輝くニート



 ネットのニュースで、いわゆるニート(働いておらず、学校にも通っていない人)は現在20~59歳で162万人、35歳以上は79万人と過半数を占め高年齢化していることが書かれていた。

 ニートや引きこもりに関しては、僕もまったく他人事という感じがしなく、社会の枠にかろうじて片足だけひっかけているという感覚はずいぶん前からあった。だから、ニートが非難されてると自分が非難されてる気さえする。

 よくニュース番組のワンコーナーでもとりあげられたりする「社会問題」だけど、僕が思うのは、彼らが働いてるかそうではないかという点に焦点を当てすぎているのではないかということだ。

 例えば35歳で実家で暮らし、働いてないし、通学したり、ハローワークにも通ってない2人の男性がいるとする。

 一人は昼夜逆転した生活をしている。
 だいたいお昼の一時くらいに起きて、一日の大半をPCの前でオンラインゲームなどをして過ごす。アルコールやドラッグ、向精神薬が習慣的になっている。時々感情を爆発させ家族に暴力をふるうことがある。部屋の壁はボコボコ。

 もう一人は、一応ニートであることを気に病んではいるが、家の家事や家庭菜園を手伝ったり、年をとった両親の介護をしている。毎日ジョギングをしたり、図書館から本を借りてきてよく読んでいる。

 この2人は、「ニート」かあるいは「非ニート」かでいえば2人ともニートに分類される。

 でも、そのメンタルやボディの健康度やQOL(Quality of life)は大きく異なる。

 どうもニートを扱うときの問題は、自活しているか否かのみを基準として、1かあるいはゼロ方式で、自活していない一群をニートとして社会問題視するというやり方ではないかと思う。

 (戦前・戦後まもなくであれば結婚前の女性が仕事をせず実家にいることはまったく普通であったと思うけど、今は、それもニートにカウントされるのだろうか?家事手伝いというのは最近の統計では仕事をしてることに含まれないということみたいだけど)

 そしてそこからの出口は、とにかく何であれ、仕事をさせて100パーセント自立生活をさせることだけにあると考える。

 しかしそれよりも重要なのはどのようにして「ニート」群を数値的に減少させるのではなく、どのようにしてその群のQOLをあげるか、人間的成長の機会や、癒しの機会を提供できるかということではないかと思うのだ。

 仮に数値的には同じでも、数値化できないQOLが向上すれば確実に世の中はよくなっているに違いない。

 親に暴力をふるっていたA君の暴力がなくなるだけで、両親のストレスは減り、その安堵はさらに別の人、別の家族にも波及していくものなのだ。

 自活だけを求めるのは現実的ではない。
 それどころかその風潮は彼らをさらに追い詰めるに過ぎない。
 追い詰められたものは自滅するか牙をむく。
 そのどちらにしても、それは社会に帰ってくる。

 経済的負担だけに着目し、ニートという現象を社会問題化するという見方からすると、そんな甘いことを言っても、このまま彼らが年を取り経済的よりどころを失えば生活保護費などがかさんでくる。というが、彼らのQOLや健康度が今よりも低下して精神障害、あるいは自傷などによる身体障害となれば医療費などもさらにふくらむ。

 一体世論を形成する人々は、彼らを負け犬やお荷物として扱いたいのか、あるいは自分とまったく同じ可能性を秘めた人間として尊重したいのかが見えてこないと思うことがある。

 単なるガス抜き的な趣旨で (ほらこんなにダメ人間がいるんですよ。あなたはよくやってますよ。つらくても決してそこに転落しちゃダメですよ)ニート問題を扱うことはニート問題を強化する。

 報道特集を組むならば、むしろ「ニート」を働かない困った人と一くくりにするのではなく、例えば働いてなくても実家で穏やかに暮らしている、そんな人をこそ取り上げるべきではないかと僕は思う部分がある。

 そして彼らのQOLを向上させるのではなく、働けとしかプレッシャーをかけられないことが、現代の社会通念の限界であるように思われて仕方がない。

 例えばこんな「ニート」はいないだろうか。

 毎朝6時半には起きて、家族の朝食の支度をして、ジョギングに行く。
 帰ってくると、父親の車を借りて釣りにでかける。釣ってきた魚は、自分でさばいて、また夕食の食卓にのる。
 近所の市民農園を借りて、野菜を無農薬で作ったりしている。
 映画や本にも詳しくて、月に1度か2度は高校の時のクラスメートが遊びにやってきて、彼がオススメするDVDを借りてゆき、映画やアニメの話で盛り上がる。
 毎日日記をつけて、今日気付いたことや、作物の育ち具合なんかを書き付けている。


 こんなニート生活はどうですか?

 こんな人なら僕も知り合いたいと思うし、知っていることを教えてもらいたいと思う。  
 そして例えば僕が何かを(魚の調理の仕方や、いい映画やら)教えてもらい、僕の生活がさらに豊かになれば、かれは立派に世界に貢献していることになる。誰もそれは否定できないだろう。

 こんな人は多分、いるんじゃないかと思う。

 そしてそういう人をこそ紹介したりすることが、QOLの低いニートの人たちにも、問題は働くこと以前に自分が幸福で、健康であることなんだという道筋を提示することになる。

 30歳、40歳、あるいは50歳になり 
 「今さら健康になっても仕方ない、努力してもしょうがない」というのはあたらない。
 一人一人のQOLの高さこそが、日本全体ひいては世界全体のQOLに影響するのだ。
 ニートの人が早起きをしたり、一時間の散歩をしたり、瞑想をしたり、健康な食生活をすることは、立派な社会貢献である。
 そして、状態がよくなって働きたければ、働けばいい。

 ニートの人は怠け者というよりも、発達障害と呼ばれる特性や、トラウマ、先天的体質によって働けなくなっているというケースも多々あると思う。
 そして現在日本では、発達障害やメンタルな病の枠内に入る人が増えている。つまり日本人全体の健康度が低下していることが「ニート」というカテゴリーにいれられてる人が増加していることと関わりがあるような気がするのだ。

 そこで思うのは本当に「非ニート」はニートを揶揄できるほどに健康であるかというということだ。
 「非ニート」のボディ、メンタルの健康度が高ければ、おそらく少なくともニート叩きのような状態にはならないと思う。
 自分と同じ人間に対して、「働いていない」というだけでそのようにふるまえるということがあるとすれば、それは「非ニート」の問題点や価値観の歪を示しているに過ぎないのではないだろうか。
 ニートの病理は、非ニートの病理なのである。

 例えば発達障害なら発達障害、トラウマならトラウマの現実を知らないこちらがわのかかえる「無理解」という問題だ。

 ハローワークだけがニート生活からの脱出口だと思えば、僕だってイヤになるだろう。
 むしろニート問題に本腰で取り組むならば、彼らの存在を受け入れそのメンタル面、ボディ面の健康を気遣うような場所をこそいくつも創設する必要があるような気がする。そしてそのゴールを決して「就職すること」にはしないことだ。

 言葉というのは面白くて往々にしてそのもっとも基本的な語源を調べると、見過ごしていたヒントを教えてくれることがある。

 ニートの語源はNot Employment,Education or Training だという。

 しかし英語には「きちんとした」「こざっぱりした」をあらわす「neat」という言葉もあり、これはラテン語で「輝くような」という意味があるようだ。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/08 11:37
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