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一匹の魚と、早朝のドトール

  量子の次元では空間的に離れた素粒子がまるでコミュニケーションをしてるかのように、同調した動きをすることが知られています。仮にコミュニケーションをしてるとすれば、この情報伝達の速度は光速を超えることとなり、光速以上の現象が存在しないと考えられる物理学の世界では大きな謎とされてきました。
  
  このような量子次元での素粒子の共鳴現象をたとえるモデルとして、一匹の魚の話しがあります。

  これを僕がはじめて読んだのは、マイケル・タルボット著「ホログラフィック・ユニバース」でした。

  

  すごく腑に落ちると言うか、なるほどーと目からうろこで、何度も咀嚼しました。

  昨日図書館で借りたディーパック・チョプラ著の「迷ったときは運命を信じなさい」にも同じたとえが登場して「おっ、魚また出た」と思いましたが、何度読んでもこの話しはずごくはっとさせられます。「迷ったときは・・・」からその部分を引用したいと思います。

  すべては同時に発生している

 「出来事が、ふたつの別々の場所に存在しているように見えるのは、錯覚かもしれない」と聞かされたなら、もっと度肝を抜かれてしまうでしょう。しかし、ふたつの異なる場所で起こる出来事は、実際にはたったひとつの出来事かもしれないのです。

 水槽を泳いでいる一匹の魚を頭に思い描いてください。

 この魚の動きを二台のビデオカメラで記録します。二台のカメラは互いに直角になるように配置され、別室のふたつのスクリーンにそれぞれの映像が映されます。何も知らずに別室でふたつのスクリーンを眺め、一匹の魚がある方向に動くと、もう一匹の魚のほうもそれに連動して泳ぐのを見た人は、驚いてしまうでしょう。

 いろいろな角度に多数のカメラを設置し、その魚の映像をそれぞれ違うスクリーンに映したなら、たくさんの魚がいっせいに連動しながら泳いでいるのだと思ってしまうはずです。しかし、舞台裏を覗けば、魚はたった一匹しかいないことがわかります。

 神秘的伝統を受け継いだすぐれた予言者たちは、人が日々経験しているのは、出来事や事物が時間と空間のなかで別々にしか「見えない」、投影された現実だと指摘しています。もっと深い現実のレベルでは、人間はすべて同じ身体の一部であり、その身体の一部にでも変化が起これば、ほかのすべての部分に即座に影響が及ぶというのです。・・・・・

                                
                                          「迷ったときは運命を信じなさい」 P41より

 


 いかがでしょうか?

 駅前のドトール、夜勤明けの眠い頭で読書していました。

 店内にはまばらながら複数の人たちがいます。ノートPCに向かい何か作業している20代くらいの若者、スーツ姿のサラリーマン風男性、40代くらいの女性・・・この魚モデルでいうと、個々のまったく外見も境遇も違うであろう人々は、スクリーンにあたります。

 絶対世界に泳ぐ一匹の魚を違う角度から映して、この現象世界に投影したものです。

 僕がページから目を上げる、若者が手を止めてタバコに火をつける、サラリーマン風男性が新聞を広げる、これらの一連の動きは、一匹の魚のひとつの動きを、別々の角度から見たものに過ぎないということになります。

 トイレに入り、鏡に映った自分を見ます。この僕の像は、僕がまったく独自の存在で、他から空間的に切り離されているような印象を与えます。

 「うーん、これが魚の一側面にすぎないって思うのは難しい。」

 自我という認識は、自分を他から切り離された特殊なものと考えさせます。この認識がマーヤ(無知)の根源に常にあります。

 その魚への理解は頭脳ではなく、「結びつき」を司るハートのセンターにより与えられるのではないかと思いました。

 すべての物事は同時に起こる・・・・・その理由は、動いてるものは実際一匹だけだからです。

 僕も、コーヒーカップも、灰皿も、フロアの片隅の観葉植物も、スプーンの金属原子も、この魚の断面だと考えるととてもスリリングな宇宙につかの間心を遊ばせることができました。

 そしてこの魚が真の「私」であるとするなら、僕も、コーヒーカップも、灰皿も、フロアの片隅の観葉植物も、スプーンの金属原子も、僕自身であるということになります。

 僕と、他の人々の、世界の、宇宙の変化は同調して起こる。なぜならすべてはひとつであり、マクロ的事象ももミクロ的事象も一匹の魚の身じろぎとして同時に起こるからです。

 これを知ることが「悟り」であり、このことを知らされることが「福音」ではないかと僕は思っています。

 華厳宗の教祖は、このことをこう表現しているそうです。

 時の女帝、則天武后から、そのイメージが何を言わんとしているのかよくわからない、もっとわかりやすく説明するようにと言われた法蔵は、部屋にたくさんの鏡を入れて、その中心にろうそくを置いた。

 これが一の多に対する関係をあらわしています、と法蔵は則天武后に言った。

 そしてつぎに、よく磨いた水晶を部屋の中心において、周りにあるものすべてを映し出すようにし、

 これが多の一に対する関係を示しています、と言ったのだった。


 この例では、ろうそくが「魚」です。

 他にもインドの聖典ウパニシャッドでは

人は自然が、マーヤーであり、ブラフマンがこの幻の作り手であることを知るべきである。この世界のすべてには、ブラフマンの存在が広く浸透しているのだ

 あるいはユダヤ教神秘主義カバラーの研究家は 

 「創造のすべては、神の超越的側面が幻影として投影されたものである

 (以上ホログラフィックユニバース本文より)


 量子的次元の比ゆが、スピリチュアルな次元の比ゆと一層似通ってくるに従い、この「福音」は科学と言うフィルターを通して、宗教とシンクロし、さらにそれらをも越えて日常の次元へと広く降ろされていくかもしれません。


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知覚、リアリティetc | コメント(1) | トラックバック(0) | 2016/03/05 20:48
コメント
私も最近入ってきた“非2元論”“ノン・デュアリティ”の概念を初めて聞いた時には“は?”みたいになりましたが(笑)確かに全ては“私”という想像が創造したストーリー、幻想、マーヤとも言えるのか…(笑) 楽しい想像(創造)をしたいですね(^-^)

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