アセンションした近代人

 肉体を光の体に変えて、昇天するいわゆるアセンションをした存在としてはイエス・キリストやインドのババジが有名だ。これは言い換えると、肉体を死なない体に変容させたということになる。

 これはある意味究極の超能力だと思うけど、こっち系の世界に深入りしてる人以外では、ほとんどまともには考えられていない現象だと思う。その理由のひとつには、イエスやババジは大昔に生きていた伝説上の人物に過ぎずその伝説内のエピソードをとても現実とは思えないということもあるだろう。

 しかし、比較的近代、19世紀半ばにもアセンションしたと思われる聖者が存在する。

 その名はラーマリンガと言い、1823年10月5日に南インドの村で生まれた。
 幼いころから神童ぶりを発揮し、父母に踊るシヴァ神ナタラージャを祀る寺院にお清めに連れて行かれたとき、ナタラージャ像の前で突然大声で笑い出し、あたりには神のエネルギーがみなぎった。

 寺院の僧は駆け寄ってラーマリンガを抱きしめると、その子が神の子であることを宣言した。
 ラーマリンガは5歳の時に次のような詩を書いたという。

 「おお神よ、なんという不思議か。あなたはすべての知恵を私にさずけ、あなたへの熱烈な愛を教えてくれた。あなたはまた、この世のすべてが蜃気楼に過ぎないことを確信させてくれた。おお慈悲深い方よ、あなたは私の内にあり、その恩寵を惜しみなく与えてくれる。あなたは自らを降下させて私の霊的な師となり、この取るに足らない私を祝福し、物乞いをする道に追いやることなく、必要以上のものを与えてくれた
                                       恩寵の聖歌より

 この「恩寵の聖歌」にはラーマリンガが神と合一し、金色に輝く「愛の体」を得た時の恍惚も記されている。

 「風、土、空、火、水、太陽、月、死、病、殺人兵器、惑星、邪な行為による害悪、あるいは他のあらゆる事柄の影響をも永遠に受けない光り輝く体を私は望んだ。神は私の祈りを聞き入れてくれ、私はその体を得た。これを普通の授かりものと考えてはならない。ああ人々よ、生身の肉体さえ不滅のからだに変える、至福の輝きの主にして我が父なる神に庇護を求めよ

 このライトボディは普通の肉体の周波数と異なる速度で振動しているようで、彼を写真に撮ろうとすると8回試みても彼の衣服が映るだけで、体のどの部分も映らなかったという。また彼には影ができず、その光り輝く頭部と体を白布で覆っていた。

 彼のアセンションは1874年1月に起こった。
 50才のラーマリンガは帰依者に声明を発表した。

 「親愛なるみなさん、私はしばしの間みなさんの前から姿を消さねばならない。案じることはない。ランプの光を永遠に灯し続けてください。神がそこにおられることを思い描いて光を崇めなさい。あなた方は十分に報われるであろう。私は今この肉体の中にあるが、ほどなくして神のすべての被造物の中に入るであろう。私の部屋の扉を閉めて外から鍵をかけなさい。指示されて扉を開けた時には、室内は空であろう

 その夜帰依者たちがラーマリンガの部屋の前で「至高の恩寵の光よ 至高の恩寵の光よ 我らの上に降りたまえ 至高の恩寵の光よ」と唱え続けていると、突然紫色の閃光が部屋から輝いた。扉が開けられると室内は彼の予言通り空で、そのままラーマリンガは忽然と姿を消した。

 数日後インド植民省の英国役人たちが、警察からの報告を受けて調査にやって来た。
 村人たちはみな悲嘆にくれていた。役人たちはラーマリンガの小屋を詳細に調査したのち、「ラーマリンガは実際に偉大な人物で、空中に姿をけしたのだ」という結論をくだした。

 1878年に発行された南アルコット地区の便覧の中で、徴税官のJ・H・ガースティンはラーマリンガの蒸発について次のように述べている。「1874年、ラーマリンガ・スワミはメットゥクッパムの自室に入り、外から鍵をかけるように彼の帰依者に指示した。以後、彼はまったく外出しなかった。弟子たちは彼が神と融合したと信じている」

 ラーマリンガはどうすれば肉体がこのような変容を遂げるのかについて、次のような指針を残している。

 この原則にはふたつの重要な側面がある。それは「すべての生命を敬うこと」と「献身的な黙想をすること」である。このうちラーマリンガは前者を重視し、もしこれを修得すれば神の恩寵はたやすく得られるだろうとしている。神はあらゆる生き物のうちにあり、あらゆる生き物は神のうちにある。人は万物への慈悲心を培うことで普遍的な霊と交感して、その愛を得ることができる。恩寵とは神の慈悲である。そして思いやりの心とは、人の魂の慈悲のあらわれである。

 ラーマリンガは光の原則のもうひとつの側面である、「献身的な黙想」すなわち、神への熱き献身が深まることの必要性を説いている。この場合、神を絶えず想い続けたり、神の恩寵を求めて熱心に祈ることが鍵となる。


 何か特殊な瞑想法とかではないのだ。一見よくある指針に思えるが、この「よくある感じ」とアセンションというありえない現象のギャップはあとからまた考察したい。

 僕はラーマリンガに以前から関心がある。彼の生命を敬うという教えと、そしてすべての被造物の中に行く、という言葉にとても深い存在への愛を感じるからだ。
 そしてアセンション、肉体の変容は伝説ではなく、実際にある!・・・かも?と思い始めたのは、このラーマリンガの記録を読んでからだった。
 
 そしてこれを読んで「ひふみ神示」の「半霊半物質の世となる」「水爆にも負けんからだにならんといかん」といった肉体の変容を暗示している文がリアリティを持ってきたのだ。今までに、ラーマリンガのような例が記録に残ってないだけである程度の件数あるのかもしれない。ラーマリンガはたまたまグル的立場であったが、人知れず山奥で生きていたり、見た目まったく普通に振舞っていたら、アセンションしてしまっても誰もわからないということはあり得る。

 さてここでアセンションという現象に関して、もうひとつパズルのピースを持ってくる。
 昨日まで再読していたラムサの「I AM Ramusa(邦題 ラムサ 真・聖なる預言)」だ。 
 JZナイトという女性によってチャネリングされたラムサは自分を、遠い昔に肉体を光の体に変えて、昇華(アセンション)した存在と語る。

 ラムサは、アセンションが脳が100%機能した時に起こる現象だと語る
彼によるとそれは次のような仕組みで起こる。
 ラムサによるとすべては思考による。だが、この思考というのはよく悪もの扱いされる「マインド」だけではなく、言語化が難しい微細で高波動の「印象」も含んでいるように思う。
 これを読むと、なぜ多くのマスターが神を想うことを推奨するのか、そしてなぜその延長上に肉体の変容といったことまで起こりうるのかとういうことへの一応の説明はつく。それは脳内に、あるいは身体全体に高い振動を供給するためなのだ。


 自分を本当に愛し、自分は神をそのまま受け入れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望む時、あなたは一輪の素晴らし花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 どんな望みでもそれをかなえる一番の方法はなんだろうか。あなたの存在の主=神からそれを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在のうちの神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在のうちに入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。

 限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂のうちで感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。

 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、なんとなく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経を通って、あなたの身体の一つ一つの細胞へと送られる。これが体中しびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞ひとつひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それはあなたが身体を個体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。

 限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく現す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、なんの前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。

 覚醒を目指す人のほとんどはそれが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしもいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りない思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくる時、あなたは感情溢れて言葉を失ってしまうことだろう。

 思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するということは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくればあなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり、説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。

 脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が創造的な形態へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それはあなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。

 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。

 脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。プレアデス星にいながらも、友の側にいることもできるのだ。

 脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。老いることもない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上がっていく。ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じだ。純粋な神となる時、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。これこそもっとも壮大な天国である。

 偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完璧な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面にはいってこれるようになる。多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきた全ての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終える時、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに100万倍も加速し、身体は見えない状態へとはいって、この次元から離れていく。あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。



 さて、かなり長い引用になってしまったけど、要点はシンプルだ。
 より限りない思考・印象・感情を抱くほど、それが脳のいわゆる「ナイトヘッド」、眠っている部分を覚醒させ、身体の細胞にも高いエネルギーを送り、振動を高速化していくということである。

 低い波動というのは限界ある想念、二元性にとらわれた意識であり、足りないという想念、愛や豊かさや能力がないという想念、わかたれているという想念、人や自分を裁く審判の意識などがある。これらの振動は逆に、肉体の振動数を低下させるという。

 極端に言えば一方の極みには 覚醒と 愛と知恵 よろこび と不死が

 そしてもう一方の極みには 眠りと無知 恐怖と、衰弱と死がある
   
 ここで神を想うということの謎がひとつ解ける。

 それは完全、限りない、という想念なのである。
 神というのはただの言葉だが それをさらに詳しく見ると
 
 無限 不滅 ただ在るもの 絶対の愛 知恵 すべて 生命 存在するすべての存在

 といったようなとにかくスケールの大きい、限界のないものとなる。
 その完全さをこころに抱き、受け入れることが、自分自身が神なるものへと近づくことになるからだ。

 もしも神を拒否し、二元的な意識にだけ捕らわれれば、そこに進化はないのは明らかだ。
 これは神を受け入れねば裁かれるとかそういったことではない、『無限』を、『最高のよろこび』という想念を拒否すれば、そこにはなかなか至れないという当たり前の事実に過ぎない。

 二元性に基づいた有限と分断の思考も 無限の思考もそのどちらも神の内面にあり、経験のためにある。
 古来聖者が教えていることとは、幸せになりたいなら、よろこびに向かったほうがいいですよ、無限を受け入れたほうが得ですよということに過ぎ無いのではないかと思う。神へと至る脳は誰にでも平等に、その暗闇の中に眠っているだろうからだ。

 それはシバという言葉を使う必要もないし、観音様や、アマテラスや、アッラーや、イエスや、その他いろいろのマスターの名前を呼ぶ必要も本来はないのではないかと僕は思う。要はぼくらのいだく想念がどれくらい限りなく、どれくらい自由で、どれくらい愛なのかというそのことだけではないだろか。
 マスターや神の名は、僕らの『無限』を触発するために助けになることがあるが、エッセンスではない。
 エッセンスとは「限りなさ」、「永遠」、「なんでもあり」、「全部OK」、「ただある事」なのではないかと思う。いつか今ある宗教は消えていく。そして宗教的な形態というのも消滅していく。
 そしてそのエッセンスだけが残るはずだ。

 ラーマリンガは19世紀にアセンションした存在だった。
 しかし記録に残っていないだけで、この100年の間にもいくらかいたのかもしれない。
 それがキリスト圏なら聖人、仏教圏なら生き仏様、ヒンドゥー圏ならシバやヴィシュヌの化身となってしまうが、もしかするとそれらの宗教圏に属さないどこかの片田舎や都市の一室で、十字架も仏壇も神棚もない部屋で淡々とアセンションした存在がいなかったとも言い切れない。
 彼がまったく無宗教だった可能性もあるだろう。しかし、その意識は非常に抽象的で「無限」であるとか「光」であるとかいった巨大な想念を受けいれていた可能性は高い。
 彼にインタビューすると

 「うーん、そうですね。すべての存在の源である無限の光に意識を向けると、いろいろな想念が入ってきますから、そのなかから一番素晴らしいものをもらってると、なんかこうなってしまったんですよねー 結局有限の認識形態から無限の認識形態にシフトしてとどまればいい話なんです

 とかしか言わないかもしれない。

 もしかするとそれが宗教を持たないけどアセンションする「現代人」に今後あり得ることなんじゃないかと思う。



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アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/04/10 13:50
コメント
こんばんは^^
この記事を読んで、アセンションの具体的な状態が詳しくわかりました。
記事を書いていただきありがとうございます!

「脳」は重要なポイントなのですね。
Re: タイトルなし
  山姥さん、こんばんは~☆

 長文読んでいただきありがとうございます♪
 まあアセンションした人を見たことがないので、こういうことじゃないかという推測なのですが^^:
 脳と覚醒・悟りは間違いなく関係あると思います(脳機能の変容が起きます)
 だからアセンションというものがあるとすれば脳も、かならず関係するでしょうね。
 すごい宇宙の秘密を秘めた器官を皆持ってるということだと思います:(;゙゚'ω゚'):

 最近よくラーマリンガの教えのことを考えとりましたよ。



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