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愛というコイン (変わり者にとって神の愛がいかに重要かの考察)


 どんな個性を持っていても、性癖を持っていても、ハンディキャップやどんな過去を持っていても
 自分を無条件に受け入れ愛することがより幸せに生きていくための秘密だ。


 でも、自分を愛することが時に困難なのは、集合的社会意識の中でマイノリティに属する人たちである。


 人は良かれ悪しかれ社会的動物なので、自己の自己への感情は、他者の自己への感情に依存している。
 自分が自分を見る視線は、他者が自分を見る視線にある程度規定されている。
 

 だから同質である事、一緒であることの中には安心感があり、異質であることには常に不安がある。
 拒絶される不安、後ろ指を指される不安、愛されない、軽蔑される、嫌われると言う不安だ。
 それは特に日本のような文化では顕著であると言われる。
 基本的に同じようなDNAの集合体で、移民もそれほどいない。
 ということは同質性が当たり前なことで、異質性があること自体が、異質な事態である。
 そのような文化は異質性とコミュニケートして、双方が共存共栄していくという試練にさらされていない分だけ、
 異質性には不寛容なところがあるのかもしれない。
 
 察するということ、「あ~わかります」という暗黙の共感は同じような同質性の基盤に立っているからこそ可能なことで、異質なもの同士が理解しあうためにはそこには必ず、葛藤や、ぶつかり合いが生じてくるような気がする。擬似的な同質性の上でわかったふりをし合っていればなんの衝突も生まれないかもしれないが、そこにはまた理解も生まれない。

 欧米の文化がディベートに裏打ちされているのは、異質性同士を言葉によって橋渡ししなければならないという、必然性があったためだろう。あるいはそれが言葉による異質性への攻撃に傾き勝ちではあったとしても、異質性自体に無自覚であるという社会風土で育たなかった異質な「他」への洗練された理解も生まれているように思う。
 
 社会的な集合意識の中で異質な存在となりやすい人。

 ホームレス
 僧
 障害者(心身のハンディキャップを持つ人)
 性的マイノリティ(ホモセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー・・・その他)
 ニート
 引きこもり
 不登校
 犯罪者
 アーティスト 
 物書き  
 外国人
 (そういう制度がある国では)被差別階級の人

 その人が自分の中にある何に異質性を感じているかはある意味、重要ではなく、問題はその「何か」によって自分を無条件に受け入れることが難しくなっていることだ。

 なぜ難しいかと言うと、自分の「何か」に対して他者が、社会意識が「NO」といってると思えるからだ。
 (実際はそれも幻想なんだけど)

 「私は私を愛している」と言うとき、「でもあの人が」とか「でも社会が」「世間が」「親が」とか外の存在がブレーキをかけるように感じるから。特に集合意識の中でマイノリティである場合は、そのプレッシャーを非常に重く感じるかもしれない。

 だからマイノリティはマイノリティ同士で集まったり、話し合ったりすることで自分たちが決して一人ではないことを確かめ、そのような同質性の場にいることを自己肯定のよすがにすることもできる。


 そういうピアカウンセリング的な場は、すごく癒しになるとは確かだと思うし大事だけど、そこに依存しすぎると結局はそういう形の『社会意識』による束縛となる。マイノリティの集団という社会構造の中で、自己の価値がどのようなものかという差異化と比較がまた始まるからだ。『社会意識』とは結局、他者の目に依存することにより成立しているものだ。

 宗教的な団体、スピリチュアルな集いでも普通はそういう『社会意識』が存在している。


 僕の場合、自分を愛することが癒しや、ハッピーに生きていくということに関して重要だということはずいぶん前から気づいていたし、自分のテーマだと思ってるけど、やっぱり社会意識のプレッシャーというものをとても感じるところでもあった。

 自分の異質性にもとても悩んでた。

 ピアカウンセリングに参加したことはないけど、いろんな人と会うことで、この人とこういうところは異質だけど、こういうところは同質だなと共感したりすることで、自分を受け入れやすくなった部分はやはりある。


 でもやはり、自己愛の基盤と言うのは神的な意識、神の愛なのだ。


 神の愛を受け入れるときに、社会意識による制限を越えて、どんな自分も、ありのままを愛せるのではないかと思う。  



 神の愛は、今の、僕らを、そのありのままのすべての性質とともに、完全に愛している。



 神の愛というか、神への愛と言うか・・・・それがなかったら僕はもっと自己否定の中でつぶれていたかもしれない。


 神の愛があるからこそ、どのような異質さを抱える人でも、社会意識を超えて、自分を愛することができる。
 マイノリティの意識が強い人ほど、神の愛のありがたさがわかるような部分がある。
 なぜなら社会意識が自己肯定の頼みにならないことが身にしみているからだ。
 


 僕らにとってまず一番最初に重要なのは、自己と他者の関係や、自己と社会の関係ではなく、

 僕らがどれくらい自分を愛するか、そして僕らがどれくらい神を愛するかという

 僕らと「愛」との関係なのだと思う。 
 

                無条件の自己愛=神の愛(神との愛)


 自分を愛しにくいと感じる人は、神を愛したり、神の愛を感じることをお勧めするし、神を愛せないと思う人は自分を愛することをお勧めしたいと思う。それもできないと思う人は、何でも愛せるものを愛せばいいし、自分がどう思おうと愛してるものによって僕らはすでに生きているのだから、僕らを今生かしているそのものを愛すればいいような気がする。


 だから僕のテーマのひとつはありのままの「自己愛」だと思うけど、それは裏を返すと神の愛なしには成り立たないものなのだ。
 今となって思うとそれは僕が人と違う部分や、孤独に苦しんだから気づけたことだった。



 愛というコインの裏表はそんな構造になっている。




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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/13 14:35
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