また新たにダイジの資料が・・・
MIXIのダイジコミュのバトンで、また新しい資料が届いた。
今回は、「メディテーション・トラベルガイド」
「超宗派的瞑想」
「老子狂言詩集」の3つだ。
いずれも書店などではおそらく入手不可のもの。
「老子狂言詩集」はダイジ氏の肉筆原稿のコピー。
正直言って、字はきれいとは言いがたい。
しかし、得体の知れないエネルギーに満ちている。
というか、多分、何も聞かずに読んだら、壊れてしまった人の殴り書きと思い兼ねないくらいのところが酔い。まあ、最高にすがすがしく、ハッピーにぶっ壊れてることに間違いはない。
「超宗派的瞑想」は「アメジストタブレット」などとかぶっているところもあるが、「観想法による運命転換」とかあまりダイジが語りそうにない内容が興味深かった。時期的には、沖縄の万松院で木村虎山師のもと、見性したあとというのはわかるのだが(出版も沖縄の印刷所になっている)、インドで「最終解脱」する前かもしれない。
そして、メディテーション・トラベルガイド!
この中の、「ダンティスの悪影響」という章を少し抜粋してご紹介させていただきます。ダンティスというのはアトランティス時代のダイジの名前だそうですが、ここではダンティスの霊的系統に属する者達が与えた「悪影響」について書かれています。
『ダンティスの悪影響』
中国の臨済禅宗の開祖・臨済将軍は、ダンティスの霊系に属する分身の一人だったが、こうしたダンティス・ケンタウロスの系流が、その逆説的な表現ゆえに、多くの誇大妄想狂や、デカダンスやニヒリズムや野狐禅者を産み出してしまう結果になったのは、各時代に現われたダンティスの分霊分身たちの言動の悪影響としての社会的事実である。
これは、ダンティスの教示が、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめることからくる誤解であるが、ダンティスの系流はもちろん誤解や悪影響など知ったことではない。
ダンティスは方便を好まない。ダンティスは聖者を好まない。ダンティスは人間的人格性と人間的努力を認めない。何故なら、こうしたものは、常に人を「あるがまま」ということの真意から遠ざけることになりやすいからである。
それ故、無数の時代の無数のダンティス達は、常に戯れるものとして生きた。ダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済・・・。彼らは、本質的に己の真実を生きただけであって、宗教などという神聖極まりない何かすら余計なものであったと言うべきである。
ダンティス臨済は、座禅や聖なるものや悟り解脱を見ることがない。本来、健康な人間に、病気からの回復の喜びなどというチンケなものはないのだ。
・・・・・・・
こうして臨済録の中で臨済が、まるで座禅瞑想など無意味なもののように言ってしまうから、当時の中国の求道者の中から、好き勝手なことを人間的気分からするのが、究極の悟りだなどという考えが起こったり、馬鹿げた一喝を叫ぶ事が禅だなどと思い上がったり、このままこの肉体が仏だなどと叫んだりする者が出ることとなった。これが、ダンティスの悪影響の一つである。
・・・・・・・
ダンティス臨済は言う。「そのお前の肉体が絶対の真実だ。」なぞと。
ダンティス・マイケル・スミスは言う。「汝は神なり」と。
ダンティス・クリシュナは言う。「アルジュナよ。君は決して生まれる事も死ぬ事もない」と。
ダンティス・ケンタウロス・アメンティーは言う。「君達はもともと救世主である」なぞと。
まったく、ダンティスの系流は、イージーすぎて、情熱豊かでない人達には、迷惑千万な話しであり、危険な事この上もない。
事実、アトランティス文明末期に、十三番目の超人を廃業したダンティスが出版した「救世主入門」という小冊子は、多くの遊戯三昧者を覚醒させたと同時に、多くのデカダンスとニヒリズムを加速させる結果となった。
臨済などはまだいい。彼は一つの禅堂の中で、その逆説めいた、その実、まったく逆説ではない教えを述べたからである。そこには時・所・位の中での一つながりに行道としての師弟関係があった。つまり、弟子は師の姿全体を見ることができたのである。
しかし、アトランティスのダンティスは、時・所・位にお構いなく、あるがままの真実を、その場の人々に大安売りした。
アトランティス密教の正統派トオスやエジプトのヘルメス、またはイエス・キリストや釈迦のやり方に比べると、ダンティスの系統が、ある意味でどんなに無責任であるかが知れようというものである。だが、ダンティスのこの「無責任さ」はどこから来ているのか。ここで、ダンティスがウルの都で出会った、アトランティスのチャールズ・マンソンみたいなラ・イグという名の青年に語った言葉を記すことにする。
「一つの教えは、その時のその人に応じてしかありえない。
どのような神秘不可思議な教えも、結局、愛と自由との確認につきるんだ。
君が秘密結社のようなものを作って、支配欲という不安にかられた時は思い出してほしい。君が一番身近な愛をどんなにか忘れてしまったかを。
君はもともと愛の救世主としてこの世に生きている。他のすべてのものも同様だ。
そして、愛と自由は、君の思い込んでいる人間性の中にはない。
君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る。
あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、君にとって恐ろしいものはない。それは、君のすべてを必要とするからだ。
君は君のすべてを解放することによってのみ永遠の自己訓練つまり久遠の戯れを戯れることができる。
死ぬことは、最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい。」
そして、もう一度思い出そう。「救世主入門」の一番最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。「完全」は君以外の誰に代わってもらうこともできないのだから。
「この本に書かれていることほど
無責任なことはない
この本に書かれていることを
信じない方がいい
書かれていることはすべて
逆の意味かもしれないから」
今回は、「メディテーション・トラベルガイド」
「超宗派的瞑想」
「老子狂言詩集」の3つだ。
いずれも書店などではおそらく入手不可のもの。
「老子狂言詩集」はダイジ氏の肉筆原稿のコピー。
正直言って、字はきれいとは言いがたい。
しかし、得体の知れないエネルギーに満ちている。
というか、多分、何も聞かずに読んだら、壊れてしまった人の殴り書きと思い兼ねないくらいのところが酔い。まあ、最高にすがすがしく、ハッピーにぶっ壊れてることに間違いはない。
「超宗派的瞑想」は「アメジストタブレット」などとかぶっているところもあるが、「観想法による運命転換」とかあまりダイジが語りそうにない内容が興味深かった。時期的には、沖縄の万松院で木村虎山師のもと、見性したあとというのはわかるのだが(出版も沖縄の印刷所になっている)、インドで「最終解脱」する前かもしれない。
そして、メディテーション・トラベルガイド!
この中の、「ダンティスの悪影響」という章を少し抜粋してご紹介させていただきます。ダンティスというのはアトランティス時代のダイジの名前だそうですが、ここではダンティスの霊的系統に属する者達が与えた「悪影響」について書かれています。
『ダンティスの悪影響』
中国の臨済禅宗の開祖・臨済将軍は、ダンティスの霊系に属する分身の一人だったが、こうしたダンティス・ケンタウロスの系流が、その逆説的な表現ゆえに、多くの誇大妄想狂や、デカダンスやニヒリズムや野狐禅者を産み出してしまう結果になったのは、各時代に現われたダンティスの分霊分身たちの言動の悪影響としての社会的事実である。
これは、ダンティスの教示が、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめることからくる誤解であるが、ダンティスの系流はもちろん誤解や悪影響など知ったことではない。
ダンティスは方便を好まない。ダンティスは聖者を好まない。ダンティスは人間的人格性と人間的努力を認めない。何故なら、こうしたものは、常に人を「あるがまま」ということの真意から遠ざけることになりやすいからである。
それ故、無数の時代の無数のダンティス達は、常に戯れるものとして生きた。ダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済・・・。彼らは、本質的に己の真実を生きただけであって、宗教などという神聖極まりない何かすら余計なものであったと言うべきである。
ダンティス臨済は、座禅や聖なるものや悟り解脱を見ることがない。本来、健康な人間に、病気からの回復の喜びなどというチンケなものはないのだ。
・・・・・・・
こうして臨済録の中で臨済が、まるで座禅瞑想など無意味なもののように言ってしまうから、当時の中国の求道者の中から、好き勝手なことを人間的気分からするのが、究極の悟りだなどという考えが起こったり、馬鹿げた一喝を叫ぶ事が禅だなどと思い上がったり、このままこの肉体が仏だなどと叫んだりする者が出ることとなった。これが、ダンティスの悪影響の一つである。
・・・・・・・
ダンティス臨済は言う。「そのお前の肉体が絶対の真実だ。」なぞと。
ダンティス・マイケル・スミスは言う。「汝は神なり」と。
ダンティス・クリシュナは言う。「アルジュナよ。君は決して生まれる事も死ぬ事もない」と。
ダンティス・ケンタウロス・アメンティーは言う。「君達はもともと救世主である」なぞと。
まったく、ダンティスの系流は、イージーすぎて、情熱豊かでない人達には、迷惑千万な話しであり、危険な事この上もない。
事実、アトランティス文明末期に、十三番目の超人を廃業したダンティスが出版した「救世主入門」という小冊子は、多くの遊戯三昧者を覚醒させたと同時に、多くのデカダンスとニヒリズムを加速させる結果となった。
臨済などはまだいい。彼は一つの禅堂の中で、その逆説めいた、その実、まったく逆説ではない教えを述べたからである。そこには時・所・位の中での一つながりに行道としての師弟関係があった。つまり、弟子は師の姿全体を見ることができたのである。
しかし、アトランティスのダンティスは、時・所・位にお構いなく、あるがままの真実を、その場の人々に大安売りした。
アトランティス密教の正統派トオスやエジプトのヘルメス、またはイエス・キリストや釈迦のやり方に比べると、ダンティスの系統が、ある意味でどんなに無責任であるかが知れようというものである。だが、ダンティスのこの「無責任さ」はどこから来ているのか。ここで、ダンティスがウルの都で出会った、アトランティスのチャールズ・マンソンみたいなラ・イグという名の青年に語った言葉を記すことにする。
「一つの教えは、その時のその人に応じてしかありえない。
どのような神秘不可思議な教えも、結局、愛と自由との確認につきるんだ。
君が秘密結社のようなものを作って、支配欲という不安にかられた時は思い出してほしい。君が一番身近な愛をどんなにか忘れてしまったかを。
君はもともと愛の救世主としてこの世に生きている。他のすべてのものも同様だ。
そして、愛と自由は、君の思い込んでいる人間性の中にはない。
君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る。
あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、君にとって恐ろしいものはない。それは、君のすべてを必要とするからだ。
君は君のすべてを解放することによってのみ永遠の自己訓練つまり久遠の戯れを戯れることができる。
死ぬことは、最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい。」
そして、もう一度思い出そう。「救世主入門」の一番最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。「完全」は君以外の誰に代わってもらうこともできないのだから。
「この本に書かれていることほど
無責任なことはない
この本に書かれていることを
信じない方がいい
書かれていることはすべて
逆の意味かもしれないから」
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