ウランの安らかな眠りのために


 いまだ収束のメドもたっていない原子力シビアアクシデントの継続下において、この国は全国の原発の再稼動を着々と進めようとしている。

 日本と言う国は、1945年8月から始まって3度の核の惨事を経験してきた。

 一度目は広島への原爆リトルボーイの投下、二度目は長崎への原爆ファットマンの投下。

 そして3度目が2011年3月11日に発生した東日本大震災によって引き起こされた津波、地震によって起こった福島第一原発の3つの炉心におけるメルトダウンだ。

 スリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発事故、そして冷戦下大国により繰り返された大気圏内での核実験による影響はおそらく全世界に及び全地球上の生命に影響してきた。

 でも、これほどまでに「核」による惨事を経験してきた民族は他にあまりない。 

 そしてその日本で起こった核惨事の記憶が全世界の反核運動を大きく推し進めたであろうし、福島第一原発でのアクシデントがヨーロッパ諸国の原子力政策を大きく転換させた。

 なんだか日本という国はやはり近現代に現れた神道思想が主張するように、世界全体のテーマをホログラフィックに表現するようなある種の「雛形」的な役割を持っているのではないかと思えてくる。

 でなければ、どうしてこんなに小さな極東の国が「核」との因縁が深いのだろうか。
 
 日本は、「核」の現実を、それらの出来事を通して全世界に示したのだ。

 そのメッセージを受け取り、原子力政策を放棄した国もある。

 でも、当の日本でその機運が、そこまでの盛り上がりを見せず、むしろ逆行しているというのはやはり一見とても不穏な現実にしか思えない。

 しかし、核による災害を核兵器や、原発事故に限定しなければ、日本以外にももっと核との因縁が深い民族が存在する。

 その民族のことを思い出したとき、思ったことがある。

 今考えるべきなのは、原子力発電が是か非かという問題であると同時に、それ以前に存在する人類と「核」というより普遍的な問題でもあるのではないだろうか。

 もっと言うと、核兵器や、原子力発電の原料ともなるウラン鉱石、これをそもそも人間は掘り返すべきなのだろうかという問題だ。

 日本人と同じくらい核との因縁が深い民族、それはホピ族を始めとする、ウラン鉱石が埋蔵されている土地に居留しのちにその掘り出し作業に従事させられ致命的な被爆をしたネイティブアメリカンの人たちである。


 


 ホピの居留地から掘り出されたウランによって、広島と長崎に投下された原爆が製造されたことを想うと、日本人とホピ族は、核というテーマを催す舞台の上手と下手に立ってその手首を見えない糸で結び付けられているようだ。

 ホピ族の伝統では、母なる大地の内臓を掘り返すこと(ウラン鉱石を掘り出すこと)を厳しく戒めていた。しかし、土地を取り上げられた彼らは現金収入を得るために、恐ろしく低賃金でウランの露天掘り作業に雇われたのだった。彼らは放射能の危険をまったく知らされておらずウラン採掘の残土によってつくった家屋に住んだりすることでも高線量の被爆にさらされのちに多くの人が命を落とした。

 これらのことを考えると、原子力の平和利用や、戦争抑止力としての核兵器という言説がどうも偽善的なものに思えてきてしまう。

 そもそも、それらの原料となるものを掘り出すときに大いなる矛盾と、犠牲者たちがたくさん生み出されていたのだ。生きるための土地を奪われ、からだを蝕まれた人々が・・・だとすれば、そういった犠牲の上に成り立つ原子力産業、核開発であれば、その先にも同じような生きる土台となる土地や故郷の喪失、人体の汚染がまっているのはある意味当然かもしれない。

 それらは最初から、起こっていたのだ。
 それが掘り出された、その土地で。


 原子力を放棄したら電力が足らない?
 そういうことではなく、そもそも日本人と、あるいは人類と「核」(放射性物質)との付き合い方はどうあるべきだったかという問いが必要なような気がする。

 そしてその答えとしては、そもそも「掘り出すな」というホピの戒めをもその選択に含めることが必要だと想う。例えば国際的に条約で、「核兵器製造、原子力発電に利用するためのウラン、放射性物質の採掘はこれをいっさい禁止する」と定めるのである。

 戦争の放棄、と同じように、核の永久放棄、これを条文化できたらすごい国だと思うんだけど。だいたい「核兵器を持たない、作らない、持ち込ませない」の非核三原則は、原子力産業を廃止しなければ完璧なものにはならないんではないだろうか。そこに発電所があるってこと自体、ある意味核兵器の脅威と等しい。

 ウラン発掘は20世紀に行われたまさにパンドラの箱の開放だったのだ。

 永い眠りから目覚めさせれらたウランは禍津神となり世界を駆け巡った。

 それが起こるべきではなかった、と言っても始まらない。

 良かれ悪しかれそれはもう起こってしまい、それによって多くの悲劇と、学びが、物語が、それによって生まれている。多分、核エネルギーの発見というのは、人がある文明のステージに達したとき遭遇せざるを得ないものとして設定されていたんだろう。

 強大な破壊力、エネルギーを生み出すが、生命に対してはその細胞を破壊し、DNAレベルでの損傷を負わせる物質。強大なエネルギーと、強大な毒性。

 それらとどのように付き合うのか。

 先住民はそれを掘り返すこと自体を禁忌にしていた。
 欧米の文明は兵器として、あまり安全を顧ない発電技術に利用するという選択を行ってきた。

 こういうものを目にしたとき、産業的な発展だけを目的とする文明形態の人々はそれを封印したままにはしておかない。危険を承知で、それを手中に収め、そしてコントロールできると考える。それを眠らせたままにしておけるのは、自給自足を基盤とした質素な生活をしている人々、物質的発展や軍事力よりも大事なものがあるということを認識している民族だけだ。テクノロジーや貨幣ではなく、「土地」によって生きている人たち。

 生命の基盤を脅かすものにはNoと強く言える人たちだ。

 日本が多少なりとも「雛形」としての役割を持っているとすれば、おそらく、僕らはそのような価値観とともに生きるように今後導かれていくのではないかと思う。

 
 



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テレビが写さない真実~金融マトリクスからの覚醒 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/28 20:25
コメント
ウラン堀にネイティブアメリカンの人々が従事させられていた。
かなりショックを受けました。
原発内の作業に外国人労働者が安全性を考慮されないまま安い賃金で働かされていた事実を連想しました。
そして東電の幹部たちは海外へ逃げて行っているそうです。
まあ彼らとて寿命による死からは免れられないでしょうが、、
そして現在原発は停止しているのにこの猛暑の中一切電力不足が起こっていない。
ただ原発推進派の自民党が圧勝したことなどもあり多くの日本人の意識というのは一体なんなんだろうと思うことしきりです。
Re: タイトルなし

 白蓮さん、こんばんは!
 いつもありがとうございます♪

 >ただ原発推進派の自民党が圧勝したことなどもあり多くの日本人の意識というのは一体なんなんだろうと思うことしきりです。

 そうですね~そこらへんのことを考えるとあるべき流れと逆行しているようで、心配になりますね。

 ネイティブアメリカンの人々の被爆や、放射性物質との関わりは宮田雪(きよし)監督の「ホピの予言」という映画で知りました。5、6年位前に都内の上映会で見ましたがとてもいい映画でした。宮田監督は精力的にホピ族への取材を行われていたようですが、震災の前月2011年2月に亡くなられたようです。

 とてもいい映画(というか上質のドキュメント)でお勧めです!


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