Spirits never die


 祖母が亡くなったのはもうずいぶん前のことになるけど、いまだに夜中に不安な夢を見て目が覚めることがある。祖母が痴呆状態になり、体も少しづつ衰弱していくとき僕は近くでその様子を見ていた。

 今にして思えば、祖母の見守りや食事の用意をするということを毎日していた数ヶ月の短い期間が、いまの仕事の内容とかなりかぶっているのは不思議な感じがする。

 でも決して僕は愛情たっぷりに介護の手伝いをしていたわけではなかった。どちらかというとそれは面倒くさいルーチンだったと言ったほうが正確だろう。いつ、激しい痙攣様の発作を起こすかわからない祖母の状態が怖かったし、次第に家族のこともわからなくなり、話しが出来なくなっていくにつれて祖母の人格自体が消滅していくような感覚だった。

 祖母がまだ生命を保ってそこにいるということは十分わかっていたけど、コミュニケーションが出来ないということが、そこに寝ているのはもう祖母ではない、という感覚に陥らせた。もう少し状態が悪くなってからは、早く肉体から解放されて楽になって欲しいと思うことも珍しくなかった。

 結局祖母は、寝たきりになってから半年と少しほどで亡くなった。

 そんな日々の記憶がいまだに夢になってよみがえってくる。

 不安と重苦しいフィーリングで胸のあたりが苦しくなる。

 死別は確かに悲しいものだし、傷を残すことが多いけど、家族の死がトラウマとなるかどうかはその死をみながどのように受け止めて認識しているのかということと関係があるように思う。

 そこに闇と混沌の力、破壊されていく脳や、肉体、人格だけを見るのか、

 あるいは肉体や人格がどうなろうともそれでもなお輝いているはずのスピリットの存在を現実としてみることができるのかによってそれは変わってくる。

 不安と暗闇のこの苦しいフィーリングは、僕の認識がいまだに、死をただの混沌や破壊としてのみ考えているその箇所から生じていて、でもそれは実は幻想なのかもしれないと思った。

 というのはその不安や暗闇を、まるごと反転させるような経験を僕はその祖母の旅立ちのあとにしたはずだったからだ。

 その経験のなかで、僕は祖母のスピリットはあの痴呆状態や寝たきりの状態の中でも、愛と知性を厳然と保って状況に働きかけていたということを知ったはずだった。

 そのスピリットの愛と知性が、いつ肉体を離れるのかということもつかさどり、そのタイミングには僕らへの気遣いがあったように思う。

 このスピリットと、日常の意識、マインド、自我とは通常わかたれている。
 だから僕らは自分自身のスピリットの愛と知性を無意識のうちに実行するということが多い。
 自我は、このスピリットのレベルの愛と知によって浸透され、動かされている。

 死とは、おそらく、僕らのこの日常の自我とスピリットが融合してひとつになるということでもあるのかもしれない。

 スピリットは死なない。

 例え、肉体的障害などで会話がうまくできなくても、昏睡状態でも、そこには彼のスピリットが厳然と存在している。そう認識することのみが、病や死や、狂気があふれる世界の中でもスピリットの光を認められる術なのだ。

 僕が、周りも大変だし、本人もつらいだろうから早く楽になって欲しいと考えたのは多分間違っていた。

 それは、どんな状態であれひとりの人がそこに生きて存在している、そしてそのことによって発生するパワーと学び、それを与えようとしてくれているスピリットの愛を、「いらない」と思うことだったのだ。  

 おそろしく性格にかたよりのある人であっても、その人のスピリットは別の次元ですべてを知っていて「すまない」と思っているということもあるのだろう。

 自分自身の生をマインドの基準で推し量って「いらない」とか「つまらない」と思うときも人は、自分のスピリットが見えなくなっている。

 僕らがその存在に気づくとき、スピリットもそれに気づく。
 僕らが動物や、人や、自分自身や、あらゆる生命のスピリットを見つめると、彼らも僕らを見つめ返す。

 認識とは相互作用的に発生する、現実の場だ。

 その認識に心を開くとき、スピリットの光はこの世界に下ろされ、癒しと許しの可能性が顕れる。

 すべての死と病に関する傷が、不滅のスピリットの輝きにより癒されますように。

 そう祈りながら目を閉じると、眠りに落ちる前に朝日のような大きな光が近づいてくるのが見えた。


     
                                  2013 11 21







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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 10:36
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