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ネイティブアメリカンの知恵⑦


 2009年にブログにアップしていた、ネイティブアメリカンの知恵シリーズの続きを書いてみようと思います。

 いろいろな書籍などからネイティブアメリカンの言葉などを集めたこのシリーズをはじめたきっかけは、当時陥っていたピンチ状態にありました。

 7月に部分日食があり、8月に箱根に旅行に行った頃から精神状態が不安定になり、鎮静剤のお世話にならないと厳しい日が連日続いた。夜になると得体の知れない不安感が湧き上がってきて、ひどい時はほとんど食欲もなくどうすればいいのかわからなかった。

 師匠のI先生に相談に行くと、蛍光灯をやめたり、怪しいソースの本を処分することなどの環境の改善を勧められたのだけど、その中に部屋に生命あるもの、観葉植物や、浄化力の強いバラの花を生けるというアドバイスもあった。

 「我々が力をもらってるのは、この世界の精霊(スピリット)からだからね」と先生は言った。

 その後の更なる展開で、不必要な情報を生活からカットすることや、行き詰った時は引きこもって神様と向かい合い答えを導きだすというスタイルも取り入れられ、それがその後のテレビなし生活や時折行う一人リトリートの始まりとなった。

 この型を実践することにより、いつのまにか状態はよくなり、加えて、2009年末から2010年にかけて生活全体のある種の転換が起こった。それはI先生のアドバイスにすべて従ったからというよりは、自分で方向性を決定したからだったけど、ある意味I先生はそのための方法を、僕が自分の頭と心で答えを導き出す術を教えてくれたのだと思っている。 

 この頃ネイティブアメリカンの知恵シリーズを始めたのは、生命力や、生きとしいけるものとのつながりが、そのピンチ状態を癒してくれるのを感じたからだった。ネイティブアメリカンの知恵は、根本的にすべての生命体への尊敬と、愛と理解に基づいている。

 その後、僕の興味はアイソレーションタンクを使ったヒーリングや、ドルフィンスイム、自分の生活を物質的に豊かにする方法などにも移り3・11のあとしばらくは新たな地殻変動や原発事故の情報、言葉を失うほどに破壊された被災地の映像に心を占領された。

 でも今年の夏ごろから、ネイティブアメリカンの知恵はさらなる情報密度と、確かさをましてまた僕の中に戻ってきた。
 
 今まで僕はそれほど現代日本の社会の価値観に溶け込めるほうでもなかったし、その中の一部は溶け込めないと言うよりはもっと激しい拒絶感を伴って、受け入れられないという質のものだった。だからスピリチュアルな現実にフォーカスする過程でいくつかのものを自分の生活からカットしていくということはそれほど苦痛も伴わずむしろせいせいするという感覚もあったんだけど、近頃になってようやくそれらをカットすることは自然へ回帰したいと言う衝動と表裏一体だったことがやっと自分の中でつながったのだ。  

 それは不必要なものを切り捨てて、空相のような現実に至りたいというよりもむしろそれは、箱の中の世界の外側で確実に鼓動している母なる自然のリズムに戻りたいという衝動に感じられた。現代の社会が与えてくれるものをすべて消去しても、母なる大地や空、その生命は残るのである。その気づきががネイティブアメリカンの知恵に対する理解をより深いものにしてくれているような気がする。

 人生で自分にとって本当に大事なことは、何度もらせん状にループしながら、必ず自分のもとに戻ってくる。そして戻ってくるたびにそのテーマに対する興味や理解は深みを増してゆくのだ。
 どうもこの始まりをたどると、2001年にある人に前世療法を僕が行ったときに、ネイティブアメリカンの過去世が出てきたというそのあたりから始まっているような気がする。

 ネイティブアメリカンの過去世が出てくるということは、前世療法でたまにあると思うけど、往々にしてそこでは平和な生活が侵略によって破壊されるという物語が語られる。僕がおこなった人の場合も、外部からの侵略者によって村が破壊され親族とはぐれてしまうというストーリーだった。
 
 ネイティブアメリカンの歴史は、まさに侵略と搾取にさらされる歴史だったと言ってもいい。
 1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時は全米が彼らの居留地だった。ところが2、300年のちには白人はリザベーションというネイティブアメリカンの限定居留地を設け彼らをそこへ押し込んだ。居留地は1820年にはアメリカ大陸の西半分に制限された。
 それから100年と少したった1977年になると僅かな面積のリザベーションが全米に点在するだけとなり、彼らの居留地は広大なアメリカ大陸のその僅かな部分だけになったのである。
 あとからやってきた者たちが文明の力を武器に彼らの生活を破壊し、大地から切り離し、土地を収奪するというこの構図は世界のあちらこちらでみられる。
 明治維新から、第二次大戦敗戦後にかけて日本でもそれは行われたし、最近でも欧米や中国の資本による日本の国土の買占めは存在する。
 「彼ら」は土地を奪い、伝統的な習慣やスピリチュアリティを破壊し、人々と大地との接続を切り離し、貨幣経済というルールの中に世界各地のネイティブたちを組み込んでいくがその貨幣経済はもとより「彼ら」の思考パターンより生じたもので、彼らが総元締めだった。そのためネイティブ的ライフスタイルから貨幣経済に移行させられることは全面的に、彼らの軍門にくだることでもあった。

 西洋文明化というのは、脱ネイティブ化を前提としている。
 先住民族の生き方を壊し、否定したその上に築かれたのがこの文明なのである。
 僕らもまた土地とルーツを見失った、さまよえるネイティブジャパニーズであるかもしれない。

 僕はこれらの、人を自然から切り離し、大地や海を汚染していくこの力が本質的にどういうものか、どこから来ているのか知りたいと思った。

 よく言われるように、それは人間の欲望の力だというのも正しいかもしれない。
 しかし、アメリカ大陸にアングロサクソン系の人種がやってこなければおそらくネイティブの人たちは今でも同じような伝統的生活をしていた可能性が高い。だから人間の欲望という原因で一元化するよりも、ここには二種類以上の諸力の葛藤が存在するように思うのだ。ふたつのDNA的因子といってもいい。
 ひとつの力は、大地や生命と人を結びつける力で、もうひとつは生命を荒廃させ人を大地から切り離す力だ。
 
 大地を汚し、生命の尊厳を破壊する、これらの力を魔的なものと考えるのは簡単かもしれないが、それが正しいかどうかはわからない。
 性質の異なるふたつの力、あるいは思考パターンと言ったほうがいいかもしれない。

 この力を考えていたとき、僕の頭には次々と村を焼き払い、領土を拡大していく騎馬民族のようなイメージが浮かぶ。
 彼らは自らの土地を持たず破壊と略奪の中で生きているのだ。 
 
 アイルランド詩人のW・B・イェイツの墓には次のような詩が刻まれているという。

 Cast a cold eye
on life,on death
Horseman pass by!


<冷ややかなる目をむけよ 生に 死に 騎馬の男たちは通り過ぎる・・・>

 この詩では世界の荒々しい力の象徴として「騎馬の男」たちが登場しているように思えるけれど、自らの土地を持たず、他民族の土地の侵略と略奪で生きてきたような騎馬民族的DNAというのは、ある種ネイティブ根絶の力の正体と親和性があるように思う。
 アイルランド人もまた度重なる大英帝国からの搾取と抑圧を受けてきた。

 もうひとつは生命が少ない環境で誕生した、砂漠の宗教や、砂漠のロジックだ。 
 人間の思考パターンを環境派生的なものと考えるとき、中東のような環境で発生した宗教や学問は現象的なものを飛び越えて唯一の絶対者、宇宙の絶対真理を追求しやすいという話を聴いたことがある。

 ユダヤ人には優秀な科学者が多いというけど、アインシュタインの物理公式が、ヒロシマの悲劇を産んだように砂漠のロジックにより生み出される純粋思考の世界は、人類の文明を飛躍的に推し進めると同時にこの現象世界の生命をあっという間に灰塵に帰すような破壊力をも持っているのだ。

 これらを仮に「砂漠の勢力」とでも呼んでおこう。  

 「砂漠の勢力」は、貨幣と言う抽象を用いて、生命を搾取、コントロールすることができた。
 それが彼らの生存戦略だったのだ。
 彼らは特定の土地を持たず、大地への愛着が少ない。
 しかし「砂漠の勢力」も、肥沃な大地や海の恵みなしには生きられない。そのため、他民族の住む土地で資源を得ることが必要だった。
 彼らが支配権を握るためには、食べ物や大自然などのリアルなものより貨幣と言う抽象が価値的に上である必要があった。
 そうであればこそ、貨幣で土地や食料を買い占めるということが可能になったのだ。
 このような理由で

 砂漠の勢力 ←← →→ ネイティブカルチャー

 はもともと相反する。

 彼らはおそらく肥沃な土地のない人たち、土地を奪われた人たち、
 そして、大自然なしにどのようにすれば生きていけるかを極限まで思考した人たちなのかもしれない。
 しかし究極的には「砂漠の勢力」が悪というわけではない。彼らは、そうした役回りだった。
 今、求められているのは、おそらく『砂漠の勢力』と、『ネイティブカルチャー』の融合なのだ。
 それはテクノロジーと、自然との調和でもあるし、男性性と女性性の調和、貨幣と言う抽象と、生命と言うリアルとの調和でもあるのだろう。

 ネイティブカルチャーは、何もネイティブアメリカンだけに特有のものではない。
 おそらく生命への尊敬と愛を基礎にした伝統は、超古代文明の大量破壊を免れて地球全土に拡散し、大地と共にいき始めた人には等しく共有されていた意識だったのではないだろうか。例えば日本の縄文や、アイルランドのケルト文化、アフリカや南米などにもそうした自然と密接に結びついた霊性があったと思われる。ネイティブアメリカンの教えはそうした潮流のひとつなのだ。

 だから、僕らにとって重要なのは特定の文化や教えに回帰・同化するのではなく、それらのエッセンスが指し示す共通の価値を体得した「ネイティブガイア人」とでも呼べるような意識になるということではなないかと思う。

 僕らは今、岐路に立たされている。
 それは抽象を選ぶか、生命を選ぶか。
 ○○という名前を持って、しかるべき学歴や職歴をもった一市民というアイデンティティを選ぶか、グレイトスピリットやガイアと結びついた「大地の子」「神の子」となるかという選択だ。
 それは箱の中(文明・社会)の中だけで生きるか、箱の外(大自然・宇宙)とつながるかの選択でもある。

 真の自然とは天の王国である、絶対者そのものだと思う。
 だから本当は街の中にいても田舎で畑を耕していても、それを感じることはできる。
 ではなぜ、自然を意識し、それと調和して生きる必要があるかというと、おそらく自然と人とは本来一体であり、分割できない生命の織物という統一体だからだろう。

 だからガイアが病めば、人も病み 
 人が病めば、ガイアも病む 

 人はこのガイアという母なしには生きられない。

 だからこそ、癒しとは人と大地との調和なくしてはあり得ないし、人が文明のリズムだけに耳を澄ますことによることで「狂い」が生じる。人が健やかであるためにはどうしても、箱の外との接触が必要なのである。

 あるミュージシャンの言葉だが、「人間など自然が癒されれば、おのずから何もせずとも癒されてゆく」ものかもしれない。

 生命か 抽象か 箱の中だけで生きるか、箱の外とつながるか、

 その選択が、如実に現象化される日は、ホピ族の予言で「浄化の日」と呼ばれている。
 病にかかった地球がその自浄作用を最大限にするとき、この惑星は何十万年も前の原初の美を取り戻すのかもしれない。
 そのとき僕らは、どのような経験をするだろう。
 僕らの選択、それが
 その自浄作用(もう現象化している)がどれほどの規模となるか、その「浄化の日」に僕らがどうなるかという未来に反映されるのだ。

 最後にネイティブアメリカンのメディスンマンだったローリングサンダーの言葉をいくつか紹介したいと思います。

 1970年代初頭に語られたもののようですが、非常に先見の明と、知恵にあふれた言葉です。 
 
 
たいようが のぼってくる ひがしへ
 さむさの やってくる きたへ
 ひかりの やってくる みなみへ
 たいようが しずんでいく にしへ
 ちちなる たいようの ために 
 ははなる ちきゅうの ために

                     
                               ローリング・サンダー



 「どこかひとつの場所が汚染されれば、それは全部に拡がる。リュウマチや癌が体の中に拡がって行くように、それは拡がる。

 この地球は今病んでいる。

 なぜなら、地球は誤った扱われ方をしてきたからだ。

 これにともなっていくつかの問題が起こるだろう。

 近い将来にひどい自然の災害が起こるかもしれない。

 しかし、こうしたことは自らの病気を治すための地球の自然な回復作用なのだ。

 今この大地の上には、もともとここにはなかったものがたくさんある。

 よその国から来たもので、例えて言えば、ヴィールス、細菌のようなものだ

 。今のところはいつそれが本当に起こるかがわからないだけのことなのかもしれないが、これからは実にいろいろなことが将来にかけて起こるだろう。

 こうしたことは、地球がその病を吹き飛ばそうとするそれなりの試みなのだ。人間が病気になると、熱を出したり吐き気をもよおしたりする。西洋医学が身体的調整と呼ぶもの、それが起ころうとしているのだ。」

「この地球はひとつの生きているオーガニズム、有機生命体であり、より高次な個に与えられた肉体で、それは意志を持ち、健やかでありたいと自ら願っており、精神的にも肉体的にも、ある時は好調であり、時には不調だったりもする。

 人は自らの肉体を尊敬をもって扱わなくてはならないように、この地球であろうとそれは同じなのだ。

 地球を傷つけることが私たちを傷つけることであるということを、知らない人たちがあまりにも多すぎる」

「そういったことを理解するのはそう簡単なことではないかもしれない。なぜなら理解とは書物や教師が話しているような種類のことを知るのとはわけが違うからだ。

 いいかな、理解というのは、愛と尊敬にはじまるものだ。偉大なる精霊への尊敬の中に理解ははじまる。

 偉大なる精霊グレイトスピリットは、すべての生命の中に、ありとあらゆる生き物、植物、そして岩や鉱物のなかにまでも、それは宿る。

 すべてのものというのは、本当にすべてのもののことを言っているのだが、すべてのものは、自分の意志を持ち、自分のやり方を持ち、自分の目的というものを持っている。尊敬を払わなくてはならないのは、まさにこの点にあるのだ」

 
「われわれインディアンの子供たちは、十二歳から十三歳くらいになると高い山に登り、その山の麓で付き添いの長老が待つ間、ある神聖な場所で祈りをあげる。

 そこで彼らは三日間ほど祈るのだが、毛布一枚持たされるだけで、この間子供たちは裸でいなければならず、水も食料もとることは許されない。もし眠りに落ちそうになってもまた起きて祈らなくてはならないのだ。

 するとある時、彼らにビジョンがもたらされる。

 これからの生涯でなにをしなければならないのかということが、そこには映し出される。

 しかしほとんどの場合、子供たちにはその意味がわからない。

 だからありうることとすれば、子供たちは山をおりて、麓のところで、長老に自分の見たものの話をする。

 それから2人は一緒にメディスンマンのところへ行き、そこでももう一度ビジョンのことを語るのだ。

 メディスンマンはそこで、そのヴィジョンを覗き込む。そうしたら次に名前を与える儀式が執り行われることになる。夢の意味が確定され、それがわかりやすい言葉で子供たちに伝えられるのだ。子供たちはそのとき、自分が大人になったことを感じ、新しい名前をもらい、人生における自分の目的を知ることになる」

「政府や、法律、君たちがシステムと呼んでいるもの全体に、自発性というものへの配慮が決定的に欠けている。

 この世界においては、人間は誰でも自らのアイデンティティを持ち、自らの目的を持っているのだ。

 そして、すべての人が、その人のアイデンティティをみつけ、その目的を遂行する道を持っている。

 何人であれその道を妨げてはならないのだ」

「他人の住んでいるところに行って、そこで暮らしていた人々をことごとく大地から切り離して、蹴散らし、行く当てのないままそこから追放したばかりか、その過程において多くのものを殺戮までしておいて、はい、それでは残った皆さんは私どものクラブに入ってもらいますからね、などとよくもまあ言えたものではないか。

 しかしそれは間違っている。

 われわれは彼らのクラブを好まないし、そんなものに入りたいとも思わない。

 本当にそれが良いクラブであるとすれば決して入会を強制したりはしないものだし、われわれのクラブのことだってそのままに放っておいてくれるはずだ。

 いわんや他の国に住んでいる人たちのやり方にいちいち口や手を挟んだりはしないだろう。

 誰にでも自分のクラブというものがある。そしてそれがかりに悪いクラブだとしても、やりたい奴にはとりあえずやらせておくしかない。

 人間はそうやって自分の生きる道を学ぶものだからだ。しかし、言っておくが、良いシステムが自らを拡大しようと試みることなどありえない。なるほど人々の力になることは、悪いことではないが、システムを拡げようとすることは間違っている。」


「現代人は利用することしか話さない。自然を征服し、自然を自分たちの奴隷のようにこき使うことばかり考えている。

このことからまずわかるのは、現代人が自然のことを、その実際の姿を含めて、その「いろは」すらまったく知らないということだ。

 今日の環境それ自体が、その事実をよく証明している。今では誰もが恐れているではないか。

 大気の汚染を恐れ、放射能を恐れ、毒の入った水を恐れている。

 大地は汚染され、資源は消えていくか、再利用が不可能なものに姿を変えていく。

 そして人々は今さらながら、まだ間に合うのだろうかと頭を抱えている。

 ところが、いかなる法律やシステムをたちあげたところで、それによって自然をコントロールすることもできないし、人間の内的な自然であるところの、その人の意識や、おのずとみについている自然な振る舞い、そしてその人の考え方や感じ方までもを、コントロールすることはできないのだ

 もともとそうしたものはコントロールできるようなものでもない。

 当然いかなる個人であれグループであれ、そうしたものが、ある個人の性格やその目的とするものにおいて、その人物がいくら自分と性が合わないからといって、その人の生きる道までをも強引に阻んだり、むりやり変えさせたりすることがあってはならない。

 それにそんなことができるわけもない。なるほどしばらくの間はうまくいくかもしれん。しかし最後には必ずうまくいかなくなる。それは、ひいては、すべての人々を危険に導き、恐怖へと誘うだけのものなのだ」


「だから、ヒーリングのときも、われわれはまずそのことを考慮に入れる。

 本物のヒーラーなら、なにはともあれ患者のカルマと運命のことを考えるものだ。彼は、そのとき自らの道に従う。

 その人独自の内的な進歩やその表れにあたるものを、彼は自分なりのやり方で覗き込み、理解する。

 どこまでもこの道に従うことで、物事ははるかに現実的なものとなり、誰もがトラブルから解放される。

 自然が至上者であり、それだけがわれわれの上に君臨する。

 だからこそわれわれは、われわれの中の自然、つまり人間らしさにも従う。自然は尊敬されなくてはならない。

 一切の生命は、それがどんなものであれ、ただ生きているということだけでも、尊敬されなくてはならない。

 それが、ただひとつの答えなのだ」

<ローリング・サンダーの目にはこう見えていた。次々と作り出されつつある複雑かつ抑圧的な無数の法律には、人間から人間らしさを奪う働きがあって、そのために自己決断と自己制御とが妨げれれてしまい、その結果多くの人たちが心と自然の法則にまったく関心を払わなくなってしまっていると。この悪循環によって、人間の作る法律が自然の法律をわからなくさせているばかりか、それがさらなる無知を作り出し、その結果さらなる混沌が生み出されてくる。そしてしまいにはその混沌を制御するために、さらなる圧制が必要となるのだ。> 「ローリングサンダー」の著者 ダグ・ボイド


(ヒーリングを望む若者に)「なぜ君は今の状態から解放されたいと望むのかね?

               いったいそれでなにをしようというのだ。」

 「なににだって正しいときと場所というものがある。わしらはそう言う。

 われわれはそれを、つまり、なににであれ正しい時が存在するという真実を理解して、それと調和をとって生きる。

 そしてそうやって生きているからこそ、いつごろ、どこに行けば自分の薬草が摘めるのかもわかるのだ。

 本当に必要とするなら、それは手に入れることができるというのは、そういうことだ」

「本当にそれが必要なら、つまり、もし冬の間でも、ある種の薬草が本当に必要になってそれを自分が持っていないときには、やはり同じようにわしは探しにいき、それを見つけてくることだろう。

 わしならこのあたりでさえ、歩き回ることで、冬の真っ盛りに雪の中から夏の花を摘むこともできる。

 つまり、もし自分が真から必要とするのなら、それはそこにあるのだ。すべてわれわれのすることにはきちんとした理由がある。」

 「雑草などと言うものは存在しない」


あの雷の音を聴いてごらん、あれこそが雷の轟き、ローリングサンダーというものだ。雷が空を転げまわっているじゃないか
 「!」



  
  thunder.jpg
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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/28 15:00
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