時間を忘れた世界

  続いて、今回もちょっと時間に関する記事。

 今まで、テレビなしとか、ネットなしとか、夜間の照明なしとかいろんなものからのリトリートを試みてきたけど、ひとつ見逃していたことに気づいた。

 それは『時間』。
 正確に言うと時計時間だ。
 ので、さっそく時計なし生活を一日くらい送ってみたらこれがなかなかいい感じだった。

 用意は簡単で、時計の電池を抜くか目に付かないところにしまう。
 PCは時刻表示されてるあたりで右クリして、時間を非表示にする。
 携帯はオフにする。
 以上!!

 これであなたも時計時間から解放された一日を手にしました!!(笑)
 
 もちろんこれは休みの日で、一人でやるか、変なことやってるあなたを理解してくれる人と一緒にやることが前提です。

 時計時間は、社会性とあまりにも密接に結びついていて、社会性=時計時間を守ること、とさえ言えるので仕事のある日に時計なし生活は難しい。「5分出勤が遅れた奴はみんなで白い目で見ようぜ、ヘイ!」というのが暗黙の了解なので仕方ない。 

 しかしここまで時間に厳格な社会が出現したのは、比較的最近だと思う。

 明治時代の人は時計が読めない人も多かった。

 ということは多分村の寄り合いがあったとしても、午後7時集合時間厳守!とかではなくて、

 『日が落ちて、、めし食ったあとに、吾作のうちで集まっぺ』とかいう曖昧な約束しか出来なかったはずだ。
 
 巳の刻とか丑の刻とか、時間の概念はあったと思うが、5分単位での待ち合わせ約束とかは成立しなかったに違いない。

 それが成立するためには、全員が異常に明確になった時間表示装置(つまり時計)を当たり前にようにもっていなくてはならない。

 明治以前の時刻
(前後約1時間)
暁9つ 子の刻 0時ごろ
暁8つ 丑の刻 2時ごろ
暁7つ 寅の刻 4時ごろ
明6つ 卯の刻 6時ごろ
朝5つ 辰の刻 8時ごろ
朝4つ 巳の刻 10時ごろ
昼9つ 午の刻 12時ごろ
昼8つ 未の刻 14時ごろ
昼7つ 申の刻 16時ごろ
暮6つ 酉の刻 18時ごろ
夜5つ 戌の刻 20時ごろ
夜4つ 亥の刻 22時ごろ


 ↑二時間刻みでかなりアバウト




 自分で言うのもなんだけど、僕はものすごく時間に几帳面なタイプだ。

 僕の中には遅刻という経験がほぼない。
 これは自慢ではなく、本当に学校でも、職場でもミスって遅刻したということがほとんどない。
 寝過ごしたという経験もあまりない。
 といっても皆勤賞タイプではない。
 なぜなら行きたくない時は、よくずる休みしたり、会社自体を辞めるからだ(^0^

 でも「ついうっかり」と時間に遅れるということはなぜか僕にはやろうと思っても出来ないのだ。
 たいてい待ち合わせは早く行き過ぎて、逆に待ってる間にイライラしてくることもある。
 相手が少しでも遅れてきたら「大丈夫ですよ」とか言いながら内心結構キレてると言う場合も、ままある。

 つまり僕自身がある意味「5分遅れてきたら白い目で見る派」である。

 逆に言えば、「すごく時計時間に支配されてる人」なんだと思う。
 なんか時計を見る回数自体が休みの日でも多くて、いつもちらっちら見てるような気がする。

 その影響か、朝アラームがなる前に目が覚めてアラーム設定を解除しようとするとちょうど1分前だというようなことがすごくよくある。60秒×60分のリズムが体に刻まれてしまっているのかな。まあ、それが刻まれてないと、無意識に、朝6時半に目覚めるようにお願いするなんていうテクニックは使えないわけだけど。

 基本的に休みの日だと、人と会う予定がなければ、好きな時に起きて、好きな時に食べて、好きな時に外出して好きなときに寝ればいいと思うんだけど、無意識にいつも時計を基準にしてそういった行動をしてることに気づいた。

 社会性にとらわれすぎないと言うことが、自分の課題のひとつみたいに思うけど、社会性は時計時間の死守(?)に基づいて成立してるので、あまり社会参加してなくても時計時間にとらわれていると結局同じリズムで同調してることになる。 

 僕が社会性マーヤになることと、時計時間にシビアなことは実は表裏一体で、時間をはずすことにより共通の約束事から逸脱するのを実はすごく恐れているんじゃないかという気がしてきた。(非常識だと思われるのが怖い)


 こういう僕が前述の時計なしリトリートをやってみると、これがすごく解放感あり気持ちよかった。
 多分いつも時間の観念にかなり縛られていたからだろうと思う。

 もちろんこれはテレビなしリトとかとセットでないと成立しづらい。
 テレビは時計時間によって一秒刻みで動いているからだ。 
 つまりテレビをずっと見てると、ずっと時計時間ともつながっている状態になる。

 だからこれを書いてる今も、ずいぶん前に自治体の午後5時半を告げるBGMが流れて、もうそろそろ時計時間では七時前かなとは思うんだけどよくわからない。いつもなら、そろそろ七時だから切り上げて先にご飯食べようとか思うんだけど、時間がわからないので、書きたいだけ書いて、おなか減ったら食事しようと思う。そんで、そのあとも眠くなったら寝て、明朝もアラームとかはかけないで目がさめたときに起きようと思う。

 うーん、これっていいかも♪

 時計を見ないと、一日が細切れにならない。
 いつも絶対的な継続があって、今があって、今しかなくて、主体は自分にある感じだ。
 今から、夜寝るまで何時間?
 そんな無意識的な計算も成立しなくなる。
 今、今、今の連続で、時間の流れではなく、「時の移ろい」がある。

 「時の移ろい」
 それは日が落ちて暗くなることや、さっきまでしとしとしていた雨がやんでること、鳥が囀ったり、近所の犬が鳴いたりする、その流れの継続的変化だ。それは数値化して測れない。
 そして均質でもない。常に移り変わっていく生のクオリティ、その変化のリズム。

 それは、僕の中にも流れている。
 おなかが減ったり、テンションが高くなったり、落ち着いたり、眠くなったり、動きたくなったり、それらが
 僕の中を流れる時の移ろい、変化のリズムなのだ。

 時計時間に支配されすぎると、その「内的リズム」「内的時間」がよくわからなくなってしまう。
 おなかへってないけど食事の時間なので食べる。そうすると当然空腹感覚が鈍くなる。
 時計時間から自分を解放すると、「内的リズム」が思い出しやすくなる。
 
 時計時間を守ることは大事だけど、内に流れる時間に忠実であることも大切だ。


 「規則正しく生活する」というのは本来、時計時間に支配されるというよりも、大自然のリズムや、自分の中の時の流れとシンクロして生きると言うことではないかと思う。

 それは常に変わっていく。毎朝6時半に起きるという人は、もしかすると、真夏には五時半に起きたほうが調子がいいかもしれないのだ。
 だから太陽を時の基準にしていた昔の人は、「日の出とともに起きる」ということにより常にそのリズムとシンクロしていたんだろうと思う。

 基本的には文明化されてる先進国ほど、時計やカレンダーに支配されている。

 文明以前。
 無人島に漂着したみたいに、時という概念がかぶせられていない大自然・大宇宙って素敵かもしれない。

 年齢ってのも本来数えなくていいんじゃなかろうか。どうせ、ちょっとづつ見た目は年取っていくんだから。
 実際途上国では家族も、自分でも何歳かよくわからないお年寄りたちがいっぱいいることだろう。

 僕らはなんであれ、数に関してシビアになりすぎた。
 そして数値化できない生のクオリティに関して無感覚になりすぎた。 

 文明以後。
 アスファルトから雑草が芽吹き、高層ビルが密林に帰っていく世界。
 その上に、満点の星空が広がる世界。
 ハンク・ウェスルマンの「スピリチュアルウォーカー」の世界。
 ただ日は昇り、沈む世界。 
 何にも限られない大自然と大宇宙があらわになった世界。
 アメリカも中国も北朝鮮も、
 西暦も、時計も、昭和も平成も、クリスマスも正月も意味をなくした世界。
 人間が世界に押し付けた時空の概念はすべて虚構だった。
 
 そんな世界の美しさと怖さに、時々思い巡らせるのが僕は好きだ。
 時間を忘れた地球を見てみたい。。

 実際、ホントは現在でもそれがこの世界のありのままの姿だと思う。
 
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知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/15 19:26
コメント
廃虚を見ると何故か癒されるのも、同じ感覚ですかね。自然、宇宙の循環サイクルと、人間の作ったシステム。
とらわれてない、調和した野生動物のように生きれたらいいっすねぇ
Re: タイトルなし
>すうぇいさん ありがとうございます♪


> 廃虚を見ると何故か癒されるのも、同じ感覚ですかね。自然、宇宙の循環サイクルと、人間の作ったシステム。 > とらわれてない、調和した野生動物のように生きれたらいいっすねぇ

 そうですね。そういう野生タイムをなるべく持つようにしたいと思います☆







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