スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

節分の修道会

 昨日は節分。
 節分と言うのは旧暦では新年だが、実は去年でも今年でもないどっちつかずの日らしい。 
 個人的には、2月に入ってから若干流れが変わっているように感じる。旧暦の方が影響力は強い(宇宙のリズムと近い)のかも。
 そんな日に2007年初めての修道会に参加。

 会場に着くと、分かってしまわれたYさんご夫妻が、頭にアルミホイルで作ったキューティーな帽子をかぶって並んで立っている光景に出くわす。Yさんが、「これかぶってないと宇宙人に考えを読まれちゃうんです」と言った。(**)どうリアクションすればいいのか全く分からない僕に、I先生が「『サイン』見た?あれに出てくるでしょ?」と笑いながら言った。
 あ・・・そう言えばそんなシーンもあったような・・・。
 どうやら『ネタ』でわざわざ自作の帽子持参で来られたようだった。
 あーびっくりした。。。(一瞬本気かと思った僕)

 修道会の雰囲気が僕の固定観念をほぐす時がよくある。 
 この陽気さ、明るさもそのひとつ。
 瞑想の会ということで知らぬ間に少し深刻な感じになっている時、そんな必要はないと色々な手段で気づかせてくれる。
 I先生はよく、『真剣でいることと、深刻になることは違う』と言う。
 
 ジャッジしなくてもよい

 最近また新しい仕事を始めたけど、研修中暇なので心の中でジャパを続け神様のことを考えている。
 とても幸せな気分が頻繁に湧き上がってくる。少し気分が落ち気味な時もジャパをすると神様モードへの切り替えがうまくいく。
 それを繰り返していると、退屈なときや苦痛なときにジャパを多くしているような気がして、なんか結局はそれを逃避のために利用しているような気がすることもままあるので、そのへんを聞いて見た。

 「そんなこと気にする必要はないよ。これはね、人間は苦しくなると神に向かうようにプログラムされているの。そのうち幸福なときも神に感謝できるようになる。
 今の体験もすべて神が与えたもの。だからそれに感謝していればいい。人間は頭でいろんなことをジャッジしすぎる。これは偽モノだとか本モノだとか。でも全部神がやっていることなんだよ。」

 神には光の面と、闇の面がある。
 天使がいて、悪魔がいる、善と悪があるのがこの相対界の姿。
 『サタン』はマトリクスのエージェント・スミスのような役割を果たす。このマーヤワールドがマトリクスだとすれば、それが崩壊してしまわないようにするのが『サタン』の役割。
 ある意味必要なプログラムらしい。
 なのでスミスは、一種のエネルギーとして働き、それぞれの人のマーヤを刺激する。だが、そのエネルギーの源をたどっていくと結局は神に行き着いてしまう。
 『サタン』は苦痛をもたらす為に人を神に向かわせる役割も果たしている。
 『神は悪魔とファックしている』というダンテス・ダイジの言葉も浮かんでくる。
 
 許し

 「本心から自分の行いを悔いた人の放つエネルギーというのはすごいよ。なぜかというと善ゆえに、愛ゆえに悔いるから。
 自分自身を許したいと思う。
 ハートが開きかけたときに。でも頭がダメだダメだと言っている。
 その時、神から「許す」というのが来る。「許す」と。
 すると抑えていた重石がとれて、こころが広がっていく。」

 死後の生

 「昔から死の恐怖が強いんですが、それを解消するにはどうすればいいですか?」

 「死の恐怖は、すべての恐怖の根源だ。じゃ何が怖いのか?よく考えてごらん。それは自分がなくなる恐怖なんだ。いじめられっ子でも実際にちょっかいを出されている時よりも、完全に無視されている時のほうが辛い。それと似ている。
 でも、死ぬときと言うのは、マーヤがなくなるときなんだ。
 マーヤがなくなって真なるものとひとつになることが、死ぬということなの。もちろん実際に神がわかるまでは、このことは実感できない。でもそう考えておくと良いよ」
 
 なるほど・・・。
 しかしいきなり話しが究極までいってしまったが、いわゆる霊界の存在はどうなんだろうか?

 「えーと・・・霊能力がある人たちは、肉体が死んだあとも霊的な世界での生活が同じように続いていくって言ってますけど・・・あれはどうなんでしょうか?」

 「そりゃ、マーヤだ!霊能者はみんなばらばらのことを言う。前にテレビでさー、20個くらいの石を霊能者に見せてこれは因縁のある場所で拾われた石ですって言って鑑定させたら、みんなこれはこういう怨念がやどっていてって好きなこという。ところが!織田無道だけは『こんなものはみんなただの石だ!!』って言ってたよ。あれが俺が織田無道を認めた瞬間だったね。(爆)

 臨死体験・・・あれも脳が作っている。側頭葉が・・・。死に瀕した時にそこが刺激されて今まで蓄えられた記憶がばーっと出てくるんだ。
 俺は0歳のときに臨死体験をしたよ。一度心臓が止まった。そのときのイメージは今でも覚えている。ただ光しかなかった。多分まだこの世で生きてなかったから再現するものがなかったんだろうと思う。

 仏教徒が死んだら釈迦のイメージを見るし、キリスト教徒だったらイエスを見る。イマヌエル・スエデンボルグとかが語る天国もその元締めはキリストな訳だ・・・」

 「でも、ですね・・・・それらすべてが存在しているという可能性はないんですか?脳が作っているといってもあるレベルを超えるとそれは、霊的なからだが体験している世界なんじゃないですか?」


 「あるよ、でもそれはマーヤだけど。
 今、例えば親を殺して自分も自殺したような奴は間違いなく地獄に行く。それは自分の精神状態に応じた世界に行ってしまうからだ。

 俺は修行の過程で死後の世界を見たこともあるけど、それはそれほど意味があるものとは思えなかったよ。俺を救えなかった。神々も救ってくれなかった。唯一なる存在だけが、俺を救ってくれた・・・。

 俺たちは何を求めているのか?
 終わらない幸福を、終わらない多幸感を求めている。
 でも永遠の喜びは、永遠のものからしか決してやってこない。

 だから死んでからじゃなくて今、幸せになることが大事なんだ。
 たとえ悟っていなくても・・・死ぬときに、ああ神様って思えていればそりゃ天国に行けるよ。」


スポンサーサイト
修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/04 21:34
コメント

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。