スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

愛とストイック



前回の記事をやや補足する内容です。

  マインドや体に取り入れるものを純化する、限りなくゼロにするという方向性は生命力を賦活する方法のひとつだと思うけど、それは宗教的なストイシズム(禁欲主義的な考え方)にもダブってくる。

  宗教的なストイシズムは戒律に基づいている。

  ~してはならない ~食べてはいけない ~のことは考えてはいけない 
  ~しなさい     ~を食べなさい    ~と考えなさい

  このような、すべからずとすべきことの一覧で、ヨーガではヤマ・ニヤマなどと呼ばれている。
  バイブル、コーランにもこのような形のメッセージが多くある。

  ヨーガだけではなく古今東西世界中の宗教的・精神的体系の中でそれは見出される。
  伝統的宗教ではなく、カルト的なグループにおいても「~すべからず」というのはたくさんあり、それらの規則がメンバーを恐れに基づき連帯させる機能を持っている。

 これらは、特に伝統的な宗教においては、迷信というよりは、ここをはずさなければそう間違った道にはいかないはずだという道しるべ的なものであり、ストッパーであったのではないかと思う。

 だが20世紀からの飽食的・享楽的ムードは、これらをばかばかしいもの、古臭いもののように見せる作用を持っていた。
 確かに20世紀に生まれた先進国の多くの人は、自ら戒律なんてものに縛られたいとは思わない。
 それよりも、なるべく自由に楽しく、自分らしく、そしてある程度は飽食的・享楽的に生きたいと思う。
 数十年はそれでいけたが、気候変動や大気海洋汚染、人の心の荒廃などが問題視されるようになった。
 その反動として、エコロジーやマクロビオティックが世界中に流行ったり、最近では不食が話題になったりストイックな方向へのゆり戻し現象というのも確かに起こっている。

 これは振り子の両極なんだけど、この平面的な二元にメンタルな価値、「愛」という価値を考えると、この二元を越えた立体的ビジョンを得ることが出来る。立体というのは、ひとつ空間的に越えた点を設定することで、平面上の価値観を俯瞰して見、それらを超えることのできる意識の象徴だ。

 例えば、享楽主義と禁欲主義を平面上の二点に置き、それより高い位置に「愛」というポイントを置く。
 別に下でもかまわない。
 要は、それは別次元にあるということなのだ。

 享楽主義を南 禁欲主義を北
 科学を西 宗教を東 とすると
 「愛」というポイントは宇宙空間にあたるでしょう


 愛って何?って聴かれると困るけど

 くつろぐ感じ
 帰ってきた感じ
 ゆるむ感じ
 目の前が明るくなる感じ
 うん、うん、Ok、いいんだよという感じ
 広い感じ
 開けた感じ
 胸が熱くなる 切なくなる感じ
 大きくて泣きそうな感じ
 いつもは草の間を舞うわからないくらい小さな妖精に見えて 
 実はこの世界をすべて覆うような存在 女神 
 午後3時のお菓子に見えて 実はそれがないと生きていけない
 メインディッシュ

 そのような感じ

 を個人的には持っています。(僕がリアリティとして感じる限りの表現です。)

 この愛というメンタルなものが実はもっとも生命力を賦活するもののようです。
 言い換えれば、すべての問題は愛の欠如によるとも言える。

 愛のこもった行為があり 愛のない行為がある。
 心をこめてする行為と 自動的・習慣的 恐れに基づいた行為がある。
 だいたいが特に大人になると、習慣的に動いてしまうことが多くなる。
 習慣的にタバコを吸い、酒を飲む。
 それを好きなの?と言われると 多分多くの人はこう答える

 「別にそんなに好きじゃないよ。ただねーなんかないともの足りないっていうか、気持ち悪いっていうか、落ち着かないんだよねーストレスもあるし」

 そこにはあまり愛はない。愛のない行為。タバコやアルコール、砂糖などが体に悪い、もちろんそれもあるだろうけど、そのように何かにせかされてする行為自体が体に悪いとも言える。

 師匠にいつか言われたことだけど、タバコにもスピリットが宿っている。そもそもタバコはネイティブアメリカンの聖なる草だ。煙を吸いながらパイプを回してメンタルな契りを結ぶ。儀式のときに吸う。もともとは喫煙室の灰皿にたくさんねじ込まれたものとは似て非なるものだ。そこに宿るスピリットを無視した使い方が人を傷つけるという。
 おそらく化学物質だらけのコンビニで売ってるタバコでも、そこに宿る何かに感謝して吸う一本は特別な一服になるだろう。お酒にも、それの材料となる農作物の、酵母の意識が関係する。古来から人類を酔わせてきたアルコールというスピリットに感謝して飲む一杯は特別な一杯となるだろう。
 そういう一服や、一杯は きっと「むさぼる」ということはできないからだ。

 だから「愛」というポイントを設定すると、タバコを吸う・吸わないではなく、愛のある愛煙家もいるし、愛のない嫌煙家もいるということがわかる。それはタバコだけに限らず、肉類や、お酒や、テレビや、インターネットや、セックスや、ほぼあらゆることについて言えるのだ。

 自分が不純だと思うものをすべて切り捨てる、ストイシズム。
 それが間違ってるわけではないけど、そこに愛がないと自身が枯渇していく。
 あるいは、どういう意識でそれを行っているのか、片意地を張りすぎてないか、頑張りすぎてないかという自問が重要になる気がする。

 ひとつの基準は無理して、あるいは片意地を張りながらこの種のことをすると、かならず自分がやってないことを楽しんでしてる人に対してジャッジしたり、「おばかさんだなー」と上から目線になりやすいことだ。
 愛のある禁欲者なら他人の習慣に対して、ジャッジはしないだろう。
 おそらくラーマクリシュナが弟子に「そろそろタバコ吸ってきたら?」と言ったというような、そういう感じになる。
 あるいは「お前、タバコなんか吸ってんのか。やめろバカ、それ、も・う・ど・く、だぞ」となる可能性もある。

 ただどちらになったとしてもそれは彼らは自分の主義主張に基づいて、人に喋っているわけではないのだ。
 愛である自己に、喋らされてる、ってことなんだろう。
 基本的に、彼らにとっては習慣はどちらでもいいことだ。

 テレビも肉もスイーツもインターネットもセックスもゲームもタバコもアルコールも、それらすべてが大好きでも、あるいはそれらすべてを切り捨てていても、「愛」にとってはおそらくイコールなのだ。
 僕らの頭だけが、「差」を生もうとする。

 それよりも彼らは、本人が自分らしく無理をしていないこと(無理は大概恐れに基づいてますからね)、愛に生きているかを観る。そして彼らの主義主張ではなく、聞き手の「必要性」に応じてアドバイスする。

 僕にとっては5年ほど前にテレビを捨てたりしたのは、ある種自然な流れのように感じられ、あまり観たいという欲求もないけどもしかするとこの先CSが見たくて買う可能性もゼロではない。同じように夏が来たら、おいしいラーメン屋を食べ歩いたり自作ビールで飲んだくれてるかも(笑)情報から距離を置くという数年前の師匠のアドバイスは主義主張ではなく、僕の必要性に応じて与えられた気がする。それはひとりでに進化発展し、オリジナルの情報やメディアとの付き合い方が形成されつつある。

 「テレビを見てはならん」とか「肉を食ってはならん」というのは「愛」を知るものにとっては教義とするに価しない。
 むしろそれらへのこだわりが、不純物への恐れが、純化への渇愛が、愛を見えなくさせていることを知っている。
 
 愛に生きる存在は、不純物の中でも、彼らの認識によりある意味守られているのである。
 そして、それは
 不純物の中であっても、全く変わらずピュアであるというのは僕らの真の姿でもあるのだ。




 
スポンサーサイト
知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/17 11:18
コメント

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。