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Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)④



 三回目のSEセッションの記録。5月16日(金)。
 セッションメインではなく導入と世間話しでの気付き。

 ピーター・リヴァインの本の話しをして、どこが印象深かったですか?とたずねられて、「興奮と不安を切り離す」という箇所がすごくよかったと話した。

 それに対してセラピストのHさん、神戸でのセミナーの模様などを教えていただいた。

 「私も改めて学んだのは、興奮するということが楽しいことと結びついていればいいんですけど、、怖いとか嫌だとか、死の恐怖じゃないですけど、そういうものと結びついてる場合があってどっちも大きな神経系の興奮の<山>なんですよね。だからスタジアムでサッカーを応援するとかすごく楽しいはずのところへ行っても、その状態はある意味トラウマのときの状態と同じなので、交感神経的には、がたがたがたと調子が悪くなったり、怖いことを思い出したり、逆にフリーズして動けなくなっちゃうとか。

 だからSEのセッションの時はなるべくなだらかにこのS字、サインカーブが出るように神経ちゃんをもっていくというのが大事みたい。

 そう、だから巷でちょっとはやっている何かを蹴るとかぶったたくとか、大きい声を出すとか、そういうカタルシスワークも一時アメリカですごくはやったんですけど、それもやっぱり大きい<山>を作ってしまうのでよくないっていわれ始めてて。。

 アメリカで一時はやったんですよ、DVの被害にあった女の人が男の人をボコスコにしちゃうっていう、そういう。男の人は防具みたいなのをつけて「OH・・・」なんてやられぱなし。で、女性は「やってやったぜ」みたいにすごいすっきりするんだけどそれはすごく大きな<山>なので、そのあとはすごく落ち込んだり、だから最近は最先端の科学ではよくないってことになっていて。

 だから美しいS字カーブを描くセッションをするということが大切だと、今回改めて学んできたので・・


 「おだやかであるほどいいっていう感じですか?」
 
 「そうなんですよね~ Less is more っていうんですよね。より少ないと、より多くが得られるみたいな。ピーターの言葉でね。

 こないだのセッションでKさんの脳幹はひたすら走ったんでしょうね、山に向かって。だからちょっとそのあとのリアクションが大きかったのかな。

 それは落ち着いたので、成功だったと思うんですけど

 より深い落ち着きに戻していくって言うことを今回はやんなきゃなーと思っていました
。」


 こないだは、わけのわからない恐怖世界に接触して、途中でストップをかけてもらったセッションだった。
 そのあとものすごい怒りが湧いてきて、困惑した。

 今回は3回目

 この日は朝から寝不足気味で、ちょっとイライラしてる。

 SEは、まず、いい感覚としっかりつながってからトラウマの渦と接触するという方法を毎回おこなうけど、その日は心地よい体験を呼び出しにくかった。

 

 感覚的に もわもわ + ぼけー + イラ って感じでいいイメージングが難しい。


 「ある意味そのもやーっていうのがね今日はもうフリーズ入ってるのかもしれないですね」とHさん。

 フリーズっていうのは、きっとトラウマ構成4要素の、過覚醒・狭窄・解離・凍りつきの四つ目、凍りつき反応と何か関係があるのだと思う。

 「どうしたものですかね、フリーズするといいものも探せないしイメージしづらいんですよねぇ

 「いやー今日は朝からこんなだったので、無理じゃないかなと思ってたんですけどw」

 「うん、本当ね、今日は無理ッすねそっから入るのはw」

 「まーなくはなかったんですけどね。楽しいことは・・」


 「うーんそうでも、大丈夫よ、無理しないで

 ・・・じゃあKさんが最近マイブームで読んでる本とか、面白いこととかなんかあります?」


 と質問され、なぜか真っ先に、レンタルして読んでいた森田まさのり作の漫画「べしゃり暮らし」が頭に浮かんだ。

 そのあと対話は意外な展開を見せる。
 
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 「芸人をテーマにした漫画なんですけど、それが面白くて最近よく読んでましたね。」

 「へ~それは、なに、下積みの極貧生活みたいな?

 「うーん、そうですね高校のときのお笑い好き仲良しの2人が、だんだんメジャーになってデビューするまでを描いたみたいな感じで、あの~『ろくでなしブルース』ってご存知ですか?」

 「ううん(^_^)

 「あははwまあ結構有名な漫画家の作品で、それを読んでると、自分は全然そんなことやったことないんですけど・・・演劇をやってたことが昔あって、舞台で何かを表現するときの興奮みたいなものが伝わってくる感じがして、これは気持ちいいだろうなって感情移入していました。」

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 「あ~!なるほどね、Kさんもお芝居されるんですね。

 「いや、やってたたってほどでは学生の時2年くらいですけど」

 「でもステージに立ったときの高揚感っていうのは味わったんですね。」

 「そうですね、それはよかったかと」

 「そうですか、すばらしいですね。ステージに立ったときの高揚感が体の中に今でも住んでいるとしたらどこいらへんに住んでますかね~?

 僕は体の中にその高揚感を探して見た。

 「いや、もう「全身」っていう感じが」 そう言うと 大きな感情の波がこみあげてきて言葉が少し詰まった。

 「そうなんだ!その高揚感がエネルギーだとすると色とか、形とかどんな感じですかね

 「エネルギーに満ちたような・・・色・・・ちょっと表現しづらいんですけど、やっぱりちょっと覚醒するようなそういう感じ、非日常的な感じですね」

 ゴールドの、燃えるような形状?

 「なんだろうそれは観客の視線を感じるから? 拍手とか

 「それも大きいと思いますね、あとウケたりとか、見てる人に何か感動を与えられるって言うことが

 「感動を与えたいっていう感じ?」

 「っていうのはあると思います。」

 「じゃあKさんがめちゃくちゃ感動した!っていうのある?本でも映画でも

 と質問され、これもなぜかわからないが「ショーシャンクの空に」が頭に浮かんだ。好きな映画はほかにもいっぱいあるんだけど。

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 Hさんは知らないようだったので、その内容を説明した。

 「ステーブン・キング原作の映画なんですけど・・・無実の罪で刑務所に入れられた人が脱走して、自由を手に入れて本当の人生を手にいいれるていうような話です。

 「本当の人生を生きる・・・みたいなのが・・あっでも今閃いた。・・・・私が勝手に解釈して色つけちゃいけないけど、Kさんも無実の罪で刑務所に入れられてたから、脱走して本当の人生が生きたいと思ったんじゃない?やっぱり。

 だって自分で選んだり、こうしてくださいっていったわけじゃないのに、そういう状況のところにもう生活していて・・・罪もないのに。である意味その以前のひきこもりっていうのも無実の罪で収監されてるようなものよね


 「そうですね・・・で、まあ学校には行けなかったんですけど、自然の中に行くのは好きだったので、一週間に一度くらい自転車で海まで行ったりとか。映画の中でも脱走して、最後に海の近くでホテルを作ってそこで囚人仲間と働くみたいなシーンで終わるんですよね。海っていうのが自分にとってすごく自由のシンボルみたいな部分はあります」

 「なるほど・・ではちょっと目を閉じて見ましょうか。そのホテルは海辺のちょっと小高い場所にあるような感じ?

 と、これくらいからまた目を閉じてのセッションが再開されることになったけど、

 この頃にはもやーという感じやイライラした感じは消えて、シャキっとした感覚に置き換わっていた。
 「べしゃり暮らし」からステージに立つ感覚、そしてショーシャンクの空と、高知の海のイメージ 
 きっと会話を通じて、なにげなくリソースとコンタクトさせてもらったということだと思うけど、僕にとって意外だったのは、公園を歩くとか、きれいな風景を見るとかいうある種静的なリソースではなく、舞台に立つ感覚なんていうずっと以前に忘れ去っていた高揚感が、意識を変えてくれたことだった。

 それは自分の中では完全に水面下に沈んだ過去のアイデンティティだったけど、そこで経験した感覚は今でもどこかに残っていて、意識をビビッドな質に転換してくれるのだった。
 


 リソースと、ソース



 マイク・マクナマス著の「ソース」という本がある。
 分類するとすると自己啓発系のジャンルに入るのだろうか。
 機関車の絵がキュートで好きだ。(著者が汽車好きだったことによる)

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 この本の言わんとしていることは、人生はワクワクすること、喜びを感じることをどんどんすることで力付き好転してゆくということだ。
 そういう考え方は精神世界や、自己啓発系ではそれほど珍しくないだろうと思うけど、「ソース」がユニークなのは、ワクワクすることをすべて同時に行うように呼びかけていることだ。簡単にいうと、歌を歌うこと、絵を描くこと、ボランティア活動、将棋が好きなら、どれかを切り捨てることなくそのすべてに同じような情熱をかけて楽しむことが大事だという。
 それによってシナジー効果が起こり、人生がダイナミックに動いていくという。
 私見では、喜びを感じることをする、それを生きるというのは至極まっとうな生き方だと思うけど、「ソース」の同時実行という考え方にはちょっと疑問符をつけていた。
 それは僕の実体験でブログに書いたこともあるけど、「ソース」を実践してみて、過活動(過覚醒)になりすぎて夜中にがばっと目を覚ました経験があったりするからだ。
 冒頭のHさんの話に書いたように「興奮」がトラウマと結びついている人は、きっと、そこまで一日を活動的には行動できない。OFFの時間、ニュートラルな時間をたっぷりとらなければ神経システムが飽和状態になってしまう。あと、そんなにあわただしく生きたくない、だらーっと、のんびりしてたいという人だっていると思う。

 でもこの考え方に抵抗するほかのいくつかの理由があることに気づいた。

 そのひとつはマインドの特化したいという性質、指導者を決めたいという性質ではないかと思う。

 よく「自分探し」で本当の自分を探す、となると誰もがイメージするのは特定のひとつの仕事、ひとつの趣味、ひとつのテーマである。

 人は普通、あるエネルギー、価値観・信念、行動パターンで形成されたメインパーソナリティを持っている。

 それによって

 社交的な人、内省的な人、なんとなく面白い人、などの見た目のキャラクターと、

 「私はこういう人だ」という自己同一性が確立される。

 そのメインパーソナリティの周囲には、メインより却下されたり忘れ去られたいくつものエネルギー、感覚、衝動、価値体系がコロイド化した状態で取り巻いている。

 メインパーソナリティは外部からの条件付けで形作られる部分が大きいと思う。

 例えばある能力をほめられた経験を持つ子供はそれをメインパーソナリティの部分として取り込む可能性が大きい。
 よりよく評価されたり、成功体験としてのリソースが多い局面を自分だとみなすように人は条件付けされる。
 別の言い方をすると、生存に適した自己、家族や社会との折り合いがつきやすい自己、そういった役割的自己や、職業的自己と強く同一化して、それ以外のエネルギーはメインに制圧・無視された形で水面下で眠っている。
 この構造があまりに硬直的な場合(メインを狭く限りすぎてる場合)、人は自分でも制御できないような感情や感覚に振り回されたり、内的な衝動を他者に投影しやすい。

 例えば僕の場合は、スピリチュアルなパーソナリティが結構力を持っているけど、これは宇宙や人生の根源を知りたいという衝動、高次の力とつながりたいという衝動、瞑想やアウェアネスを好む衝動、スピリチュアルなものを追求することがとても価値ある生き方だという信念などからなっている。理想とする人物はやはりどこかスピリチュアルな存在を思い描く。

 ところがこれはもっと昔、20世紀末(笑)は、いまだコロイド化してるサブパーソナリティだった。自分が何か宇宙の広がりのようなもの、海のようなかわらないもの、を求めているということはわかっていたけど、それをスピリチュアルという言葉では表現できず、むしろカルト教団の起こした事件などもあり、スピリチュアルなことに興味を持つことはアブナイことだとかなり思い込んでいた。その頃理想化する人物は、さめた視線や日常を越えた想像力を持つ「作家」だった。

 そのひとつの理由は、周りに生きた人間で、そういう世界に興味を持つ人がひとりもいなかったことが大きな原因でもある。
 ところがネットを始め、東京に来て、そういう世界に興味を持つ「生きて動いてる」人たちとたくさん出会い、共鳴しあったり、自分の感覚を認められることにより、コロイド化してるエネルギーの中からスピリチュアルな人格がよりはっきりと出てきたのだ。
 ということでここでも外部からの条件付け、他者との相互作用が大きな力を持っている。

 ところがスピリチュアルなパーソナリティというのはひとつ間違うと、暴君的で、鼻持ちならないものにもなりうる。
 それは自分は特殊だと思い込んだり、何もかもわかってると思い込んだり、俗的なものをとかく批判しやすい。(それはスピリチュアリティではないんだけど)
 スピリチュアルなものはある種究極的な事柄であるために、人格がそれと同化するとどうしてもそのような効果が生まれてくるのだ。

 それは、ひとつ間違うと残りのすべてを「皆殺し」にする。
 「皆殺し」が言いすぎなら、多面的な残りの自己すべてを水面下に封印しようとする。

 スピリチュアルな人のほかに、自分の中では援助者や、外面的に一見落ち着いた内省的キャラクターは力を持っている。
 僕に会って「いやーなんておしゃべりな人だ」と思う人はまずいない(と思う)。
 昔はよく「お前、なんか喋れ」といわれることがあった。それくらい無口で暗い時期もあった。
 ところが驚いたことに10歳前後のときのビデオフィルムを見直してみると、僕はテレビレポーターの真似をして、あちこち飛び跳ねながらうざいくらいに喋りまくっている。
 
 このうるさい子供はどこにいったんだろうか?

 きっと、内省的なキャラが育つうちに水面下に押し込まれたけど、エネルギーとしてはまだ生きているんだろうと思う。
 僕が割りとお笑いが好きで芸人さんに惹かれる部分があるのは、そういう水面下のエネルギーと共鳴するからかもしれない。
 演劇をしたのも、そういう喋りたがりで目立ちたがりの自分がいるからだ。

 となると面白い仮定が出来上がる。
 実は僕はスピリチュアルな人ではなくて、芸人や、レポーターのなり損ねではないかという仮説だ(笑)。
 たまたまどのエネルギーと衝動がメインパーソナリティとして凝固したかというだけの話であるならば、絶対的にスピリチュアルがメインで、芸人あるいは「うるさい子供」がサブだとは言い切れないような気がしてくる。
 以前、だちょうクラブとジャングルを探検してるというアホな夢を見て、「あー楽しかった」とすっきり目が覚めたことがあった。
 ところで、なんでだちょう倶楽部?と思ったけど。

 ソースのプログラムが役に立つ可能性は、どこにいったのかわからない「うるさい子供」のようなエネルギーをもう一度すくいあげて、メインに統合できるという心理学的次元にもあるのではないかと思う。

 別に一生スピリチュアル一辺倒でいったって悪くはないんだろうけど、できたら僕はこの「うるさい子供」ともう一度合体したい。そして彼がどういう気持ちではしゃいでいたかを思い出してみたい。

 好きなことをすべてする、という発想だとかならずそういう水面下のエネルギーと接触して再発見する機会ができるというのは確かだと思う。

 それらのすべてが僕らが自分ではないとして却下したエネルギー、生命力とつながってる可能性がある。



 3回目のSEセッションのはじめに思わぬところからリソースとつながれた経験から考えると、それってとっても意味があることかもしれない。



 ということで、近々NSCに願書を出すことにしました!(嘘)

 初コンビなのに安定感があって気に入った漫才↓
 

 サンドイッチマン富沢VSフット後藤

 



 

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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/16 23:16
コメント
こんにちは。私の住む福岡でもSE が受けられるとわかったので通いはじめました。現在2回目です。博士の本も少しずつ読んでますが面白いです。興味深い情報ありがとうございます
>ひでさん

 コメントありがとうございます!

 リヴァイン氏の本は、本当にすばらしいと思いました。具体的(科学的)かつスピリチュアルな性質を持つ本って少ないと思いますが、あの本はインスピレーションと経験と科学と、スピリチュアリティがバランスよく融合してるように感じます。

 SE2回受けられたんですね~。今後ますます気付きと癒しが深まっていかれるとよいですね♪

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