武術と人間関係の共通点
人間関係をよくしたりするのに様々なスピリチュアル的テクニックが存在するが、ふと思いついたことがある。
それはここに自分がいて (自)○→→→□(他) このように他者を認識している場合
まずこの他者をどのように意識の根本において認識しているかということが、エネルギーのやりとりやそれが表面化する人間関係に影響しているのだと思う。
例えば人と対するにあたり、その他者を怖がっていたり、「問題あり」と認識しているとすると
○→→→■ この他へのエネルギーもそれに基づき 結果として ○ ←←← ■
帰ってくるエネルギーもそれに応じた種類のものになる。
この時相手もこちらを「問題あり」と認識すると
●→→→■ ●←←←■ このような互いの問題を相手に投影する負のループが形成され関係性はカリカリしたものになる。
だから相手が ■ このように見えた場合、いろんなテクニックを使い機嫌をとったり、頭で和する努力をしたりするわけであるが、そもそも ■ と認識していること自体に大いなる思い込みが存在する可能性がある。
ここで ■(他)は☆(神)であるという認識に置き換える。ナマステの精神だ。

○→→→☆ これがうまくいけばもう僕らは相手を操作する必要を感じなくなる。なにしろ神なのであるから、そこには信頼が生まれる。もしかしたらこの人が機嫌が悪かったのは、僕がその内面の神性に気づいてなかったからで、それをこうして気づかせてくれたんじゃないかとさえ思えてくる。
これは認識の根っこに気づき、変えるということだけど、そこにはやはりある種の微妙な操作感がある。仙道家の島田明徳氏著「極意とは何か」に次のような文章がある。これはネズミとりの名人を自負する猫が、ある大ネズミに敗北した時、その理由を達人の猫がダメ出ししている場面だ。ダメだしされているのは「灰毛の猫」であり相手と「和」して、相手の力を無力化させるような合気道的戦法に長けている。灰毛の猫はこう言う。
「私は長年にわたり『心』を鍛錬してきました。気迫や気合といった「気」の勢いに任せず、どのような出来事にあっても、戦う思いを持たないように心がけ、相手と和して(相手と一体となって、相手の力を和らげたり、無力化して)相手の勢いに逆らわないように対応してきました。相手が強く出るときは、その相手の強さを和らげて応じます。私の術はちょうど布の幕で礫をうけるようなものです。ですからどんな強いネズミでも、私の敵にはならなかったのです
・・・しかしながら、今日のネズミは、気合、気迫といった「気」の勢いにも屈せず、「和」にも応ぜず、その動きはまさに神技というものでした。私は今までこのようなネズミは見たことがありません」
これに対して達人の猫はこう語る。。。

「あなたの語る『和』は自然の『和』ではなく、自分の思いでつくった『和』に過ぎない
敵の鋭い『気』をはずそうとしても、わずかでも自分の思いがあれば、敵はその一瞬の「心」の動きを察知してしまう
こころによって『和』そうとしても、それでは『気』の働きは阻害され、その自然な働きは弱まってしまう。「思い」をもって事を行おうとすると、身体に備わっている自然の感覚を閉ざすことになるからだ。自然の感覚を閉ざしてしまったら、本来備わっているはずの素晴らしい働きはどこから生じればよいのだ
ただ思うことなく、自分で行為するということもなく、自然の働きである身体の感覚にしたがって動くときは「自分」という形がない。自分という形がない時は、敵と自分といった相対関係も生じないから、この世界に自分に敵対するものはなにもないのだ」
これを読んで、武道の極意は人と人の関係性とまったく同じなんだなと思った。
普通の対人関係を円滑にするのは元気に挨拶するとか、相手の目を見て快活に話すとか、笑顔を多くとかそのようなことが基本だと思うが、表向きそのように演じられても心では○(自)と□(他)が激しい相対関係にあるという心象が生まれているというのはよくあることで、それがいわゆる対人緊張の根っこにある。
それら自分の頭で考えた「和」では、なかなか相手と本当に溶け合うという状態に至れないのだろう。それは根っこに自と他が相対していて、その相手をどうにか味方にしようとか、こっちを好きにさせようという思いがあるからだと思う。その本質的分離感がバリアになるのだ。
日本社会の常識としてのこうい対人関係スキルには、なにか他者への恐怖と、そうしないと村八分になるぞというような根強い不安がある気がする。つまりこの他への不安が社会の接着剤だったのだ。
ではどうすればいいのかと言うと、結局リラックスするしかないんだと思う^^
って・・・・これじゃアホみたいだが
達人猫も言っていることだが自分でやろうとしないこと、委ねた状態でいることが鍵になる気がする。
イメージ的にはアイソレーションタンク内で浮いているような、液体と肉体が一体化してどこからが自分でどこからが水かわからないようなそのようなリラックス状態で、あまり自分とか他者とかを意識せずに喋ったりふるまたりするしかないんじゃないかと思った。
融合、脱力感覚のイメージ

つまり自分を忘れること、そして相手が他者だと思わないこと、自分を包む流体の一部と感じること、そのようにリラックスしていれば相手がこちらの期待通りにしなくても、自分もこんなにくつろいでいるからまーええか~という気分になることに気づいた。
なんか自分が努力して和そうと、いい人になろうとすればするほど相手にも高いハードルを化して、それが期待取りにいかないとイラっとするようなところが人にはあるのかもしれない。
僕も含め対人関係が緊張したり、ちょっと苦手な人は多いと見えてうまくやるマニュアル本もたくさんあるがその多くが相手をコントロールしようとしたり、ある一定のパターンを勧めたりというものが多いように思う。だが特定のパターンにこだわるということも相手と自分が別々の存在として相対していることを前提としている。対人テクニックだけを説くのは、「極意とはなにか」の黒猫と同じで、クロネコは達人猫にこうさとされる。
「あ~あなたの修行してきたことは形や動作だけだ。そのために、いまだに「狙う心」が取り去られていない」
「狙う心」とは相手をコントロールしようという(怒らせないでいようとか、気に入られようとか)に該当するだろう。
ものすごく逆説的だが、対人関係の向上のためには、相手志向ではどうもダメなのである。
他というものを過剰に意識することに、「気」の自由な動きを妨げる何かがあるのだ。
馬鹿丁寧な機械のようなテレオペのトークに、どことはわからないが妙にムカついたりするのはそのためだ。
客というものをコントロールしようとする思いが露骨だからであろう。
「将来も、今のように形や動作にこだわり続け、あれこれと技をつくり、技術の追求にばかり夢中になって、師や先輩の教えることは物足りないと、自分の才能に頼っていれば、結局試合のための技になり、そのような技には限界が来てその時にはどうしょうもなくなってしまうものだ。思慮が浅く技術ばかりを追求し、自分の才能に頼るものはみなこのようになっている」
武術と人間関係に同じ原理が働くのは、当然で、二人の人間が相対しているというところから始まっているからだろう。
もともと日本の古武術などを見ると武術とはいかに効率よく人を殺傷できるかというところからはじまり、その追求が人体の構造や急所への理解ともなり、究極的にはその自と他が相対するということ自体を越えた意識へ至るというところにまで深まった「道」となったことは本当に面白いというか、すごいものだなと思う。
だから大体漫画の武道の達人はひょうひょうとしてたり、すやーっとしてますよね。ギラギラして闘争心満々だったりはしない。あれは実際そうなんだと思う。達人は静かに穏やかになる。それは「戦う相手」が意識にないからだろう。だから亀仙人やカリン様みたいのはいるでしょうが、多分、ベジータだとか、フリーザみたいなキャラが現実に達人の域にはなれないってことですね。武道のエッセンスはパワーじゃないとするなら。

それはここに自分がいて (自)○→→→□(他) このように他者を認識している場合
まずこの他者をどのように意識の根本において認識しているかということが、エネルギーのやりとりやそれが表面化する人間関係に影響しているのだと思う。
例えば人と対するにあたり、その他者を怖がっていたり、「問題あり」と認識しているとすると
○→→→■ この他へのエネルギーもそれに基づき 結果として ○ ←←← ■
帰ってくるエネルギーもそれに応じた種類のものになる。
この時相手もこちらを「問題あり」と認識すると
●→→→■ ●←←←■ このような互いの問題を相手に投影する負のループが形成され関係性はカリカリしたものになる。
だから相手が ■ このように見えた場合、いろんなテクニックを使い機嫌をとったり、頭で和する努力をしたりするわけであるが、そもそも ■ と認識していること自体に大いなる思い込みが存在する可能性がある。
ここで ■(他)は☆(神)であるという認識に置き換える。ナマステの精神だ。

○→→→☆ これがうまくいけばもう僕らは相手を操作する必要を感じなくなる。なにしろ神なのであるから、そこには信頼が生まれる。もしかしたらこの人が機嫌が悪かったのは、僕がその内面の神性に気づいてなかったからで、それをこうして気づかせてくれたんじゃないかとさえ思えてくる。
これは認識の根っこに気づき、変えるということだけど、そこにはやはりある種の微妙な操作感がある。仙道家の島田明徳氏著「極意とは何か」に次のような文章がある。これはネズミとりの名人を自負する猫が、ある大ネズミに敗北した時、その理由を達人の猫がダメ出ししている場面だ。ダメだしされているのは「灰毛の猫」であり相手と「和」して、相手の力を無力化させるような合気道的戦法に長けている。灰毛の猫はこう言う。
「私は長年にわたり『心』を鍛錬してきました。気迫や気合といった「気」の勢いに任せず、どのような出来事にあっても、戦う思いを持たないように心がけ、相手と和して(相手と一体となって、相手の力を和らげたり、無力化して)相手の勢いに逆らわないように対応してきました。相手が強く出るときは、その相手の強さを和らげて応じます。私の術はちょうど布の幕で礫をうけるようなものです。ですからどんな強いネズミでも、私の敵にはならなかったのです
・・・しかしながら、今日のネズミは、気合、気迫といった「気」の勢いにも屈せず、「和」にも応ぜず、その動きはまさに神技というものでした。私は今までこのようなネズミは見たことがありません」
これに対して達人の猫はこう語る。。。

「あなたの語る『和』は自然の『和』ではなく、自分の思いでつくった『和』に過ぎない
敵の鋭い『気』をはずそうとしても、わずかでも自分の思いがあれば、敵はその一瞬の「心」の動きを察知してしまう
こころによって『和』そうとしても、それでは『気』の働きは阻害され、その自然な働きは弱まってしまう。「思い」をもって事を行おうとすると、身体に備わっている自然の感覚を閉ざすことになるからだ。自然の感覚を閉ざしてしまったら、本来備わっているはずの素晴らしい働きはどこから生じればよいのだ
ただ思うことなく、自分で行為するということもなく、自然の働きである身体の感覚にしたがって動くときは「自分」という形がない。自分という形がない時は、敵と自分といった相対関係も生じないから、この世界に自分に敵対するものはなにもないのだ」
これを読んで、武道の極意は人と人の関係性とまったく同じなんだなと思った。
普通の対人関係を円滑にするのは元気に挨拶するとか、相手の目を見て快活に話すとか、笑顔を多くとかそのようなことが基本だと思うが、表向きそのように演じられても心では○(自)と□(他)が激しい相対関係にあるという心象が生まれているというのはよくあることで、それがいわゆる対人緊張の根っこにある。
それら自分の頭で考えた「和」では、なかなか相手と本当に溶け合うという状態に至れないのだろう。それは根っこに自と他が相対していて、その相手をどうにか味方にしようとか、こっちを好きにさせようという思いがあるからだと思う。その本質的分離感がバリアになるのだ。
日本社会の常識としてのこうい対人関係スキルには、なにか他者への恐怖と、そうしないと村八分になるぞというような根強い不安がある気がする。つまりこの他への不安が社会の接着剤だったのだ。
ではどうすればいいのかと言うと、結局リラックスするしかないんだと思う^^
って・・・・これじゃアホみたいだが
達人猫も言っていることだが自分でやろうとしないこと、委ねた状態でいることが鍵になる気がする。
イメージ的にはアイソレーションタンク内で浮いているような、液体と肉体が一体化してどこからが自分でどこからが水かわからないようなそのようなリラックス状態で、あまり自分とか他者とかを意識せずに喋ったりふるまたりするしかないんじゃないかと思った。
融合、脱力感覚のイメージ

つまり自分を忘れること、そして相手が他者だと思わないこと、自分を包む流体の一部と感じること、そのようにリラックスしていれば相手がこちらの期待通りにしなくても、自分もこんなにくつろいでいるからまーええか~という気分になることに気づいた。
なんか自分が努力して和そうと、いい人になろうとすればするほど相手にも高いハードルを化して、それが期待取りにいかないとイラっとするようなところが人にはあるのかもしれない。
僕も含め対人関係が緊張したり、ちょっと苦手な人は多いと見えてうまくやるマニュアル本もたくさんあるがその多くが相手をコントロールしようとしたり、ある一定のパターンを勧めたりというものが多いように思う。だが特定のパターンにこだわるということも相手と自分が別々の存在として相対していることを前提としている。対人テクニックだけを説くのは、「極意とはなにか」の黒猫と同じで、クロネコは達人猫にこうさとされる。
「あ~あなたの修行してきたことは形や動作だけだ。そのために、いまだに「狙う心」が取り去られていない」
「狙う心」とは相手をコントロールしようという(怒らせないでいようとか、気に入られようとか)に該当するだろう。
ものすごく逆説的だが、対人関係の向上のためには、相手志向ではどうもダメなのである。
他というものを過剰に意識することに、「気」の自由な動きを妨げる何かがあるのだ。
馬鹿丁寧な機械のようなテレオペのトークに、どことはわからないが妙にムカついたりするのはそのためだ。
客というものをコントロールしようとする思いが露骨だからであろう。
「将来も、今のように形や動作にこだわり続け、あれこれと技をつくり、技術の追求にばかり夢中になって、師や先輩の教えることは物足りないと、自分の才能に頼っていれば、結局試合のための技になり、そのような技には限界が来てその時にはどうしょうもなくなってしまうものだ。思慮が浅く技術ばかりを追求し、自分の才能に頼るものはみなこのようになっている」
武術と人間関係に同じ原理が働くのは、当然で、二人の人間が相対しているというところから始まっているからだろう。
もともと日本の古武術などを見ると武術とはいかに効率よく人を殺傷できるかというところからはじまり、その追求が人体の構造や急所への理解ともなり、究極的にはその自と他が相対するということ自体を越えた意識へ至るというところにまで深まった「道」となったことは本当に面白いというか、すごいものだなと思う。
だから大体漫画の武道の達人はひょうひょうとしてたり、すやーっとしてますよね。ギラギラして闘争心満々だったりはしない。あれは実際そうなんだと思う。達人は静かに穏やかになる。それは「戦う相手」が意識にないからだろう。だから亀仙人やカリン様みたいのはいるでしょうが、多分、ベジータだとか、フリーザみたいなキャラが現実に達人の域にはなれないってことですね。武道のエッセンスはパワーじゃないとするなら。

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おもしろいです
○→→→☆
ためになります(^^
よくもまあこんな深遠なことを平易に。
和する奥義、合気開祖植芝盛平翁の、晩年は神技仙境ですねyoutubeに五編くらいありますからご覧になってください。
映像データ、ありがとうございました!(^^
koike.kenji
植芝氏の動画見てみましたよ、一見打ち合わせてやってるみたいな演舞にみえるのですが、当時もそう思った方が多かったと見えて、植芝氏が会場に「自分を投げ飛ばしてみないか」と呼びかけて出てきたのが力士の天竜という人だったようですね。あっけなく50代の植芝氏が30代の天竜を投げちゃったようです。あと、30人に襲われて一人で立ち回ってやっつけたとか、こういう漫画みたいなことって実際あるわけですね~
wiki見て、そう言えば出口王仁三郎に弟子入りしてたんだーということを思い出しました。
すごい人がいたんですね!
恐らく悟りの修業に脱力の武道術理を取り入れたのは彼が初めてではないかと!
対人ストレスには同じく心身の力抜きに役立っ旧ソビエトがロシア正教をベースに造ったシステマがお勧めです。
和平先生のとこにインストラクター来てるそうですよ!
わー結構前の記事ですね。書いたの完全に忘れてました^^:
島田明徳氏の本がすごくよかったのは覚えています。
明徳氏のもとで修行されていたんですね。
確か先生のところにいらっしゃてる方でもうお2人くらい島田さんに会ったことがある方がいたようないないような。。。気がします。
いろんな経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃるのも面白いところですね~!