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天地‐人のニューヴィレッジ④

 ちょっと外に出て、動物や鳥や木や雲に感謝し、本気で風を感じて、本気で雨に触れ、この地球上で人間として生きるとはどういうことなのかを本気で思い出したら、ここが私たちのもてる唯一の惑星だということに気づくかもしれない。 

 ジョン・ヤング  「グッドニュース」デヴィッドスズキ著 より


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 『箱』の中の脳


 一応、このシリーズのまとめとして今回の記事を書いておこうと思うんだけど、このシリーズを書いてるうちに考えていたことのひとつは持続可能な社会とは、あるひとつの文化形態であると同時に、その背後にある形態の意識が、もっと即物的にいうとあるパターンの脳活動が存在していなければならず、それはどのようなものかということだった。

 思い至ったのは、持続可能な社会とは、意識が本当に自然とコネクトした「接続型文明」でなければならないということだったけど、このことを別の側面から補完しさらなるインスピレーションを与えてくれるような文章に読んでいた本の中で出会ったので紹介してみたい。

 その一連の文章はデヴィッド・スズキ著「グッドニュース」の最終章にあった。

 そこでは、アメリカニュージャージー州で原生自然理解学校という、子供たちに自然の中のサインを見つけたりその中で生きる方法を教える学校を運営しているジョン・ヤングという人物の言葉が紹介されていた。以下その場所の引用。

 ヤングは、四十代前半の男性で、小柄で痩せ型だが、エネルギッシュで活気に満ちている。彼はこう話してくれた。
 
子供たちがコンピュータに向かっているときの脳波を調べてみると、脳の中のごく一部が局在的に使われるだけだということがわかります。一方で子供が庭に出て、ボールで遊んだり、カエルを捕まえたり、木に登ったりしているときは、脳全体に電気信号が送られています

 今や、人々が人工的で制限された対象ばかりを重視することなどから、私たちの文化は、地球が物理的にどのように機能しているかと言う現実と、危険なほど調和を欠くようになった。そして、このような乖離をおしすすめた理論に基づいて、学校の目的も設定されているのだ。

 「私たちは、脳全体を等しく使うのではなく、脳の特定の一部だけをとても激しく使っているのです。どうりで私たちの文化では、バランスも崩れているし、実際の三次元からなる現実に気づいていないし、さらには、自分たち自身の食べ物や空気を汚染することが、いかにとてつもなく馬鹿げているかが理解されないわけです


 これを大人にもあてはめると、先進国で生活する多くの人は、宇宙から切り離された『箱』の内部のような社会で生きることを続けるうちに知らぬ間に脳のごく一部だけを極度に興奮させたような意識常態で生活しているということになる。
 それはまるで無限世界から自らを切り離した『箱』型文明にいるという状態が脳の働きにそのまま対応しているかのようだ。

 
 ジョン・ヤングの師匠はトム・ブラウンといって、アパッチ族のストーキング・ウルフという名を持つ長老から自然のことを学んだ人物だ。ストーキングウルフと言う名は彼が、狼に気づかれることなく忍び寄りその背に触れることが出来たという逸話から来ている。
 
 このトム・ブラウンという名前はどこかで聞いたことがあると思っていたけど、何年か前に彼の著作である「ヴィジョン」という本を読んだことを思い出した。

 徳間5次元文庫から出ているのだが、あまり5次元文庫らしくなく空想的なアセンションストーリーではなく、ものすごく地に足の着いた、そしてある意味とても厳しいスピリチュアリティが語られていてとても勉強になる印象深い本だったことを覚えている。

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 トム・ブラウンはジョン・ヤングにストーキング・ウルフから教わったことをすべて伝授したということらしいので、ジョン・ヤングはネイティブアメリカンのスピリッツを継承しているようなそういう人なのだろう。
 トム・ブラウンは17歳で、師匠と別れてからその後10年をひとり原野で放浪生活をしたというから気合の入り方が、普通のスピリチュアリストとは一味違う。
 現在、アメリカでトラッカースクールを運営して自然の中でのサバイバルやそれに伴う必要のある哲学を教えているという。


 トムブラウンジュニア 伝説のトラッカー(トムブラウンや、トラッカースクールについて)

 漫画家のさくらももこさんがストーキングウルフの教えを絵本にした、この本も有名だ。(さくらももこさんはトラッカースクールを以前受講している)

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 現代文明は、とても高度に発達してあらゆる情報が昼も夜も電波や光回線を通じてかけめぐってい情報化社会だけど実は、脳を局部的にしか使用していない「偏脳文明」とも呼べるものかもしれない。子供を全脳的に育てる方法などは一般化されていないために、義務教育ですでに偏脳化は始まる。
 そして、成長してからも、偏脳的な労働環境で一日を送り、偏脳的な娯楽で一日を終えるということがこの偏脳型社会において広く行われている。

 そのことが、この文明形態が大自然や、宇宙と直結していない「非‐接続型文明」である原因のひとつでもある。
 今後僕らは、エコビレッジや小規模なローカルコミュニティが中心となった「接続型文明」を目標にすべきだが、それは言い換えると「全脳型文明」を志向するということでもある。  

 よく言われる「半農半X」の生活のように、それぞれが自分の得意分野となる仕事をすると同時に、農業や食料調達、必要なものづくりなどに携わるようになればより全脳的なライフスタイルが生まれる可能性がある。


 縄文型と弥生型

 さて、僕は人が貨幣や非接続型文明の社会システムに依存しすぎずに生きていくには、自然界から生きる糧を直接得られることが重要で、そのためには農業をする、その農を中心とした小規模コミュニティが必ず必要だと思っていたが、トム・ブラウンの「ヴィジョン」を読み返してみて必ずしもそうとは言えないな、と思い直した。

 農業をして生きる糧を得る生き方が「弥生スタイル」だとすれば、狩猟や採集をして生きる「縄文スタイル」の生き方も存在する。「ヴィジョン」で描かれているのはこの「縄文スタイル」の生き方だ。

 「ヴィジョン」には、トム・ブラウンや師匠のストーキングウルフが、原野で放浪生活をする様子が描かれているけど彼らは地面を耕して作物を育てて生きてるわけじゃない。大自然のスピリットを敬い、自然とひとつになりつつ原始的な狩猟や採集の技術で命をつないでいるのだ。彼らは原野で生き延びるその技術を「サバイバル」と呼んでいる。

 サバイバルの技術を完璧に学んでこそ、人間社会と距離を置くことが出来る。サバイバルへの挑戦こそが、もっとも基本である体で体験する創造の世界との「ワンネス」について教えてくれるのだ。

 ・・・サバイバルの重要性は、ライフラインが断たれたときに原野で生き残るための方法を知っているという単純なものではない。「保険証券」で片付くものではないのだ。
 サバイバルの技術を学ぶと、人は大地に安らぎを感じ、その鼓動を知り、すべてのものとバランスをはかり調和することができるようになる。サバイバルとはひとつの生きる道であり、無味乾燥な社会から脱出し、地球とその日暮らしを楽しむということなのである。
 
 そうすれば本当に必要なのは、見えないへその緒と呼ぶことも出来る大地とのつながりだけだということに気づくはずだ。大地とは母そのものであり、彼女の存在なしには生きていくことなどできないという、古代の人々が理解していた当たり前のことを私たちも知る。・・・・

                               トム・ブラウン著 「ヴィジョン」より

 もっとも究極的には、本来「村」もいらない。
 そして人との絆以前に、ただ大地との絆があれば生きていけるという事実をこの本は教えている。
 もし「村」があるとするなら、それは大地との絆をしっかり結んだ個人の集合体でなければならない。
 なぜなら大地との絆があってこそ、人は不合理な集団の圧力から逃れ、正しいと思う生き方を守ることができるからだ。

 ただこのような生き方はかなりの技術と、忍耐、そしてなによりも豊富な自然資源や生物多様性がある場所でのみ可能だ。日本で言うと北海道とか、中央アルプスの奥地とかなんかそういうとこでないと成立しないと思う。

 まあ、実際多分都会で放浪生活と採集をして生きる、つまり現代の基準で言うと「ホームレス」の方が簡単だろう。山の中でひとり生きるより暖もとりやすいし、食べ物だって手に入りやすい。でも、「ホームレス」っていうのは確かに縛られるものはないかもしれないが、自然からの糧ではなくこの非接続型文明社会のおこぼれで生活しているということになるのでなかなか誇り高くは生きにくい。自然と直結してないからだ。

 直結してないことで言えば、非接続型文明の構成員も、ホームレスも同じなんですけどね。

 「ホームレス」や「引きこもり」が社会以下という意識に陥りやすいのは、このことによる。非接続型文明の内側で「引きこもって」しまうから問題なのであって、そのシステムを越えた意識に生きれば葛藤は少なくなる。

 広大な原野がほとんど残されておらず、食料になる大型の草食動物も少ない日本ではやはり「村」、農業をメインにした「弥生スタイル」の方が現実的ではあるのだろう。 

 ただ僕はなんとなく「縄文スタイル」の方が、自然界の意識、宇宙とはシンクロしやすいのではないかと思う。農業をすることにより原初の自然破壊が始まり、将来への備蓄、持たざると持たざるもの、地主と小作人などがうまれたことを思うと農業・弥生スタイルというのは接続型文明と非接続型文明との分水嶺であっただろうからだ。縄文スタイル、原初的サバイバルでは「地球とのその日暮らし」を楽しめるが、弥生スタイルが進行するほど人は局所的時間と空間に縛られはじめる。

 UFO(多次元生命体)は縄文人との方が相性がよさそうだ(笑)


 まとめ

 僕はこのシリーズの中で便宜的に、僕らが生きている文明形態を「非接続型文明」、あるいは「箱の中」と呼んできたけど正確に言うと僕らは非接続型文明という箱の中にいるのではない。

 個々人がある意識の信念体系や、周波数帯を生きているのであり、空間的には都市内部の「箱の中」にいても僕らの意識は別の領域にシンクロできる。

 だからこの「箱の中」にもこの非接続型文明をどっぷり生きている人もいるし、自分は金星人だというリアリティを生きている人もいるし、時空を越えた絶対者の意識とともに生きることだって不可能ではないのだろう。ただ空間的に「箱の中」に生きて、その生活の糧を非接続型文明から得ていると、その意識に染まりきってしまいやすいということに過ぎない。

 でもよく考えてみると、この「箱」の狭苦しさと狂気に文句を言う前に、「箱の外」大自然や宇宙、絶対者の領域とシンクロするという選択や努力を行うことだってできる。

 簡単な話し、毎晩夜更かしして酒を飲みながら深夜テレビやゲームをしたりしてる人の生きる現実と、毎朝日の出とともに起きて太陽に手を合わせているような人の意識というのは同じ「箱の中」にいても異なっている。
 前者は箱の中しか見てないし、後者は箱の外にひろがる無限の生命世界を見つめ、そことシンクロしようとしているのだ。

 「箱」から自由になるには自分の意識と生活スタイルを自覚的に変化させていく必要がある。

 「箱」の内部にあるものを整理してみよう。


 ●脳のごく小部分を偏って使用している状態
 ●善・悪、正・邪、優・劣、真・偽などの二元性
 ●マスメディアを始めとする人為的ソースから流れる膨大な情報
 ●時計時間
 ●数値化された現実
 ●ステータス、社会的合意によって得られる虚構の自我
 ●意図的な流行
 ●貨幣をもとにした労働システム
 ●自然界から逸脱した音とリズム
 ●言語化、定義化された現実


 「箱の外」には無限の生命世界、波動世界、大宇宙が存在する。
 そこと共鳴する土台はやはり、弥生型あるいは縄文型のサバイバルであるのが望ましいと思うけど、「箱の中」にいても出来る方法がある。

 ■太陽のサイクルを意識すること

 昔から魔術の修練などでは日の出、南中、日の入り時などに太陽を意識し祈りを捧げたりすることが推奨されてきた。それは箱の外側にある大宇宙の巡りに自分の意識を合わせるためだと思う。

 ■東西南北(磁力線の流れ)を意識する

 東西南北というのは人間がネーミングしたものなので「箱の中」の概念とも言えるが、その概念は南北の磁力線の流れに基づいている。稀にこの磁力線に対する感覚だけで、どちらが北であるかを地図や太陽の位置を見ずにわかる人も存在する。動物たちはみなこの磁力線への感受性をもとに長距離を移動したりしているのだ。通常神社は、社殿が南を向いており、参拝者が北を向いて参れるように設計されている。またメディテーションは北を向いてするのがよいという説もある。

 太陽が真南に位置する時は、もっとも高度が高い。
 太陽の南中時、地上の影は真北を指す。太陽のサイクルに、方位の概念をプラスするとそのようなことがはっきりしてくる。これらがおそらく原始的な日時計などのルーツになっているのだろう。

 ■自然観察 

 自然のすばらしいところは、ミクロにも、マクロにひいても同じような構造や形が相似形であらわれることだ。またすべてに無駄がなく、要らない部分もなく調和しきっているということは森の中の地面などを観察していてもよくわかる。それはまったく曼陀羅よりも完璧な曼陀羅だ。
 人工的な「箱の中」の情報のように、あるひとつの点だけにフォーカスしているのではなく、土にフォーカスすれば土の宇宙が、落ち葉にフォーカスすれば落ち葉の宇宙が開示されるような多面的な情報システムとなっている。そして、それらがすべて調和しているのだ。このような観察を行うときに別の時間に移動するような感覚はあながち錯覚ではないかもしれない。


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 ■肉体の声

 人のマインドがどれほど「箱の中」のパターンに染められていても、僕らの肉体は常に生命宇宙に属している。それはある意味ではもっとも身近な大自然だ。だから常に、肉体を感じたり、動かすことは僕らが生命であることを思い起こさせてくれる可能性を持っている。

 ■意識の修練

 瞑想などを通じて、「無」や「ゼロ」を擬似的に体感することは「箱の中意識」から一時的に僕らを解放してくれる。また瞑想中やヘミシンク音を聴いたときの脳は、より全脳的になるということも知られている。「意識」という要素は実はこの世界の根源であり、世界の事象すべてとひとつである。このことが「箱の中」にいても、自由でありうることの根本的理由だ。




 他にもたくさんあると思うけど、これらのことを自分の暮らしの中で実行することにより、僕らは「箱の中」にいても無限の生命世界とつながった形で生きていける可能性がある。

 すべての物事は最初は人間の心のうちで生まれると言う。
 
 そのような意味では、僕らは今ここで天地と調和した新たな文明を、ニューヴィレッジを築くことができるのだ。



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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/01 14:50
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