直観と<境界線>


  
  タロットカードの中で内なる直観を表すのは、2番の「女教皇」だとされています。

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 根源から、あるいは内なる自己からの宣託を告げる彼女は、すべての人の中に存在しています。

 僕が思うに、自分は霊感もないし、まるっきりそういう能力はないという思い込みの強い人も、虫の知らせ的なシグナルによって行動を左右されているのです。

 もともと人間の心臓には未来をある程度事前に察する能力があるようです。

 これは科学的な環境で設定された実験ですが、ランダムにいろいろな画像が現れるモニターの前に被験者を座らせて心臓の活動を観察すると、爬虫類の攻撃や災害の画像などが表示される数秒前に心臓の波形に乱れが起こるのです。

 以下の動画に実験の撮影があります。(英語です)56分頃~

 


 次に何の画像が現れるかは被験者はもちろん、実験の監督者も知らないので、この場合、被験者の心臓のみがもっとも未来に通じていたということになるのではないでしょうか。

 「女教皇」はもしかすると、僕らのハートのあたりにいるのかもしれませんね。
 そこには頭脳とは別の、知性と情報のセンターがあるのです。

 だから、これらは人が思うほど特殊な能力ではありません。

 ただ内なる指針とでも呼べるような感覚です。

 僕の場合は、直観的に、この本を読むべきだということがわかったり、本の装丁や著者の名前によってそのエネルギーが感じられるということはよくあります。なぜかわからないですが、好きな本は著者の名前の響き自体がとても魅力的にひきつけてくるのです。そして本自体が生き物のように、愛らしさを放っています。間違って踏んでしまうと、生き物をふんずけたように「あ、ごめん」と謝りそうになります。

 これとは逆に、手に取るのもちょっと躊躇する、部屋に置いておきたくないという本もやはりたくさんあります。

 それは腐った食べ物や枯れた植物を部屋において置きたくないという感じと似ています。

 こんな風に直観は、おそらく誰もが知らないうちに使っている明確に定義されていない、五感以外の感覚ではないかと思うのです。そして、人によって直観の働きやすい分野、そうでない分野があるんじゃないでしょうか。

 そして自分の人生の生き方に関わる局面でもやはり直観は僕らにささやきかけてきます。

 ある意味でいうと、本当に自分らしく生きるには直観的に生きるしかないわけです。
 
 というのは、自分が何を仕事とするか、趣味とするか、喜びとするか、どういうライフスタイルを送るか、何を食べるか、などということに関して、内なる指針に従わねば、外なる指針に流されるしかないからです。
 
 外なる指針ののわかりやすい例が、メディアによって意図的に起こされる流行や、ブーム、カリスマ占い師のアドバイス、生まれ育った家族の価値意識、あるいはその時代全体を支配する集合的な価値意識などです。

 多勢を支配する外なる指針と、自分のスピリットの出す指針の食い違いが少なければいいのかもしれませんが、内なる指針と外なる指針のギャップが大きいほど人はその葛藤を封じ込めるか、「少し浮いた人」として生きる勇気を持つかという選択に迫られる場合もあると思います。

 でも実際は自分に正直であればあるほど、周りにも貢献できるのです。
 自分に不正直であればそれだけ、自分のギフトを内側に封印してしまい、その抑圧されたギフトの創造的エネルギーが逆に心身を攻撃します。

 自分の直観に正直であることは、一人でいれば、割と簡単に思えますが、誰か別の人がからむと少し複雑になってきます。

 「境界線」をひくことと、「直観」の関係もそのひとつです。

 よくセラピーの分野では健全な境界線を引くことの大切さが語られます。

 境界線は、僕と、あなたの間にある、個としての分水嶺です。

 境界線を引くとは簡単にいうならば、それぞれが独自の価値観を持っているということを認め、必要以上にそこに干渉しないということ、また人のプライベートな空間やエネルギーを尊重し、そこに入り込み過ぎないこと、そして自分自身についても人から侵犯されることを黙認しないこと、などです。

 境界線がぐちゃぐちゃになるということは、家族やカップルの間でよく起こります。
 当然といえば当然ですが、密な関係ほどどこまでが自分でどこからが他人なのかわからなくなります。

 それは「一体感」、よいことのようにも思われがちですが、健全な境界線のない関係は決してよいものではありません。
 
 それは「愛」ではありません。

 極端な例がユニティの名の下に、みな同じ服を着て、同じような笑い方をする宗教集団のような形態です。
 ないことにされた境界線は、しばしば、組織の外部を敵対的なものとして設定することにより外在化されますが、これが良く起こるカルト内での社会へのパラノイアなのです。

 また国が混沌とするときに起こる、ナショナリズムなのです。

 これが家庭内で起こると、いつも何かのトラブルに全体が振り回されていたり、どこまでが自分の感情でどこまでが人の感情かはっきりしないような纏綿型家族ができあがります。

 この中で人は暗黙に問題意識や信念体系を共有しますが、それが自分のものだと思い込んでいます。

 このような家庭内では常に人の境界線を越えてしまうのが常習となっている人がおり、またテリトリーに踏み込まれ心に干渉されることが常習となっている人がいます。同属としての意識と慣れが<個>の存在のユニークさを、無視してしまうのです。

 直観と、境界線の関係はいくつかの簡単な例で説明できます。

 まず直観は自分のスピリットから、あるいは<根源>から来るものなので、境界線が脆弱であまりにも外側の信念やエネルギー、情報に振り回されていると、それに気付くことができません。
 直観を受け取るには、女教皇が座っているような静寂の空間が必要なのです。

 また直観を感じていても、それを人に表現できるだけの強さがなければ、関係性の中でそれは埋もれてしまいます。

 例えば、僕は一人の時間がある程度ないとかなり疲弊するタイプなので、疲れているときにパートナーとも話すことが難しいことがあります。
 でもそれを押して会話を続けることがよくあったのですが、そうするとそれがストレスになり、イライラし始め、相手にもそれが伝わり、雰囲気がピリピリするということを何回か経験しました。

 今は、ひとりでいたい時は画用紙で作った「一人にしてね」プレートをドアにかけたり、いろいろ工夫してややスムーズになりました。そして僕も、相手が疲れているときは一人の空間をなるべく尊重するようにしています。

 これは境界線は維持したいけど、嫌われたくないというようなジレンマが起こるポイントでもありますが、基本的には「無理をしない」ということが長い目で見るといい結果を生むようです。

 また例えば、友人からどこへ遊びに行こうと誘いがあった場合も、気乗りがしなければ、失礼がないように断ったほうがいいんだと思います。
 いやいや、付き合うよりも例えば、僕がそこで断ることにより、彼にはまた別の可能性が生まれるからです。
 友達を大事にするとは、ある意味では「友達とは、今日は遊ばない」ということにもなりうるわけですね。(また別の日に会う約束をしてもいい)

 ところが相手の反応が気になる人は、ここで自分の感覚にふたをして、出かけていって、楽しくない思いをしがちです。
 自分の感覚よりも、表面的な承認を得ることを優先してしまうんですね。

 相手の話にあわせすぎて、いつも聞き役になってしまうという人は、会話の中で自分の感覚を表現する練習をするといいかもしれません。これは僕もよく意識することです。

 介護の仕事などで、最初は自分の感覚を殺すということを意識し、相手の話を聴くこと、あわせることだけをしていましたが、「自分を殺す」というのはどんなときでもそれほどよろしくないことだと気付きました。

 なぜなら自分を殺すことは、遠回りに「相手を殺す」ということでもあるからです。

 自分の境界線を侵された違和感や怒りを押し殺し続けることは、相手にも付けとなって回ってくる場合があります。
 人のフィールドに干渉するという傾向を当然のものとして受け入れることで、それを常習化させてしまうからです。

 それを回避するには多くの場合、「ちょっと疲れてきた」「休ませてください」「少し一人にして」などというだけで十分です。

 どんな時でも「自分を生かす」ほうがいいのです。

 それはどんな時も自己主張をしまくることとはちょっと違います。
 
 相手のエネルギーに巻き込まれすぎないこと。

 どんな時も、自分のリズムとともにいること、呼吸とともにあること、自分の愛と共にあることで、それが人とのかかわりの中にあるときでも僕らが直観を受け取れるスペースを確保してくれるように思います。

 社会や他者から孤立することなく、女教皇の座るような静寂のスペースとともいられることが理想ですね。



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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/04 13:02
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