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自己表現と『聴き手コンプレックス』について


 こんにちは、記事ではご無沙汰中のはいたか鳥です。

 このところ気がつくとラジオのアップデートだけを更新していました。

 なんでこうなったのか。思い返してみると、好きな本や詩の朗読を音声ファイルで出してみようかという計画は前からあったのですが。

 去年の暮れくらいでしょうか。時々お世話になっているセラピールームへ行く途中録音したヘッセの「デミアン」の朗読を聴きなおしていました。そうしてると、誰か他からもらうメッセージよりも何かその文章の中に、自分の声の中に心の深いところを振動させる何かがあることに気づいたのでした。

 そんなこんなで生きるうえでのヒントは、外側の権威やマインドが志向する「いと高きもの」だけにあるのではなく、自分が本当に愛するものの中に(その時の僕にはデミアンの一節だったわけですが)、そして声となって現れている自分の波動の中にあるのではないかと改めて思った次第でした。 

 ということで、自分の肉声で愛するものについて語ってみたいという衝動が高まってきました。
 ICレコーダーに向かって朗読やアドリブでなんか話したりということを続けました。

 だいたい一月くらい録っては聞き、まあまあ形になってると思われるものは動画ファイルに編集してアップするという作業をしてきました。その過程で結構多くのことに気付きました。

 話し方の癖とか、まあそういうのもあるんですけど、大きいのは『声』での表現に自分が思ってた以上になにかブロックがあるという気づき。

 あんなべらべら喋りやがってなに言ってんだと思われるかもしれませんが、あれはICレコーダー君という理想的な聴き手がいるので出来たことではあります。

 ブロックのひとつはどうやら「恥ずかしい」という感覚、「不安」という感覚、などですがどうも自己表現全般に対して「恥」の感覚が強いようです。そして言葉を発するということ自体に何かとても怯えている部分があるようでした。なのでRADIOは、あえて恥をさらすという実験的な意味合いをも持っています。

 まあこういう方多いかと思いますが、僕はほんの一言二言でも、相当気をすり減らしながらこれでよいのか迷いながら発しており「何気なく話す」ということが割りと苦手なのです。

 そのため落ち着いて慎重な人に見られることも多いですが、会話を楽しんだり打ち解けたりするのがながらく苦手でもあり、人と会ったあとに「あーあの言葉は傷つけなかっただろうか」とか「不愉快にさせ怒りを買っていないか」なんて煩悶することは昔から日常ちゃめしごとでありました

 人と会ったあとその時の会話が頭を何度も何度も駆け巡り、言った言葉や言ったほうがよかった言葉が反響し、眠れなくなってしまうのです。

 というほど自分自身の表現には自身がなく、迷いが多いということだと思います。

 でもですねーだいたいアドリブで話してみて、聴きなおしてみると、やや自信がもてたという面はちょっとあるかもしれません。

 ↓この動画はそんな体験から自己表現に関することについて話してみました↓
 

    




 聴き手コンプレックスというのは僕の造語ですが、なんか人と会うと相手の話ばかり聴いて全然喋ってないなあ、悩みや愚痴を聞きすぎて疲れるなあ もう誰にも会いたくないなあ みんなきっと私のこと(話し)はどうでもいいんだなあ なんていう思考に陥りやすい人のことです。

 僕は昔からそういう心境になることが多々あり、頑張ってよく傾聴をしてると、「なんか喋れよ」と言われることもありました。
 そういうときたいてい僕は聴き疲れと、人疲れ、相手の存在に圧倒されることにより頭もぽけーっとして口を開くことが出来なくなっているのでした。そういう時はよく「でさ、さっきのあれはどうなったの?」とか「質問をする」ということによりその場をしのぐことが多いです。

 どうも「黙れ」というサインと「喋れ」というメッセージがダブルバインド的に混乱を引き起こしているような部分があるようです。
 これはおそらく多くの人がかかえる状態でもあり、意外と表現者として生まれた人にこそその症状が強く、ミッションを全うするためにはそれを克服する必要がある場合も多いと思います。

 そのように自己表現が抑圧される原因は何か、そこからの解放の道筋はどのようなものかなどについて考えてみました。 
 「恥じ」の感覚が表現をブロックすること、そして人間関係によって発生するブロックだけではなく、そもそも日本の教育システムにそれを助長する側面があるのではということ、恥じと芸人、自己表現の根源は何か?などがテーマとなってます。

 会話は相手とのフィードバックであり、繊細で気の弱い人はどうしてもリアクションが少しでも悪かったり、不快にさせたと認識するとあっというまに黙るか、相手のペースに合わせて傾聴モードになるという傾向があります。

 人見知り、コミュニケーション不全の原因のひとつは反応を気にしすぎること、そして反応をネガティブに解釈してしまう癖によって、他者とのフィードバックが怖くなることによるのかもしれません。

 それならば、まず自分自身や人間以外とフィードバックループを創ってみるという手もあるのです。

 表現エネルギーは、創造エネルギーの一部であり、あらゆる創造性と同じく取り扱いに注意を要するものです。
 暴走させても、抑圧させてもよくなく、穏やかな道筋をつけてやる必要がある。
 特に生まれもって創造性のエネルギーに突き動かされてる人は、よりいっそう、その扱い方を学ぶ必要がありそうです。
 
 悲しい犯罪などは非常に粗野で破壊的なかたちで行われてしまった自己表現という側面もあるかと思います。

 なのですべての人が自分の表現エネルギーを創造的に流すということは、世界全体のためでもあるのでしょう。

 僕らの内側で生まれ出ることを、誰かに聞かれることを待っている「声」

 それは自我を押し通し、主張する表現だけではなく、「私たち」からの『声』、叡智からの、未来からの『声』かもしれないからです。 

 
    


 

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セラピー&ヒーリング | コメント(4) | トラックバック(0) | 2015/07/04 12:08
コメント
 創造的に流すというのが難しいですね。相互依存関係のなかで、メリットになりうる言葉を投げかけることですか?
 生臭さま

 そうですね、関係性の中で言えば優しい言葉をかけるというのもそのひとつと言えるかもしれないですね。ただ言葉だけに限らず、何気なく歌を口ずさんだり、大あくびすることだってメリットとなる場合がありますよ^^

 自分も相手もOKとなるのは意外と気楽にふと行ったりした行為である場合があります。

 ここで創造的に流すと書いたのは、基本的には自分の本当に愛することをするという意味合いで書きました。関係性の中だけではなく、例えば僕の中では何かを書くということもそのひとつです。
 誰の中にもある創造性を抑圧したり、破壊的な方向に使わず、愛することをすることに向けるというような意味合いでしょうか。
 
 ところで修道会にしか今は来られないのですか?
Re: タイトルなし
>  ところで修道会にしか今は来られないのですか?

そうですね~基本そうなんですけど、個人セッションはたまにしてもらいますよ。

勉強会にも久しぶりに出てみたいなと最近思いますe-68

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