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悲しみに寄り添う記憶

 夜に不安感がやって来た時に、それをじっと体験しているともわーっとした体全体を包むような不快感が、胸だけに一点集中した鋭い痛みのようなものに変わった。これは「悲しみ」だ。それをさらに見つめ続けると今度は、泣きたい気持ち、「寂しさ」になってきた。
 
 そしてなぜか、こころにアニメ「銀河鉄道の夜」の登場人物カムパネルラやジョバンニが浮かぶ。

 なぜこれが浮かぶのかわからないけど、、、この感情パターンにこの記憶が結びついているのか。

 この映画は確か映画館で観たものだった。

 ふと、この映画の公開年を調べてみたら・・・どうかと思いついた。
 ひょっとしたらあの年かもしれない。
 ネットで調べてみるとそれはやはり「1985年」だった。

 この年は僕にとっては忘れられない年だった。

 その年の6月に祖父が亡くなった。
 僕は意識をなくして実家の庭に横たわる祖父の姿を見た。嘔吐物の匂いがした。
 脳出血の発作だった。
 それから一週間ほどで祖父は亡くなった。
 家全体が黒白の布で覆われて、慌ただしく葬儀が行われる。普段夏休みしか合わない親戚のおじさんやおばさんが黒い服を着てたくさんうちにやってきた。
 僕は祖父の死体が怖かった。
 ちょうど祖父の遺体が安置されている部屋の上で眠っていると、この下に遺体がある、そう思っただけでひどく怖かった。死んでいる祖父が急に起き上がって、僕の首を絞めるというまるでホラー映画のような夢を見た。

 そしてその後から夏にかけて、僕は強迫神経症のような状態になり、階段は必ず二段飛ばしであがらないといけなかったり、歯を磨くのにも、キッチンに入るのにも、とにかくある「基準」をクリアしないとどこにいけないし何もできないという状態になった。それは子供心にもとても苦しいものだった。いや、本当に苦しかったと今思い返せばわかる。それをし続けないと、なにか悪いことが起こるという恐怖が根底にあったように思う。

 今思えば、その神経症状態は「祖父の死」というショッキングな出来事と無関係であろうはずはない。
 だが、子供の僕にはそれらを結びつけるという心理学的な知識もなかった。

 その頃の僕はよく喘息の発作も起こしていたので、脱感作というアレルゲンに対して少しづつ体を慣らしていくという治療のために週に1、2度近所の診療所に注射を受けに行っていた。その時はいつも昼は父と同じ職場で働いている母親が付き添ってくれて二人で片道20分ほどの道を歩いていくのだが、僕はその時間が楽しかった気がする。確かに注射は気持ちのいいものではないけど、行き帰りに古本屋に寄り道して漫画を買ってもらったりした。それはある意味で母親の愛情を独占できる時間だったのかもしれない。

 この神経症がいつ治ったのかよくは覚えていない・・・
 ただ思い出すのは、母の膝の上で母に抱きついて甘えている自分の姿だ。
 そう、僕はまだ母親に抱きついても全然おかしくはない年だった。でも、いつもはそんなに抱きつくこともなく、甘えるのをある意味我慢していたのかもしれない。母に甘えることができたのは、きっと神経症のおかげで、そしてそのような安心感を感じられることで僕は徐々にその状態から抜け出せるようになったのではないかと思う。

 そしてその年の夏休み、僕は母方の祖父の家に、一人で4,5日ほど泊まりがけで預けられることになった。
 どうしてそうなったのか思い出せないけど、親が僕の気分を転換させるために、あるいは少し親元を離れてたくましくさせるためにそうしたのかもしれない。僕にとってはこんなに一人で実家を離れるのは初めてのことだった。祖父と祖母からは遊びに行くたびに可愛がられていたので、いつも遊びに行くのは楽しみだったけど、やはり一人でお泊りするのはかなり心細かったとは思う。

 祖父がハイキングでどこかに連れて行ってくれた時に見た、真夏のゴルフ場の青々とした芝、
 そしてどこかで食べさせてくれた「トンカツ」がすごく美味しかったこと、
 寝室のまわり灯篭が不思議で見ていたこと(あるいはこれは別の夏の記憶か)
 そんなことを覚えている。

 そのいつもとは違う夏の数日間が過ぎて、祖父に送られて僕は京都に帰った。
 駅に母が迎えにきてくれていた。
 そしてそのあと確か映画館に向かい、『銀河鉄道の夜』を見たのだった。
 子供にとっては少し難しい内容だったかもしれない。でも直観的にそのメッセージが伝わるような映画でもあった。
 
 僕はカムパネルラを飲み込んだ 「黒い川」というチャプターの名前に魅せられた。
 それはきらきらとした銀河の旅とはまったく別の、何も見通せないような現実風景だ。
 愛しい人の行き先を知りたいと思う、そんな死への問いかけに対して普通の生きている人間が与えられるのは、このなんの応答もない「黒い川」だけなのである。でもジョバンニはその友の行き先を知っていた、その目に映る黒い川は、友やカムパネルラの父が見る恐ろしい水面とはまた異なる。しかしすべては、息子をなくしたばかりなのにジョバンニを気遣うカムパネルラの父や、病の母へ父の帰るのを知らせようとうちへ走るジョバンニの思いやり、友人を助けようと川へ飛び込んだカムパネルラの勇ましさなどの中に見える、愛によって結ばれているのだ。

 もちろん子供の頃の僕はそんな風にややこしく考えたわけではなかった。
 ただ直感的にこの映画が好きになった、それだけだった。
 後日テレビで放送したときには、ビデオ録画して弟や祖母を集めて上映会をしたりしたのを覚えている。

 この夏の8月12日、日航機123便の御巣鷹墜落事故が起きた。
 祖父の法要の時に、テレビにそのニュースが流れていたのを覚えている。
 1985年の夏は様々な死とともに僕が初めて過ごした季節だったかもしれない。 

 僕の不安や悲しみのルーツはこの夏にはじまり、
 今も鼓動してるんだろうか。 

 そして、

 祖父の死や 神経症や こういう事故や はじめての一人旅(?)
 これらの出来事に対して、この映画はひとつの回答としての意味を持って、僕の前に現れたという気がしないでもない。だからこそ僕は今でもこの映画にこころ惹かれ続けるのだろうか。

 不安や悲しみのエネルギーに寄り添ってくれて今も存在する、「銀河鉄道の夜」の記憶 


 印象に残る映画というのは、常にそういったかたちで現実との接点を持っている。

 あるひとつの「映画を観る」ということは、現実という文脈の中に見事にはさまれるひとつの「啓示」であることが起こりうる。いつどのような状況下で、誰と見たか、ということによってその映画の持つ意味は全く異なってくる。だから客観的な批評だけではその個人にとっての映画という「啓示」の意味ははかれない。現実も映画も、究極的にはあるひとつの愛という量子場に折りたたまれた情報の、同時的開示であろうからだ。

 ひとつの感情を見つめるだけで、これだけいろいろのことが展開するというのはとても面白かった。
 と同時に、今まで内省的な方だと思ってたけど、こと生々しい感情に対してはそれを麻痺させたり、取り去ることばかりを考えていろいろやってた気がする。今までの分まで含めて、これからはいろいろ感じてあげたい。
 





 土砂降りの日曜日
 街へ来た一団を
 おどけたピエロを
 泣きながら見てた
 いつも暗い夜が怖くて
 ママのベッドに潜り込んだ
 窓を叩く雨
 サーカスの時も 同じように降ってた

 過ぎ行く季節に 無邪気で無垢な笑顔も
 大人びたね
 もうあの頃のようにサーカスが怖くて
 泣いたり しやしないさ

 時には誰かを傷つけることさえも
 時には自分を裏切ることも

 行き交う人ごみの中で
 僕の 僕の生まれた訳を
 誰も教えてはくれはしないから
 泣いちゃダメだよね






見つめ続けていることで 

恐れは悲しみへ 悲しみは寂しさへと 姿を変える

 夜に怯えていたのは 僕だった

 君の声を聞いてあげなくて、ごめんね

 幼い頃には戻れないけど

 いつでも好きだけ泣いてもいいんだよ

 そうすればぬくもりが戻ってくるから







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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/12/12 23:41
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