無限界②

 
 ◆知性の巻き込みと、リミッター

 前回の記事で、大人になるほど意識に限界が設定されていく傾向が強いと書いたけど、それは知性の発達度と、正比例の関係にあると思う。
 社会的存在として生きていくためには、マインドの知性化は不可欠だけど、両親のしつけや、学校の規則、システム、社会の常識などをインストールしていくうちに意識の可能性が、知性によって制限されていくという弊害がある。

 例えば、すべての子供が義務教育のプログラムに向いているとは僕はとうてい思えないのだが、一律に同じようなスタイルで行われる授業が日本中で行われている。そして、そこに適応できないとダメな子というレッテルを貼られる。だからまあ大抵の子供たちは、その中で「優れてあろう」とする。外側のある基準にOKとなるように自分を矯正すること、これがすでにひとつのリミッターとなる。

  さて、この知性による意識の制限ということで、その仕組みをものすごくわかりやすく説明している本を僕は昨年発見して、かなり目からうろこなすっきり感を感じた。それは「だれにでもできる気功健康法」というとてもシンプルなタイトルな本だ。気功の本だから、物質に近い「気」のレベルの話かと思いきや、メンタル体の働きを詳しく解説してる部分があり、その部分が秀逸だと思った。 

 まずこの本の著者によると、人間は神気と呼ばれる、創造的、知的エネルギーを頭頂部に常に
 無限に供給されている。人はこの「神気」を「巻き込む」ことにより、知的活動をおこなって
 いるが どれだけ神気を巻き込んでいるかによって、知性の性質が異なってくる


 著者によると、第一段階の巻き込みは『定義』である。
 次のプロセスが『比較』→『判断』→『批判』→『規定』と続く。
 各プロセスについての説明は、本文を引用したい。

 生まれたばかりの子供は「定義」程度の巻き込みさえできないので、食べられるものでも食べられないものでも、口に入れてみるし、火やカミソリといったものまでもつかもうとする。そして多くの痛い目にあうという経験や、両親の与える心地よい働きかけなどを通じて次第に知性を巻き込むことができるようになっていく。

 さらに経験を通して、知性のエネルギーをよりつよく巻き込めるようになっていく。「比較」の段階まで知性を巻き込めるようになると、様々なものをくらべることができるようになる。
 例えば「定義」程度の巻き込みしかできない時、目の前に食べられるものをいくつか置くと子供は手に取りやすいものから手を出す。しかし「比較」の段階になると、少々取りにくいものでも、好きなもの、あるいはより大きなものというようにはっきりとした指向性を示すようになってくる。

 そして「判断」の段階にまで巻き込みができるようになると、単なる比較だけではなく状況を判断し、その判断に基づいて行動できるようになる。
 たとえば、両親の反応を見ながら目の前の食べ物に手を出すかどうかを判断したり、他の子供たちの失敗を見て、それを参考にしたりするのである。この段階の知性の巻き込みに至って初めて善悪という観念が生まれる。
 つまり状況に応じてやっていいこと、悪いことを判断するのだ。この善悪は自分の行動に対する善悪であって、けっして他人に自分の善悪を押し付けるものではない。

 しかしさらに知性を巻き込んで「批判」の段階にまで至ると、今度は自分の判断にしたがって人の善悪を指摘し始めるし、次の「規定」にまで巻き込むと、自分の判断を人に押し付けようとし始めるのである。

 この「規定」というのは「~しなければならない」「~してはいけない」と他人の行動を規定するという意味なのだが、ここまで知性を巻き込むことができると、たとえばさまざまな遊びの中で他の子供たちに役割を分担させたり、より小さな子供が危険なことをしようとするとそれを止めたりするようになる。

 このように「定義」から「規定」に至る知性の巻き込みの一連の流れは、子供が様々な経験を通してひとつひとつ獲得してゆくプロセスである。そして子供にとっては、そのように知性のエネルギーを「規定」の段階にまで巻き込めるようになるというのは、その子供の発達にとって非常に大切なことなのだ。


 よく精神世界では、ジャッジや批判は「いけないこと」とされる。
 しかし上の文章を読めば、判断や批判は知性の発達と密接につながっていて、そこを通過することなしにはマインドが完成しないことがよくわかる。
 自分を棚に上げ批判ばかりすることはもちろん見苦しいが、一切批判や規定というものを意識的に避けているかのような喋り方や文章もどことなく不自然に思える時がある。それはもしかすると「批判」という行為への批判が大きなエネルギーとして存在する場合かもしれない。知性が本当に自由であれば、批判を行なうことを避けるのではなく、その機能をも他者を活かすために使えるはずなのだ。それは過去の多くの覚者の発言を見ればよくわかる。
 問題は批判や規定の機能が行き過ぎて暴走し、お互いを罵りあったり価値(イデオロギー)他者にを押し付けたりする場合だろう。

 そして、人の善悪を指摘する、『批判』。人に行動を押し付ける『規定』という知性の巻き込みが深い行為は、より大量の感情エネルギーをその中に巻き込む。巻き込みが浅いほど感情は付随しない。

 例えばここにヒトラーが立っているとしよう。『定義』段階では、「彼はアドルフ・ヒトラー」であるもしくは「偉そうなちょびひげのオヤジである」というだけだ。そこに一切の価値判断はない。

 しかし『比較』、『判断』を経ると『彼、アドルフは、どうも危険人物のようなので近づくのはやめよう』となる。ここまでは自分自身の行動を決める上でのことだ。知性の次の段階で、他者に知性の刃が向く。

 『批判』 ①『彼、アドルフは恐ろしい悪人だ』

      ②『彼、アドルフは、世界最大の殺人者だ。狂気の独裁者であり、極悪非道の怪物だ』



 『規定』 ①『彼、アドルフは許せない。裁きを受けるべきだ』→

      ②『彼、アドルフは、死を持ってその罪を償え!』→ 

      ③『彼、アドルフはその犯した罪を償うために、死んで地獄におちたあとも永遠に苦しむべきだ』→


  『批判』『規定』のそれぞれに対して、感情巻き込みの強さを段階別に加えた。数字が大きいほど感情エネルギーの巻き込みが強い。知性の刃は他者に向いているのだが、ここでその感情エネルギーは憎しみの対象ではなく実は自分自身にむいてしまうという構造がある。その内向きの激しい感情は知性の巻き込みの螺旋に同調して、ドリルのように自分自身の肉体を損なう。怒りや憎悪は諸刃の剣なのだ。

 そう考えると、イエスの言われた「汝裁くなかれ、汝が裁かれんためなり」というのが、ある意味納得できる。つまり病気のメカニズムから見ると、人を裁けば自分も誰か他の人から同じように裁かれるというのではなく「人を裁くところまで知性を巻き込んでしまえば、自動的に感情を巻き込んで病気の原因になってしまう」ということを示したものと考えられるからである。

 とすれば、人前で批判的な言葉を口にしたり、あからさまに態度にあらわすというのでなくても、知性の巻き込みがその段階にまで至り、そこに多量の感情が巻き込まれたのであれば、まったく同じメカニズムが働くこともわかるだろう。

 何もそんなに極端な例を考える必要もない。知性の巻き込みの「批判」程度であれば、様々な噂話に興じて「あの人がどうだ、この人がどうした」と言ってる人や、「嫁が言うことを聞いてくれない、子供が勉強しない」としょっちゅう愚痴をこぼしている人、はては雨が降ったら雨を恨み、風が吹いたら風を恨みしている人まで、小さいことを一つ一つあげていけば無限にこうした例を思い浮かべることができる。
 それに多量の感情エネルギーが注がれていれば、そういった知性エネルギーの使い方が、確実に感情エネルギーを巻き込み、病気の原因になっていくのである。

 そしてさらに「批判」の段階から「規定」になり、「あんなやつ死ねばいい」ということになってくると、より大きな感情エネルギーを巻き込んで死に至る病となってしまうだろう。まさしく「人を呪わば穴二つ」である。

 例えば、友人の保証人になったばかりに屋敷を売るはめになったとか、妻や夫の浮気を知ってしまった、誰かに何千万円もだましとられたとなると、人はその相手を恨み「死んでしまえばいい」と思っても不思議はない。いや、思うのが人情で、そう思わないのは逆におかしいとさえ考えてしまう。
 が、そのように思うことが多くの感情エネルギーを巻き込んで確実にガンをつくったり、様々な難病をつくりだしていくのだということがわかると、人情のままにそう思い、感情を移入していくことが当然なのかどうか疑わしくなる。
 もし、屋敷がなくなってしまった事実、妻や夫が浮気をしているという事実、騙された事実を、感情のエネルギーを巻き込まずに冷静に見つめ、ではどう対処するかということを考えていくという方向で知性を使えば、知性は「判断」を越えて巻き込むことがないため、決してそれが原因で病気になることはないのである。

 さきに見たように「定義」~「判断」は純粋に自分に向けられた知性の使い方で「批判」「規定」は他人に向けられた知性の使い方だった。
 困難な問題が起こった時、「自分はどうすればいいのか」はいくら考えても「判断」以上に巻き込むことはない。したがって感情のエネルギーも強く巻き込まれることはなく、病気になることもない。

 しかし、困難な問題を「誰々のせい」とか「誰さえいなかったら」と他人を想定して考え出したとき、人は同じ知性を「批判」や「規定」にまで巻き込み病気になっていく。
 つまり、様々なくるしいことや嫌なことというのは、その事実だけでは決して病気の原因になることはない。ただ、その事実を見る知性が強力に巻き込んで「判断」にとどまらず「批判」「規定」になり、感情のエネルギーが大量に入り込んだ時に病気は起こるのである。


 現在の原発事故にしても、自分で「判断」して、逃げるなら逃げる、あるいは食材に気をつける、反対運動が正しいと思うなら参加するということが重要で「東電シネ」的なコメントもこの大事故では仕方ないのかもしれないが、ただ憎悪を膨らませるというのは広い視点で見ると誤ったエネルギーの使い方を広げているように思う。すべて自分の問題なのだ。
  現実は自分が創造しているという考え方は、少なくとも知性の巻き込みを「判断」までに留めおいて過剰な巻き込みを防ぐという効果はあるように思う。被害者という立場で「他」を責めれば、責めるだけ、自分のパワーが失われ、自分が損なわれてしまうのだ。
 

 ◆神気を解放しよう!

 これらの巻き込みに使われているのが神気という、知性エネルギーだという。
 神気は通常日常生活を送る上での固定観念の維持に多く使われている。
 つまりその人特有の価値判断の世界を作り上げている素材は神気なのである。これが十分にある人の場合、その人の周囲にぱっぱっと輝く光として著者には見えるらしい。だが、流入する神気がすべて既存の巻き込みに使用されていると雰囲気中に輝く神気はあまり見えなくなる。そうすると自分を客観的に見たり、新しい発想をしたり、インスピレーションを受け取ったりするのが難しくなる。

 したがって、多くの「規定」つまり「~しなければならない」「~してはいけない」式の思考を行うものは多くの神気をその巻き込みに注ぐために、雰囲気中に輝く神気は少なく、逆にこころのなかから「批判」を取り除いたものでは、多くの神気が輝いているのである。

 ほんらい神気というのは、巻き込まれるために待機しているようなエネルギーである。したがって、これが多くあるということは、いつでも新たに知性の巻き込みを作ることができる。つまり、ひとつの物事を客観的に考え、さまざまな定義をし、比較をし、判断できる能力、すなわち臨機応変に考える力があるということだ。

 逆にこの神気が少ないということは、ひとつの物事に対してひとつの定義~判断をつくりあげてしまうと、それを客観的に見ることも別の定義をつくることもできない、すなわち機転のきかない思考しかできないということになる。
 結局神気がたくさんあるということは、刻刻変化していく状況に対して、いろいろと知性を巻き込んで考えることができる融通性を持っているということなのである。

           (中略)

 いったん神気=自由度をもった知性を雰囲気の中に開放した人は、だいたいふたつの道に分かれていく。
 ひとつはその自由度のある神気をいままでの巻き込みとは違うように巻き込んでいこうとうする方向で、いわゆる芸術家と呼ばれる人たちの歩む道である。これまでと同じ認識、同じ意味合いをこれまでと同じように巻き込んでいったのでは、芸術家は決して芸術家足り得ない。これまでとは違う色合い、これまでとは違う旋律、これまでとは違う言葉使いのなかに新しい価値観を持たせるというのが、芸術家の芸術家たるゆえんである。

 つまり自由度のある知性=神気をこれまでとは違うように巻き込んで、新たな創造を生み出していくあり方だ。その意味では新たなものを生み出そうとする発明家や新たな理論を生み出そうとする学者、新たな価値を生み出そうとする企業家もこの中にふくめることができる。

    (中略)

 したがって、芸術家には古いものを客観的に眺めるだけの神気に加えて、新しい価値観や意味合いを、人にインパクトを与えられるだけ強く巻き込むのに十分な量の神気が必要とされるのである。
 これまで知らず知らずに神気を注ぎ込んできた巻き込みを崩して神気を解放したり、それに神気を注がないように、意識の中からそのことを除いてしまうという方向こそが芸術家の取る道となる。
 じつはこのあたりの事情が、芸術家が社会人としてちょっと変わった存在になってしまう真の理由で、彼らが金銭感覚に弱かったり、社交性に欠けていたり、まともな家庭を築けなかったりするのは、なにも奇をてらってそのように行動しているのではなく、彼らが神気を確保するために、既存の巻き込みに神気を注がないという「意識」の使い方をしているからなのである。

 神気が輝き始めた人がたどる、もうひとつの道がある。
 それが気功的な道なのであるが、何も気功だけに限られるものではなく、すべての本当の意味での宗教、精神世界が共通して提示する道でもある。気功はもともとその思想的背景に道教や仏教、あるいは儒教を持っていることを考えれば当然のことである。

 その道とは、神気のエネルギーを知性の巻き込みに使わず、俗にいう真理の探求に使ったり、これまで自分の中でつくりあげていった知性の巻き込みを開いていって、その中に使われた神気を解放したりしようとする道である。
 さきに言ったように、神気が輝き始めると自分を客観的に見始めるといったが、もともと神気には写真フィルムの感光粒子に相当する作用があって、様々なものをそれに映し出そうとする性質がある。もし感光粒子が少なければ鮮明な画像は得られないのに対し、十分な量の感光粒子があれば画像が鮮明になるだけでなく、肉眼では通常観察できない細かなところも映し出すだろう。
 そしてインスピレーションといわれるものも、実はこの神気に写ってくるものだ。したがって真理の探求といってもこの段階では「悟り」を求めたり、神との一体感を求めるような探求ではなく、より深く物事を観察しようというもので、そのためにより多くの神気を得る方向に進もうとするのである。



 ではどのように神気を解放するかということになると、この本にはイメージングや、日常生活に創意工夫を活かすということが勧められている。興味のある方は是非購入して読まれてみてください。特に神気についての解説はわかりやすく素晴らしいと思った。確かに宗教的な修行の多くが固定観念を崩すということを目的におこなわれる。ある種の自己啓発セミナーもそうだ。異なるのは、そこで解放された現実創造のエネルギーを神や、真理に向けるか、あるいは豊かな生活に向けるかということかもしれない。
 巻き込みをゆるくしたり、はずす方法は多くあり、音を使う方法やタンクもそのひとつであると思う。
 思い返せば、I先生に教えてもらったマーヤ解きというのも、知性エネルギーの巻き込みをはずしていくというものだった。
 現実を一種のホログラム(マーヤ)であり、究極的には錯覚であると考えるのも、非常に巻き込みを弱める効果があるように思う。
 以下は、僕が遊びで思いついた方法を書いてみる。それは子供の目で、部屋を見る、という方法だ。

 自分が2、3才の幼児になったと仮定して部屋の中を見渡してみる。
 すると部屋の中にあるものの意味はどう変わるだろうか?
 2,3才程度の知識や、知性の巻き込みだとするとそれらはどのようにみえるだろうか?
 携帯や、財布や、請求書、パソコン、小難しい本や、カレンダーは意味をなさなくなるかもしれない。
 実際に2,3才の意識にならなくてもロジックで、ああ、確かに子供にとってはそうだと納得するだけでもかまわない。銀行のキャッシュカードもなんだか固いプラスチックの板に過ぎない。なくなってもどうでもいいだろう。どれくらい力を加えたら折れるか試してみたくなるかもしれない。
 カレンダーもよくわからない。今日は何日だっけ?2012っていう数字を見て、ついにきた!とも思わない(笑)
 一通り試してみたら、次に大人の意識でいつもの見方を再確認する。するとキャッシュカードからは預金額が、カレンダーからは今月や来月の予定が連想される。僕らはファンタジーから現実に戻ったのか?いや、そうではない。それらの連想は僕らが創造エネルギーを使用して集合的に維持している錯覚であり、知性の巻き込みに過ぎないのだ。子供の見方と、大人の見方、それは巻き込みの深さが違うだけでどちらがより真実かということはない。 
 僕は支払いに困ったら赤ちゃんの振りをすればいいじゃん、と言ってるわけではなく、ただそれらに注ぎ込まれている過剰なエネルギーをほんの少し解放すれば、あらたな現実を創造できるエネルギーが戻ってくるのではないかと思うのである。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/28 18:31
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