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王<キング>との関係性

 このごろ、自己愛とか、自己尊重に関しての記事をたまに書いてるけど11月2日にはテレーズの家のHさんのリーディング&カウンセリングを受けてきた。(この記録はまた後日アップしてみます)その刺激で気づいたこと。

 よく何をしていいのかわからない(何が好きなのかわからない)という悩みを持つ人がいる。これは、自分の真の特性、情熱と切り離されていることによる。なぜわからなくなっているかというと、根本的には本来の自分ではない自分に固執し、それを自分だと思っているからだと思う。ではなぜそういう思い込みが起きるのか、それを王<キング>との関係性という視点から考えてみる。

 王<キング>は権威者だ。それは成長期においては父親だけど、ここでは目上の男性や、仕事の上司、学校に行くようになると先生だったり、先輩だったり、あるいは頼れる親友(自分がリードされる立ち位置の友)だったり、メンター的な人物だったり、より大きい意味で父性を投影しがちな存在とする。また社会全体の集合的価値観や、流行などもそれにこちらが力を与える限りキングとなる。

             
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 まず親子関係に絞って語ると、<子>はそれぞれ独自の才能や情熱をある程度生まれながらに備えている。例えば音楽が好き、読書が好き、絵を書くのが好き、機械が好き、サッカーが好き、乗り物が好き、演技するのが好き、物語を作るのが好き、なぜ生きてるのか考えるのが好き、とかいろいろな「好き」が存在し、才能に関してもそれぞれいろいろな種類の才能がある。

 とにかく社交的に人と打ち解けて仲良くなるのが得意という才能もあるだろうし、内向的に物事を洞察するという才能もある、新しいものを作り出していくという才能、微妙な心の世界を絶妙に表現する言語の才能、お金の流れを動かす才能だったり、人を和やかな気持ちに出来る才能だったり、色彩感覚がとにかく抜群!とかだったり、いつも周りを明るい雰囲気にするのが得意な人、とかなんでもいいけど無数の才能がある。それは生まれながらに与えられたギフトでもある。ギフトとともに生まれていない、という人は存在しない。

 僕もこうやって何かを書くのが好きだし、それを楽しみに読んでくれてる人がいると思うと、とてもうれしい。そういうのがギフトなんだと思う。

 すべての<子>には好きなことと、その特質、才能、ギフトが存在する。そこまでは問題ない。

 問題は<王>にも<子>を見る、特有の価値観が存在するということだ。

 例えば、「学校の成績がある程度よくないと駄目だ」「文系の大学ではなく理系じゃないと駄目だ」とか、「医者にならないと駄目だ」とか「スポーツができないやつは男じゃない」とか「社交的な人間が一番よい」とかまあなんでもいいけど、、、

 <王>が<子>のありのままの才能や特質を認め、それらを愛している場合スムーズな成長が見込まれる。もしくは<王>の特質が<子>に近い場合、<王>には<子>の内面世界が理解できる。
 
 でも<王>に<子>の特質が見えなかったり、見えていても、それを<王>が価値あるものとみなさなかった場合には<子>は本来の自分の特性を価値なきものと考えるか、あるいは<王>の認める価値を懸命に伸ばそうと試みる。
 その場合も<子>が十分に強ければ自分の愛すること、価値を肯定し、<王>と自分はまったく別の存在であり、充実した生を生きるために本質的には<王>に認められる必要はない、ということを悟る。でも、最初からそのようなことをやってのける<子>は稀で、<王>の価値世界に屈するか、あるいは長期の葛藤の末に自己肯定に至るかどちらかだと思う。

 ではなぜ<王>にこのような力があるかというと、彼は生殺与奪の権利を持っていると<子>としての僕らはこころの奥で考えているからだ。彼にはパワーがある。彼の意志で生きるか死ぬかが決まる。彼に気に入られるかどうかが死活問題だ。もともと<王>はそのようなパワーが備わっているのだから、<王>が慈悲深いか、あるいは冷酷で気難しいかで<子>の恐れの度合いが決定される。慈悲深い王、冷酷な王、どちらも<子>にとっては生殺与奪の権限を握っているのであるが、慈悲深き王は、<子>が自分の気に入らないからといって殺してしまおうとは思わない。
 慈悲深き王は、あらゆる種類の才能や、情熱を理解し受け入れる目を持っているのだ。
 一方冷酷な王は、局所的な理解力しかなく、また異質な価値に不寛容なので、<子>にとっては恐れの的となるのである。

 このことが<子>が<王>に認められなければならないという思いで、自分自身のギフトを封印してしまう原因だと思う。つまり、自分が嫌いな理由、自分に価値を置けない理由、なにをやればいいのかわからない理由、それは生存欲求(恐れ)のためなのではないだろうか。

 僕らは単に生き残るという欲求(恐れに基づいた自分)と、自分のギフトを生かし充実して生きたいという欲求(愛に基づいた自分)が相克するフィールドに存在している。

 だから、<王>のもとを去るということは、ある種の「死の恐怖」が伴うのである。
 そしてそのぼんやりした「死の恐怖」を超えられた時に、人は<王>のもとを去ることができる。
 <王>のもとを去るとは、物理的にその人物との関係を断つことばかりとは限らない。
 相変わらずとても近くにいても、<王>の価値観に自分が適合していないと自己尊重が芽生えない心境から、自分で自分の真の姿をリスペクトして愛することに転換するのだ。
 それは自分が<王>を投影している人物の価値観に従う必要はない、そして権威者に認められなくても固有の素晴らい価値があるということに気づくことだ。


 例えば自分にとっての<王>がひょうきん者、道化師だけを偏愛していたとする。
 面白い人間、<王>を愉快な気分にさせる人間をとても気に入っていたとする。
 すると楽士や学者は、とても不安な気分になってくる。
 <王>はあいつが面白いとか、あいつがあんな滑稽なことをしたというような話ばかりをして、音楽や高邁な学説にはまったく耳を傾けないからだ。
 すると彼らのセルフエスティームは低下していく。音楽や学問なんかやってもしょうがないんじゃないか。私も、お笑いの勉強をしてみようか、<王>を笑わせるように。そうしてたくさんの臣民が<芸人>に転向する。
 だが生まれつきの道化師にはかなわない。かぶりものをしたり、熱湯風呂に入ってみたり、洗濯バサミで鼻をつまんだり、やりたいくもないことをやっている間に彼らの自己嫌悪はますます強くなり、本来のギフトは奥深く封印されるのだ。
 その時にふと気づく。
 
 今は現代だ。彼には、私をどうこうする権利も力もない。

 私は<王>がいなくても生きていける。

 私と<王>はまったく同等だ。

 私は音楽家だ、私は学者だ、お笑い芸人じゃない!

 私は<王>の機嫌を取るために生きてるんじゃない!


 そのように自分の価値を欺くのをやめ、自己の本性に目覚めた時、目の前にいるのは<王>の仮面を僕らによってかぶせられた一人の同じ<子>であることが明らかになると思う。
 本当の人間関係はここから始まる。 




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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/11/08 18:10
コメント
灰たかさん

お久し振りです。

本当はhow to self loveの記事にコメントしたかったのですが、何か入りませんした。

自己愛、大切だと最近、思うようになりました。

というか、これが自分に一番欠けているものかも、と。

ブログで紹介されている、ルイーズヘイさん、YouTubeで観ましたが、凄い説得力を感じました。特に鏡に向かって、話しかける行動アファメーション、あの動画はいいですね。

今、実践中ですが、すごくいい手応え感じてます。

正直、今更、アファメーションかぁ、とも思いましたが、本も買ってしまいました。あと、パワーカードも。

パワーカード、なかなかいいですよ。

自分であれだけの、良いアファメーション、思い付かないので。

情報提供ありがとうございます。






 子羊さん、お久しぶりです(*゚▽゚*)
 コメントありがとうございます♪

 アファーメーションって馬鹿にできないですよね。
 結局言葉の持つパワーに敬意を払うっていうこととつながるのかなと思います。

 僕も自分をある程度は肯定しているつもりだったのですが、何度も言葉に出したり、鏡の前でやったりすることにより今までと全然違う手応えを感じました。パワーカードってのは、詳しく見てなかったですがまた調べておきますね。是非、いろんな角度からセルフラブ、深めてくださいね!

 

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