天地‐人のニューヴィレッジ③

 ■ 持続可能性と接続性

 社会や環境を論じるときによく持続可能性(サステナビリティ)という言葉が使われる。

 「持続可能性」とはあるシステムが、環境との相互作用の中で環境を破壊しすぎることなく、そのシステムも破綻することなく継続してゆけるということを意味する。

 この言葉は持続可能なエネルギー政策、とか、持続可能な介護政策、とか持続可能な結婚生活(?)とか、いろいろな個別分野でも使えるけど、すべてまとめて持続可能な社会あるいは文明ということが結局は大きな論点となる。

 言い換えると、先進国のシステムはほとんどすべて持続可能ではない、ということで北欧の数少ない国などが持続可能な社会のモデルとして研究されているのが現状だと思う。

 しかし僕がちょっと思ったのは、すごい極論なんだけど、例えば映画マトリクスの人間がバーチャルリアリティにつながれてその人間の生体エネルギーがコンピューターに供給されている状態っていうあれだって持続可能だよなーということだ。

 「マトリクス」の持続可能性の何が問題かというと、人間が意識を完全に眠らされていて、現実に「接続されていない」、そして自分自身の意志をもたずその実存をマシンに「利用されている」ということだ。

 ということは、映画の話ではなく現実においても持続可能性以上に、リアリティに接続されているということ、そして主体性を与えられているということが重要なのだ。


 街が巨大な災害で一瞬にして破壊されるのはハリウッドSFだが

 街はつつがなく続いていた、しかし市民たちはすべて眠っていた、、、というのもかなりホラーである。


 僕の考えでは、リアリティに接続されているということは天地とつながっているということであり、個々の主体性というのは実はそれを土台にしてこそ培われるのではないかと思う。

  持続性とは、外面的結果であり、接続性は内面的現実、精神性(あるいはスピリチュアリティ)だ。


 ■ 自己疎外の文明




 海や山、自然の中に入ったときに感じる「あ~気持ちいいー」というさわやかな感覚と、一体感。

 ささいな心配事ならすぐに心から拭い去られてしまうような感覚。

 それって、社会的存在だと思い込まされていた人間が、自然の存在、もっと大げさにいうと宇宙的存在だということを思い出す小さな瞬間なのではないかと思う。

 高山に登る登山家や、深い海にもぐるダイバーが体験するようなpeak experience(至高体験)それは近所の公園や川原で味わう感覚の拡張版に過ぎないのかもしれない。

 森を歩いていて気がつくことは、そこが生命に満ち満ちていること。
 足元の土の中には虫や微生物がいて、頭上を巨木の枝が覆う。
 一体感はこれら無数の生命意識に包まれているということとも関係あるのだろうか。

 生命により包まれていると、一時的に、非接続文明の中で構成された虚構の自我は働かなくなり、宇宙的人間が顔を覗かせる。

 なんの仕事をしても続かなかったりしたとき、僕はこの無言の自然や、生命にかなり慰められたと思う。

 太陽は、どんな状態の僕らでも無言であたためてくれるし、お金を払わなくても夕日は空をすばらしくきれいに色づけてくれる。それはとてもありがたいことだ。

 この非接続文明の中では僕らはアスファルトの上を歩き、コンクリートの建物に住んだりしている。

 どうして土を塗り固めてしまったのか。

 人が自らつくりあげた街の中で疎外を感じ、非接続文明内での虚構の自我と、価値と、他者の承認を絶望的に求めることになったけど、

 それはただ、生命意識の欠如した世界に生きていると言う、ただそれだけが大きな要因だったのかもしれないと思う。

 結局その中では、「自分自身」と接続すること、生命としての自分自身さえ忘れてしまいがちなのだ。

 なぜなら生命とは広がりであり、小さな部屋に閉じこもって暮らしているのはその一部に過ぎないからだろう。

 以下、 デヴィッド・スズキ著「グッドニュース 持続可能な社会はもう始まっている」 まえがきより

 デヴィッドにとってのもうひとつの転機となったのは、カナダの先住民族であるインディアンとの出会いです。デヴィッドが特に好んで語るのは、ハイダ族のリーダーであり、文化伝承者であるグジャウとのエピソードです。ハイダ族の住む島々での原生林伐採を体を張って阻止しようとしていたグジャウを、テレビのキャスターとしてインタビューしたデヴィッドはこう尋ねました。「あなたはなぜ命を危険にさらしてまで伐採を止めようとするのか」。グジャウはこう答えました。

 「木が刈られても私は死にはしないだろう。しかし、その時私はもう私ではなくなってしまう

 森なしに、川なしに、海なしに自分は自分ではありえないというこの先住民族の世界観は、デヴイッドの中にいまだ根を張っていた西洋近代の科学的合理主義に痛烈な一撃を与えました。



 ■ 世界のエコビレッジ


 前回までの記事で、今後現れてくるであろう自給自足を中心としたコミュニティをニュービレッジと呼んだけど、僕がわざわざ命名するまでもなくそのような共同体は世界にたくさん存在して主に「エコビレッジ」と呼ばれているようだ。

 構成員が10名程度から大きいものになると1000名以上の規模まで世界には15000を越えるエコビレッジはすでに存在するとも言う。


 世界的に有名なのは ダマヌールとフィンドホーン。

 ダマヌールはオベルト・アイラウディ(通称ファルコと呼ばれる。2013年6月死去)という天才肌の人物がイタリアトリノ近郊につくりあげたコミュニティだ。
 新たなヒーリング技術のセミナーを各地で開催したり、エソテリックな思想に基づいた「人類の神殿」などが有名だ。人類の神殿のデザインはあまりにすばらしいので、ネットでも一見の価値がある。

 



 

 フィンドホーンはアイリーン・キャディら3人の創設者が「神の導き」と彼らが呼ぶ啓示をもとにして創造したたコミュニティとして有名だ。ドロシー・マクリーンという創設者の一人は主に自然のエネルギーとつながり、そのエネルギーは彼女に、「生命の霊、人間、そして自然が力を合わせればどれだけ可能かを示すために、ぴったり七年間畑からは驚くほど大量の収穫が得られることを約束した」*という。約束どおり、畑は百花繚乱となり野菜は驚くべき大きさに育った。畑は有名になり、世界中からその噂を聞きつけた人が訪れるほどになり、その畑を核にしてのちに共同体が形成される。

 *キャロライン・メイス著「七つのチャクラ」より

 印象としては、ダマヌールは建築物やその秘教思想などが特徴で、フィンドホーンはよりピュアなナチュラリズムに特色があるように思える。 



 エコビレッジ間のネットワーク構想もある程度存在しているようで、僕が思っていたよりもこの分野はたくさんの人が活動し前進しているようにも思えた。


 ■ ニュービレッジと、オールドソサエティの狭間で


 自給自足コミュニティなどで検索していて、伯宮幸明(たかみや さちあき)さんといういう方のサイトにたどり着きこのページの情報がとても参考になった。
 エコビレッジについても、この記事のシリーズで僕が考えてみたことととても考え方が近い部分があるようだった。









 ちょうど伯宮さんのブログにがスピリチュアルテレビというネットテレビに出演するという情報が載っていたので視聴してみた。その回のタイトルは、「旧勢力の暴走からどう私たちを守るか」というものだった。

 伯宮さんという方は、震災前栃木で自然農法に基づいた自給自足生活をおくっていたけど、原発事故によって滋賀に避難して今はそこで農的な暮らしを実践されているということのようだ。

 結局、次の時代に向けた地に足の着いた農的な暮らしを実践していたところをほとんど人災と呼べるようなあの事故により安心して生活できる土地を奪われたということ、それから2年たち各地の原発を再稼動する動きがあることなどがこの番組の中で伯宮さんが訴えたいことの核にある。

 それはいくら個人やグループが新たな村・文明・文化を形成しようと努力しても、現段階ではそれは日本国家や自治体と言う枠組みの中でアクションするほかなく、それはそのままこれらのシステムの法や、政策によってその存続を大いに左右されるということを意味する。

 わかりやすい話し、このようなエコビレッジムーブメントが拡大しても、それと平行して旧システムの枠組みでは原発が次々に再稼動し、またどこかで巨大地震が起こり原発が再び破壊されるとあたらしい村づくり、地に足の着いた生活が破壊される、新たな文明の足場がなくなる、ということになる。

 もともとニュービレッジと、オールドソサエティは要所要所でバッティングすることはその性質上避けられないのかもしれない。

 伯宮さんは、食料、水、エネルギーのほかに、医療、教育などの分野でもそれらを新しく「自給」していくことの大切さを話しているけど、オールドソサエティの「法」では文部省により認可された義務教育を意図的に受けさせないことは親の義務の放棄になるし、医師免許を持たずに医療行為を行うことはもちろん罪になる。
 つまり完全に新たな文明を勝手に創造する、ということは犯罪行為になってしまうのだ。

 今は犯罪ではないことも、新たな法律などをつくられると、自主的な動きが封じられてしまう可能性がある。

 だから完全にオールドソサエティから目をそむけるのではなく、新たな希望の芽をつんでしまう様な政治の動きなどには声を上げることの必要性も動画の中で話されている。


 ■ 人間関係のエコ学


 都会で生きるということは、貨幣によって生きるということでもあり、少しは孤立していたりしても仕事さえしてれば生きていけるという面はある。
 しかし、もしかするとそれは僕らが人間関係のエネルギー学に無自覚でも生きていけてしまう、という負の側面をもっているのかもしれない。
 付き合う相手に必要以上にエネルギー的負荷をかけたり、不快な思いをさせるパターンを自分が持っていたとしても都会の距離感の中ではそれが修正される機会もないまま暮らしていけてしまう部分がある。

 それは持続可能ではない対人関係だ。

 持続可能ではない社会では、持続可能ではない対人関係が幅を利かせるのかもしれない。

 しかし、共同体の密な関係で生きるなら、それぞれの構成員が自分の対人関係のエネルギー学に精通していなければ多くのトラブルが起こるだろう。

 そこでやはり「持続可能な」エネルギー的関係を築く必要性を、個々人が認識している必要がある。

 「持続可能」ということは、やはり特定の人に負荷がかかってないことだと思う。

 自分も相手もウィン(win)・ウィンの関係を築くことを理想とするアサーションテクニックでは、自己主張のかたを3つに分類する。

 ひとつはアグレッシブ。
 これは自分ウィン・相手ルーズあるいは自分‐善(正)・相手‐悪(誤)という意識に基づいたもので、一方的に怒鳴ったり、好かしたりして、自分の意志だけを主張、対話する意図を欠いた態度だ。

 もうひとつは、ノンアサーティブ。
 これは相手の態度や関係性に違和感を感じても、それを表現せず、抑圧する、あるいは見てみぬ振りをする。我慢する。しかしこれは自分・ルーズ、相手・ウィンという認識になりがちで抑圧された怒りなどを蓄積し、爆発するということにもつながりやすい。

 アグレッシブと、ノンアサーティブは紙一重だ。

 これらはどちらも、長く続くと、持続可能ではないエネルギー的関係だと言える。
 日本の社会は基本的にノンアサーティブというアンバランスを基礎にして回っている。


 ■ 持続可能な介護て・・・(余談)


 持続可能性という言葉をもてあそんでいると、やはりそれを今やってる仕事にもあてはめて、「持続可能な介護」ってどういうのだろうと考えてみたくなる。


 僕の仕事は病気や事故などで障害を持つ人が対象の、在宅介護ヘルパーなので、朝に利用者の自宅に行って、9時間~13時間生活のサポートをするということがミッションなわけだけど、基本的にこのヘルパーと言う仕事はノンアサーティブになりがちで、むしろそうあるべきだというポリシーを持っている人もたくさんいるだろう。

 相手は肉体的ハンディキャップを持っていて、精神的にも健常者に対するおそれを持っているという場合が非常に多い。その恐れが、ヘルパーに対して支配的な態度をとらせたり、攻撃的にさせたり、逆に極度に依存的、卑屈な姿勢になってしまうという場合もあると思う。

 だからヘルパーと言う立場にあるなら、多少理不尽なことを言われたり、されたりしても「はい、はい」と寛容な気持ちでサービスを提供しているべきだというのだ。

 このことに関しては、僕もある程度はそれも仕方ないのかなと思うし、いちいち「その言い方はおかしい」とか「失礼なことを言わないでください」と反抗していたら仕事自体がなりたたないというところがあるのは確かだ。というのは障害を持っている人は、健常者の常識とはかなり異なった意識で生きている人が多いからだ。(もちろんすべての人がそうではない)これは差別でもなんでもなく、人間環境が異なれば、違う常識を持つようになるということに過ぎない。むしろその『違う』ということ、何が僕と異なるのか、それをはっきりみつめる意識がどうしても必要になる。

 どのようなプロセスの果てに、その人が僕らと異なる「常識」を持ち、その結果時には人を不快にするような言動をしてしまうのかということの理解がその人の気持ちや、人間性に寄り添うことになるからだ。

 でもおかしいことに対しては、やはり言わないと、逆差別というか逆虐待(?)みたいなことが常態となり結果ヘルパーが燃え尽きてしまうということも起こる。

 在宅介護は密室の人間関係で、肉体的に利用者は弱者なので、ヘルパーから障害者への虐待が起こると同時に、利用者側からノンアサーティブになりがちなヘルパーという役割への情緒的な虐待も起こりうる。ただそれはたいてい肉体的な被害ではないし、仕事柄仕方ないという認識からあまり公にされないだけだと思う。

 そのようなトラブルは、一日10時間とかをかなりの至近距離で密着して過ごす(障害の程度にもよるけど)という普通親子とか、彼氏、彼女じゃないとないような密着度により距離感が計りづらいということとも関係してる気がする。

 詳しい詳細は書けないけど、僕が最近聴いたケースではちょっとしたことが原因で利用者がヘルパーを頭ごなしに叱り、それに対してヘルパーが反抗したことにより何年も続いた関係が壊れてしまい、そのヘルパーさんはその職場を去るということがあった。とても頑張って仕事をしているヘルパーさんだと知っていたので、それを聴いてとても悲しい気持ちになった。

 こういうことはどちらに問題があると簡単に言える事じゃないけど、ただ思うのはそれは持続可能な介護じゃなかったんだろうなということである。
 どこかに歪みの蓄積があり、ノンアサーティブの歪があり、禍根があり、激しいストレスがあり、それがふとしたことで自分でも制御できないうちに破裂したのではないかと想像する。

 もしそうなる前に、誰かに相談できたら、そうはならなかったかもしれない。

 このことをきっかけにヘルパー同士の意見の交換のミーティングのようなことが、前より頻繁になったみたいだけど、そういう場で感情や困ってることをシェアするというのはすごくやはり大事なんだと思う。

 たとえば、いつも不機嫌そうな顔をしてる利用者さんだったとしても、それが自分に対してだけではないということがわかるだけで気持ち的にはかなり楽になるからだ。

 介護というのは1対1では、かなりのプレッシャーで押しつぶされる可能性があるものだと思う。
 自分の背後にサポートしてくれる集団がいると知ってると知らないとでは、感じられる心強さがかなり違ってくる。

 そのようなミーティングと同時に、もしもその利用者が平均的な知性と、自己意思をもっている状態ならヘルパーに対する研修と同時に、利用者に対しても簡単な研修を行うほうがよいのではないかと僕は思う。

 そのような研修を双方が行うことで、お互いが陥りやすいアンバランスな関係や、トラブルを事前に予防できるのではないかと思う。

 それは利用者に対する負担ともなるかもしれないけど、ある意味人間と言うそれぞれ個性を持った複雑なものを派遣して、「さあ、好きなように使ってください」と言うほうが不親切で、簡単な「取り説」くらいは事前に渡したほうがよいと思うのだ。




 かなり余談になったけど、人が生きていて、病気になったりする限り、エコビレッジでも介護と言う課題はあるだろうし、その介護も多分今までとは異なった新たな枠組みを創造しないと成り立たないと思う。介護も人間理解に基づいた研修を利用者‐ヘルパー双方に事前に行えば、ずいぶんクオリティが向上するはずだと思う。



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アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/30 20:56
コメント
魂(心)で感じる喜びと脳ので感じる喜びとは違うのでしょうかね

自然から離れる事は、魂を退化させる事なのかもですね
 すうぃえいさん

 コメントありがとうございます☆

 現在の文明は小さい箱のようなリアリティ(大自然と異なったリズム)に、意識を限定化させることで成り立っているのではないかと思います。

 本来、人は無限の中を生きていくような存在だと思うのですが。

 その無限の内部に置かれた、小さな「箱」の内部のリアリティにあまりにも同一化してしまっている。

 そんな感じがします。

 「箱」は人が無限を避けるためにあってもよいものです。

 でも、それだけが現実だと思うとまた困ったことになります。

 日常の中にある無限の命を感じながら生きたいですね^^

 「箱」の外側のリズムと気配

 命はそこから来るわけですからね

 

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