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『超宗派的瞑想』②

 ◎象徴的観法

 密教における観法や谷口雅春師の神想観などは、この象徴的観法としての側面を持っている。
 前述の潜在意識のコントロールとしての観法は、あくまでも、個人の部分的日常的運命の改善ということにとどまっている。それはあくまでも部分的自己実現としての観想法であって、人間自我の超越による自在性という面は少ない。
 これに対して絶対者を象徴的にイメージ体験するこの象徴的観想法は、その人の全生活的な改新を自然的にしかも全体的に実現していく。その人の人格霊格のレヴェル自体が深まり高まるのである。

 さて象徴的観法には、個的神霊を観想するものと絶対神の属性を象徴的に観想するものとに、今仮に別けることにする。
 個的神霊を観想するというのは、釈尊でもキリストでもクリシュナでも日蓮でも達磨でも、その他、特にその人にとって強く心底から感じられる守護神霊を念想し、観想するのである。極端に言えば、尊敬する現存の人物でも恋人でもよいとも言える。
 例えば、釈尊を、観想念想することにより、始めは、空想程度にすぎないものが、やがては、はっきりと目前に実在するかのように感じられるまでになる。さらには、自分が釈尊そのものであるという状態にまで到る。
 この時、冥想者は冥想が深まれば深まる程、その全日常生活と全人格の中に釈尊的徳性と光明とを全般的に具現化していくこととなる。
 あなたは、キリストでも釈尊でもを、観じていきつつある時、ついに、キリストのあるいは釈尊の臨在を直下に感じるまでになるであろう。その時、あなたは随喜の涙を止めることあたわずという心境になる。あなたの高次元意識が開かれたのである。

 絶対神の象徴的観想というのは、例えば、光明とか無限力とか知慧とか大安心とか歓喜とかをこの宇宙いっぱいに限りなく広がっているかのように心眼で、冥視するのである。
 その絶対神のイメージの観想を続けて行くことによって、あなたは、ついに自分の個的自我や肉体が、例えば神の無限の愛の中に溶けていくように感じられるようになる。
 このような神の象徴的属性とのゆう溶合体験は、あなたの全人格に強烈な刻印を押すことになり、冥想からでた後も、あなたの心と行為とを、常により高い方へと自然的に誘導することとなるのである。
 そして、ついには、あなたが、最初に絶対神の単なる象徴的観念的属性にすぎないと考えていた、愛・安心・智慧・力・自由といったものが、超概念的な実存であることを覚知するであろう。
 しかも、絶対神の象徴的属性として観想していた、例えば無限愛という想念が、結局は宇宙意識そのものであり、そして、無限愛の中に自己忘越した冥想者は、そのまま本来の自己自身が、無限愛そのもの、すなわち宇宙意識自体の自己観照であることを悟ることになるのである。
 この絶対神=宇宙意識の自己観照の冥想は、そのまま無想三昧、ニルヴァーナの極地へと帰入していく。
 潜在意識的冥想体験=トランスは、それが深まれば、結局、宇宙意識的冥想=大三昧の発得となるのである。
 密教における大日如来への観法も、その窮極は、絶対無の独存である。


 (5)無想法

 無想冥想法は、万物万象の全面的絶対否定から始まる。
 道元の只管打座・・・すなわち非思量底の坐禅がこの無想法である。
 無想法に入るには、まず日常生活は捨離されねばならない。日常生活即仏法というのは、絶対無から帰還した後の言葉であって断じて、大死一番をせぬ前に主張されてはならない。

 「生きながら死人となり果てて
  思いのままにするわざそよき」至道無難

 生きながら死を直下に体験するのが無想法の要点である。

 時間、空間、物質、現象、宇宙・・・これらは、すべて人間の観念が仮作した仮象にすぎず、マーヤー(根本無明)である。

 「本来もなきいにしえの我なれば
  死にゆく方も何もかもなし」一休

 何も存在していないという観念ではなく、何もかもないそのもの自体が、そのもの自体を自己覚知するのが、無想法の要領である。

 この世は生死の世界であり、その生死の相対性こそが、あらゆる苦悩の根本原因であるゆえに、冥想者は、自己もこの世も、ともに捨ててしまうのである。生きたり死んだりするものは実在ではない。

 「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」三法印

 何もかもないそのものの絶対的充足が涅槃そのものであり、そこから、時間、空間、あらゆる現象が、仮に生滅滅起している。

 「色即是空・空即是色、色是色、空是空」

 ◎無の観想法

 これは、冥想者に生ずる、あらゆる意識現象とあらゆる現象存在とを、全面的に無化してゆく。ヨーガでは、「ネイティ・ネイティ(これでもない)」という無についての観想である。あらゆる現象を、「何もかも無し」と切り捨ててゆくのである。
 三法印あるいは、色即是空についての冥想をしてもよい。
 いずれにせよ時節熟せば、自己の思念自体が、絶対無の中に解消しているのを悟るであろう。それは、超時空的絶対充実である。


 ◎一念無想法

 臨済の公案における「無」三昧への冥想、あるいはヨーガの「ブラフマン」マントラの読呪三昧などが、この一念無想法である。一念集中とは、思索活動の停止であり、全心全霊をもって「無」なり「ブラフマン」なりになり切るのである。
 「無」についての念想ではない、ただ「ムーッ」と無そのものを念ずるのみである。
 これは、「ナムミョウホウレンゲキョウ」であろうと「ナムアミダ」であろうと「オーム」であろうと同じことである。

 「唱うれば吾れも仏もなかりけり
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ」一遍

 すべてが一念になり、やがて、一念は一念それ自体のみとなり、やがて一念もないそれ自体の無限光明となる。


 ◎非想

 道元の言う非思量底の坐禅である。すべてを、ほっぽり出してただ冥想に居るのである。
 あらゆる意識作用、現象作用が、生滅しているが、それらを相手にすることなくただ冥想しているのである。
 じきに、その放下のまねをしていた坐禅が放下そのものの坐禅となる。
 意識は流れるにまかせる。現象は起こるがままにまかせる。そのまま、そこに冥想しているのである。




「超宗派的冥想」
P14~16


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ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/04 20:06
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