アヤワスカ体験(1)聖なる蛇
ジェレミー・ナーバイという人類学者が語る「アヤワスカ」体験。
以下「アトランティスの暗号」コリン・ウィルソン著より
ナーバイによれば、それは刺激のあるグレープフルーツジュースのような味がした。ナーバイは嘔吐したが、さらに飲めと言われた。
「突如、周囲に長さ50フィートはありそうな巨大ボアが二匹もいた。私は震えあがった・・・このぼんやりした思考の中で、蛇は言葉によらず、私に話しはじめた。私が単なる人間にすぎない、と彼らは言った。
私は自分の精神が裂けるのを感じ、その裂け目の中に、自分の固定観念が底知れぬ傲慢にほかならないということを見た。私が単なる人間にすぎないというのは実に深遠なる真実だった。
普段私はすべてを理解していると思い込んでいるが、ここで私は、自分自身がより強力なリアリティの中にいるのを見いだした。
それはまったく理解できないリアリティ、私の傲慢の中で、その存在を想像すらしたことのないリアリティだった。」
「・・・・言語自体が不十分だった。私は自分の見ているものを名づけようとしたが、言葉はイメージに固定しそうになかった。私は困惑した、『リアリティ』との最後の絆が断ち切られたかのように。リアリティそれ自体が、遠くて薄っぺらな記憶にしか見えなかった。」
この中に、僕も経験した(アヤワスカではないが)感覚がたくさんあったので引用した。
この体験の全体的なトーンは、畏怖の念である。
宗教的な体験というと、至福や光というものがどうしても目立って語られる傾向があるが、畏怖を感じさせられる体験というのも確実に存在する。
それはもしかすると道の途上において起こる、不完全な体験であるかもしれないが通常のリアリティに亀裂が入り、その裂け目から何か尋常ではないもの、人智を超えたものの存在が垣間見えた時の衝撃と言うのはかなり大きい。
とりあえず宗教的体験、というのではなくサイケデリクス体験ということで限定して話を進めるが、サイケデリクス体験にも「至福・愛」の状態と「亀裂・闇」の状態がある。
僕が体験した限り、「至福・愛」の状態においては、聖人や神的存在を身近に感じたり、愛を実感する時、それはとても高いもの、清らかなものであると同時に自分自身に近しいものである。
しかし「亀裂・闇」の体験において神的な存在が登場すると、それはまったく言語を絶するもの、畏怖を覚えさせるもの、にもかかわらず圧倒的にリアルなものとなる。 その体験は、僕自身の無知と傲慢さを思い知らせる。
もしかして「亀裂・闇」の体験というのは突如自分の知覚がズームアウトして、人間性の限界や、人生のはなかさに直面させられる瞬間かもしれない。しかし、それはあくまでも通常の人間にとっての「限界・虚無」という意味合いである。ラム・ダスに大量のLSDを盛られたインドの聖者が、けろっとしていたのは有名な話しだ。
この蛇というのはどういう存在だろうか?
これが日本で単独にアヤワスカ・トリップをしてバッドになった男の体験談なら、単なる幻覚で片付けてしまってもよい。
しかし、ナーバイ氏は熟達したインディオのシャーマンのもとでアヤワスカを飲んでおり、その共同体においてはこの蛇は客観的存在だ。
おそらくは森の精霊として物理的な影響力さえ持っている、「エネルギー体」だ。
蛇と言う動物は様々な連想を呼び起こす。
薄気味悪いと同時に、魅力的な動物だ。
ヘルメスの杖にからみつく二匹の蛇は、二重螺旋、DNAコードを連想させる。
世界各国に宇宙を誕生させた、蛇神の神話が存在している。
例えばオーストラリアのアボリジニの間では「宇宙は虹色の蛇が水晶の力を借りて創造した」という伝承があるようだ。
さらに思い出すのは、クンダリニーとプラクリティである。
プラクリティはプルシャと対を成す宇宙生成の原理だ。
プルシャは「純粋精神・真我」であり、プラクリティはマーヤの元となる「根本原質」と訳される。
プラクリティは宇宙を創造したあと、個々の人間の尾てい骨で休眠状態にある。これがクンダリニーで、とぐろをまいた蛇の姿で象徴される。クンダリニーがプラクリティにほかならないとすれば、宇宙創造神が蛇として象徴されても不思議はない。
アボリジニの神話は、「水晶=プルシャ=真我」「虹色の蛇=プラクリティ」としても読み解けるかもしれない。
蛇は人間にとって、何かしら根源的かつ宇宙的な存在なのだ。
そしてそのエネルギーは実際に根源的なものとして、今・この瞬間も働いているのかもしれない。
ちょうど、人間の中にある爬虫類脳が今も機能しているように。
そのエネルギーと接触したときに、人間の集合的無意識(知覚の枠組み)はそれを蛇として翻訳するのかもしれない。


以下「アトランティスの暗号」コリン・ウィルソン著より
ナーバイによれば、それは刺激のあるグレープフルーツジュースのような味がした。ナーバイは嘔吐したが、さらに飲めと言われた。
「突如、周囲に長さ50フィートはありそうな巨大ボアが二匹もいた。私は震えあがった・・・このぼんやりした思考の中で、蛇は言葉によらず、私に話しはじめた。私が単なる人間にすぎない、と彼らは言った。
私は自分の精神が裂けるのを感じ、その裂け目の中に、自分の固定観念が底知れぬ傲慢にほかならないということを見た。私が単なる人間にすぎないというのは実に深遠なる真実だった。
普段私はすべてを理解していると思い込んでいるが、ここで私は、自分自身がより強力なリアリティの中にいるのを見いだした。
それはまったく理解できないリアリティ、私の傲慢の中で、その存在を想像すらしたことのないリアリティだった。」
「・・・・言語自体が不十分だった。私は自分の見ているものを名づけようとしたが、言葉はイメージに固定しそうになかった。私は困惑した、『リアリティ』との最後の絆が断ち切られたかのように。リアリティそれ自体が、遠くて薄っぺらな記憶にしか見えなかった。」
この中に、僕も経験した(アヤワスカではないが)感覚がたくさんあったので引用した。
この体験の全体的なトーンは、畏怖の念である。
宗教的な体験というと、至福や光というものがどうしても目立って語られる傾向があるが、畏怖を感じさせられる体験というのも確実に存在する。
それはもしかすると道の途上において起こる、不完全な体験であるかもしれないが通常のリアリティに亀裂が入り、その裂け目から何か尋常ではないもの、人智を超えたものの存在が垣間見えた時の衝撃と言うのはかなり大きい。
とりあえず宗教的体験、というのではなくサイケデリクス体験ということで限定して話を進めるが、サイケデリクス体験にも「至福・愛」の状態と「亀裂・闇」の状態がある。
僕が体験した限り、「至福・愛」の状態においては、聖人や神的存在を身近に感じたり、愛を実感する時、それはとても高いもの、清らかなものであると同時に自分自身に近しいものである。
しかし「亀裂・闇」の体験において神的な存在が登場すると、それはまったく言語を絶するもの、畏怖を覚えさせるもの、にもかかわらず圧倒的にリアルなものとなる。 その体験は、僕自身の無知と傲慢さを思い知らせる。
もしかして「亀裂・闇」の体験というのは突如自分の知覚がズームアウトして、人間性の限界や、人生のはなかさに直面させられる瞬間かもしれない。しかし、それはあくまでも通常の人間にとっての「限界・虚無」という意味合いである。ラム・ダスに大量のLSDを盛られたインドの聖者が、けろっとしていたのは有名な話しだ。
この蛇というのはどういう存在だろうか?
これが日本で単独にアヤワスカ・トリップをしてバッドになった男の体験談なら、単なる幻覚で片付けてしまってもよい。
しかし、ナーバイ氏は熟達したインディオのシャーマンのもとでアヤワスカを飲んでおり、その共同体においてはこの蛇は客観的存在だ。
おそらくは森の精霊として物理的な影響力さえ持っている、「エネルギー体」だ。
蛇と言う動物は様々な連想を呼び起こす。
薄気味悪いと同時に、魅力的な動物だ。
ヘルメスの杖にからみつく二匹の蛇は、二重螺旋、DNAコードを連想させる。
世界各国に宇宙を誕生させた、蛇神の神話が存在している。
例えばオーストラリアのアボリジニの間では「宇宙は虹色の蛇が水晶の力を借りて創造した」という伝承があるようだ。
さらに思い出すのは、クンダリニーとプラクリティである。
プラクリティはプルシャと対を成す宇宙生成の原理だ。
プルシャは「純粋精神・真我」であり、プラクリティはマーヤの元となる「根本原質」と訳される。
プラクリティは宇宙を創造したあと、個々の人間の尾てい骨で休眠状態にある。これがクンダリニーで、とぐろをまいた蛇の姿で象徴される。クンダリニーがプラクリティにほかならないとすれば、宇宙創造神が蛇として象徴されても不思議はない。
アボリジニの神話は、「水晶=プルシャ=真我」「虹色の蛇=プラクリティ」としても読み解けるかもしれない。
蛇は人間にとって、何かしら根源的かつ宇宙的な存在なのだ。
そしてそのエネルギーは実際に根源的なものとして、今・この瞬間も働いているのかもしれない。
ちょうど、人間の中にある爬虫類脳が今も機能しているように。
そのエネルギーと接触したときに、人間の集合的無意識(知覚の枠組み)はそれを蛇として翻訳するのかもしれない。


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