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フィールド<場>のマジック




今年に入り、一人暮らしを始めるようになり、やや路頭に迷っていた感もあった時、池にいくつかの石を投入しました。

 ひとつはインナーチャイルド、早期トラウマ、愛着障害などに関すること→あるカウンセリングルームを一度訪ね、そっち系の本を結構読みました。


 ひとつは、なんとか自分の技能で収入を得る道はないかという模索→WEBライティング、ライター全般に関して学びました。


 ひとつは、セクシャリティに関して→LGBTのイベント、講座に出席したりしました。


 ひとつは、歌、ヴォーカルトレーニング、聴覚セラピー(トマティス)に関して勉強し始めました。


 いくつかの石は投げこむと同時に、ほとんど手ごたえもなく水面下に沈み、いくつかの石はより大きな、たくさんの波紋を生み出しさらにその波紋が相乗効果でさらに大きな波紋となり、現在も振動し続けているというような感じです。

 投げ込んだ石はどれも自分にとっても長い間のテーマや、興味の対象であったものですが、それぞれ「行動」にうつすとまったく異なった「池側からの」リアクションや出会いの連鎖のようなものが起こります。

 それらを観察しつつ、どの種類の石をどれくらい投げ込むべきかを見極めつつ、実験してきたような印象があります。

 ひとつ思うのはやはり、「場」があるものとないものでは、まったく手ごたえが違うということです。

 「場」というのはある特定のテーマに関しての人の集まり、グループ、同好の会、最小単位としてはセラピストとクライアント、先生と生徒という二点間で成立する、生身の人間同士が相互作用して生み出している磁場と言いますか・・・

 その「場」との相性により、さらにそのテーマを突っ込んでいくかが決まってしまうような部分があるように思います。

 幼い時から~学生くらいまでの友人関係という「場」は特に特定のテーマを持っているというよりも、お互いになんとなく気が合うかとか、パワーバランス、生育環境が似ている、生理的気質による相性のようなものに基づいていると思いますが、大人になってからはある「テーマ」「社会的役割(仕事)」「趣味」「思想」などによって「場」が形成され、そこに複数の人が出たり入ったりするというような感じになりやすいと思います。
 
 僕は緊急事態などによって、まったく異質の経歴を持ってるもの同士が、密室的な状況下で協力せざるを得ないというようなドラマが好きなんですが 「ロスト」とかね、古い映画ですが「ポセイドンアドベンチャー」とか



 僕は 「ロスト」は震災を間に挟んでみてましたいので、特に印象深いドラマとなっています。
 ディープすぎて途中で挫折しそうになりますが、、、これはまちがいなく21世紀人が見ておくべきストーリー

 




 まあたとえば、医師 ギャンブラー、画家、村長さん、水泳の選手、土木工事技師、飲んだくれ、幼い霊感のある少女、引きこもりの青年、みたいな普通は混ぜないぐちゃぐちゃな組み合わせですよね。

 ハイジャックされた飛行機内とか、異次元空間に閉じ込められるとか、朝起きたらホテルをゾンビに包囲されてるとか(笑)まーなんでもいいんですけどね。

 そういう人々が、緊急事態という「場」で強制的にくくられ、そこで生まれてくるドラマというものに魅力を感じます。

 そんなドラマで、最初おたがいにぎくしゃくしてたり、差別意識に満ち足りしてるんですが、

 いつしか

 最初やっかいものだった飲んだくれがものすごい機転を利かせたり、プライドだけが高くいやな奴だった医者がとても自己犠牲的な行動をしたりすると、ゾクゾクしますよね。

 どうもこういうのって、特定のテーマを持たない、強制結合された「場」という意味では幼いころ~学生くらいの人間関係と似てるのかなってちょっと思います。
 敷いて言えば場のテーマは「生きるか死ぬか」になってしまうので、子供の友達関係なんちゅーぬるいものではないんですが、それでもより生理的かつ根源的なところでくくられているという点では共通するかと。

 さっきも書きましたけど、幼いころは、生育環境、パワーバランス、なんとなく好きか嫌いか、土地、などの要因によって「場」が形成されます。これはある種運命的というかカルマ的というか、自己意識で選択できるものではないので、その中に閉じ込められてるともいえるわけです。
 そういう意味で、「緊急事態場」とちょっと似ています。

 子供たちはその土地から、学校という「場」から自力で離れることはできない。
 それはすなわち、運命共同体であるということです。
 サバイバルゲームでもあります。

 最近幼なじみにあって思いましたが、彼とは「趣味」とか「テーマ」「仕事」などのくくりに関してはもうずいぶんかけ離れているんですが、てことは好きなサークルでばったりであったりすることは多分ないわけです。
 それにもかかわらず割と強いつながりか感じるというのは、僕と彼の関係イコール、僕とその土地の関係、その土地で過ごして共有する記憶との関係、という付加要素が強いのでしょう。

 
 
 えーとずいぶん脱線して自分でわけがわからなくなってきた感がありますが・・・・

 書きたかったこと、それは大人になってから参加する「場」というのはいろんなテーマや思想があるということですね。
 そして「場」をまとめあげ、統括しているリーダーが大きな力を持っていることもあります。

 いろんな「場」に参加するということは、それらの思想的内容をシェアすることであり、そうするように促す同調圧力も不可避的に発生します(意識的ではなくても)。

 たとえばカウンセリングルームにいくと、セラピーを受けてトラウマを解放すれば人生が変わっていくという考えを提示されて、セッションを受けることを勧められます。
 LGBTの講座を聴講すると、セクマイとしての自意識が高くなります。
 アセンション系の講演に参加すると、まもなく大災害が起こることは間違いないので、とりあえず水と食料の備蓄が大事に思えてきます。

 このような様々な「場」の影響力は、僕らを混乱させることもあります。

 特にそれらの構成メンバーが、幼児期の家庭や学校でのサバイバルゲームの影響を無意識に引きずっているという場合、そこで起こることは「テーマ」に沿ったお互いの向上ではなく、インナーチャイルド同士のパワーゲームや支配・被支配の関係であり、「テーマ」は消え去ってしまいます。かつてのカルト的団体などでよく起こったことではないでしょうか。

 と言って「場」≒人間関係をすべて避けていては、僕らは成長も、癒されることも、ないというのも事実です。

 不必要な場の同調圧力に影響されることなく、自分に本当に必要なものを取捨選択できる能力が必要なのでしょう。
 「場」に洗脳されない強さ。
 様々な「場」を必要に応じて出たり、入ったり、また「場」を構成する力というのでしょうか。

 しかしそれ自体が愛のある場、エネルギーフィールド、関係性によって育まれないと芽生えてこない力なので、なかなか難しいものがありますが。

 人間関係が難しければ、海や草原、山などの大自然の<場>が僕らを自分自身にしてくれることもあるかもしれませんね。

 時に応じて良好な<場>に参加しつつ、

 同時に自分自身との間に、愛のある<場>を確立していこうという方向性は重要なコンパスになってくれるような気がします。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/13 12:52
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