天地‐人のニューヴィレッジ

 ■天地の巡りの中生きているらしい


 寝起きに、ある気づきというか「考え」のようなものが心の中を漂っていることがたまにあるけど8月の半ばくらいに「天地の巡りの中生きている」という言葉とそれにまつわるいくつもの「考え」がずっと回転している朝があった。
 
 それによると今を生きる僕らの、本質的な悩みの大本は、その天地の恵みによって生きているという実感がまるでないことからきているようなのだった。今回はその寝ボケた頭に回っていた「考え」を整理して書いてみたいと思います。

 

 ■「何によって生きていると思っているのか?」


 では、天地の恵みによって生きていると言う実感がまるでないとすれば、都市文明に生きる僕らは何によって生きていると実感しているのか?

 それは多分、食料品を手にいいれる店舗(スーパー、コンビニ、小売商店etc)であり、水道(水道施設)であり、電気(電力会社)であり、ガス会社であり、情報を提供するメディア(TV、ネット含む)だ。

 そしてつまるところは、それらからサービスを得たり、物を得るための対価として支払う貨幣だ。

 その貨幣を得るために働ける労働環境(工場、企業、公的機関、自分が経営する店舗)によって生きているという認識が大半の人に共通のものとなっている。

 僕ら都市型文明人は、天地の巡りによって生きているとはほぼ実感していない。

 貨幣と、仕事によって生きていると実感しているのだ。
 

 ■人は、生かされてるものに従順になる


 人は自らを生かすものに従順になり、無意識的に忠誠を誓うように出来ており、都市型文明人の場合、それは「天地」ではなくこれら現代日本のシステムと、「貨幣」(実質的には絵と数字が印刷された紙や金属)である。

  大地や、海、自然の恵みによって生かされているという認識は自らの手で魚や海藻を獲ったり、大地に種をまき農作物を収穫したり、井戸水を掘ったり、水源地から水を汲んできたりという経験からしか生まれようがない。 
  無農薬や自然栽培の野菜さえお金を出せば、遠い場所からいくらでも宅配されるという環境の今、それらは汚染されていない豊かな土地と水なしには成立しないということさえ、僕らは忘れずにいられるだろうか? 



 ■なぜ天地の巡りの中で生きていると考える必要があるのか?


 しかしどうしていけないのか?

 種をまいたり、水を汲んだり、薪を割ったり、火を起こしたりせずとも、このシステムの中では生きていける。
 極端な話し、お金さえあれば、家の中でじっとして一日に十数メートルしか歩かなくても、生きてゆけるのだ。
 足元の大地を命を支えるものとして敬い、空から落ちてくる雨を讃えなくても、確かに僕らは生きていける。

 それのどこがいけないというのか?

 おそらくそれは、人が自然のエネルギー循環とあまりにも切り離された場合、このシステム内部において価値があり、見栄えがいい虚構の自我を探さずにはいられないからだ。

 自然のエネルギー循環の中で生かされているという認識がはっきりしたものであるならば、「天地の巡りの中、生かされている自己」というものだけで本来人の自我は安心するものではないかと思う。

 しかし、それが出来ない場合、人はこのシステム内部で機能する、価値のある自分を模索する。

 それは自ら、自分の頭や足を切り離した人間が、何か出来合いのガラクタの中からその代用となるものを探して無理やりかけがえのない自分の頭や足のあった箇所にすげ替え、くっつけようとしているかのようなグロテスクさと滑稽さがあるように思える。

 僕らは、このゲームの最初から迷い続けるように定められていた。

 ある意味、この時に生れ落ちたときから、そうなのだろう。
 
 天地の中の自己を見出さない限り答えはない。
 本来その中では、生はシンプルで、自明のことだったのではないだろうか。


 ■天地‐人


 天地と言う概念について考えてみる。

 天は、見えない「大いなる意識」、摂理、知性、あらゆる英知を含んだサムシング・グレート、今、僕らの心臓を動かせているその「意志」生命力の本体、可視的宇宙の『種』である。

 地は、惑星と恒星、大自然、海、大地、山河、動植物、そこから得られる海の幸、山の幸、農作物などで天の意志が人を介さずより直接的に顕現したものだ。
 天が『種』とすれば、地は『樹』である。天は父であり、地は母だ。

 その間に『人』がいる。

 それが僕らの本性だと思う。

 都市文明に生きる僕らはなぜか、自らが「人」により生かされているという認識も希薄になりつつあったようだ。

 都市文明は本質的に、消費者としての個(虚構の自我)を尊重し、他者よりも自分を一ランク上に置こうとする衝動によって購買意欲を促進するという側面をも持っているからかもしれない。
 
 あるいは10代から始まる、競争原理に基づいた選別のプロセスにも原因があるかもしれない。

 あるいは、他人の醜聞や、人を小ばかにすることがエンターテイメント化していたり、大企業による人を道具化した使い捨て、自己責任社会という名の国家的責任放棄社会にも原因があるのかもしれない。

 2011年の、3・11をきっかけとして『絆』や『ひとつになろう日本』という言葉がメディアに広がった。

 それらは巨大な災害に直面した結果として出るべくして出てきたキーワードだと思うが、どういうわけか日本人の場合助け合いの精神は容易に、「一緒に見てみぬ振りをする絆」や、「ひとつになって口をつぐむ日本」にも転化するような危険性を持っているように僕は感じてきた。

 それが極端になったのがみんな一緒に放射能が含まれた農作物を食べて、被災地を応援しましょう!という「食べて応援」運動だった。

 この項の始め、天地人ではなく、天地と人をハイフンで結んだのはこのようなことと関係がある。

 確かに人は、他の人や、社会自体に生かされているのであるが人の集団同調性というのはあっというまに全体をおかしな方向へと押し流していく。

 天と地に間違いは存在し得ないが、人は誤る。
 とすれば人との「絆」(それも集団同調的な類)を至上のものとするのは、明らかに誤りだ。 


 ネイティブアメリカンのある部族では、成人になるイニシエーションとして大自然の中にただひとりで赴きそこで一人サバイブし、ビジョンを得たりすることで一人前とみなされる。

 ここで面白いのは、このイニシエーションは、「社会へのイニシエーションではない」と言う点だ。

 社会(人)以前にある、天と地へのイニシエーションであり、自然の中でエネルギーを得て一人生きられる、ということが大人になるということだったわけだ。

 そして社会(部族)とは、個々天地のイニシエーションを通過したものたちが構成する、二次的なものだったのだろう。
 ところが日本社会の場合伝統的に元服、成人になるということは社会的な責任を負う、ということと等しくみなされている。
 働く、であるとか、礼儀であるとか、モラルであるとか雑多なものがたくさん「大人」という概念を構成しており、そのために一人前になるとはどういうことかよくわからなくなっている。

 しかしそこにはやはり、自分で生きるだけのエネルギーを調達できる、周りに頼らずともこのシステムの内部でエネルギー(貨幣)を自分で調達して生存していける、ということが「大人」という概念には通底している。

 都市文明型の先進国の場合、天地の中で生きられずとも、社会の中で生きられれば「大人」になれるということだろう。


 ■近くて遠い、命の水


 伝統的なネイティブアメリカンの基準で言えば、現代の日本はそのほとんどがイニシエーションを通過していない未熟な子供によって構成された部族ということになるかもしれない。 
 
 生きていくうえで一番大切となる飲み水さえも、水道や、市販のミネラルウォーターを買うと言う手段をとらなければ、どこで手に入るのかほとんどわからないという事実に少し愕然としたことがある。

 基本的に水を得るには、


 ①雨水を集める

 ②井戸を掘る

 ③湧き水、川、湖などの水源地を知っている

 
 の3つくらいしかないと思うけど、僕の住んでる場所ではこのどれも簡単に出来そうもないのだ。
 現状では僕もやはり天地の中で生きるというイニシエーションに合格するとは思えない。

 福島第一原発から放出された放射性物質は、雨となって東北から関東にいたる広大な土地をチェルノブイリの放射線管理区域レベルにまで汚染した。事故直後には東京でも飲料に不適当なほどの放射性物質が検出され、今でも微量が各地で検出されている。

 このことが教えるのはシンプルな事実だ。
 天地の巡りを汚染すると、人為的なシステム内部にも必ず影響が及ぶ。

 あまりにも当たり前のことだけど、僕らはこの事実を見てみぬふりをしてきた。
 案外このような負の影響によってこそ、もしかすると天地の巡りの中で生きているという実感をようやく僕らは学びつつあるのかもしれない。
 通過儀礼を未経験の日本部族というある意味こどもの集団にとっては、それこそが天地のイニシエーションなのだろうか。 

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 高尾山蛇滝口付近にある、水汲み場。

 都市部にもこういう地下水などの供給場所が必要だ。なぜ井戸を埋めてしまったのだろうか。。。



 ■実感を得るためには


 整理してみると、天地の巡りの中で生きているという認識を持つことによる利点はふたつある。

 ひとつは、そうすることで初めて真の意味で、環境保護や自然と調和したエコロジカルな生活というものに本気になれる可能性があるということ。

 ふたつめは、そうすることで初めて、システム内部でのみ価値をもつ虚構の自我認識から、天地の狭間で生きると言う本来の自己意識にシフトできるということ。

 ひとつめは外面的な利点、ふたつめは内的な利点だ。

 実はどんな状況下においても、人が天の意志において生きているという事実は変わらない。

 今、僕らがこの自分の日常と言う人生の一コマをまるで当たり前のように眺めていられるのは、大本の『種』の生命力と「生きよ」という意志があるからこそだ。
 今、僕らがここにいるのは大いなる意識、父の意志があるからだと僕は信じている。
 <種>とのつながりがあるからこそ、僕らはこのように生きて、この世界・<樹>をこの目に映している。
 それがどんな世界であったとしても、だ。
 
 より微細なエネルギーほど、人の管理を超えていたるところに遍満している。
 第一に<種>の意志、そして、太陽光や、呼吸に必要な酸素もそうだ。
 それらを意識することで、都市に生きていてもわずかながらは天地の恵みで生きているという感覚を得られるだろう。 

 天はいつでもある。
 問題は、地との絆だ。
 僕らは文字通り、大地により生かされてるという認識がないがために、「地に足がついていない」。
 さまよえるユダヤ人のような心持ちで漂泊の日々を生きている。
 
 もっとも実質的な答えは、大地を耕したり、井戸を掘ったり、採集をしたりして自給自足的な生活を送ることだと思うけど、誰にとってもすぐに実行できる答えではない。

 僕にとっては、今いる場所でできることといえば前にも書いたけど、いろいろな分野での自家発電レベルをあげていくということだ。
 
 情報・思想の分野ではなるべく定期的にTVやネットから離れる時間を設け、直観的に感じることや、ひとりでに心に入ってくる情報への感度を研ぎ澄ませること。誰の語ることでも、一歩引いてその情報を吟味すること。

 肉体やエーテル体のレベルで、自分の体を活性化できるようなエクササイズをみつけて、行うこと。

 あとは手造りのレベルをシフトさせていくことだ。

 いつも毎食外食や、スーパーのお惣菜を買っているのなら、一食くらいは自炊してみる。
 
 何回かお酒を造ってみたことで、酵母の働きなどが少しわかってとても勉強になった。
 僕らの生活を成り立たせている各要素の根源に向かって意識を遡行させていくと、とても多くのことが学べるのだなと思った。
 それは机上の知識ではなく、実生活の基盤を成り立たせる生きた知識だ。 
 そういう領域に少しづつでも触れていくということが今後、必要なのではないだろうか。
 手造りのレベルを少しづつ、根源に遡行させていくことによって少しづつでも大地に近づけるように思うのだ。

 しかし究極的には、マクロのレベルで大地と結びつく機運が盛り上がらない限り、この国は相当ヤバイことになってしまう気がしてならない。

 TPPに参加したり、衆議院選で現与党が圧勝したりしている様子を見ても、この件に関しては政治にはほとんど期待が出来ない。個人的には政治や、オリンピックのようなイベントに期待する時代はもう終わったと思っている。

 そうすると自然的に有志のグループ、あるいは個人が大地と結びついた暮らしを実践するしかないわけで、結局話しは村づくり、コミュニティつくりが必要だということになっていく。

 村と言うと前時代的な感じがするけど、それはかつての生活形態に退行するのではなく、大地との絆が重要だと気づいた人が前向きに今あるテクノロジーも取り入れつつつくりあげるようなものになる。

 古く見えて、実は新しい村、ニューヴィレッジ、その出現が必要とされている。

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アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/14 19:51
コメント
天地によって生かされてるはずなんですけど、どうもふつうの人間のような気がするときもありますよね。

なんでそんな勘違いが発生したかは・・・何か意味があるんでしょうかね。
 pb‐043071様

 生かされているっていうのが普通の人間の姿だと思います。

 多分あまりにいろいろなもので媒介されてるので、それがわかりにくくなってるだけではないでしょうか。

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