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抽象性の場(KAMIという意識場)

 すべての思想は、スピリチュアルなものも含め、言葉とは別の次元でコード化することが可能なんじゃないかと思う。
 それにはより抽象的な視点において、それらのエッセンスを抽出し、記号化することによりその情報体の本質を
 俯瞰することが用意になる。
 例えば、二元論、非二元論、一神教、多神教、などだ。一神教が非二元論とは限らないしいし、多神教が二元論に基づいているというわけでもない。多神教が様々な信仰形態を認めるため「寛容である」とは必ずしも言えないのである。すべてを包含する(非二元論的な)一神教のほうが寛容である可能性の方が強い。

 そして、これらの情報場は=意識場である。情報場は意識と結びついて初めて意味を持つ。

 それらのすべてはその情報場と完全に同一化した意識をもとにして発生しているものと、知的推論とイマジネーションによって成立しているものがある。

 この世界の根本構造は抽象性に有り、具象性はすべて抽象性に支配されている。

 現実は抽象より派生する。

 例えば「セブンイレブンで、ジョージアの缶コーヒーを買った」という情報は具象度が高い。
 資本主義のシステムはこの具象性同士がお互いに我を張り合うという感じになっているので、より目先の表層的な物事がいかにも大切に見えるようにデザインされている。それはテレビCMに見られる具象度だ。

 しかし、この情報は「店でコーヒーを買った」というより一般的な表現に置き換えることにより抽象度が高くなる。
 そうすると資本主義のシステムは、この抽象性の前に一時的に溶解する。
 店、の中にはローソンやファミマやそのほかの巨大スーパーや、個人商店も含まれるからだ。
 そしてそれらの固有名詞はすべて『店』という抽象性の中の、取替え可能な部分に過ぎなくなる。
 その現象が発生するタイムスパンも数十年から、数百年~それ以上に拡大する。

 続いて『買う』という表現も『得た get』 とすることにより、もらった、盗んだ、拾ったなどという現象も含むことができる。

 このようにこの現実の根底に働いているのは、抽象的情報場の世界であり、元型の世界でもある。
 シェルドレイク的な情報の形態共鳴場は、時空を超えて、『店でコーヒーを買う』という現象が成立しうるあらゆる時空に広がっているとも言えるのかもしれない。僕らがその行動を為すとき、その情報場と同調しているのだ。

 『買う』という現象についていえば、それはおそらく原始的な通貨が発生した何千年前から存在する『貨幣』という情報場に関わる現象だ。通貨の神マモンが存在するとすれば、それは『貨幣』による原始的な取引が始まったその時点から、未来のいつか『貨幣』が消滅するその時までのあらゆる現象を含んだ、ドル、円、ユーロ、ルピー、元、すべてを含んだ『貨幣』に関するあらゆる現象の総体、その情報場と言えるかもしれない。マモン神は時空を越えた、獲得と損失、豊かさと困窮、というドラマの立役者となっているのである。僕らがお金の存在を当たり前だとおもってること、それはこの情報場の力だ。
 『当たり前』と皆が思うということほど強力な君臨形態は、ない。

 トラディショナルな聖者はマモンを完全に悪役し、金を持たず清貧に徹することで、このマトリクスのおおきな存在を完全スルーして自由に至ろうとしてきた(異性も同じ)。しかし現代は、結構スピリチュアルな世界にも豊かさや、お金に感謝しよう、そして本当に楽しいことにそれを使おうという考えが起こってきている。それはあるいはマモンとスピリチュアリティとの関係性が新たなステージに入ったためかもしれない。

 ・・・・このような視点からで言うと、「神々」とは抽象度の高い、情報場であると言える。

 『貨幣』だけではなく、『芸能』であるとか、『恋愛』であるとか、『学問』であるとか、『旅』であるとか、
 それらに関する情報の集合体にアクセスする(信仰する)ことにより、インスピレーションや守護や力を得るということが昔から行われてきたことも不思議ではない。

 
 が、それには目の前の個別の「名」という呪(しゅ)をもった具象性に目を向けるのではなく、より抽象的に思考することで自分がどのような共鳴場とつながりたいかはっきりさせる必要がある。『芸能』とは何か?『貨幣』とは何か?『恋愛』とは何か?ということだ。単純な善悪二元論に陥らずにその現象の総体に隠されたイメージを、心の目で見る。

 AKBとか嵐とかスマップとか和田アキ子の存在するのが「表芸能界」とすれば、『芸能』の情報場である『裏芸能界』が本当の芸能界かもしれない^^;

 ある分野でどれだけ力を発揮するかは、どれだけその情報場の全体性と深さを認識し、それと一体となるか(それに奉仕する)にかっているような気がする。美輪明宏さんのような人は、裏芸能会とものすごく密接にシンクロし『芸能』の深さと結びついてそうだ。

 抽象性がこの現実の根本構造であるため、元型的な絵は人の精神のより奥深いところに働きかけ、不思議な現象を起こす。そのような絵はより抽象的な情報世界のシンボルなのだろう。
 
 元型的な絵とは、人生における出会いと別れ、生と死、男と女、親と子、善と悪、光と闇、成功と失敗、力、希望、絶望、誘惑、成熟、などを表現したり、自然という情報場の抽象存在である、地水火風のエレメントを描いたものなどだ。

 タロットカードはそういった世界の情報検索装置として利用されている。
 易経はつながった線と、わかたれた線のふたつの組み合わせなからなっているので、この二元性に基づいた抽象度の高さがうかがえる。

 詩的言語もまた、このような元型世界を言葉によってえぐりだそうとする。
 昔好きだった、村野四郎の「鹿」という詩。



鹿は森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることができただろう
彼は すんなり立って
村のほうを見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして


 ここではっきり現されているのは、死と対置した時の生の甘美さ、日常の安らかさである。闇に包まれた大きい森の夜の中であっても、それが生の場である限り、額を狙われている者にとっては黄金に光った場所でしかありえないというある意味極限的な認識だ。そして死を前にしても気高さを失わず「すんなりと立つ」無垢なる存在の美しさと悲しさも読み取れるようだ。
 詩的言語があまりにシンプルで鮮烈なので、そのイメージは元型的絵画のようにはっきりと僕の脳裏に像を結ぶ。
 明らかに僕らは鹿に我が身を投影することで、そのような元型的場に触れて感動するのである。


 「生と死」の対置という抽象性は、人にとってもっとも強烈な印象を与えるリアリティだ。
 しかし「死の忘却」ということが習慣的になっているため、このように詩であるとか映画であるとかにえぐりだされないとなかなか普通は認識されない。

 死ぬのは「私」以外の誰か、というのが普通の認識だが、実際は死ぬのは「私」しかないのである。
 ではその「私」とはなんだろうか?

 元型的情報の場を越えて、実はもっとも深い部分においてこの世界を支配しているのは、「全体と個」「自己と非自己」「私とあなた」「神と人間」などという根源的抽象性ではないかと思う。
 すべては二元性、「わかたれている」という認識から派生した情報場であり、あらゆる欲求はこの原初の分離を埋め合わせようとする試みであるとも言われる。すべての問題は、時間・空間的に限定された「私」という認識を軸として発生しているように見える。

 そのため古来よりもっとも根本的な幸福や平和、解決を模索する人たちはこの「場」に挑んでいかねばならないことになっているようだ。それは「私」がどうなるか?ではなく、「私」とは何か?あるいはなぜ「私」は「私」と認識するのか、という問いへのシフトだ。

 これらの抽象性が解消(部分的にせよ、全体的にせよ)されたとき、「神」あるいは、あなたのない「私」という意識場が明らかになる。
 その意識場の認識は 「すべては神である」「すべては私である」「神しかない」「私しかない」「私は幻想で神だけが真実である」「時間も空間も、宇宙もない」「生も死もない」「生命だけがある」というようなものだ。

 この意識場は確かに存在すると思う。
 そしてその場の二次的な現れである聖霊(救済力、牽引力)によりすべての人の子(わかたれた認識を持つ者)を完全な至福の中へ引き込もうとしている。





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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/02 19:23
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