3・11以降~目覚めの始まり~①

 以下は東日本大震災の後、ブログにアップした文章だ。 





 3月11日は、前日が泊まりの仕事だったので、いつもの夜勤明けと似たような時間を過ごした。
 前日眠る時に「聖杯に血が注がれる」というイメージがよぎり、変わったイメージなので「聖杯に血が注がれる」と忘れないように呟いておいた。聖杯は処刑されたイエスの血を受けたとされる杯だ。朝は爽やかだった。利用者の人との心理的な垣根が一瞬消えて、同じフィールドに溶け込んでいる感じがした。8時に上がり、国立のエクセルシオールでコーヒーを飲んだ。そのあと吉祥寺に行って一人カラオケ1時間した。お昼ごろには三鷹の自宅に帰り、ビールを飲みながらLost season2のエピソード1と2を続けて見た。見終わり少しぼーっとしようとこたつに横になりタバコを吸っていた。珍しく読んでいた長編小説、貴志祐介の「新世界より」をぱらぱらめくりつつ・・・

 すると部屋が揺れ始めた。地震が多かったので、いつものやつですぐにおさまると思った。しかし、揺れはどんどん激しくなっていった。そして周りのものが落ちたり、倒れたりし始めた。その激しい揺れの中で、思考は『これがそうだ これがそうだ これがそうだ ついに来た』というようなところをループし、身体は麻痺していた。危ないから外に出よう、そう判断し動き出したのはもしかしたら揺れの峠を越えたあとかもしれない。木造アパートの二階の部屋から飛び出して、階段を駆け下り、外に飛び出すと、砂利敷きの駐車場に座り込んだ。座っていても地面がまだうねっている。右手にはまだタバコを持っていた。家から出てきた人がたくさんいる。揺れの感じから、多分東京直下型の地震ではないと思った。でも震源がどこであれ、かなりの被害がでてるに違いない。

 部屋に戻りネットで見ると、福島沖震度7の文字。
 しかしまだまだ大きく部屋は揺れている。気持ち悪いので、また外に出て、近所の公園に向かうことにした。
 相方が新宿で友達と食事し、その後高円寺の岩盤浴に行くと言っていたので気になり大丈夫かとメールする。
 酔いと、眠気は完全に飛んでいる。
 携帯のワンセグでニュースを見ながら公園に行った。

 公園では子供たちが遊んでいた。地震に怯えている様子もない。子供たちの様子をみていると、少し気持ちが落ち着いてきた。しかし、そこから少し離れたところでは女性が二人、北に向かって泣きそうな顔で手をあわせ必死に祈っている姿があった。東北に身内がいる人なのだろうか。また向こうの広場にリュックを背負った人たちが十数人集まってるのが見えた。家から避難してきたようだ。しかし一方グラウンドで野球をしている子供たち、そしてふざけあい笑いながら自転車で下校する中学生たちの姿もあった。

 東京でも建物が倒壊し、死傷者がでているようだというニュースが携帯から聞こえる。
 かなり巨大な地震であることは間違いない。
 この規模だと京都の実家に無事であることを報告しておいた方がいいと思い当たるが、予想通り携帯はまったくつながらない。コンビニの前の公衆電話なら大丈夫だろうと考え、小銭を入れて電話する。手短に無事であることを伝える。京都では揺れは感じなかったようだ。え?なんのこと?という感じだった。

 相方からメールが来ないので少し気になる。
 新宿の被害情報はないので大丈夫だとは思うが。メールが込み会っているのだろうか。
 mixiならメッセージが送れるのではないかとログインする。すると、地震発生後30分以内に相方もログインしている。ということはまあ大丈夫だろうと安心する。
 JRは今日は運転しないらしい。ということは彼女は帰れなくなるので、早めにタクシーでも拾ってこっち(
僕は三鷹在住)に向かった方がいいのではないかとmixiからメッセージしてみる。 

 返事が来たのは夜の7時ごろだった。
 mixiはチェックしてなかったらしい。僕の携帯にメールしても一切返事がないので、心配になり阿佐ヶ谷から三鷹へ歩き始めているということだった。だいたい四駅くらいある。僕も吉祥寺まで迎えに行くことにする。異常に冷たく、寒い風が吹きつけている。吉祥寺駅前は、バスを待つ人で長蛇の列が出来ている。

 駅から少し離れた場所で落ち合い、三鷹に向かった。
 相方は阿佐ヶ谷の駅で、電車を降りてすぐ地震に遭遇したようだ。
 エスカレーターを降りているときに揺れが始まり、一緒に居た女性が腰砕けになってその場にしゃがみこんでしまったので介抱するのが大変だったようだ。頭の上では鉄骨の梁がぐわんぐわん揺れていたという。歩き疲れているが意外と元気そうでよかった。

 家に帰りワンセグやネット見続ける。
 I都知事がテレビで『震源が段々下に下がってきてる』とかシャレにならない事を言ってる。
 この地震は普通じゃないという想いが強く突き上げてきて、眠れない。
 震源が三箇所にもわかれ東京を囲んでいるようだ。
 誰も予想しない異様な地殻変動の可能性を危惧する

 普段会わない四国の知人などから、安否確認のメールが来る。
 こちらも首都圏に住む知人にメール送る。
 翌日はI先生やスタッフのMさんらが無事かメールで尋ねて見る。
 I先生、花粉症に被爆し地震どころではないみたいな様子・・とのこと。I先生が深刻になってるとは考えにくかったがその返事を読みやはり・・・と思いちょっとなごむ。
 公園で遊んでた子供たち思い出し、大丈夫だということにフォーカスするということがこの先重要になってくるような気がした。
 
 


 9ヶ月たっても読み返すと、その時の揺れや雰囲気を思い出して鼓動が早くなってしまう。
 東京、震度5弱の揺れでもあれ程怖かったのだから福島や宮城でもっと強い揺れを経験し、また津波や原発事故の被害にあった人のリアリティは想像にあまりあるものがある。

 もう激動の2011年も二週間と少しになった。 
 太古の昔から蓄積されたエネルギーは東日本を激震させ、未だに揺さぶり続けている。
 今年が終わる前に、もう一度あの時自分が体験したことや、あのイベントが自分に及ぼしたエフェクトをあらためて振り返り、書いておきたいと思った。それは首都圏の何千万の人も同じように体験したもので、珍しいエピソードではないと思うが僕固有のものももしかしたら何かあるかもしれない。

 思うに変化の兆しは2月に、数年ぶりのX級フレアが太陽で発生し、ニュージーランドで大きな地震が起こった頃からはっきりとし始めていたのかもしれない。2月はすでに何か尋常ではないエネルギーが動き始めていた。3月に入ってフレアがさらに頻発すると、僕は日常生活の中でのテンパり方がひどくなり、眠りがひどく浅くなり、早朝に目が覚めるようになった。この眠りの浅い傾向は今でも続いている。何かが起こるかもしれない、そう思っていたが、まさか日本であのようなことが起こり、自分もその一端を経験することになろうとは全く予想していなかった。予想していなかった・・・のだが、揺れがピークに達してる時に覚めてる頭の片隅で感じていた「これがそうだ」という一種のデジャブ感のようなものはなんだったのだろう。僕はどこかでそれを経験することを知っていたのだろうか。

 2月、X級フレアの直後に夢を見た。
 突然ものすごい雨が降りしきり、窓の外を水浸しにして、どんどん水位が上昇していく。それはまったく止めようのない勢いだ。そして遠くの空に目を向けるとそこは黄色くかすみ、ごごごごご、と何かが彼方で始まっているようなのだ。僕はあまりに突然に訪れた激変と終末に呆気にとられて何も出来ずにいた。
 カタストロフィックな夢はたまに見るので、それが予兆であったかはわからない。しかし、あのあまりに突然に訪れた日常の崩壊という感覚は、直接津波被害などに会った人たちが感じた感覚に少し似ているかもしれない。

 この大地震が他と違うのは、その桁違いの規模もあるが、原発災害という長期にわたって継続するクライシスもセットになっている点である。そして同じく、新たな大地震の可能性を残していったということだ。そのような要素が、3・11が「何か」の「始まり」として語られるゆえんである。
 3・11は継続している。僕らは今も3・11という時空の中で生きているのだ。それ以前の時は二度と戻ることはない。3・11以降何が始まったのか?

 その日の夕方、家に帰れなくなった彼女と、吉祥寺で会った時彼女は「おはよう」と言った。
 多分僕と同じく相当パニクっていていい間違えたんだと思うが、僕はその「おはよう」が今でも意味深で忘れられない。
 地震のあと最初に交わした言葉が「おはよう」だったからだ。
 もしかするとこれは、尋常ではないウェイクアップコールなのだろうか。
 そうだとすれば3・11以降始まったのは「目覚めの時」と言えるかも知れない。


 3・11の特質はその継続性と、予測不能(想定外)性だ。
 僕は数日後に早くもその持続性に気づかされた。それはもちろん福島第一原発の3号機が、どう見ても核爆発のようなきのこ雲を吹き上げているのをニュースで見た時だ。終わってない、危機は続いている、しかもこれがどれだけ深刻な状態に発展するか誰もわからないんだ、という足元が抜けるような感覚、底なし沼に飲まれていくような感覚を感じた。あんな感覚をリアルで実感したのは初めてだった。東北崩壊?首都消滅?日本崩壊?誰にもわからない。テレビの向こうのカタストロフィーがじわじわと自分の生活に近づいてきていた。

  3月14日の日記

 震災四日目。朝起きてセブンに行く。2リットルの水、お茶はない。
 サミット、JRの運休で店員が足りていないのと買いだめする客の多さで、レジに長蛇の列。やはりここにもカップめん、水などまったくなし。

 福島原発三号機で爆発。
 格納容器は安全と言うが、1号機の爆発よりも大きく素人目にもきのこ雲のようなものが立ち上るのが見える。本当に大丈夫なのか?

 副○隆彦氏のサイト、原子力資料室のUストリーム会見を聞いているとどうも不安になる。



 食料については一時的なものだと思った。
 まったく食べ物がないわけじゃないし、多分すぐに供給が追いついてくるだろう。
 しかし原発爆発、これはまったく未知のことだ。
 政府の発表はまったく信頼できない、どころか僕はなぜかあのE官房長官が喋ってるのをきくとどうもイライラして仕方なかった。
 ここはネットで情報を収集するしかないと、信頼できそうな情報源を見ると、政府発表よりも相当深刻で出来たら西に逃げてくださいと勧めていた。

 僕はとりあえず、高田馬場で働いている彼女に、今日は家に帰らないで僕の家に来て、とメールした。
 彼女の家は葛飾区なので、あまり東京の中でも原発に近い場所にはいて欲しくなかったのだ。
 そしてもしこれ以上の爆発などが起きて、それに新たな地震が重なれば自宅退避命令や交通規制などがされて容易に移動できなくなるかもしれない。と、そこまで考えた。そしたら簡単に会えなくなってしまう。
 彼女はあまりことの深刻さが伝わっていないようだったが、一応リクエストどおりにしてくれて、三鷹の駅で落ち合った。

 三鷹のメインストリートはまるでゴーストタウンのようだった。
 というのは「食料不足のため」などという張り紙をして、松屋などの牛丼チェーンや、東急ストアなどの巨大スーパーがまだ7時前なのにしまっているのだ。しかも「節電」で、駅も、商店も薄暗い。僕は、なんだかもうこれはずっとこのままで東京は人が住めなくなるのではないかという気味悪さを感じた。開いていた中華の食堂で軽く夕食をとったあと、家に戻ると、今度は富士宮市震源の震度6の地震(東京は4程度か?)でみていたワンセグのニュースから警報が流れ、僕と彼女は反射的に外に飛び出した。

 この時点で僕は相当疲れてきていた。
 地震からずっと食欲もないし、睡眠も浅い。住んでる木造アパートはちょっとした地震でも大きく揺れる。
 そのたび心臓バクバク
 そしてうそ臭い公式発表の裏で進行しているであろう、メルトダウン。
 東京にいるということは危険すぎるように思えた。

 僕「京都に行こう。明日オレ、介護の仕事あるからあさっての新幹線で」

 彼女「えー無理だよー」

 僕「交通費とか全部出すから。弱ってる俺の付き添いで行くって思って、ね、明日予約しておいてよ。」

 あまりクライシスの実感のない彼女をかなり強引に説得して、仕事も休んでもらい一緒に京都に一時避難することにした。





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3・11以降 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/12 17:29
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