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2012revolution 量子的創造者の目覚め


それはいつかの真夜中だったかもしれない。
 ふと目覚めて、枕元のデジタル時計を見るとその時刻は

 3:33AM

 一瞬とても奇妙な気分に襲われるが、すぐに眠気が戻ってきて
 僕はまた顔を枕に沈める。

 確かに、不思議な偶然だった。
 たまたま真夜中に目が覚めて、たまたま時計を見る、その時が
 
 3:33分だった。
 ただの偶然?それとも何かそこに暗号めいた意味があるのか?
 だが一体どんな暗号だというのだろう。3のゾロ目。
 特に意味などないかもしれない。それが2でも、4でも(これはちょっと怖い)、5でも、
 きっと僕は不思議に思ったはず。
 ということは、その目的は僕に何かの規則性を、秩序を感じさせるためにあったのか? 

 あるいは、本当にただの偶然で、真夜中に起きて時計を見た、無数の同じ状況のうち
 たまたまそれがゾロ目だった時だけが、その奇妙なインパクトから記憶に残っている
 というだけなのか。

 しかし、その数字を見た瞬間に思う、「これは偶然ではない」というあの秩序感は何なのか?
 だが偶然ではないとしてもこんなゾロ目にいったいどんな意味があるというのだろうか。
 不思議な話として話すネタとしても貧弱すぎる。
 やはりただの偶然か、

 しかし、奇妙なシンクロの夜はまた忘れた頃にやって来る。
 ふと起きて時計を見ると、、、
 
 3:33AM

 これは偶然ではない、と僕はまた思う。


 時計は誰も見ていない時でも、時間を刻み続けている。
 しかしあの「誰も人がいない森で木が倒れた、その音を誰も聞かなかった時、それは存在したと言えるのか」
 という問いと同じように、人は時間とは客観的なものと思っているが、もしかすると時間とは僕がそれを
 意識的に見た時にだけそこに存在するのかもしれない。
 
 ゾロ目の数字はいたずら心たっぷりにそれを教えてくれているようにも思うのだ。
 つまり僕が、あるデタラメな時に時計を見て、偶然ゾロ目だったのではなく、

 僕が3:33分に時計を見るという現実が、宇宙によって創造された、と考えると納得がいく。
 つまりこんなことだ。
 僕が生涯に時計を見る回数はそれこそ何万、何十万、とあるはずだが、それらは非常に詳細に「設定」されているということだ。
 僕の人生のプログラマー、あるいは宇宙は、その時に何時何分を僕が観測するかをも「あちら側で」入力する。
 それを見て僕は、早く家を出ないと遅刻するとか、まだゆっくりできるとか、そろそろ映画が始まりそうだとか、
 ああ、あと1時間で仕事が終わる、とか思う。このように時計の役割は概ね実用的なものである。

 しかしプログラマーは時々横着をする。あーもうこの入力飽きた!!もうこの夜中に起きた場合は全部3:33AMでいいや!
 カチャカチャカチャ!はい、OK・・・なんてこと。
 
・・・いや、多分プログラマーはそこまで横着ではないだろう。そのゾロ目入力には理由があるのだ。
 なにかわからないが、それはもしかすると「入力者に気づけよ」という目印かもしれない。
 『これは決して偶然ではなく「君が起きて時計を見るとゾロ目だという瞬間」を私がクリエイトしてるんだよ』、と云う・・・。  
 
 このプログラミングは少しづつ、僕らの潜在意識を教育しているのである、『この現実を創造するある力が存在する』という
 真理を。リアリティを創造する力のことを。サインはいつもかすかでなければならない。
 そうしないと、きっとゲームが終わってしまうからだ。 
 「真実はそれ自身を隠蔽する」とフィリップ・K・ディックも言っている。
 そのことにより、ゲームが成り立っている。
 さて、このゲームはいつまで続くのか?
 
 もっとも革命的な変化とは、世界や自己認識自体の変革である。
 それは2012年、いわゆるアセンションについても同様だ。
 ただの異常気象の連続や、金融市場の崩壊、地震と放射能だけではつまらない。
 仮に空がUFOで覆い尽くされたとしても、この現実自体が変容することには及ばないだろう。
 『この現実を創造する力』が何か?
 そのことを知り抜くことが、もっともラディカルな革命だと思う。
 言い換えるとそれは、僕ら自身の意識の正体を知る、ということでもある。

 人は昔から、自分自身は、世界の内部におり、その中で幾重にも制限された小さな存在であると考えてきた。
 自分の外には恐怖の対象がたくさんあり、『力』はいつも外部にあった。

 野獣や、天変地異として、剣や、戦や、王冠や、法衣として、博士号として、酒やドラッグとして、地位や名誉、
 宝石や、うつくしい服として、政府として、ローマカトリック教会として、モスクとして、暴力として、原子爆弾として
 、アドルフ・ヒトラーとして、多国籍大企業として、バラク・オバマとして、警察として、両親として、教師として、教祖として、
 霊能者や、占い師として、東京大学として、ロックスターとして、ハリウッド俳優として、「理想の恋人」、「理想の庇護者」、
 外部に投影されたアニマもしくはアニムスとして。

 そしてその外部に投影された『力』に幻惑されて、人はそれらに激しく憧れ、得られなければ傷つき、時には
 それら、外部の『力』の被害者であるという幻想にとらわれてきた。
 だが外側の『力』を責めること、責任を糾弾することは、自分自身の『力』から分離するという結果を生んだ。
 なぜならもともと真の『力』とは、真の自己のうちにしかないからである。
 僕らが外側に見る『力』は、僕らが自分からずれた結果、幻像に与えてしまったものにほかならない。
 これは自分からのずれが、アルコールやタバコなどの強度の依存を引き起こすメカニズムと同じである。
 人間心理は自分からずれればずれるだけ、外側に力を投影するのだ。
 僕らは、鏡張りの部屋で、自分自身の鏡像に向かって吠え続け、疲れ果ててしまった犬のような状態にある。

 このかわいそうなパニック犬が救われるにはどうすればいいのか?
 ひとつは、その鏡に映った像が自分自身だと知ることだ。
 自分は、それが敵だと「思い込んだ」ために、戦う必要のない相手を威嚇するというエラーアクションをしていた
 ということに気づくことだろう。
 ひとつは、それが実体のない幻影であると知ることである。
 僕らの周りのものは、自分自身の鏡像であり、なおかつ幻影なのかもしれない。
 自分の現実の少なくとも一部は自分が創造していること、このことを自分に言い聞かせることは大いに役に立つ。
 自分の観念を、外側に投影するのを停止すれば余裕ができる。
 投影に使っていた『力』を収め、『力』を取り戻すことができる。
 これはつまり、鏡に吠えるのをやめることだ。

 この現実を創造するある力が存在する。
 それを人は昔から神的な存在を想像してきた。
 より正確に言うと、それは「意識」であるという。
 「意識」は外側の客観世界を受動的に映し出すような性質ではなく、宇宙自体をクリエイトする『力』を備えている。
 「意識」のないところに、客観的な宇宙などというものはおそらく存在しないのだ。
  僕にとっては、「意識」により設定された特定の回数しか「時間を見る」瞬間というのはないのだろう。
 それ以外の時間は僕にとっては存在しない。
 僕の意識は、この「意識」と接続され、この根源的意識の創造性によって量子的可能性の海より出現した世界を見ている。
 あらゆる可能性が潜在している、ゼロポイントと呼ばれるフィールドだ。 
 あらゆる神の無限の可能性の中の、ある具現化したひとつを、僕は神とともに経験している。それは奇跡に近い現実だ。

 僕らひとりひとりの意識が宇宙を創造するという驚くべき性質を持っていることを示唆する文章を、いくつかの本から引用したい。
 ひとつはサイババと謁見した人のエピソードだ。
 
 ヒントその①コリン・ウィルソン著「エイリアンの夜明け」より



 ロバーツはサイババに、UFOやほかの惑星上の生命について質問した。
 サイババはそれにこたえて、目を閉じてみなさいと言った。
 言われた通りにすると、サイババの親指が額に押し付けられるのを感じた。

 すぐさま脳裏に、身震いするほど美しい光景が広がった。自ら光を発する渦状の球、その中の宝石世界が次から次へと見えた。
 私はその全てに同時に存在し、無数の世界のそれぞれ独特の芳香、感触、音、風景をすべてはっきりと認識していた。私は
 あらゆる世界のすべての住人であり、同時にその誰一人として私ではなかった。夢と同じく万物は私から発し、しかも私とは
 無関係に存在して、はかなくも欠くべからざる呼気吸気のように私の内外を流れ巡っている。さらにそこに真の果てはなく、
 純粋に歓びで形づくられたかに思える無限の生命に不可能は存在しない。この宇宙の存在は文字通り永遠であり、無限の世界に
 終わりはなく・・・

 サイババは二人に言った。「外宇宙、そして内宇宙。内宇宙こそ唯一無二、真の宇宙なのだ

 UFOは我々の精神内部から来ているのか、とロバーツは聞いた。

 「マインドではない、ハートだ。ハートとは神の精神、そうだろう?宇宙人は心から来るのだ。神の心から。目を閉じ、
 鼻、口、耳を塞ぎなさい。世界はあるかな?匂いも手触りもなく、目も見えず、耳も聞こえない。そうだね?
 世界は消えてしまった。それでもあなたは消えていない。どうかなおふた方、まこと万物はあなたによってあるのだ。 ところが今あなたは、この宇宙の壮観をつくりたもうたのは神だと考えておいでだ。」


 「万物はあなたによってある」というサイババの言葉は、どこか奇妙にコペンハーゲン解釈による宇宙観のように聞こえる
 天文学者のデヴィッド・ダーリングの意見はこうだ。

 「それは有力な補強証拠になる。・・何が現実かを確定する上で、意識は決定的な役割を果たしているのだ。われわれの五感に届いた時点では、どんな情報もせいぜいが実体のない混沌としたエネルギーでしかない。視覚、聴覚などどれをとってもわれわれが物理的世界にむけて投影する情報ほど首尾一貫した状態ではない。われわれが知っている宇宙は、完全に脳の中で構築され、体験されているのであり、精神によって構築されるまで、現実は舞台の袖で待っていなくてはならないのだ。


 ヒントその② ロバート・シャインフェルド著「ザ・マネーゲーム」から脱出する法 より

  我々は皆、自分のまわりにあるものは、すべて自分の意見や選択に関係なく、すでに存在しているものだと考える習性がある。 そのような考えは捨て去るべきだ。
  そして、我々のまわりにある椅子やテーブル、部屋、カーペット、さらに時間さえも、物質的な世界は、すべて意識の働きに過ぎないのだということに気づかなくてはならない。我々はその働きの中から、時おり実際の経験を選び出し実現させているのだということに。 根本的に変えるべきなのはその考え方だけだ。 しかし、自分たちの経験は独立してすでに存在しているのだという考えに縛られている我々にとってその変化はあまりにも大きく、あまりにも難しいものだ。
 けれどもその考えは間違っていいる。量子物理学がはっきりと証明している。量子物理学の先駆者のひとりハイゼンベルク自身が「原子は物質ではなく、傾向に過ぎない」と言っているのだ。
 我々は物質について考える代わりに、可能性について考えるべきだ。すべては意識の可能性なのだから。

 (中略)バーバラ・デューイはこう書いています。

  原因と結果の法則は、意識には逆向きに働く。我々は結果より「前」に原因を考える。まず、卵子と精子があり、それから細胞分裂によって胎児ができて、といった具合だ。卵子と精子がすべての原因となって、その結果として赤ん坊が生まれると考える。しかし、意識の側からしてみれば、人間という発想が、すべてのプロセスの原因となっている。プロセスの中間は、人間を創ろうという偶然の思いつきの結果である。言い換えれば、意識が原因と結果を逆にする。意識にとって、原因は最終的な結果である。その原因の結果が、物質の始まりなのだ


 (灰たか)↑は僕の例で言うと、3:33分に僕が時計を見たのは偶然の結果ではなく、3:33分に僕が時計を見るというテンプレがあったから僕がその時に起きたことになる。3:33分が原因だったのだ。

 ヒントその③ クラリオン星人コンタクティが体験した アセンション「量子転換」のすべて より

 カヴァーロ:物質とは幻想に過ぎない。それは単に僕たちの思考が結晶化したものなんだ。僕たちは本物だと信じ込むようになったモノしか見ていない。
 
 人間が真実の世界に面した窓辺に立ち、本物の現実を新しい視点から眺めることができれば、人はようやく、自分たちが住まうユニバースの本質を理解するだろう。そして、この真実の認識が人間にもたらす作用は二つしかない。正気を失う、あるいは進化を遂げる。このいずれかだよ。

 カヴァーロ:ユニバースというものを全く違う観点から捉えなければいけないよ。物理的ユニバース、すなわち、僕たちがユニバースの実体だと信じ込んでいるユニバースっていうのは、本物のユニバースとはずいぶん違うんだよ。

 その真のユニバースは、形而上学的と形容できるだろうね。現実の世界、本物の世界ではユニバースとは振動なん(バイブレーション)なんだよ。それは無数の「時の紐」であり、エネルギー波でもあるんだけど、僕たちの周りにあるすべてのものでもあるんだ。

 木々や川、山脈は、エネルギー波に過ぎない。僕たちの精神がそうしたものを具現化しているんだ。エネルギーを結晶化して形作り、それを積み重ねているだけなんだよ。

 僕たちはね、自らのアイデンティティーを自覚するために形状というものを生み出していく必要があるんだよ。けど、こんなことをしていられるのも、残りあと僅かだよ。


 カヴァーロ:僕たちが知っているユニバース、僕たちが今まで知っていると信じ込んできたユニバースっていうのは、もうすぐ消滅するんだ。それに代わって現れる本物のユニバースは、僕たちの目にはまさに驚異的に映るはずだよ!僕たちの目の前に姿を現すユニバースの新しいイメージは、僕たちが今までユニバースに抱いていたイメージとはかなり違うはずだ。

 真のユニバースには、複数の次元レベルと世界が存在する。そして、生命は、至るところに宿っている。様々な形状の生命、想像を超えるような形態の生命、時には理解しがたいような形の生命だってある。けど、生命とはユニバースにおいてもっとも重要な現象なんだ。
 生命はどこにでも宿っていると言えるだろう。完全なる真空と思われているところにさえ、生命は見いだせるんだよ。



 (灰たか)↑によると、僕らは「意識」によって創造された物質世界に住んでいるが、この物質世界自体が幻想であり、もうすぐにその幻想を維持することができなくなるという。そして今まで認識してこなかった宇宙が現れる、と言っている。ということは、その瞬間、固化した現実を維持していたのは自分の意識であったと気づく時があるはずだ。僕はこれを量子的創造者の目覚めと考える。
 そして新しいユニバースの姿というのはどことなく、サイババが見せたビジョンに似てはいないだろうか。

 人間はクリエイターは遠く離れたところに存在すると考える。
 しかしそうではなく、クリエイターは、無限の可能性の海からあるひとつの現実を僕らの前に創造し続けるものであり、それは僕ら自身の意識に内在しているのではないだろうか。それは神であり、無限の僕たち自身ではないだろうか。量子的クリエイターは自分自身の可能性をあらゆる形で表し続けている。それが僕らの人生である。量子的クリエイターが体験する、僕自身、あらゆる世界、動植物、人類はすべて彼自身の無限の可能性の顕現である。量子的クリエイターは、僕自身も、動植物も、惑星も、すべてが自分自身であることを知り尽きせぬ喜びの中にいるのだ。

 3:33分に僕を起こしたのは、きっと無限の僕自身であったに違いない。

 無限の僕ら自身、そのすべてを創造する力と、人が分かち難くコネクトしていると知るとき、僕らは外なる「力」という幻影から自由になれる気がする。


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知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/01/10 21:33
コメント
金縛りに掛かったような、頭にモワッとしたものが掛かったような状態で意識に浮かんだビジョンが妙なかたちで実現してしまっていた頃に、この世が3Dの仮想空間のように思えました。ここに書かれている記事も、そういう変性意識状態を表現されているように思えます。
Re: タイトルなし
 アイビー様

 コメントありがとうございます。仮想現実空間であることは確かなのではないでしょうか。僕らの見ているものはほとんど光学的、意識的錯覚現象のようなものだと思います。自分自身含めて・・・。目を覚まして現実を生きてるのではなくそれぞれ夢を見てるんでしょうね。僕が興味があるのはその錯覚、イリュージョンの創造にそれを見ている僕の意識が関与しているということなんです。量子力学の観察者効果がこの次元でどのように働いているのか。僕の自我ではなく意識の内奥の何かがこれらを投写しているというか、その感覚を文章化してみました^^アイビー様がいうような変性意識では、その現実という夢に裂け目ができることにより、内界と外界が不思議な仕方でシンクロしたりするのでしょうね。


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