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一枚の葉の内面

 今年の4月I先生に再会した時の会話。

 その頃かなり情報シャットアウトモードだったけど、その状態からどこへ向かえばいいのか模索していたときのこと。







 I先生:「M君にはこれが向いてるんじゃないかと思うけど、神を見るのも私の意識、現実を見るのも私の意識、結局私の意識を通してしか見てないんだよね、物事っていうのは。で、神を見れば神になるし、現実を見れば現実になるんだよ。それが我々の意識なんだよね。

 じゃあ我々の意識は現実的なものなのか、神様的なものなのかって言ったら、それは神様に向かうって言ったら神様に反応してることだし現実に向かうってのは現実にむかって反応してるだけなんだ。

 問題は、「私の意識」なんだよ。

 私の意識が磨かれてれば、どうなるかっていうと「これ」がすべてなの。

 「これ」がすべてになるとどうなるかって言うと、世界はどうでも良くなる。



 灰:うーむ


 I先生:「これ」が私だから。

 世界はどうでもよくなる。極端な話しで言うと神もどうでもいいんだよ、「これ(意識)」が完璧だったら。

 でも「これ」がちょっとよわっちいから、やっぱ神に少し頼った方が「これ」もキープしやすくなるって言うことなんだ。

 現実見ればマーヤになるから、これは却下していいわけだ。でも神を見ていれば、その神とのつながりの中でちょっと安心できる。起こることもみこころだとか、そういうおまけがついてくるからね。そうするとちょっと安心していられるってところもある。

 でも本質的には純度100パーセントの覚醒状態にあるときは、自分の意識しか存在しないんだよ。

 言ったらさ、キノコとか食ったことあるじゃない?



 灰:はい


 I先生:キノコ食ってるときって、これが世界だ、になるじゃない?ここだけが世界だって。

 灰:うんうん、そうですね。

 I先生:もうさ、外の世界で起こってることとか、日々の人間関係とか思い出したら、笑っちゃう・・・みたいな。起こってねえよなあ、みたいな、感じってあるでしょ。で、あれってウソじゃないんだよ、ホントの話しなんだよ(笑)

 もし我々がメキシコとかの、山奥の掘っ立て小屋に一人で住んでたら、で、そこで毎日キノコ食って生活してて人々と関わらなければどうなのかっていうと、それって全然ありな話しじゃん。間違ってないじゃん。

 それで自分が生きられるだけ生きて、そこで死んでいくって言うさ・・。

 てことは、それが都会に移っただけの話で、なんでお前らと協調しなければいけないんだ、っていう、そんなルール誰が決めたんだよっていう話しなんだよ、言ったら。

 キノコ食ってると、ああこれが世界なんだよな・・・てなるわけだよ。

 それは何を見てるかって言うと、今の自分の意識しか見てない、今の意識の状態だけ見てるってことなの。



 普段、なんでM君がマーヤになっちゃうかって言うと、他人のこと考えるからなんだよ。
 外のこと考えるからなんだよ。

 それ考えないで、自分の意識の中にいたら・・・・(くすっ)・・・ハッピーなはずだよ。

 ね? 言ったら、M君にとって、今回りにおこってる現実が、現実なんだよ。

 ね?健康保険払ってないくせに、現実なの。



 灰:あははははは(汗)

 
 I先生:俺は健康保険も払ってるし、いろんな税金とかも払ってるけど、でも現実じゃないのこれが。でも確定申告の時期とかがくると3月はマーヤぽくなったりするわけ(笑)

 M君は、自分に正直なんだけど、その社会の流れに沿えてないところっていうのに、多少後ろめたさを感じてるんだよね。

 
 灰:うん、多少ありますね。

 I先生:ね?そこがマーヤになってる。その社会って言うのがM君にとって現実だからなんだよ。これをもっと起こってないことにしなきゃいけないの。

 灰:もっと却下する?

 I先生:うん、もっと却下する。だから、「それは起こってない。自分にとって在るのは、この俺の意識だけだ・・」

 灰:っていう方向性が僕には向いてると。それは神様に向かうのともまた違うんですかね。

 I先生:で、それを神様に向けたときに、それがマーヤにならなければOK!でもそれはね、正直にいうとその日のコンディションなんだよ。

 なんでかっていうと、意識状態って言うのは純度が高くなればなるほどマーヤはなくなるから、もうこの意識だけでOKっていう状態になるんだけど、マーヤがちょっとでも入ってくると純度が落ちてくるから、そうするとちょっと純度が落ちると神様がでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると、マザーがでてくるわけ。みこころがでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると神々がでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると、段々・・先祖とかが出てきて、、、



 灰:笑

 I先生:それでついに純度が完全に失われると、現実が現実になっちゃう・・・っていう。

 なんでちょっとでも純度が落ちると神かって言うと、神があるってことは私と神との間がわかれてるんだよね。分離してる状態だから、それはホントに純度にちょっと混じりっけが、1パーセントくらい混じりけがあると神が出てくるの。で、10パーセントくらい混じりけがあるとマザーとかが出てくるわけだ。

 それはその日のコンディションによるから、「あ、今日神様だな」と思えば、神様って行けばいいし、「今日マザーだな」って思えば、マザーに行けばいいし、「今日は、なんか俺だな」って思ったら俺でいいと思うんだよ。

 でもいえてるのはM君にとって問題なのは、やっぱり現実だと思うから、いかに現実を却下していくかということだね。



 灰:じゃあ、今のいろいろなものを見ないっていうのはそういう感じでいいんでしょうか。


 I先生:そうそう、でそれをやっていてM君の「個」ていうものを確立させていくということ、で、いいんじゃないかと思うよ、俺は。


 あのね、二種類の社会制度があって、いや3種類あってひとつはイスラムの社会制度ね。今日はこれはのけておくとして、あとふたつは日本とか先進国の社会制度、もうひとつはインドの社会制度。
 先進国の社会制度は、働ける人が働いて、とにかく国にお金を納めて年取ったら国に面倒を見てもらうっていう考え方。で、もうひとつの社会制度は、ある一定の年になったら、世捨て人になりなさいっていうインド的な社会制度だ(笑)

 で、これ実はすごくいいわけ。

 世捨て人になった人って言うのは、ダラムサラとかに泊まれるし、お寺言ったらフリーフードにありつけるし、医療も受けられるし、サドゥーになったってちゃんとご飯食べられて、寝るところもあって、病気になったら診てもらえるんだよ。サドゥー、って言ってもね。聖地に行けばそういう施設って整ってるわけ。

 だから俺は、それすごいと思うんだよね。年取ったらホントにすべてから自由になりなさいっていうことが社会制度のひとつの形になってるてことはね。だからインド人ってあんなに気楽にいられるんだと思うよ。


 灰:どうせ世捨て人になるから・・?(笑)

 I先生:笑 そうどうせ世捨て人になるんだからってこと。言ったらこの社会ってものをはなから重要視してないんだよね。それに頼って生きていこうって人がいないんだよ、だから。

 日本人とか先進国の人間の失敗って言うのは、なんとかしてこの国に頼らないと生きていけないって思うから、国の奴隷になっちゃうんだよ。それが、マーヤ。

 だからそういうものの捉え方って言うのを、M君の場合は「起こってない」っていう感覚をもっと徹底させたほうがいいのかもしれない。

 なんか、こう一人前にならなきゃとかさ、なんかそういうことじゃなくて・・・ね。

 だから、最初の会話があれなんじゃん。

 「天職はなんですか? 無職です!」っていうね。

 最初の俺たちの会話が、今に伝わる名言集に残ってるわけだ。

 それがねホント、M君をあらわしてると思うんだよ。



 灰:え・ええ~~~っ(;;)

 
 I先生:だから社会的な地位を得ようとかって考えるよりも、逆にどうそれを却下できる意識を作れるかってことだと思うんだよ。これから先社会からお金をもらって生きていくにしてもね


                                   2013年 4月某日






 「天職は何ですか? 無職です」と言うのは

 もう9年くらいは前になると思うけど、東京に着たばかりの頃、僕はやはり保険も年金もちゃんと自分で払える週5日間の仕事につかなきゃという思いも強く残業がバリバリある出版社で働き、三鷹から御茶ノ水まで毎朝早く中央線に乗って通っていた。でも次第に死にたい気持ちが強くなり、耐え切れず辞めた。

 その直後にいったI先生の瞑想会で「いったい天職はなんなのでしょうか」と質問した。

 僕としてはどういう仕事なら向いてるか、続けられるかを知りたく、「静かな環境で働ける仕事がいいね」とか、「クリエイティブな仕事が向いてるよ」とか、「君は人を癒す使命がある!ヒーラーになりたまえ」とかなんとかいう答えを期待していた僕は、先生に

 「今は何してるの?なに、無職か。それなら今の天職は無職だ!

 というのを聴いてかなり腰砕け状態になったのだった。
 
 これが向いてるというようなことは一切教えてもらえなかった。

 でもそうためらいなく言い放たれると、ある種爽快感と、ちょっとした安心感があったのも事実だ。

 それからいろいろな仕事をしてみたし、ほぼ働いていない期間もずいぶんあった。
 今の仕事は3年以上続いてて、一応自活できている。
 でもなかなか社会保障とかのほうまでちゃんと払えなくて、なんとなく半人前のような意識とか、先行きが不透明で不安だと言う気持ちもあり、長い間会ってなくてもi先生はその辺がマーヤになってることはすぐにわかるようだった。

 あと、人のことを必要以上に考えるとマーヤになるというのもここ数ヶ月でずいぶん理解が深まった気がする。

 結局あの人にああ思われてるんじゃないかとか、あの言葉が気に障ったんじゃないかとかずっと思ってると、自分の内面性というか意識性に深く入ることが出来なくなる。
 
 外側のことを考えすぎると、そこからエネルギーが流出して、意識の覚醒感がまったくなくなってしまうのだった。
 その疲弊感を紛らわすためにアルコールに頼ったりしていたことが、介護の仕事を始めてから増えた。それがマーヤであるということが、i先生に久しぶりに会ってはっきりした部分もあった。

 基本的には外面性に捉われるほどにやっぱり、先生の言う意識の純度は低下していくように感じる。

 外面性というのは、人間関係とか、社会の常識・非常識とか、不安を感じるようなニュース、とか。

 内面性は、夢やイメージ、平安や喜びのフィーリング、愛、などがその浅い層に存在しており、その本質はやっぱり神(意識)なのだろう。


 ラーマクリシュナとかが、「常に神のことを考えていると言うことが意識のエネルギーを保持することだ」というようなことを言ってるのは、真の内面性にフォーカスし続けることが、外面性というこの世界の幻にエネルギーを垂れ流さないことにつながるからだと思う。




 人間関係の外面性という側面において、多少ぎくしゃくいしていても、実はその内面性においてはすでにつながっている。意識というもっとも内奥の場においてすべては一体だというからだ。
 
 それは一本の大木のようだ。

 枝先のほうで葉っぱ同士が風になぶられて互いにぶつかり合い、罵り合っているように見えたとしても、視線をズームアウトするとそこには実は葉も、枝も、幹も、根も一体となった一本の樹しかない。

 僕らの意識は常に小さな一枚の葉としての自分に同化しているので、その認識からすると場合によっては樹全体が敵に見えるし、自分にぶつかってくる他の葉っぱはわずらわしい。

 樹としての全体に、自分の意識をシフトさせることが、神を想う事、神を知ることなのだろう。

 一枚の葉っぱの外面性は取るに足らないものかもしれない。

 他の葉がぶつかり、虫たちにたかり食い荒らされ、風雨にさらされる。

 あの葉が散ったとか、あの葉がむかつくとか、あの葉は才能があるとかそんなゴシップ話で樹はもちきりだ。


 でもその内面性は常に変わらぬ不死の巨木であり、すべての葉っぱたちであり、すべてを生かす命そのものだ。


 それを知るには、葉っぱたちは外側に映る物質世界の幻(マーヤ)をやさしく退けて、内面性に向かわねばならない。




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師匠との対話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/02 14:52
コメント
内面性を見続けていられる人はいいですね。

どうしてもマーヤのほうから、そっち見てんじゃねえって力が働くんですけどw

人のやることはこのマーヤというか思考の出所を見てしまうことひとつじゃないですかね。

無、神、真我って呼ばれてる場所からただ無意味にマーヤがぼわぼわわいてきて、それが現実となって、心がとらわれてただけなんだと知ると、とたんにマーヤ、思考、現実は力を失っちゃうように思えます。

天職は無職、自分が何をしていても、何をしていなくても、自分は無職だという意識を自分も常に持てるようになりたい。w
 ななし様

 >どうしてもマーヤのほうから、そっち見てんじゃねえって力が働くんですけどw

マーヤが、なんか言ってるな・・・ということですよね。

 その認識を保っていれば、多分マーヤは力を失ってくるんじゃないでしょうか。

 現象などをマーヤ(幻)とネーミングすること自体が、その支配力を徐々に弱めてくれると思いますよ♪

 マーヤを解く方向、神とひとつでいる方向性、このふたつをバランスよく保つようにしています。

 お互い無職の道を究めましょう!(^0^)/



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