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情報断食実践篇②


 情報断食の続き・・・テーマがばらけて長くなったのでふたつにわけました。


 ■ ニュースエフェクト


 これは実践する前からなんとなく感じていたことだけど、情報の中でもメディアを介したニュース的情報というものが、結構意識をブレさせる要素が強いということだった。それは、どういう種類のニュースであるかは関係ない。とにかくニュース的なもの。
 事件、事故、政治、経済、国際情勢、はては天気予報にまでいたるまで僕にとっては同じような性質を持っている。
 その特徴のひとつは、あたかも「あんさんががなにしてようが無関係に、世界ではこんなことが起こってまっせ~。これはしっとかへんとあきまへんで~~!えらいことなりまっせー」(大阪弁に偏見はありませんが)というように一方的に誰かさんがその重要度を選択したニュースをこちらに押し付けてくるということだ。
 
 確かにテレビなんか見てて、「緊急ニュース速報です」とか「たった今入ったばかりのニュースです」とかいわれると、「お?なんだなんだ~?」と心理的に前のめりになってしまう部分はある。
 しかし、本当に知っておかなければならない情報がどれくらいあるのか、かなり疑問である。そのほとんどは、知っていても知らなくてもほとんど実際の生活に影響しないと僕には思える。加えて、時には故意に誤った情報を流したり、ミスリーディングしようという操作さえないとはいえないからそうなるともう不正確な情報を現実と思うよりは、「見ないほうがまし」ということになる。

 本質的にすべてのニュースには、それと相対している自分の人生や、直接的リアリティを弱い立場に置き意識を眠らせるような作用を伴ってる気がしてならない。

 ST●P細胞の発見者がうそをついてるかどうかんて、全国民が考える必要がないことだ。
 当事者や医学の発展にとっては重要かもしれないけど、何も、今この瞬間、全員がこのテーマを考えなくてもいいでしょう。
 ところがニュースという場は、そういった個々のイベントは誰もが、それについて一家言持ってないと、時流に乗り遅れてるような雰囲気を醸し出す。全員で、これについて「さあ一緒に考えよう!」ゲームをさせられるのだ。そのへんの雰囲気が僕にとっては結構不気味だ。インタビューでマイクを向けられるとみんな結構良識的なことを答えている。ああーこういう感じになんなきゃ駄目なのねと思わされそうになるけど、ただ「興味ないです」「どうでもいいです」と答えた人たちは放送してもらえないというだけなのだろう。だが、興味ないです派を無視すると、まるで世界中があたかもその情報で大騒ぎしてるような印象を与える。これがニュース的リアリティのウソなのだ。無風地帯にいる人たちを無視していること。
 ニュースは、いつの世でもリアリティではなく、ニュース的リアリティを放送する。

 
 これは、メジャーソースのニュースだけではなく「ネットだけの情報」というやつも同じだ。メジャーソースでは流されない、こんな驚くべきことが世界では起こってる!系の情報もそれは同じで、今・ここ・自分を置き去りにしてしまうような作用を持っている。
 ということでアセンション系、アースチェンジ系の情報ももちろんカットし、なるべく世界は「ここ」だけという感覚を強めることにした。

 ニュース系だけは、結構意識的に全部ハジく。電車のドアの上のニュースをぼーっと見たりもしない。

 情報断食も半ばを過ぎた頃、仕事で外出中、たまたま薬局に置かれたテレビから「チリでM8,2の地震発生 日本にも津波の可能性」とかいうニュースが流れててげげっと思った。なんだか、こういう情報断食中に限り、引きが強いニュースが起こってたりしやすい。通常なら僕の中のアースチェンジ小僧が騒ぎ出すところだが、一緒にいる人に「うわーM8ってでかいですねー」というだけに留め、その後の情報も追跡しないことにした。 

 夜から雨が降り始めたが、天気予報も見てなかったので、傘も持ってきてなかった。
 うーん、どうすれば天気予報はみないけど、雨に濡れることを防ぐことができるのか。
 約0.001秒ほどですばらしい答えが閃いた。そうだ!折り畳み傘をリュックに入れておけばいいのだ!(笑) 
 雨が降ること前提で準備しておけばいい。
 天気予報で傘を持ってくかどうか決めなければいい。
 また夏に近づくとゲリラみたいな雨も降るだろうから、雨合羽も入れておけば完璧だ。

 明日寒いか暑いかは、明日の朝に自分の肌で感じればいい。
 
 地震もこれと同じで来ること前提で準備をしておけばいいんだろうと思う。
 予想とか、予言とかなんとかがあるから無駄に振り回される。
 正直、いよいよ来るぞ、来るぞー祭りには疲れてきた。
 地震もほかの天災も、来てからが勝負、来るまではなるべく考えないようにしよう。
 でも来ること前提で準備はしよう。
 いつ降るかわからないけど、必ず降る雨と同じように。

 そんな風に思った。

 うちに帰って漫画読みながら、ビール飲んだ。 


 ■3・11のない世界


 ふと思いついたことだけど、3・11が起こったことを知らないという人も日本には計算上数パーセントは必ずいる。

 幼すぎて理解できない赤ん坊や子供、知的障害や精神障害の人、同じように理解力を失ったお年寄り、山の中にこもっていたり、テレビもパソコンも家にはないし、人付き合いもないという極端な生活スタイルの人などである。数パーセントと言えども数百万人である。百万人は確実にいる。(日本の新生児人口約100万人、0歳~5歳までの合計が600万人。これに障害者お年寄り、極端な人などを加えると一千万人近くなるかも。10人にひとりのレベルだ)その人たちの意識内では3・11は存在しないのだ。
 僕らがこれだけ頭を悩ませ、悲しみ、政府や電力会社のシステムに怒り、怯えてもいた出来事が百万人の人々にとっては存在していない。
 僕らのリアリティは一般的な知性と常識を持つ、成人を対象としたものでしかない。

 3・11の日、ボロアパートの倒壊を危ぶみ、公園に避難した僕の目にはグランドで元気に遊ぶ子供たちの姿が見えた。
 彼らの目にはこの出来事の巨大さが映っていない。
 何かそのことにある種の救いのようなものを感じてる自分がいた。
 きっとたくさんの人たちが、それを知らない存在の、明るさに助けられただろうと思う。
 
 震災の直後宮城の方から、地震直後は停電などでテレビも何も見られなかったけど、情報が入っていろいろなことがわかるようにったときよりも心が落ち着いていたとコメントをもらったことがあった。

 3・11の災害史上例を見ない悲惨さは多く報道され知らされるけど、3・11を知らない存在がその期間どのような平和を生きていたかはもちろん知らされない。情報の無風地帯にいる人たちはその間どんな現実を生きてきたかを。でもそのパラレルリアリティをちょっと想像して、体験してみたい。そこにはどんな風が吹き、どんな考えが踊っていたのだろう。

 僕はもしかすると、体験してきたことと、単に情報として知ってることをもっとはっきり区別したほうがいいのかもしれない。

 3・11も知らない
 中国も北朝鮮も
 靖国参拝も
 冷戦も知らない
 原爆の投下や
 奴隷制度も知らない
 
 そんな存在の瞳が醜いとは僕はどうしても思えない。
 それは僕らがあこがれる瞳で、愛と共に、神とともにある瞳だと思えてならない。
 「知らない瞳」は安らぎを知ってる瞳だ。
 何も知らないのに知性を感じるのはそのためだ。

 このことにより少なくとも、「知ってること」と「知らないこと」は等価であるとは言えるだろう。 

 ましてや「知らないこと」を罪としてはならない。これは「知るべきだ」とある認識構造、リアリティを人に強要することはできない。知らない存在のかわりに、知ってる僕たちが世界について考える必要があるとしても。

 知らない存在たちは、やがて成長し、悲劇を知るようになるとしても。

 知らない存在たちの愛は、様々な形で、むしろ知らないことによってこそ世界に貢献できるのかもしれないから。

 知らない存在たちがいたからこそ、人類全体の心の平和が保たれてるのかもしれないから。

 一定数の知らない存在たちがきっと僕らには必要なのだ。

 「知」と「無知」のバランスはもうとられている。

 一度知ったことを忘れるのは容易ではないが、少なくともそれらを幻影として退ける自由が僕にはある。

 少なくとも、この瞬間は。

 この瞬間に平和を感じなければ、平和は永遠に訪れない




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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/11 21:27
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