ターシャム・オルガヌム

  今日は、グルジェフの弟子だったウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」を読んでいた。
 この本では多くの章を次元の考察に費やしている。

 一般的に、我々が認識しているのはたて×よこ×高さで成り立っている3次元空間である。
 2次元はたて×よこのみの世界。つまり平面世界だ。
 そして1次元は一本の直線だけの世界であると考えられている。

 そして、この3次元よりも高次の次元とは一体なんであるかということが思考されてきた。通常、第四次元の世界は、「時間」であると考えられている。
 正確に言うならば、僕らが認識するところの時間が空間化された世界である。
 僕らはぼんやりと時間というものを認識しているが、それは物体の運動や変化を通してである。
 
 昼間が夜になり、また朝になる。
 夏が、秋になり、冬になる。
 こういった現象の変化を僕らは認識し、この変化を時間の流れであると考える。だが、過ぎ去ってしまった現象というものが、一体どこへ行ってしまったのか知らない。
 人間が認識する3次元空間においては、時間というのはこのように捉えがたい現象なのである。
 しかし、時間が空間化された4次元においては、認識者は時の流れの全体を把握することができる。
 時間が空間になるということは、過去も未来も、今・この場所に現前しているということに他ならないのだ。
 とても乱暴に表現するとすれば
 右を見れば今年の夏がまだここにあり、そして左を見れば来年の春が、もうここにある。そのような認識を、第四次元という。

 ウスペンスキーは、動物達の生きる(認識する)世界を二次元世界であると考え、動物達にはこの世界がどのように見えているのか推測している。
 面白いのは、動物にとっては、僕らにとっての静止した物体が「運動」、つまり時間の流れとして認識されるのではないかという考えだ。
 
 例えばひとつの立方体があるとする。
 その周りを一周する動物の目からは、それはどんどん形を変えていく。
 「概念」を持たない動物にとっては、自分の目で見たものを事実として認識する以外になく、それゆえに自分が目にしているものが静止した物体を様々な角度から見ているだけであるということがわからない。
 人間ですら、世界を見るときはそれを平面的に見ているのだが、それを常に修正している(想像により補っている)。

 この仮説によって四次元を類推してみると、少し怖い結論に行き着く。

 「馬、犬、猫などの動物が、三次元の静止した角度や曲線を運動、時間として知覚するに違いないことは確認した。
 ここで生じる疑問とは次のようなものである。我々もまた、四次元の角度や曲線を運動や時間として知覚しているのではないか?
 我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」
p130

 この辺を読んでいて、人に苦痛をもたらすものの根本は「時」なんだなと感じた。というか、時への不完全な認識、3次元的認識が苦そのものなのだろう。第四次元においては、僕の未来は完全に決し、僕は完全に死んでいる。と同時に、生まれている。そしておそらく、生まれも死にもしない何かとして僕の誕生と死とを同時に見ている。 
 
 ダイジの救世主入門の言葉が浮かぶ。

 「君の幸福と不幸は
  君が死ぬことから来ている
  君は間違いなく死ぬ
  君の人間としての生涯は
  君がすでに死んでいることを学ぶためにある
」  

 僕の幸福と不幸は、時間が存在することから来ている
 僕の人間としての生涯は、
 時間が存在しないことを学ぶためにある。
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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/11/05 20:13
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