚、EOの本を読んだりすることもなくなりましたけど

 でも 

 底流様の描写される太母さん、とても素敵なお人柄であったことが伝わってきて、あたたかい気持ちになれました。ありがとうございます!

 実際にお会いされた方だからこそ、何かが伝わってくるのでしょうね。  

 言葉の上での形而上的な問答よりも

 そういうものが一番大事だと思います^^



いまは
早速の返信ありがとうございます。

太母さんからは、とうもろこし、スイカの食べ方、水風呂のはいりかた、いろいろ教わりました(笑)

普段の暮らしぶりに成る程と感心することばかりでした。

知人のサイキックのかたを何人か、太母さんのお宅にご案内しましたが、皆さん会うだけで話もしないのに涙がとまらない風でした。あるかたが言うには、世の中の人達は皆透けて見えるので不安だったけど、太母さんははっきりと姿が見えると。

太母さんの声明は、聴くだけで、身体がスーッと軽くなりました。これはほんとに特別な感じでした。

私は、いま、ロルフィングなど身体のことに関心があります。ロルフィングを通して、相手が自分にかえるというか、自分の身体の感覚にささやかなおどろきと、なんとも言えない喜びの様子になります。その様子を見るのが好きです、と同時に私も気づきをいただいてます。
声明
追伸です

私が太母さんにお会いしたいと思ったのは、声明の録音を聞いたのがきっかけです。

カセットテープしかありませんが、伽陀は、オススメです。生にはかないませんが、素晴らしいバイブレーションです。

生で聴くと、細胞、毛孔から、全身を染み渡るような感じです。どんなお坊さん、声楽家でも、あのような感じにはならないかと。では。
Re: いまは
>底流様

 こんばんは!お顔を確認したくなったので太母さんの画像検索から始まり、ユーチューブの「太母さんを囲んで」という動画を少しみさせていただきました。ご立派な雰囲気と時々こぼれる笑顔が素晴らしいですね。一方で太母さんが警告した世界に入ってしまっているようで、複雑な気分になりました。

 >太母さんからは、とうもろこし、スイカの食べ方、水風呂のはいりかた、いろいろ教わりました(笑)

 すごいですね~まさに『母』ですね。そのような日常の生活の中で太母さんと触れ合うことで、多くの方が大事なことをつかみとってゆかれたのでしょうか。

 >私は、いま、ロルフィングなど身体のことに関心があります。ロルフィングを通して、相手が自分にかえるというか、自分の身体の感覚にささやかなおどろきと、なんとも言えない喜びの様子になります。

 僕もこのところ、からだに対しての気づきを持つ時間が増えてきました。
 ロルフィングを施術されているなら、是非いつか体験させていただきたいです。
 以前から少し興味を持っておりました^^


日常のこと
とうもろこしの食べ方、まぁ好きなように食べればいいんですけど(笑)

まず縦に一列か二列、丁寧に取って食べます。あとは、親指の外側を使って、まとめて数粒ずつ、空いた列に沿って、崩すようにとります。

とうもろこしの胚芽を残さず、無駄にせず、しかも簡単に食べれます。

図示できないけど、分かっていただけますか♪

ロルフィングは、人によって施術に違いがあります。ソフトなタッチ、しっかり圧をかける、様々です。

私はソフトなほうが合ってます。もし関西にお住いであれば、試しで(^o^)
スイカ
スイカのほうですが、

まず普通に扇形に切ります。
さらに外側の白いところと、緑の皮との間に包丁を入れて切ります。どのくらい白いところを残すかはお好みで。

いよいよ食べるわけですが、普通とは逆で
、白いところを上に、赤いところを下にして持ちます。そして白いところから食べます。

都会だと生ゴミを減らすことが出来るかと、それとスイカの汁があんまり溢れないんですよ、面白い🎵

白いところは漬物にして食べる地方もあるそうです。参考にどうぞ。
Re: 日常のこと
>底流様


 こんばんは♪あいにく現在は東京なのですが、実家が京都です。いつか帰省した折にでもぜひよろしくお願いいたしま~す^^

 とうもろこしと、スイカの食べ方楽しそうですね。

 子供の頃にスイカが大好きで、白いところまでガリガリかじって食べてたことを思い出しました。
 白いところから食べるのはユニークですね、初耳。

 今度買ったら真似してやってみます。

 動画を少し見た主観的印象ですが、太母さんの余計なものを全く持たない生き方とか、自然の生命力のとらえかたとかってちょっとネイティブアメリカン的だなと思いました。人類の危機について国連で演説したというホピ族の長老のことなどが思い出されました。

 そして時々でてくる富山弁?がとってもチャーミングでしたe-69
 

身無一物、福寿無尽蔵
太母さんを囲んで、この時のテーマでした。言葉の意味は、太母さんのお嬢さんの「静流の部屋」をご覧いただいたほうが良さそうですね。

太母さんは、「難行の行と易行の行とは、同じ字を書くけれども、二つの行は全く別な、異質のものである。難行の行は、行じ難きを敢えて行うのであるが、易行の行は、行うのではなく、行(ゆ)くのである」と語られたそうです。

これは、太母さんのお兄様が書かれた「鳴り渡る法蔵」という冊子に出てきます。
なんとなくですが、そういうことなんだと納得します。

ご実家、京都ですか、御会いできるかも♪

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