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描けない自画像

20110519152606.jpg

 上の絵はエルンスト・マッハという人が描いた「ビジュアルセルフ」、自画像だ。

 普通自画像は鏡に映った自分を描く、つまり第三者から見えた自分を描くのだが、この人は自分から見える自分と、部屋の風景を溶け合ったように描いている。

 だから目の近くにある鼻やヒゲが、大きな存在感を持っている。

 これは通常僕らが見ている世界である。
 僕には、僕の顔は見えない。
 このように顔の部分は何もない、「空」なのである。
 
 だが、その部分に想像上の顔を補って、特に人と接するときは自分の表情などをどこかで意識しながら会話したりするので僕らは自分に顔があると思っているが、実はそれは正確にいうと想像上のものでしかない。

 例えば、眠っている間に性悪な小人が僕の顔にいたずら書きをして、それを知らずに外に出たらみんなにクスクス笑われる。おかしいなあーと思い、鏡を見て愕然とする。その時点でやっと自分が今普通の顔をしてることが「ただの想像」であったことがわかる。

 顔というのはもっとも人のアイデンティティをあらわすので、人がもっとも自意識的になってる部分だ。
 ホントは別に手がアイデンティティだろうと、下半身がアイデンティティだろう(そういう人もいますねw)とかまわないと思うのだが、それが頭部なのは、僕らがそこから世界を見、そこに自分の意識があると感じるからだろう。

 だがにも関わらず、それが自分からは見えない(鏡を使わないと)というのがとても面白いところで、そこからいろいろな葛藤や緊張が発生する。もっとも自分である部分の様子が「今」どうなっているのか、想像で補わねばならないというフラストレーションである。

 僕は最近、このヘッドレスの視覚がふとした瞬間とても不思議に感じる。
 ご飯などを食べる時、お箸を使ってこちらがわに食べ物を運ぶ映像が、いったい誰に食べさしてるんだろうね、俺はという冗談めいたものに感じられるのだ。

 だからこの絵はすごく、イマツボな感じだ。
 これが現実なのに、どうしてシュールに見えるのかね??
 この絵はダグラス・ハーディングという人の「私とは本当に何かを見る」という小冊子に紹介されていた。

 ハーディングという人は2007年に98歳で亡くなった人で、生前は自分は誰かということを認識する方法を紹介したり、その思想を著述したりしていたようだ。

 その方法というのは実にシンプルでなおかつ、新鮮な気づきをもたらす可能性のあるものだと思う。
 動画があるので貼り付ける。





 これはラマナ・マハリシの「私とは誰か、問え」の現代版洗練バージョンではないかとさえ思える。

 僕は自分が鏡に映ったものではなく、それを見ているこの意識であり、これには定まった形もなく定義することが難しい何か、この何かが自分の本質であるとしか理解できていないが、この実験はそういった認識までなら簡単い導いてくれるように思える。

 もう少し「知識」を交えて推測すると、僕らの本質は、この○○○という名前を持つ肉体コンピュータを通してこの素晴らしくもバカバカしい現象世界を観、体験している、神、絶対者、意識であるという。
 肉体はこの現象世界経験のためのツールで、それは僕自身ではない。
 加えて、この肉体が発生させる感情、思考もこの肉体に属しており、それはただ『意識』により経験し観察されるためにある。
 すべてはこの意識の創造物に過ぎない。
 この意識の火花が、創造であり、それがゼロポイントの内部に無限の世界をつくりあげる。

 この意識が、○○○という人間の人生や、出来事や、感情や、思考、感覚と同一化するというゲームをしている。この同一化が、マーヤの根本にある。僕の本質は○○○ではなく、○○○を経験している意識である。これを魂と呼ぶとまた違うニュアンスが出てくる。
 この現代文明は、人が意識であるということを除外している。
 人は、顔であり、体であり、地位や役職、考え方や性格の善し悪しであると考えて、それらで互いを判断する。
 「ナマステ」がないわけだ。
 「ナマステ」は、「あなたがすべてを経験し、すべてを越えた意識であることを私は知ってますよ、あなたは私の目に映る通りのものではないことを知っていますよ」という意味ではないかと思う。

 僕はこのダグラス・ハーディングの本に8年ほど前に出会った。
 そしてちょっと惹かれるものを感じた。
 なのだが、その頃ちょうどI先生の瞑想会などに行き始めたころで、I先生の神様を強調する教えと、このハーディングの方法がどうも矛盾するような気がして、結局ハーディングの方を追求するのはやめた。

 しかし不思議だったのは、この小冊子の中で『神のみ心のままに』と云うI先生がよく話す祈りが進められていたことである。当時はまあ偶然かーと思ったが、そんなに多く見かける言葉ではないことを思うと、今から考えると偶然ではないように思う。その頃は、巨大な宇宙の思考のようなものが存在しそれが至るところに、違う形で情報を出しているという考えをしてなかったので、○か×かですべてを判断することが多かった。

 I先生以外の別の先生からその頃なにげに言われた言葉、「白か黒かじゃないんですよ・・・」というのは今でもよく思い出す。

 その8年前はI先生はこんなやり方進めてないし、やめとこうと思ったのだった。
 しかし、去年のはじめまだ震災前の時期に、修道会に来てたある方からハーディングの同じ小冊子をまたいただいた。それは第二版で僕が持ってるものとは若干デザインが違っていた。

 いったいなぜこれをくれたんだろう?と不思議に思ったが、改めて読むことなく本棚にしまっていた。
 が最近引越しの荷物を解いているとき、この本を手に取りまた読んでみた。
 今度は、純粋に実践的かつ、あまり宗教的でないところがいい!と思うから感じ方というのはずいぶん変わるものだ。
 僕らの本質は、意識であり、意識がすべてを創造(想像)している。
 僕らの本質は僕らが思っているものとは全く異なり、その自画像は、誰によっても描けないと知ることはとても心踊ることだ。

 
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知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/03/20 21:49
コメント
小冊子の画像、興味深いですね。
私にも誰かくれないかな~。(笑)

こないだテレビつけてたら、沢庵和尚の話が出てきて、和尚は、円の中に点を描いて、それを自画像としたらしいです。
日月神示でいう「まるちょん」と同じでした。
沢庵和尚がすごいのか、日月神示がすごくないのか。w

私が自画像を描くとしたら、兎だな。アホ!
Re: タイトルなし
 うさ子さん、こんにちは♪
 そう言えば冊子のイラストまるちょんにもちょこっと似てますね~。
 まるちょんを自画像にするとは只ものではありませぬな。
 たくわん漬けの考案者っていう噂の和尚なんですね。

 僕はまだ読んでないのですが、ハーディングの本も面白そうですよ。
 

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