3・11以降~目覚めの始まり~⑤

 「今ある自分の状態をそのまま受け入れることも出来ないけど、なにをすればいいのかわからないようなところがあります」

 と、僕は6月終わりの修道会でI先生に相談した。すると、

 「それは・・・よくあるスランプだね。そして根本的にはマーヤがあるっていうことだ」とI先生。

 そして一人リトリートを勧められた。
 これは基本一日中なにもしないで、テレビもパソコンも本も見ず、マーヤ解きやお祈りだけをすることだ。
 それをやれば退屈で気分が落ちてくるだろうけど、落ちた分その後バキバキになったり、また思考を煮詰まらせることで思わぬ答えが思いついたりすることがあるという。
 一人リトを勧められたのは、初めてではなく、2年ほど前に初めて勧められた。
 その時から情報をカットするということの重要性が徐々にわかり始め、去年テレビを思い切って捨てたのもその影響による。

 「で、どれくらいやればいんでしょうか?」

 「そうだね~一週間くらいか(●´∀`●)」

 「げっΣ(; ゚Д゚)」

 「じゃあとりあえず3日くらいやってみたらいいんじゃん?それで調子良かったらもっと続けても良いし~調子悪くても続けてもいいし~まあ、やってみることだね」

 「わ・わかりましたやってみます」

 「どうみんな、今の話聞いて僕も、私もやってみようと思った人どれくらいいる?」

 すると、手を上げたのが十数人中僕を含め3人くらいだったので、先生は「なんだよーまったく」と面白そうに笑っていた。

                一人リトリートレシピ(自己流)


 ☆ノートPCは回線外して目に付かないところへしまいこむ

 ☆携帯は電源オフにしてこれも目に付かないところへしまいこむ 

 ☆瞑想するでもなく何もせずひたすら座り続ける 重要そうな考えは書き留める 今のマーヤを考える

 →真に独立したスペース、自由な気分、映し世を忘れること

 世間に生きつつ、家では山にこもった仙人のように生きる


            6月30日

 先週末から先生のアドバイスに従い一日半ほど一人リトリート
 なかなかよい感じであった
 昨夜仕事終了後も、しまってあるPCは出さずに
 お酒の飲みながらサボテン見たりしてた(笑)

 <これからやろうと思ってるスタイル>

 とにかくなるべく家にいるときはPCもしまったりして、hermit状態を続けたい。

 でもまあ外出る時はゆるく、何でもありで~

 何ちゃって隠者モード起動!

 しまちゃうおじさん降臨して、PC、ケータイしまっちゃいました、とかブログに書いたけど、実はしまわれてるの俺だったりして・・・と思った。



 7月の最初、次にI先生に会った時あのようなことが起こるとは、僕はまったく予想もしていなかった。
 ただその日はとても暑い日だったので若干イライラはしていたかもしれない。
 突然、僕はその場にいて先生の話を聴いているのがイヤになったのだ。
 そのまま黙って荷物を持って座を立ち、会場を出て行く自分をもう一人の自分が見ていた。
 その時格別先生がひどいことを言ったとかそういうわけではない。ただある一言が、僕の中のこの場に執着していた部分を恐るべき力でゲンナリとさせ、もう充分だ。ここにいることはない、と思わせた。

 暑さでいくらか思考回路が変になってた部分はあるかもしれない。
 しかし、飛び出して初めて、「そうか、自分は、ここを出て自由になりたかったんだ」ということに気づいた。何か偉い人の周りに輪になって座って話しを聞くような雰囲気は、僕は本質的に好きではないのだ。 
 神様、どうでも好きなようにするがいいですよ
 これで僕がアウトになさるなら好きにすればいいですよ
 これが間違った選択だとしても、別にどうなってもかまわない、僕は出て行きたいんだ。と自転車を飛ばしながら思った。I先生に聞くまでもない。僕が出て行きたいんだから。

 そうして走りながら初めて、僕はI先生のことをブログに書いたりして、すごい人と知り合えた自分に酔っていた、I先生に自分の未来を預けようとしていた。I先生のところにさえいれば何があっても大丈夫なような気がしていた。それが、神を信じること?違うだろ。別にそういった依存対象を持たずに、普通に生きてる人がたくさんいる。そういう人のほうが僕よりもずっと強いじゃないか。なのになぜ僕はそういった普通の人をどこか上から目線で見て、自分だけが、神から祝福されてるようにさえ勘違いしていたのか。
 相方にもI先生のコピーのような話しをうんざりするまで聞かせて、神の教えを広げてるつもりでいた。

 僕もずいぶん、アホだった。  

 なぜだろう?
 なぜ先生は、僕をこのようにしたのだろう。
 僕のブログで人が来ると僕が書いた記事をほめて、僕の役割は書くことだと言った。
 僕が仕事が見つからずに悩んでいる時、そのうち村をつくるのが目標だからM君もそこに住めばいいじゃないと言った。「俺はM君のことは気に入ってるから」と言ってくれた。 
 そう、もしかすると、I先生はすべて僕の「潜在的な期待」通りに振舞ってくれたのではないのか。
 そうすると、どうなるかということ、それを教えてくれたのではないか。
 I先生は愛の人だった。それは確かだ。あんな風に話せる人はいない。
 子供のようで、賢者のような、年老いた、深い器を持つold soul でも海外ドラマ大好き。
 時に大丈夫?と思うほどハイテンション。
 言葉、振る舞い、雰囲気からいやおうなしに先生がどういう世界を生きているかは伝わってくる。
 7年もの間、僕はそれを見てきた。
 もう二度と僕は、他の誰をも、おそらくI先生のようには師匠だと思うことはない。
 そのことによって、僕の外に求めるこころ、依存心を一切切断してくれたのだろうか。

 それとももしかして僕は とんでもなく間違っているのか? 

 先生から逃げ出すのはエゴや、マーヤの抵抗なのか?
 と同時に「みこころ」なのか
 わからん わからん、わからん(;′△`)

 翌朝夢うつつの中、こんな言葉が浮かんだ。

 『どのような人も 原理も求める必要はない

 ネットサーフをやめて、
 むずかしく悩むのをやめて、
 音楽を聴いたり、弾いたり
 英語を聴いたり
 好きな小説を読む時間をとる。

 これはリハビリだ。自分へと戻るための・・・。
 7月4日


 厳密に言うと存在するのは至高の宇宙プログラムのみだ
 宇宙は知性的であり 人間を変容させる
 神、仏、宗教原理のすべてはこの宇宙プログラムの用いる方便である
 よって人間は自分にとっての「知」、「至高」によって動かされる宇宙プログラムの役者たちである
 あらゆる指導者は宇宙プログラムにだまされつつ奉仕しているのだ
 しかし、宇宙プログラムにだまされることを恐れてはならない
 宇宙プログラムは、我々を愛しているからだ
                                                                 

 I先生はもしかすると自分自身へと戻る道を
 示してくれたのかもしれない
 TVもPCもない部屋
 間接照明の空間と、キースジャレットの音楽(どちらも先生に教えてもらったものだ)
 なんならバッハもモーツアルトもかけることができる
 サボテンとポトスの鉢(これも先生に勧められたものだ)
 居心地の良い内省的空間
 これらのなかから生まれるべきビジョンや思索があるとすれば、
 その土台を与えてくれたことになる
 これが僕自身が求めていた空間
 「豊かな孤独」かもしれない
                  
                                    7月17日

 8月になってまた一週間ほど続く風を引いて、熱が出た。
 I先生のところへ行かなくなっても、何かは継続していた。
 それは学びと、気付きの連鎖だった。
 いや、先生のところへ行かなくなった分だけ、僕は自分のこころに耳を澄ますようになった。
 毎朝、静かに座って今日の状態や、自分のこころを見つめるようになった。
 そうして座っていると、自分にとって必要な答えがやってくるように思えた。
 それをつまらないと思えることでも、なるべくこまめにノートに書き付けておくことにした。
 

 人間は誰かを崇め奉るのが好きだ
 救世主(メシヤ)が好きだ
 外側の何かが自分を救ってくれると思っている
 その認識において、メシヤと風邪薬は紙一重も違わない
 人間は既にあらゆる存在によって生きている
 そしてあらゆる存在を生かしている
 すべては飯屋
 僕は飯屋
 それ以外の事実に飯屋を求めるなかれ
                          
                                 8月16日

 ○外側から入ってくるニュース・ネットの情報に一切期待しない。
  (自分の内発的、主体的行動、感性のみを期待する)


 ○朝の時間など、何もない時 それを読むと「あるストーリー」が起動する「情報体」ではなく
  音楽など意味内容のない「波動体」を摂取する。


 
 彼自身のビーイングや、根源精神の質と
 自我の成熟度は一致しないことがある
 しかしビーイングの質の高さや、「縁」が合致すると
 彼は彼自身意図せずして、人を変容させたり学びを与える。

 人が人にエフェクトする要素は、ビーイングの質と縁、
 そしてもちろん受け取る側の受容性、オープン度による
 受け取る側の質によって、あらゆる存在・事象から学びことは可能だ
 よってすべては すべてのグルとなり得る

 実際に自分のビーイングが、誰に、何を、教えているのか
 意識している場合の方が稀なのである
 彼が、意味があると思い誰かに語る言葉の全ては
 ビーイングが教えているものとまったく違うかもしれない

                                
                                 9月8日
 
 9月は、なにか新しいエネルギーが入ってきているような感覚を感じたが、10月になると原因不明の落ち込みの波が何度もやってきた。

 ●すべては自分の問題である
  すべては自分である


 (ひふみ神示)の御魂磨きは、それをもとにしている。(己のこころの戦、終わっておらんであろうが
                                 10月6日


 また一人リトリートを何度か実行してみるが、今度の落ち込みはしつこく、ちょっと調子がよくなったらまた落とされるということを繰り返した。こうなったら

 私は今のわたしの体験を100パーセント愛し、受け入れます
 愛しています 感謝します
 

 とでも祈り続けるよりない。

 10月20日  

 うーん、まあ悪くない感じだろうか

 月曜ちょっとウツ度高かったので、火曜は夕方までほぼ座りっぱなし
 
 自分が止まっていると、回転する現象のセンターにいる感じ。

 

 10月24日

 ものすごい嫌な感じの女に夢の中で出会い、気分が悪くなるが、目が覚めて結局自分のこころが生み出していたものであることに気づく。現実もこんなもんで、イヤだと思うことに勝手にこころのエネルギーを注いでいるのかもしれない

 10月28日は、人類の意識進化としてマヤ暦を解読したコルマンインデックスの最終日だった。
 この前日ちょっと不思議な夢を見た。
 夢に感動したので夜中にノートに書いたがほとんど意味不明だ

 
 
 阪神淡路大震災
 オウムテロ事件
 やがてすべてを繰り返し時は
 あの流れへとたどり着く
 100年前の多摩川(?)のあの青き流れへと
 人智を超えた巨大な回帰する流れ
 すべては巨大で透明な流れの中に
 すべては戻ってくる
 もっとも美しく 無垢な
 君の思い出へと
 


 10月27日

 朝方、不思議な青き流れの夢。
 自分が透明な巨大な流れの中の小さな存在になったような・・・この流れはいとしきものへと回帰する。



 このオウム事件や阪神淡路・・というのは僕が十代の頃衝撃を受けた大事件、大災害だけどこれが夢の中でどういう文脈で出てきたかというと、こころを暗闇で被うような事件事故も、この「透明な流れ」というものを消すことは出来ないということだ。そして人はなくしてしまったと思い込んでいる、もっとも無垢なものへと必ず帰っていく、回帰していく、その大きな流れの中に誰も含まれているというようなことだった。それはパワーのある夢で半日ほど夢の中のエモーションが力を持っていた。
 人は大人になると、無垢でなくなるというが、実は無垢なものとは失い得ないものかもしれない。
 
 コルマンインデックスの終了
 人間は新たな目覚めのステージへと移行するのか!?


 そして、僕は・・・



 ・・・、また風邪引いて寝込んだ(´-ω-`)
 


      



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3・11以降 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/23 22:34
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