3・11以降~目覚めの始まり~②

 次の日3月16日、僕はいつものように朝の9時に職場へ向かった。
 僕は障害者在宅介護のヘルパーをしている。
 担当しているAさんは、脳性麻痺で四肢があまり動かず24時間介護を受けている。
 しかし電動車椅子に乗っていろいろなイベントに参加したり、写真を撮りに行ったりと結構積極的にいろいろ活動している。アニメが好きで、よく一緒に見ることもあった。いつも昨日はこんな面白いことがあったと、ネタを話してくれるおもろい人だ。たまにケーキとか甘いものをご馳走してくれる。朝の9時から夜の9時までの仕事はなかなかきついが、それでもAさんの介護をし始めて学んだことも多い。今までやってきた電話オペレータや、データ入力などの仕事とはまた違ったよろこびと、もちろん大変さもある仕事だ。

 Aさんは特に先週の地震で、困ったこともないようだったが(外にいたためあまり揺れ自体強烈に体験しなかった)知り合いのやはり電動車椅子のマンションの5階に住む女性はエレベータが止まってしまい、100キロ以上ある電動車椅子をみんなに担いでもらってやっと帰宅できたという。

 その日はまあいつもどおりに仕事をしつつも、付けはなしたテレビから流れてくる原発の様子が気になって仕方がなかった。なんかヘリで上から水をかけて冷やすとか、果たして効果があるのかないのかわからないことをやっており、それも上空の線量が高くて引き換えしたとか言っている。

 Aさんが「面白い動画がyou tubeにあった」と言ってこの「うんちとおならで例える原発解説」を見せてくれた。






 Aさんは楽しそうに笑っているが僕はちょっといらいらしてきた。い・いやーこんな動画見てる場合じゃないですよ。おならじゃなくて中身漏れますよ、と言いたかった。しかし・・・

 その日の夕方頃だろうか、突発的に行われた無計画停電により、介護中にすべての電気が消えた。もう6時を過ぎていて電気が消えると真っ暗だ。どうやらAさんも地域の停電を把握してなかったようだ。そして困ったことにAさんの家は暖房はエアコンのみなので電気が落ちると部屋の温度がどんどん下がっていく。3月のこの時期に部屋の中でも暖房なしは無理だ。Aさんの指示で懐中電灯を見つけ、寒くならないように厚着してもらう。とりあえず部屋の温度を下げないようにキッチンのガスコンロをつけておくことにした。そろそろ食事の時間だが、ごはんやお肉などは冷凍のものをレンジで解凍して使うため、電気が来てないと普通の調理も出来ない。うーん、どうしよ。テレビもパソコンも消えていて、静かだ。部屋の中は懐中電灯と、Aさんの車椅子に取り付けられてるライトの明かりしかない。

 「こんだけ暗いと怖い話しくらいしかできないですね」という言葉が思わず口をついて出る。もちろん冗談で言ったつもりだがAさんは

 「やるぅ?怖い話し」となんかマジで乗り気だ。
 まあ、この状況自体が充分怖い話しだが。

 くだらないことを言いながらもなんか戦時中の灯火管制下の国民になったような気がしてきた。
 いつもあったものがこんなに簡単になくなるものなのか・・・。
 夕食はどうしようかと相談していると、ノックの音。
 懐中電灯片手にドアを開けると、ヤマト運輸の配達の人が立っている。
 ものすごくグッドなタイミングで利用者のAさんのお母さんからダンボールにいっぱいのカップラーメンが届いたのだった。これならガスでお湯沸かすだけで食べられる。僕もひとつご相伴にあずかれることになった。
 僕がねぎを刻んだり調理をする時、Aさんがライトで後ろから照らしてくれていた。

 出来上がったラーメンを食事介助しているとき、頭まで防寒の毛布をかぶってラーメンをすするAさんを見ていると、結局このような時、力のない人、社会的弱者にすべてしわ寄せがいくのだと実感した。そしてまたなんて一瞬ですべてが消えていくのだろうと思った。これは本当に元に戻るのだろうか?これから常にこのような困難がつきまとう時代になるのではないだろうか。部屋の中で白い息を吐いてるとそう思えてくる。

 「震災が終わったら、みんなでラーメンパーティーでもしようか~?」とAさん。

 「そうですね」と相槌を打つが、その時の僕はこれが「終わる」とはどうも思えなかった。そうではなく何かが「始まった」のだと。代わりのヘルパーと交代の時間が来て帰るとき、翌日京都に行ってるはずの僕は良心の呵責を感じた。Aさんは珍しく玄関の方まで僕を送ってくれた。

 翌日、木曜日。3月17日。
 この日も別の仕事であったが、避難するため休ませて欲しいと伝えて欠勤した。
 荷物をまとめて、中央線に乗り東京駅へ向かう。
 電車内のニュースでは在日米人に100キロ圏外への避難勧告が出たとか、首相が「最悪の場合東日本は住めなくなる」と言ったとかどうみても状況は良くなってるようには見えない。
 中央線の中では、二人そろってマスクをして大きな荷物を持った、あきらかに僕と同じ危機意識を共有してるような男女もいた。しかしなぜこのような時に、普通に社会が回っているのか、そのことの方が僕は不思議だった。緊急的な業務以外はすべて自宅待機などにしてもいいのではないか。

 相方と落ち合う前に、僕はミクシーに日記を書いた。「東京から離れられる人はなるべく離れた方がいいです!」と。しかしなぜかすぐに削除した。それは正直自分でも自信がなく、ただ獣的皮膚感覚が「ヤバイ・・・ヤバイ」と訴えていると同時に、ただ不安にやられているだけのようにも思えたからだった。

 ホームで新幹線を待ってるとき、僕はチケットをホームに落とした。それはふわっと風に舞い線路に落ちるかと思えた。僕は「だああああっ!!(≧皿≦メ)」と飛びそうになるチケットを足で踏んづけた、のを見て相方が苦笑した。
 新幹線が東京駅を離れると、正直ホッと一息ついた。これで少なくともしつこく続く余震からはしばらく離れることが出来る・・・。原発の情報を調べ続けなくて済む・・・・。
 
 新幹線で3時間。京都に着いたとき雪が舞っていた。
 駅の近くでは東京ではその時みかけなかった街頭募金活動を地元の高校生たちがすでにおこなっていて驚いた。
 寒い中で立って寄付を募っている姿を見ると、正直逃げることしか出来なかった自分がかなりくやしくなった。
 と同時に京都の雰囲気はまったく違った。一言で言えば、平和だった。
 ここでは3・11のあの停電や食品不足、地震のリアリティがないのだ。でもだからこそ募金のような活動が早くも行われているのだろう。

 実家の事情で家に泊まることは出来ないので、予約していた京都駅前のホテルに相方とチェックインした。
 少しくつろいだ後、父の携帯に電話をかけた。
 諸事情により、実家には母と弟1が、父はアパートで一人暮らし、そして弟2もアパートで一人暮らしと僕の家族は京都に点在している。電話に出た父は、ちょうど弟が部屋に来てるという。弟はそんなに頻繁に父の部屋に来るわけではないのにそのタイミングに驚き、二人に会いにいくことにした。この時期いろんなタイミングが結構かみ合っているということが頻繁にあった。それは、3・11の日、たまたま葛飾区在住の相方が高円寺に来ていて電車が止まったので歩いてうちまで(三鷹)来たということもそうだった。おかげで一人で余震多発の一夜を耐えしのばなくてよかった。大変なときだがこう言ったこちらが助かるシンクロもあったのだ。

 久しぶりに再開した父と弟二人と、原発の話など。
 今ではチェルノブイリと並ぶか越える可能性もあるというLV7となったフクイチだがこの頃は『スリーマイル島の事故よりはたいしたことないんやろ?』的な会話が交わされた。僕も正直実情は報道よりはかなりヤバイと思っていたが(だから疎開してきた)、積極的にここがヤバイというポイントも説明が思い浮かばなかったので、あえて異論は発しなかった。

 結構敏感なところがある弟が、「地震の前一週間くらいあまり寝れなかった」と僕と同じようなことを言っていた。アパートのすぐ近くの薬局で通り魔的な殺人事件も起こったという。極めつけは弟が「師匠」と言ってる超人M氏からの情報だった。

 震災の四日ほど前、超人M氏から弟に「そろそろヤバイぞ」 とだけ書かれたメールがとどいた。
 「なにがヤバイんですか?」と電話して尋ねてみると、建物が広範囲にぺちゃんこになっててあたりが水浸しになってるというイメージが数日前から消えないのだという。それから四日後が3・11だったわけだが、まだ「たてものぺちゃんこ」が消えてないから備えておけと超人は言ってるという。(3月17日頃の時点で、今はそれがどうなったかは知らない。ぺちゃんこビジョンが消えてるといい)僕はそれをきいいてかなり怖くなった。なんだかこの地震はその直後からふたつかみっつでワンセットになってるような、次の一撃を予感させるような話が多いが、この情報もそうだった。
 翌日、京都駅からあるいて数十分の東寺へ行った。
 東寺にもすでに義捐金の募金箱がおいてあった。
 巨大な観音像の前で手を合わせると、なんだか不思議にリアルにこのような仏像に彼岸の救いを求めた人たちの気持ちがわかるような気がした。


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3・11以降 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/12 21:18
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