自然とバーチャルゴッド

 
 今のうちに引っ越してから、たくさんの小動物や昆虫を見る機会が増えた。
 朝網戸にてんとう虫がとまってたり、庭をトカゲが行き来する。
 雀や、カラスが庭の樹に飛んできたり、近所の猫も入ってくる。
 目の前に土があって、草木が成長しているのを毎日見ていられるのはうれしい。
 ただ春、夏は雑草がすごい勢いで生い茂るので、100円ショップで鎌を買ってきてかなり伐採しなければならなかった。
 根っこから雑草を抜いたり、鎌で茎を切ったりしていると、たまに植物の大量殺戮を行なっているようで申し訳ない気分になることもある。
 好きなだけ生命を謳歌してもらいたいが、その結果庭が草ぼうぼうになっても困る。
 草を引き抜くと、そこからたくさんのダンゴムシも一緒に現れて、慌てて右往左往する。
 どうも草刈りは彼らの平穏も乱してしまうようだ。

 あえて人間の自然破壊の歴史を紐解くまでもなく、日常のこういった場面からも
 人と自然の相克関係というのは垣間見える。

 ある時には僕らは自然の美しさや、雄大さ、恵みを讃えるがある時には
 その残酷さ、厳しさ、底知れなさ、醜さやグロテスクさを嫌う。 
  
 自然の姿というのは、僕らが夕日に見とれて、「今日一日ありがとうございました」というムードに浸っている時に、身体は何箇所も蚊に刺されているような、そういうものだと思う。
 
 とても人を感動させると同時に、うんざりさせたり、恐れさせたり、嫌悪させるのが
 ありのままの生命、自然の姿であると思う。
 自然を愛する姿勢というのはもちろん大切だと思うのだが、一方で人が根本的に受け入れていない
 自然の側面や、どうしても相克が起こってしまう部分(草刈りや捕食行動のような)をはっきり意識化しているということも必要な気がする。 
 「自然を守ろう」と言っている人の内部には受け入れていない自然の側面が確実に存在するで
 あろうからだ。
 では、自分に好ましい自然だけを残して、気に食わない部分は抹消してしまうのが自然を守ることなのだろうか。
 
 本質的に西洋文明は、自然を破壊、征服したり、コントロールしたいという欲求により発展してきたということは否めない。
 一方で各地の先住民族の一部はそういった文明を一切拒否して、物質的にはとても貧しい生活を続けながら、自然を最小限しか傷つけない生き方を選んでいる。

 単純化すれば、先住民族の生き方は地水火風などの自然霊、神々を敬い、畏れそれに降参するという生き方。もっとも大事なものは作物を育てる大地や、それを潤す水などであるという価値観だ。直接命を養ってくれているもの、それが神々となる。

 西洋文明では、その直接命を養う存在たちにヴェールがかけられる。
 それは貨幣であり、宗教であり、道徳であり、イデオロギーであり、人間の意識が作成した人為的システムである。

 これらは言わば「バーチャルゴッド」たち。
 日本を含む西洋文明的世界で生きるには、必要な神々だ。
 その内部では確かにお金が僕を生かし、常識を守ることで暮らしていけるとも言えるからだ。
 その内部では、水も、食料も、土地も、すべて貨幣によって入手が可能な「商品」になる。
 神、あるいは、命そのものが貨幣によって大量に流通するようになる。 
 その中ではどうしても人間は、大地や生命自体をつくることはできないという認識は希薄になり「貨幣」が万能の支配者として見えてくる。

 だが実は、実在するのは生命のみであり、
 バーチャルゴッドたちははっきりした実体のない虚構なのだ。
 僕らを直接に生かしているのは、生命だ。
 生命とは調和であり、あらゆる力の均衡の結果として、僕が今生きているという現実がある。
 あらゆる自然霊、宇宙の諸力の働きの結果として、僕の生命に働く力はバランスされている。
 その上に奇跡的に生かされていることは、
 もしかしたらそれだけで十分感謝に価するかもしれない。
 
 僕らは、大地からも、空気からも、太陽からも、血液からも、絶え間なく「完全無料サービス」を受けている。
 この当たり前の事実はやはりとてもすごいことだ。
 だって一番大事なものが、「タダ」なわけですよ・・・・!
  
 自然の奥深くに入っていくと、バーチャルゴッドたちの機械的声が小さくなり、生命だけがリアルになる。
 街中で活動することは、バーチャルゴッドのルールに従うことだ。

 例えば、セブンに入り、500円玉を出して、マイルドセブンライトを買う。
 
 「セブンイレブン」というのは本来未知の絶対空間に、人間が名づけた名前。
 「マイルドセブン」の実体は、タバコの葉を巻いた紙を、20本箱に入れて、セロハンで覆ったもの。
 それを「セブンイレブン」というバーチャル空間から持ち出すには、100円玉と呼ばれる金属の塊が、4枚ほど必要になる。
 店の内部に一度足を踏み入れると、そこには客と店員という役割の振り分けが自動的になされ、その内部の床に寝そべってたり、レジの前に用もないのに1時間程突っ立ていると、「警察」というバーチャルワールドの免疫細胞を呼ばれることにもなりかねない。
 つまり「コンビニ」というバーチャル空間に存在するためには、「客」というバーチャルロールの台本を逸脱してはないらないのだ。

 しかし、より本質的な目で見るならば、「コンビニ」というのはある建物の中に、複数の、人間という宇宙生命体が活動している
 という状況に過ぎない。客も、店員も本来ないし、ただすべてが神的生命活動としてある。
 「店員」や「客」そのようなバーチャルロールは、例えば何か災害や犯罪に巻き込まれたりすることが起こり、
 みなその空間に閉じ込められ、 一致団結せねばならなくなればすぐに意味をなさなくなる。
 それはよく映画や、小説の「密室劇」で起こることだ。
 そのような時には「生存」という価値を軸に役割が、もう一度振り分けされる。

 バーチャルゴッドが支配する平常時にも、すべてを生命活動、神的活動と見ると面白い世界が見えてくる。
 
 バーチャルゴッドの治世は、ありのままの人間(自分自身)や自然を受け入れたくない僕らの嫌悪を土台としている。






スポンサーサイト
知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/13 22:50
コメント

管理者のみに表示