積乱雲の上で


 自分自身を変えようとする思考パターン、
 それこそが僕を自分自身から遠ざけていた
 ということはあり得るだろうか?
 だって
 太陽も樹も、僕に変われなんて一言も言わなかった。

 おそらく悲しみや怒り、虚しさ、寂しさ、孤独感、退屈、不安、体の
 痛みやダルさ 感情や肉体の不快なパターン に出会った時、それらを「問題として見て」
 なんとかしたいと思った時、

 それを「問題としてとらえ」それを解決すると主張する、意識空間の渦の中で
 あーでもない、こーでもないと悩んでいた。
 あるいは閉ざされた思考世界の中で、自分を孤高な探求者とみなし世間全般を見下すことで
 その幻の優越性を生きる糧にしていたりもした。

 あるいは僕には多くの乗り越えて成長すべきいくつもの課題があるのかもしれない。
 その数は?何十?何百?

 でもあまりにも自分が不完全な未熟者だという想いが強いと、自分を他者にさらすことも
 今僕らが世界に贈れるギフトまで先延ばしにしてしまう。

 窓の外で
 子供たちが叫んでいる 真夏の太陽の下プールのバッグを振り回して

 「うるせえあほ!! お前らの方がアホだ!! 黙れシッコゴリラ!!」って・・・

 なんだか楽しそう、全然悪意も感じられない、悪口の応酬。
 そんなことよくやってた気がする。
 それは子供の僕らにはとっても素敵なギフトだった。
 時々本気で痛いパンチにキックだって、そうだった。
 でもいつから、こんなことができなくなったのかな。
 悪口を悪意を持たずに言えなくなるって、成長なのか、退化なのか。
 相手や自分のエゴを傷つけたり、傷つけられたりばかりに過敏になって。
 
 いろんなことをそれから経験して、いろんなことを知るほどに自信をなくしていく
 どうしてなんだろう?
 まだまだ愛を表現したり、自分の好きなこともできないほどに僕らは未熟なんだろうか。
 本当に?
 もし自分が何か別の自分に変わりたくて何かを求めるのなら、その理想の自分になった時に 
 やろうとしてることや、感じたい幸せを、今このままの僕らで感じたり、やってみたりしては
 いけないのだろうか。

 ただこのままの自分で、変わるのでもなく、癒されるのでもなく、強くなるのでもなく
 既に存在しているものの中へ、身を委ねる喜びを感じてはいけないのだろうか?

 子供たちに夏休みが必要なように、変わりたい思い、変えたい思いにも休みが必要だ
 
 それらを休んだ時に、立ち上る積乱雲に乗って、そこから世界を見てみよう。

 いつも
 僕らが見ている世界
 僕らの見ている僕ら
 それらはすべて、きっとおかしいほどにイリュージョンだから。
 
 今日は暑くなりそうだ!
 

 ザ・ハイロウズ 「夏の地図」


 






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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/26 11:14
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